「ただいまー」
「あ、ママ帰ってきた」

 玄関のドアが開く音と共に、柔らかな声が聞こえた。まだ声の印象しかないが、柔らかい声は優しいお母さんを連想させる。

 
「未蘭さん……杏子、ママに未蘭さんのこと説明してくる」

「え、でも……大丈夫かな?」

「黙っておくことも考えたんだけど、ママの霊感は杏子たち以上だからさ。気配を感じ取られちゃうと思うの。それなら自分から説明した方が信じてもらえるかなって」

「そうだね……バレるより、言った方がいいか。杏子ちゃん、お願いしてもいい?」

「もちろん! 任せて?」

 杏子ちゃんは元気に言い放った。
 勇気に満ち溢れた小さな背中を見送る。

 杏子ちゃんは疑わず受け入れてくれたけど、お母さんはそうとは限らない。きっとすぐには信じてもらえない気がしてならない。不安と恐怖が胸に広がる。


 しばらく待つと、リビングの方から声が飛んできた。


「お兄ちゃん! 未蘭さん! リビングにきてー!」

 不安な気持ちが片付かないままリビングへと向かう。リビングのドアの前に立つと緊張と恐怖で心拍数があがる。

 これから待ち受けることが怖くて仕方ない。
 心を落ち着かせるために深呼吸をする。そしてゆっくりとドアを開けた。

「……あなたが、未蘭、さん?」

 ドアを開けると、優しい声からは想像できないような険しい顔の女性が仁王立ちしていた。

 一瞬で背筋が凍る。彼女からの視線は鋭く突き刺さる。視線が合うということは、やはりお母さんにも私が視えている。
 重なる視線はすぐにでも逸らしたくなるほど眼光が鋭い。
 足の先から頭の先まで、撫でるようにじっくりと視られた。その視線に息が詰まりそうだ。


「……杏子の言う通りね。話は聞いたわ。詳しい話は後にして、ご飯にしましょう」

「……いや、でも、わたしは」

「わかってるわよ。大丈夫」

 私は幽霊なのでご飯を食べることは出来ない。話を遮られたので伝え損ねてしまった。

 キッチンで準備をするお母さんを追いかける勇気は持ち合わせていない。それほど来衣先輩のお母さんから、危険な雰囲気が漏れ出している。

 
「今日は、カレーだから……あなたもどうぞ?」
「え、えっと……」

 お母さんは霊媒師だから、私がご飯を食べられないと知っているはずだ。
 そっと視線を送ると、ばちっと視線が重なる。気まづさに耐えきれず下手くそな笑顔を浮かべてみた。すると微笑み返される。優しい笑顔を向けられたはずなのに、目の奥が全く笑っていなくて余計に恐怖が掻き立てられた。

 びくびくしながらも座って待つしかなかった。何も知らない来衣先輩は、隣に座って「緊張しなくていいよ?」と優しく気遣ってからは。

 優しさは嬉しいが、緊張しているわけではない。恐怖に震えているだけなので返事は出来なかった。

 スパイスの香りが嗅覚を刺激する。
 懐かしい匂いに幸せだった頃の記憶が甦る。
 我が家の献立にカレーの出現率は高く、よく母と一緒にカレーを作った。時々口喧嘩をしながら料理を作る時間が好きだった。


 記憶に慕っていると、コトン。軽い音と共にテーブルにカレー皿が置かれた。来衣先輩の目の前には大盛りのカレーが差し出される。とても美味しそうなカレーだ。
 
 私の目の前にもお皿が差し出される。まさか私にも出してくれるとは、微塵も思っていなかった。嬉しさが込み上げる。

 怖いと思ったけど、私の分まで準備してくれるなんて。身構えすぎたかな。


「私の分まで……っ。あ、ありがとうございま……え、」

 自分の目を疑って思わず二度見した。
 私の目の前のお皿に盛られているのはカレーではなかった。

 その代わりに、盛り塩が三角錐型に高々と盛られていた。目の前の状況が理解できない。思考が停止してしまった。

 鼻につく香ばしいスパイスの匂いと、もう一つ嫌な臭いが鼻の奥を刺激することに気づいた。匂いの正体を探して部屋の中を見渡す。すると匂いの正体が分かった。

 リビングのあちこちにお香が炊いてあるのだ。お香から放たれる匂いは嫌な感じがする。

 盛り塩も、お香も。悪霊除けに使われる話を聞いたことがある。
 
 そう直感すると、寒気が一気に全身を駆け巡る。おそるおそるお母さんに視線を向けると口角をあげてニッコリとほほ笑んでいた。やはり目の奥は笑っていない。

 一瞬で状況を悟った。全く歓迎されていなかった。歓迎されるどころか除霊されかけている。
その意図を示す目の前の盛り塩に視線を移すと、背筋が凍るように身震いがした。

「……ママ? 信じられない! なにしてんの?」

 私の目の前に置かれた盛り塩を見て、杏子ちゃんが非難の声をあげてくれた。すぐに盛り塩が置かれたお皿を遠ざけてくれる。

「なーんでよけちゃうのよ、未蘭さんにはこれがいいかなと思って」

 相変わらず表面上笑顔を浮かべてはいるが、相変わらず目の奥は笑っていない。私は恐怖で空笑いすることしかできなかった。


「どうした? なにした?」

 緊迫する雰囲気を感じ取った来衣先輩が、心配そうに問いかける。彼には盛り塩が置かれていることは把握できていないはず。この事態を知らない彼になんて答えればいいか分からない。無垢な瞳を前に言葉に詰まる。

 異様な雰囲気で、ひたすら気まずい時間が流れる。すぐにでもこの場から逃げたい衝動に駆られる。これから先の2日間、不安しか抱けない。

 
「ママってば、酷すぎる! 未蘭さんになにかしたら、杏子怒るからね? もう、杏子の部屋に行こう?」

「……うん」

 ほっぺをぷくっと膨らませて私の代わりに怒りを最大限に表してくれた。

 部屋に移動した後もぶつぶつと不満を漏らしている。その姿が可愛らしくみえて愛らしかった。
 私は文句を言える立場ではない。私の代わりに不満を発してくれたおかげで、胸のつかえが少し消えた気がした。

「未蘭さん! 大丈夫だから。また後でママにちゃんと説明するからね」

「杏子ちゃん、ありがとう……私のせいでごめんね?」

 わかりやすく動揺している私に優しい声をかけてくれる。杏子ちゃんには何度感謝を伝えても足りないようだ。

 コンコン。杏子ちゃんの部屋のドアがノックされた。響く音と同時にどくんと心臓が跳ねた。

 リビングの光景が頭の中でフラッシュバックする。恐怖でドクドクと心臓が速く波打つ。

 ごくんと息を呑み、リビングドアに視線を向けた。
 ドキドキと鼓動が鳴り止まない中、扉を開けて現れたのは来衣先輩だった。瞬時にため息が漏れる。


「未蘭、明日の予定は?」

「……えっと、なんでですか?」

「……そ、その、映画見に行かね?」

 恥じらうように顔を俯きながら発した言葉に驚いた。

 映画。まさか映画に誘われるとは夢にも思っていなかったので思考が停止する。

「杏子も行きたい!」

「杏子は遠慮しろよ、デートなんだから」

 思考が停止して固まっていた私は、杏子ちゃんの高い声によって現実世界に引き戻される。
 今までデートなんて誘われたことない。その言葉とは無縁の人生だった。いつかしてみたいと憧れていた「デート」。その単語に大きく胸が高鳴る。

「杏子も行きたい! 杏子も行きたい! 杏子も行きたい!」

 甲高い声で子供らしく駄々をこねるように繰り返す。その姿は年相応で微笑ましい。
 

「おいー。俺は未蘭とデートがしたいんだよ? 未蘭に決めてもらう」

「私は……み、みんなで行きたい……かな?」

「やったあ!」

 喜びの声と共に落胆するため息が聞こえてきた。
 今ここには幸せという空間が広がっている。
 幸せな気分になると同時に一つの疑問が浮かんでくる。
 
来衣先輩は目が見えないのに、映画を楽しめるのかな。


「杏子ちゃん……来衣先輩は目が見えないのに、映画って楽しめるの?」

 杏子ちゃんにだけ聞こえる声量でコソコソと問いかけた。

「お兄ちゃんが行く映画館は、目が見えない人のために音声ガイドを聞けるイヤホンが座席についてるんだよ! だから兄ちゃんでも楽しめるよ」

「……なるほど」

 音声ガイド付き映画があるとは知らなかった。知らない世界に驚きつつ、来衣先輩も楽しめると聞いて安心した。

 その日はずっと二階にいたため、あの事件以降来衣先輩のお母さんと鉢合わせをすることなかった。

 気にはなっていたが、向こうから押しかけてくることはなかった。

 堂々とお泊まりをして守護霊代行の仕事を遂行できる。

 来衣先輩の部屋で寝るのは不自然なので、杏子ちゃんの部屋で寝るという建前にした。そしてみんなが寝静まったころ、壁をするりと抜けて来衣先輩の部屋に侵入する。

 初めて入る男の人の部屋にドキドキと変に緊張してしまう。ベッドで眠っている来衣先輩に視線を移すと、寝顔があまりにも綺麗でただ見つめていた。

 今までの人生でこんなにも近くで男の人の顔を覗くことはなかった。綺麗な長男はずっと見ていたい衝動に駆られる。彼が眠っているのをいいことに、顔を近づけて至近距離で見つめ続けた。

 本当に綺麗な顔。
 綺麗な顔って見ていても飽きないんだなあ。
 
 このまま時間が許すまで、ずっと見つめていたいと思った。