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 私は肉体ではないので睡眠することはない。
 今日のことを振り返ったり、来衣先輩の顔を見つめて過ごしていると窓の外の景色は明るくなりはじめていた。
 

 カーテン越しに朝日の日差しが入り込む。

 部屋がほわりと明るくなると、来衣先輩はゆっくりと夢から覚めた。

 あくびをしながら起き上がる来衣先輩。
 寝顔を見つめていた負い目から、彼の顔を直視出来なかった。彼の顔を見ただけで心拍数が上がってしまう。

 こんなにドキドキしていたら1日身がもたない。そうわかっていても、ドキドキは止まってくれそうにない。




 今日は来衣先輩と杏子ちゃんと映画を見に行く。楽しんでいい立場ではないことを分かっていても胸は自然と弾んでしまう。


 ♢

 時間になると私たちは映画館へと出かけた。
 たどり着いたのは、こじんまりとした建物だった。大きい映画館とは違い、規模は極端に小さく感じる。

 一歩中に入ると開放的で全面バリアフリーになっていた。車椅子を使用している人もあちこちに見られた。

 生前には知らなかった世界を知れて、自分の無知さと、自分の中の世界の小ささを痛感した。壁には上映中の映画のポスターがいくつも貼られていた。雰囲気はしっかりと映画館である。


「ここは、目の見えない人や、耳の聞こえない人も映画が楽しめるんだよ」

「……初めて来た」

「視覚障碍者用に、音声ガイドや本編の音が増幅できるイヤホンジャックがあるんだよ。俺でも映画を楽しめるんだ。俺も病気になってから、この映画館のこと知ったよ」

 辺りを見渡して感心している私に優しく教えてくれた。
 感心しながら見回しているうちに、慣れている二人はすでにチケット売り場の方にいた。ハッとして急いで追いかける。肉体のない私は映画代はいくらだろう?
 幽霊割引はないだろうか?
 


「音声ガイド付きの映画は……この中から杏子、見たい映画あったか?」
「うん! この映画見たい」
「じゃあ、その映画上映を大人2人、子供1人分お願いします」

 来衣先輩は慣れたように窓口の人に告げる。店員さんは特に不思議がることもなく、チケット三枚を渡した。その場にいない人の分も購入するのはよくあることだろう。誰だってまさか幽霊の分の座席を買っているとは思わない。

 来衣先輩が当たり前のように、私の分の座席を購入してくれる。嬉しい反面、お金を使わせてしまった罪悪感が募る。
 
「待って、私は……」

 私は幽霊だからチケットは必要ない。私が言いかけた途中で杏子ちゃんが制した。


「お兄ちゃんが出してくれるから大丈夫だよ? 未蘭さんの分いらないなんて言ったらおかしいでしょ? 『幽霊だからいらないです』とでも言うつもり?」

 服の袖をツンツンと引っ張りながら、私だけに聞こえように耳元でささやいた。
「私の分はいらない」と伝えるには確かに理由がなければいけない。そこまで考えていなかった。

 必要のない分の私のチケットまでお金を出してもらったことが申し訳ない心苦しさから言葉を発してしまったのだ。
 
 私の分を注文してもらったこと。そして支払いをしてもらったことに申し訳なさが募る。
 ただ私はお金は持ってないし、払いたい気持ちはあるけど払えないのだ。

「来衣先輩、あの、私の分なんだけど……」

「男に見栄を張らせてよ」

 私に気を使わせないように言った言葉には、優しさが詰まっていた。

「ポップコーンも買おうぜ! 未蘭は塩派? キャラメル派?」

 映画館に来たのは子供の頃ぶりだった。
 それはお母さんときた記憶。映画代はけして安くない。金銭的に余裕がないことを理解していた私は映画に行きたいという願望を持つこともなかった。

 最後に来たのが古い記憶過ぎて、ポップコーンが塩派なのかキャラメル派なのか。自分のことなのに分からない。

「……私は、どっちだろう……」

「……」

 私の独り言にも近い呟きを聞いた来衣先輩は、黙って売店に向かう。

「ポップコーンの塩とキャラメルどっちもください」

 私の言葉の意味を理解したのかは分からない。塩気とキャラメルの甘い香りに、どうしたってテンションが上がってしまう。

 また映画館に来られるなんて思ってもいなかった。まるで子供の頃に映画館に初めて来たときのように心は弾んでいあ。普通を装いつつも、顔はニヤケていたと思う。

 心は弾んだままシアタールームへと入る。
 音声ガイド付きのイヤホンジャックがある座席は数が少なく普通の映画館よりも狭い。3人分の座席を買ったので、私の分の座席はもちろんある。傍から見ればそこに誰もいなくて空席が1つあるだけだ。

 みんなにとっての空席だが、来衣先輩と杏子ちゃんにとっては私の席。
 自分の分の席があるだけで、こんなに嬉しい気持ちになるなんて。

 座れるかドキドキしながらゆっくりとシートに腰を下ろした。お尻にシートの感触を感じる。生前のように映画館のイスに座れたことが嬉しかった。懐かしくてシートをなぞった。

「もう、映画館で映画を見ることなんて、生まれ変わるまで無理だと思ってた」

「生まれ変わる?」

「……っあ、いや、えっと、間違えた。ははっ、」

 嬉しくて心の声が思わず漏れてしまった。誤魔化す方法を知らなくて、笑ってごまかすことしかできなかった。

 上映が始まる時間になると、映画館の天井の照明が落とされて薄暗くなる。
 暗闇が広がると、来衣先輩のことが心配になった。昼間は少し光を感じることが出来るのに、夜のように暗闇に覆われて怖くはないだろうか。

 薄らと暗い中、隣の席の座席のホルダーに置かれた来衣先輩の手が視界に入る。
 この日は楽しくて浮かれていたのかもしれない。無意識のうちに彼の手をそっと握っていた。

 手の中に暖かい温もりを感じて、自分が大胆なことをしたことに遅れて気づく。
 自らしたことなのに、自分が一番驚いた。
 
「え、えっと……これは違くて。来衣先輩のことが心配で手を握っただけで、私の下心なんてなくて。いやちょっと触れたいなとは思ったりしたけど……って。何言っているんだろう」
 
 誰に責められているわけもないのに、必死に自分のしていることを弁明した。
 そんな私に何も言わずにぎゅっと強く握り返した。拒否すもなく何も言わずに、ただぎゅっと手を握る。その温かさが受け入れてくれたような気がして心地よい。

 自分から手を握るという大胆な行動をしたくせに、胸はドキドキと高鳴り続けていた。それは上映前で静まり返る中、自分の心臓の音が響いていないか心配になるほどに。

 ちらりと隣の来衣先輩を見るとイヤホンジャックの音声に集中するように目を瞑っていた。その横顔があまりにも綺麗でしばらく見つめた。ドキドキが収まらないまま上映が始まる。

 繋いだ手を離そうかと思ったけど、守護霊代行のルールで私からしか触れることは出来ない。この手を放してしまったら、二度と触れることは出来ないかもしれない。そう思うともう少し……もう少しだけ。彼のぬくもりを感じていたかった。

 
 上映が始まると仕事を忘れていつのまにか集中していた。ハッと気づいた頃にはもう遅い。
しっかりとエンドロールが流れている。

 普通に楽しんじゃった!
 エンドロールで流れる歌を耳に感じながら、罪悪感を感じて自己嫌悪に陥る。

 上映が終わるとともに繋がれた手も自然と離れた。手には来衣先輩のぬくもりが残っていて、なんだか寂しい気持ちも残る。

「面白かったー」
「なんか懐かしい気持ちになった。少年の心を思い出した」


 映画が終わると来衣先輩のと杏子ちゃんの喜んで満足そうな顔が瞳に映る。

 笑顔は人の心をあたたかくするというけど本当だ。私の心も満ち足りていく。

 こんなに楽しくて幸せで。心が満ちているのはいつぶりだろう。
 今の現状で映画を楽しむなんて、絶対に良くないことは分かっている。罪悪感は消えず募るばかりだった。

 
「未蘭さんって生前、真面目だったでしょ? 今も楽しんじゃっていいのかなって気にしちゃってない?」

 伏し目がちな私に気づいた杏子ちゃんは駆け寄ってきてくれた。言っていることは図星で、まさに私が思っていたことだった。

「なんで考えていることがわかるの? 来衣先輩と杏子ちゃんと過ごす時間が楽しくて……私が楽しむ権利なんてないのに……」

「未蘭さん側のルールと都合はわからないけど、杏子とお兄ちゃんも未蘭さんと過ごせて楽しいし、その楽しい気持ちが未蘭さんも同じだったらいいな、と思うんだ」

「……もちろんっ! すごく楽しいよ? 楽しくて申し訳ないくらいなの」

「今日という日は、もう来ないんだから「今」を楽しまないと! それに、お兄ちゃんだって、未蘭さんが心から楽しんでなかったら気付くと思うよ?」

 杏子ちゃんの言葉は幽霊の私の心にすごく沁みた。
 楽しんでも、楽しまなくても今日という日に終わりはきてしまう。

 死後の世界に迷い込み、私は生と死の狭間にいる。この立場になって心から感じていることだった。

 今日という日は二度と訪れない。後悔や雑念は明日へ持っていける。ただその明日が必ず来るという保証は誰にもないということだ。


「楽しんじゃっていい……のかな? いや、でも、やっぱりそんな権利ないよね……」

「いいの! 権利なら杏子が与えます!」

 はっきりとした口調で言ったその言葉は私の心に浸透していく。杏子ちゃんの言い方がかわいらしくて「ふふっ」と笑ってしまった。私はこの時間を楽しむことにした。良いことではないだろう。

 でも「今」がすごく楽しくて同じ日がもう来ないことを知っているから。どうしたって楽しいと思ってしまうんだ。




 上映が11時開始だったので、お昼の時間は当に過ぎていた。お腹を空かせた二人と何処でご飯を食べようかと彷徨っていた。

「何処で食べるかな。……未蘭は何が好きなの?」

「……えっと、シュークリームとチーズケーキかな」

「デザートじゃん! デートで行くならどこで食べたい? まあ、今日はこぶつきだけどな」

 私の意見を言っていいのかな。少し迷いながら二人の顔色を伺う。私の心とは反対に2人の笑顔は眩しくて、自然と口を開いた。

「……ここ! ここがいいです。ファミレスなんですけど」

「いいじゃん。ここにしようぜ。な、杏子」

 私が立ち止まった場所はファミレスの前だった。店舗は違うがこのファミレスはお母さんとよくきたお店だ。


 快く承諾してくれた2人とファミレスの店内へと入った。

 店内には香ばしい匂いが漂っていた。
 柔らかなBGM。優しげな雰囲気の店内に懐かしさを感じる。

 お昼時を過ぎた店内は騒がしさがなく静かだった。時折雑談がぽつぽつと聞こえてくるがお客さんはまばらだった。

「何名様ですか?」

「三人です」

「……あとから来られるんですね。こちらへどうぞ」

 店員さんには来衣先輩と杏子ちゃんしか見えていないので当然の反応だった。店員さんの反応に来衣先輩が不審に思わないか不安になる。ちらりと彼の顔を覗くと、不思議そうにする様子はなかった。

 そしてそのことにホッとしている自分がいた。
 この場に及んで幽霊なことがばれたくないなんて……我ながら不甲斐ない。


「杏子はハンバーグね!」

「俺はがっつりから揚げ定食だな。未蘭は?なにが好きなの?」

「好きなもの?……オムライス、かな」

 子供の頃お母さんが作るふわふわ卵のオムライスが大好きだった。私が頬張っていると優しい笑顔で「おいしい?」と聞いてきた。
 全部完食すると嬉しそうに笑うんだ。当時の母の姿が鮮明に浮かんできた。古い思い出に胸がきゅっと締め付けられる。

「ご注文はお決まりですか?」

「……ハンバーグセットとから揚げ定食。それから……オムライス」

「あれ? お兄ちゃん、いつもみたいにご飯大盛りにしなくていいの?」

「……あー、ああ。今日は……な。あと、ドリンクバー3つで」

 なにか言いたげな言葉の間に感じた。少し気になったけど、次に待ち受ける危険に気を取られて小さな不信感はどこかに消えてしまった。

「……えっと、3つ……で、よろしいですか?」

 店員さんは不思議そうにきょとんと目を丸くしている。見えている人数とドリンクバーの数が合わない。当然の反応だ。


「はい。3つで。お願いします」

「……かしこまりました」

 不審そうに見ている店員さんを気にせず、来衣先輩はゆっくりと淡々と告げた。来衣先輩の毅然とした態度に、店員さんもそれ以上聞いてくることはなかった。
 
「映画、面白かったな」

「未蘭さん、他に見たい映画あった? あの映画さ、杏子が前から観たいって言ってた映画なんだ」

「そうだったんだ。ううん、有名なアニメだし興味あったよ! すごくおもしろかった」

 映画を見た感想を話す。普通の人からすれば何の変哲もない会話に聞こえるけれど、私にとっては愛おしくて、かけがえのない時間だった。


「お待たせいたしました」

 食欲のそそる匂いと共に運ばれてきた。私の前にはオムライスがおかれる。ほかほかと見える湯気から温かさも伝わってくる。

「未蘭さん。わたし後で少し食べるから、ね」

「あ、ありがとう」

 杏子ちゃんは、目の前のオムライスを食べられない私を気遣ってくれる。耳元で私にだけ聞こえるように囁いた。
 来衣先輩は、注文したから揚げ定食を、黙々と食べる。箸捌きも綺麗でその姿は目が見えないとは思えず見入ってしまう。

「お兄ちゃんはね、見えてた記憶があるから食事に影響少ないよね」

 杏子ちゃんが疑問を代弁してくれた。私が凝視していたのがバレたようだ。

「あー、昼間は少し見えてるしな。見えずらくて何を口に入れたか分からなくて、口の中で食べたモノを知ることも多いけどな」

「箸で掴むの難しくないんですか?」

「見えてると比べたら難しい。病気になった当初は、スプーンで食べやすいものばかり食べてた。でも、から揚げも食べたいし、焼き肉だって食べたい。いつ死ぬか分からないし、好きなもん食おうって……」

「死なないです! 来衣先輩は!」

「死」というワードに過剰に反応して、思わず大きな声を出してしまった。来衣先輩は驚いたように目を見開き、次の瞬間には軽快に笑っていた。

「大きい声出るんだな。ははっ、なんでそんなに必死なんだよ」

「え、あっ。つい……」
 
「俺は死なないから」

 からりと口を開けた後は目を細めて優しい笑みを浮かべていた。その笑顔に胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 来衣先輩の笑顔を失いたくない。
 彼を守りたい。その思いは強くなり死なないで欲しいとひたすらに願った。


「未蘭さん? なんで泣いてるの?」

 杏子ちゃんは目を見開いて動揺しているのが見て取れる。その言葉に私自身が1番驚いた。頬を触るとひんやりと冷たい感触。自然と涙が溢れていた。

「あれ、わ、私……」

 涙が溢れた理由はわからなかった。この居心地の良い空間の尊さも、来衣先輩が死んでしまうかもしれないという恐怖も。自分が仮死状態だという事実も。涙が勝手に溢れてくるには思い当たる節が多すぎた。

 もう、心がぐちゃぐちゃだ。
 そんな中一つの決断に辿り着く。

「杏子ちゃん。私、全部話そうと思う」

「未蘭さん、で、でも……」

「この選択が正しいのかはわからない。ただ、他に助ける方法が見つからないの。……来衣先輩、ご飯食べた後少し話せますか?」

 最後のルール違反をする。
 全部話そう。ルール違反をしたら罰を受けることになるだろう。

 それでもいいと思った。本当は怖くて仕方ない。だけど来衣先輩を助けられるのならどんな罰でも受けようと思えた。

 
 私のために注文されたオムライスは、来衣先輩がすべて食べてくれた。手つかずのオムライスになにか苦言を言うわけでもなく、なにか問うわけでもなく「未蘭は少食だな」なんて笑いながらぺろりと全部食べていた。