美術室に戻ってくると、大河先輩はぶつぶつと独り言を呟いていた。顔をしかめて怒りに歪んだ表情はぞっとするほどだった。


「……なんだよっ、あいつ。すかしやがって。くそっ、見えないくせに、こんな絵を残しやがって……見えないなら、この絵を俺の作品として出しても……バレないんじゃね?」

 それは耳を疑う言葉だった。にわかには信じられないことを言っているが、大河先輩の歪んだ表情が恐怖を引き立たさせる。


「いつもっ!あいつばっかり……俺だって……っ」

 大河先輩はまるで自分と格闘するように頭を抱えた。そしてゆっくり顔をあげる。

 その表情に身体が震えあがった。怒りと憎しみに支配されてまるで悪魔のような形相だったからだ。

 物凄い勢いでイーゼルに立てかけてあったキャンバスに手を伸ばす。

彼が何を考えているか最悪のシナリオが頭に浮かんだ。おそろしい予感が瞬時に私の体を動かした。

 なんとか同時にキャンバスを掴んだ。
 固く掴んで絶対に離さないと決め込んだ。


「な、なんだこれ、このキャンバス、お、重い。う、動かない……」

 大河先輩が持ち去ろうとしているキャンバスは来衣先輩描いたものだ。何をされるか分からないので、必死で掴んで抵抗した。
 

 不吉な予感で胸騒ぎがする。それに今の自我を失っている大河先輩には絶対に渡したくない。


「……っ、なんでこんなに……重いんだよっ!……くそっ!」

 持ち去られないように必死に抵抗するが、男性の力には敵わない。あっという間に力で負けてしまった。
 グイっと引っ張られた拍子に、私の手からキャンバスが離れた。

「何かに引っ掛かってたのか? まあ、いい! 俺の描いた絵としてコンテストに出してやる」

 やはり嫌な予感が当たってしまった。ニヤリと笑った顔は悪意に満ち溢れている。

 このままでは来衣先輩の絵を無断で横取りされてしまう。名前を偽って提出されても、来衣先輩は目が見えないから盗られてしまったことに自分で気づくことが出来ない。

 このことを知ってるのは私だけ。
 私がなんとかしないと。

 大河先輩は急ぎ足でどこかへ向かっていく。彼の腕の中には来衣先輩の絵が描かれたキャンバスが抱えこまれている。
 
 一度は食い止めることに失敗したが、負けじと必死に追いかけた。

「……な、なんだ。またキャンバスが重くなってきた。……だ、誰かに引っ張られているような……」

 大河先輩が持ち去るキャンバスを再び掴んだ。持ち去られないように必死に抵抗する。

 私にできることは少なすぎて、こうするしか方法が見つからなかった。そんな私の抵抗など虚しく、力の強い大河先輩は手を離そうとしない私ごと引っ張って進んでいく。

「……なんだ、よ。なんで、こんなに重いんだよ」

 ずるずると私はキャンバスと共に引きずられていく。傍から見れば相当重いキャンバスを引きづっている大河先輩の姿が奇妙に見えることだろう。私の頑張りは報われず、職員室が目の先に見えてきた。


 だめだよ!いいわけないよ、こんなこと。
 伝えることのできない言葉を、心の中で必死に叫んだ。
 
 このままだと、大河先輩も後戻りできなくなってしまう。


「おっ、大河、その絵どうしたんだ?」

 視えないところで攻防を繰り広げる私たちの前に、ちょうど1人の人物が現れた。

 この先生は確か……。
 記憶の中を探り出し思い出した。と同時に落胆する。

 よりにもよって美術部顧問の中尾先生だったからだ。今一番現れて欲しくない人だ。
 なぜなら大河先輩は美術部顧問の先生に、来衣先輩の作品を自分の作品だと偽り提出しようとしているのだ。

「中尾先生、あ、お、俺……」

 まだ少し迷いがあるのか、大河先輩の表情は曇っていて強張っている。

 そうだよ、だめだよ!大河先輩がしようとしていることは盗用でダメなことなんだよ。

 本当は直接怒りたいし説得したい。しかしそれは今の私には不可能だ。やるせなくて苦しい。

「おお、それ、コンテストに出すやつか? 提出期限は明日までだぞ? どれ、見せてみろ、」

 中尾先生は迷いがある大河先輩の手から、半ば強引にキャンバスを奪い絵を眺めた。

 何度も深く頷きながら見入っているその絵は、来衣先輩が描いたものだ。

 今思えば私が来衣先輩と初めて会ったとき、描いていたこの絵は来衣先輩の暗闇を表現していたのかもしれない。今もう一度見ても引き込まれる。まるで絵に飲まれてしまいそうな、そんな魅力のある絵だった。


「闇の感じのコントラストは、凄くいいんだけどな、高校生が描く絵には暗すぎるなあ……。コンテストのテーマは『日常にある幸せ』だろ?」

「……そうすか」

「少し手を加えたらどうだ? 明日までまだ時間はあるぞ?」

「それは、ダメっす、手を加えられないっすよ」

「そうなのか? 少し手を加えたらいい線行くと思うんだけどな」

「……いい線?」

「コンテストに出さないのはもったいない。賞を狙える絵だぞ」

 やっぱり顧問の先生から観ても来衣先輩の絵は凄いんだ。
 だって、素人の私でも引き込まれた。
 って関心している場合ではなかった。

 大河先輩に視線を向けると、なにか考えているように難しい顔をしている。


「……この絵、コンテスト狙えますか?」

「ああ、絶対出したほうがいいぞ?」

「……そう、すか」

「ああ、この絵なら、大河! 初めての受賞も狙えるぞ?」

「……俺が、受賞?」

「この絵だったら、いい線いくと思うぞ」

「そうっすね。出します。この絵」

 中尾先生に後押しされた大河先輩は、コンテストに出すことを了承してしまった。
 想像していた最悪の展開だ。
 こうなったら、私の存在がバレてもいいから阻止しよう!

 私のこの先に待ち受けることなど、どうでも良かった。今は来衣先輩の絵を守りたい。
 
 次に口を開いたのは、決意した私ではなく大河先輩だった。

 
「……最上の奴探して、手直しさせるんで、明日まで待ってもらっていいっすか?」

「お? なんで最上なんだ?」

「……この絵、最上が描いたんすよ」

 大河先輩は、引き攣った笑顔を浮かべた。
 来衣先輩の絵を自分の絵としてコンテストに出すと息巻いていたのに、真実を公表したのだ。思わず呆気に取られてしまう。

 でも、ほんとうによかった。
 安心すると共に全身の力が抜けた。力をなくした足からその場にしゃがみ込んだ。
 
 なぜ思いとどまったのかわからない。だけど本当に大河先輩が盗用しなくてよかった。


「俺、最上探してきます!」

 中尾先生に軽く会釈をしてその場から小走りで去っていく。大河先輩の足取りは軽く見える。表情もさっきまでの毒気は抜けているように見えた。

 校内をを探しながら、美術室を訪れると来衣先輩は美術室に戻ってきていた。

 走り回って探していた大河先輩は、肩を揺らして呼吸が苦しそうだ。勢いよく美術室のドアを開けると、勢いこままに言葉を投げつけた。

「お、お前、探したんだぞ?」

「……」

「最上、あ、あのさ……」

「出せよ、その絵」

「は?」

 大河先輩の言葉を待たずに、来衣来衣先輩は言葉を被せた。
 その言葉からは、キャンバスを大河先輩が持ち去ったことはお見通しのようだった。


「そんな絵でいいならお前の作品として出せよ」

「……っ」

 やはり来衣先輩にはお見通しだった。大河先輩は返す言葉がなく黙り込む


「ただ、そんな絵じゃ、賞なんて取れねえよ? まだ、完成してねえし。でも、俺には描けねえから」

「そんな絵って……すげえだろ。この絵は! 最初見たときにすげえ悔しかった。なんでこんな惹きつけられる絵を描けるんだって。俺、悔しくてさ……まじでこの絵を自分の絵として出すつもりだったんだよ」

「……なんで、やめたんだよ」

「正直、出す気満々だったんだ。けど。この絵を持つと、めっちゃ重くてよ……後ろから誰かに引っ張られてるみたいに全然進まねえの! それが怖くて……やっぱ、悪いことはできねえわ」

 その原因は、完全に私のせいだった。持ち去れれないように渾身の力をふり絞り、キャンバスを掴んでいたからだ。なんだか居たたまれない気持ちになって心の中で謝罪する。


「未遂だから、罰当たらねえよな?」

「いや、もう、バチあたれよ」

「ははっ、悪いことは出来ねぇな、って実感した」

「……大河、お前はさ、これからも絵描けよ? 俺と違って、お前は描けるだろ」

「お前とずっと一緒に描いてきたんだ! 俺だけ描くなんて……嫌なんだよ」

「悪かったな、俺は病気で描けない。……俺の分まで描いてくれよ」

「来衣、お前の方が俺よりも才能があるのに……なんでっ、なんで、目が見えなくなるのがお前なんだよ……」

 大河先輩の声は震えていた。涙が潤んで瞳が揺れている。潤んだ瞳からは今にも涙が零れそうだった。

「お前が泣いてどうすんだよ」

「うっ、な、泣いて、うっ、泣いてねえし」

 零れ落ちる涙を制服の袖で乱雑に拭いた。しかし聴覚だけでも泣いているが分かるくらい、嗚咽が聞こえてくる。私はまた担当の表の一部分しか見ていなかった。声を上げて泣く大河先輩を見たら、彼も苦悩していたのだと感じる。

「描いたら見せてくれよ、お前の絵。……見えねえけど」

「お、おい、ブラックジョーク過ぎて笑えねえよ!」

 淡々と発する言葉はぶっきらぼうに聞こえるが、それが来衣先輩の優しさだとわかった。
 二人が元の関係に戻ってほしいな。そう、心の中で願った。そんな私の願いなど必要なかったかのように2人は笑い合っていた。


「よし、俺が手伝ってやるから、この絵、明日までに仕上げんぞ?」

「いきなり体育会系だしてくんなよ。だりい」

 苦言を言いながらも、顔は笑っていて嬉しそうだ。来衣先輩の絵をコンテストに出せると思うと、私も嬉しくなり心が弾む。

「……っと、わるい、最上、進路のことで担任に呼び出しされてんだった」

「ああ、行けよ」

「終わったら、すぐ戻ってくっからさ! 明日までに完成させようぜ」

 そう言い残して大河先輩は美術室を後にした。担当の大河先輩を私も追いかけた。しかし途中で足が止まる。美術室を振り返ると、来衣先輩は一人。目が見えない来衣先輩は、きっと一人では描けない。

 行かなくてはいけないとわかってるのに、来衣先輩のことが気掛かりで足が動いてはくれない。

 
「わ、私、力になれませんか? 絵の知識なんて全くないけど……来衣先輩の……目でも手でも……なんでもなります!」

 私の足は美術室に戻ってきていた。だめだと分かっていても、やっぱり放っておけなかった。

「……やっぱり描けない」

「来衣先輩……」

「大河には悪いけど、よく考えてみろよ。昼間でもほとんど見えてない。ほんの少し、本当に僅かしか見えてないのに、描けるわけないじゃん」

「……」

 声をかけれなかったのは、来衣先輩の声が震えていたからだ。私には計り知れない苦しみを抱えている。
 筆がガタっと音を立てて、床に落ちた音が教室に響く。

「はっ、だって俺、落ちた筆も拾えないんだ。どこにあるか……見えないんだ」

 来衣先輩は、涙を堪えるように天井を見上げた。彼の代わりに床にポツンと佇む筆をゆっくり拾う。来衣先輩の右手を取り、筆を手の中に収めた。

「私が拾います」

「……色だって作れない」

「私がつくります」

「だったら、俺じゃなくていいだろ! 他の誰かだって……」
 
「私は筆を拾えるし、絵の具を混ぜることも出来ます。でも、このキャンバスの続きは描けません。描けるのは、来衣先輩しかいません」

「でも……」

「もし、もしもですよ? うまくいかなくても、それを含めて来衣先輩の作品にしませんか?」

「……」 

 黙り込む来衣先輩に、要らぬことを言ってしまったかもしれないと焦りが一気に押し寄せる。

「……未蘭には、色を作って欲しい。手伝ってくれる?」

「は、はい! 色ですね! だ、大丈夫かな」

 色は作ると言い切ったくせに、いざとなると不安が襲ってくる。
 絵心は昔からないし、こんな本格的な絵のお手伝いなんて経験がない。目の前のキャンバスに少したじろいでしまう。

「大丈夫。未蘭なら出来る。白8、黄色2、くらいの割合で混ぜてもらえる?」

「……しろ、8、……きいろが、2」

 言われた数字を頭の中で何度も唱えながら、パッレットで色をつくる。

 美術部でもないし、絵具なんて美術の授業で数回使う程度だった。コンテストに出す絵画に使うような色を私が作れるとは思えない。パレットの中で生み出された色を見つめながら考えていた。

 しかしその不安はすぐに消し去られる。
 落ち込む私が持つパレットから絵具を筆にとると、キャンバスに描かれた暗闇の世界に私の作った色で描く。その筆さばきは見とれてしまうほど綺麗で、本当に見えてないのだろうか。と疑問に思ってしまう。


「……き、きれい」

 お世辞でもなく自然と漏れた。その世界観に見入っていた。

「だろ?」

「す、素敵です。めっちゃ、素敵です!」

「この光は、未蘭のおかげでできた」

「私が作った色じゃなくて、大河先輩が作った色の方がよかったんじゃないかなって思っちゃいます」

「この絵は、病気が発覚してから描いたんだ。だから、この暗闇は俺そのものを表してる。この光は未蘭。だから未蘭に色を作ってもらいたかった」

「わ、わたし?」

「未蘭がいなければ、俺は学校を退学してたし、この絵も描けてない。俺の光は未蘭。未蘭が俺の暗闇に光をくれたんだ」

 そんな嬉しい言葉をもらう資格なんて、私にはないのに。嬉しいはずの言葉が、胸に噛みつくように痛かった。


「コンテストのテーマは"日常の幸せ"なんだって。未蘭にとって、日常の幸せってなに?」

「……生きてるだけで、幸せだと思う」

 事故に遭い、仮死状態の私にとってはそれが本音で、それしかなかった。

 「生きてる」それは1つの幸せなのだ。
 生きていると、辛いことも悲しいこともあった。死んでしまったらそれが全てなくなってしまう。


「生きてるだけで……か」

「1日のうちに『これ、美味しい』『このテレビ面白い』そう心が安らぐ時が1度でもあればそれが幸せなんだと思う。だって死んでしまったら……(すべて消えてしまうから」

 最後に言おうとした言葉は飲み込んだ。

 
「俺の日常の小さな幸せは、未蘭」

「……えっと」

「俺は病気になってから、いつ死んでもいいと思ってた。未蘭に出会って、暗闇だった俺の世界にまた未来が見えた気がしたんだ」

「で、でも、私は……」

 今、私はなにを言おうとしてるんだろう。
「私は幽霊なんです」とでも言おうとしてたのか。言えるはずもない言葉は飲み込むしかなかった。ただ、来衣先輩の真っすぐな気持ちが、幽霊の私にはもったいない言葉で居たたまれなくなった。

 私が幽霊だと知らない来衣先輩と時を共に過ごすのは、騙しているような気がする。心にどんどん罪悪感が募っていく。

 
 頭を悩ませる私の耳に地鳴りのような音が耳に届く。
 ドドドドと、その音はどんどん近づいてきて、何かがこっちに向かってくる音がする。猛獣が全速力で向かってくるような、そんな激しい音が鳴り響く。


「っち」

 来衣先輩にも鳴り響く音は届いていたようで、小さく舌打ちをした。この音の正体を知っているようで、大きなため息を吐いた。


「最上!……はあ、待たせた、な。はあ」

 肩を上下揺らして、息を切らして美術室のドアを開けたのは、大河先輩だった。呼吸はまだ乱れていて、急いできてくれたのがすぐに分かった。



「待ってない。今、いいところだったのに」

「いいところだったのか、どれどれ、おお、いい感じじゃねえか!」

「お前、戻ってくんなよ……良い雰囲気、邪魔すんな」

「確かに、いい雰囲気だなあ。うん、うん。って、邪魔ってひでえな。手伝うために全速力で走ってきたんだぜ?」

 それぞれの意味する言葉は、おそらく違うのに会話が成り立っていてなんとも不思議だった。
 来衣先輩は、私との会話を邪魔されたと思っている。
 大河先輩は、私のことは視えていないので、絵を覗きながら目の前の絵のことだと思って話している。

 すれ違いながらも成立している会話に、私は会話に参加できないので気配を消して見守った。

「いいじゃん! お世辞抜きに、いい絵だな」

「だろ?」

「それにしてもよく一人で描けたな」

「いや、一人じゃなくて……あれ?」

「どうした?」

「……いや、なんでもねえ」

 絶対に来衣先輩は私の話題をすると思い、見えない死角に移動した。吉と出て私の話題が上がることはなかった。

 来衣先輩に、気配を感じ取られないように遠目の死角から2人を見守った。
 完成された絵の前で笑顔を見せる2人に釣られて、私も笑顔になるのだった。


 校舎を出ると辺りは真っ暗で、夜はなにも見えなくなる来衣先輩のことが心配になった。

「最上、夜は見えねえんだよな」

「ああ」

「仕方ねえから、送ってやるよ」

 照れ隠しをするように、頭をポリポリかいた。大河先輩は本当は優しいのに、きっと不器用だ。

「お前の世話にはなりたくねえよ」

 大河先輩の前では昔のままのつんけんした態度の来衣先輩。
 私の前でみたく、素直に思ってること伝えればいいのに。

「っだから! お前はいつもそう! こっちはもっと、頼ってほしいんだよ。なんで、頼ってくれないんだよ。壁作んなよ」

 大河先輩の瞳は揺れていた。きっと来衣先輩には見えていない。見えていたら解決することも、目が見えないせいで難しいと改めて感じる。もともと仲が良かった二人。これ以上すれ違うことなく過ごしてほしい。そう思わずにはいられなかった。

「……じゃあ、頼むわ」

いつも以上にボソッとつぶやいた。夜の闇に隠れていたけど、来衣先輩の顔が少し照れているように見えた。