――
 本日担当する担当。
 水瀬 大河(みなせ たいが) 18歳 男性
 桜ヶ丘高校三年生
――



 支給されたスマホに、三人目となる次の担当の詳細が送られてきた。
 画面を確認すると、上級生のようで少し不安な気持ちが芽生える。名前を見ても知り合いではなかったので、今回の担当が良い人でありますように。と心の中でひっそりと願った。

 

 ♢

 情報をもとに、大河先輩の元へと向かっていく。どうやら一軒家に住んでいるらしい。

 モダンな雰囲気にお洒落な外観の家だった。インターホンを鳴らすことなく家の中に通り抜ける。家の中は家族であろう人の話し声が飛び交っていた。

 私はそろりと家の中を見回って大河先輩を探した。階段を登って2階に到達すると、1番奥の部屋のドアに『大河』と書かれたネームプレートが飾られていた。思いがけず示してくれたおかげで探す手間が省けて助かった。

 スッとドアを通り抜けると、まず初めにインクの匂いが鼻についた。学校の美術室で嗅いだことのある匂いに似ていた。

 部屋を見渡すと絵画がたくさん飾られている。

「……絵がいっぱい飾られてる」

 部屋の中心にあるテーブルに置かれてたのは油彩道具。たくさんの筆や絵の具が乱雑に置かれていた。この部屋を見る限り、大河先輩も美術部なのかなと感じる。

 部屋に飾られた絵画に見入っていると、目の前の綺麗な絵の感想よりも頭を過ったのは初めて喋った時に見た来衣先輩の絵画だった。目の前の絵も綺麗なはずなのに、来衣先輩の描いた絵の衝撃と比べると、どうしても劣ってしまう。あの時の衝撃は、時間が経った今も忘れられない。

 担当の大河先輩本人はというと、布団にくるまってまだ眠っているようだった。カーテンの隙間から差し込む太陽の光で部屋は明るいけれど、彼は起きる気配は全くない。「うーん」と寝言を呟いて、くるりと寝返りを打った。顔の正面がこちらを向いて、初めて顔を拝むことができた。


「げ! この先輩、来衣先輩に嫌がらせしようとしてた人だ」

 背中を向けられていてわからなかったけど、昨日、来衣先輩に足を引っ掛けようと嫌がらせをした先輩だった。顔を見た瞬間に来衣先輩に嫌がらせした時のことを思い出した。今思い出しても腹が立ってくる。

 今日は嫌いな先輩の担当か。まったく気が乗らない。すやすやと幸せそうな顔で眠る彼に嫌悪感しか抱けない。そんなマイナスな気持ちを押し込んで、仕事を遂行するために自分を奮い立たせた。

 大河先輩の生活は、なんというか普通だった。朝食を食べて、着替えをし、歯磨きをして髪の毛をセットする。母が作ったお弁当を受け取り、お礼と行ってきます。と挨拶をして家を出た。来衣先輩に嫌がらせをした人なので、生活が荒れているかと思えば、家族とは仲がよさそうだし、今のところ悪行をする気配もない。



「おはー」
「おいっす」
「大河、おはよ」


 校内ですれ違うたびに挨拶される。大河先輩は意外と友達多いのかも知れない。

 談笑しながら校内を歩いていく彼は普通の男子高校生だ。しかし来衣先輩に嫌がらせをした悪行が頭の片隅に居座り続ける。いくら笑顔を振りまこうとも、来衣先輩に嫌がらせした嫌な奴っていう認識は消えそうにない。

 思い出すと怒りが込み上げてきたので、横にいる大河先輩にキッと睨みをきかせた。誰にも分からない、私なりの精一杯の反発心である。


 教室では男友達と漫画の話やよくわからない話で盛り上がり「ガハハッ」と笑い合っている。男の子の会話は、正直よくわからなくてちょっと苦手だ。

 暇を持て余したので、来衣先輩の病気のことを考えていた。


 「網膜色素変性症」
 医療知識のない私には、その病名を聞いても全く結び付かなかった。頭の中にある知識は来衣先輩が教えてくれた情報しかない。もっと深く知りたいが、幽霊の私には知るすべがない。

 普通なら携帯ですぐ調べられるのに。
 今のネット社会は素晴らしい。検索すれば大抵のことは知ることが出来るのだから。

 しばらく考えていると、ある一つの方法が頭に浮かんだ。しかしその調べる方法は仕事を放棄しなければならない。ダメなことだと理解している。

 悩んだふりをしたけど本当は決まっていたのかもしれない。


 アホ面で笑い続ける大河先輩に、心の中で精一杯の謝罪をしてその場から離れた。
 
 向かった先はパソコン室だ。パソコン室内をガラス窓から確認すると、この時間はどのクラスもパソコンの授業がないようで誰もいなかった。人影もなくシンと静まり返っている。

 パソコン室の前で、これから侵入する申し訳なさから「お邪魔します」と律儀に一礼をする。

 顔をあげて壁をスッと通り抜けた。難なくパソコン室に侵入する。通り抜けることを悪いことだと思う認識はとうに薄れていた。

「このパソコン、借りますね」

 電源ボタンを押すと、黒い画面にパァッと光が灯る。電気がついていない真っ暗なパソコン室にパソコン画面の光だけが灯ってるので、異様な雰囲気が漂い出した。


「……誰か来る前に調べないと」

 私はどちらかというと、真面目に生きてきた。誰もいないパソコン室に無断で侵入などしたことがない。いけないことをしている実感はあるので、心臓はバクバクと鳴り続ける。
 
「網膜色素変性症」

 検索欄に入力してエンターキーを押す。検索結果がずらりと画面に表示された。


「網膜色素変性症……指定難病……」

 難しい言葉がたくさん出てきた。「指定難病」その言葉を詳しくは知らなくても、難しい病気だということが理解できた。


「……徐々に視野が狭くなり、視力を失うこともある遺伝性の病気で、治療法は確立されていない……」

 病気の説明を読むたびに、胸が締め付けられるように痛かった。
 来衣先輩は、この病気と戦ってる。そう思うと涙が込み上げてきた。ぐっと、唇を噛み締めて涙が出てきそうになるのを堪える。


「夜や薄暗い屋内でものが見えにくくなる」

 その文字を読むと来衣先輩の言っていたことと結びついた。表示された長い文字を見落とさないように一生懸命に読んだ。一語一句、見逃さないように頭に叩き込む。

「網膜色素変性症 治療法 」

 希望の光が欲しい。治る方法、治療方法はなにかあるはず。
 だって、そうじゃないと来衣先輩が……。零れ落ちそうになる涙を堪えながら、希望を探して何度も何度も、カタカタとキーボードを打ち検索をかける。

 どのくらい時間が過ぎただろう。
 検索に集中していると、ガチャっと扉が開く音が室内に響いた。その音を耳が拾うとびくっと肩が震えた。
 誰かが入ってきたようだ。ゆっくり足音が聞こえてくる。

 バレてしまう。焦りが一気に押し寄せる。


「あれ、パソコンの電源がついてる」


 暗闇の中で一つのパソコンだけ光を放っていたので、検索をしていたパソコンにすぐに気づかれてしまった。

 ゆっくり歩く足音がどんどん近くなってくる。焦りでドキドキする胸の音が強くなる中、急いで[Delete]キーを長押しして、検索履歴を消去した。



「……あれ? 誰もいない。誰かが消し忘れかしら?」

 パソコン室に入ってきたのは見回りの先生だった。背後から先生を見下ろして、ペコリと頭を下げてパソコン室を後にする。生前だったら絶対に捕まっていたシチュエーションでも、幽霊の今の私は捕まることはない。


「思わずドキドキしちゃったけど、私の姿は視えてないんだから、捕まることはないんだよね」

 廊下を歩きながら、焦る心を落ち着かせた。授業の時間なので、誰もおらずシンと静まり返った廊下を歩きながら、来衣先輩の病気のことを考えていた。


 仕事放棄してしまい担当の大河先輩を見失った。教室にはいなかったので、校内を急いで探したけど、なかなか見つからない。探し回りやっと見つけた場所は美術部だった。やはり大河先輩も美術部なのだろうか。彼の部屋にあった絵画が頭に浮かぶ。

「……くそっ」

 声を荒げたのは大河先輩だ。ガシャン、と大きな衝撃音と共に投げ出されたのは白いキャンバスだった。


「描けない。病気のあいつより、俺は描けないのかよ」

 言葉を悲し気に投げ出して、ギリっと歯を食いしばっている。その様子から悔しさを堪えているのが見て取れる。

 彼の言葉から推測すると、絵が描けなくて悩んでるみたいだ。大河先輩が悩んでいるのを知っても、今の私にできることはなかった。なんだか居たたまれない気持ちになる。

 「病気のあいつ」その言葉が示す人物が来衣先輩ではないかと思った。大河先輩が来衣先輩に酷いことをした理由も隠されているのかもしれない。


「俺は……俺だって、頑張ってるのに」


 傍から見れば、大河先輩が1人で美術室で佇んでいる。孤独に言葉を吐き捨てて自分と格闘しているのだと感じた。
 今にも泣きそうな顔で思い詰める大河先輩なか対して、嫌な胸騒ぎがすると共に素直に心配になる。

 美術室の中を見渡すと、床にはビリビリに破かれたスケッチブックが落ちていた。「taiga」ローマ字でのサインが書いてあり、この破かれたモノは大河先輩の絵だということがわかった。

 きっと自分で破いたのだろう。拳は赤くなるほど強く握らていて、やり場のない怒りを拳にぶつけているようだった。大河先輩からは、怖くて嫌な空気が放たれている。

 私は声をかけることも励ますこともできない。
 どうすればいいのか考え込んでいると、美術室のドアが開く音がした。音がする方に視線を向けるとそこには来衣先輩が立っていた。


 どうしたのかと思えば、来衣先輩の表情はパァッと明るくなり視線は私の方を向いている。嬉しそうな表情は私に向けられているように感じる。真っ直ぐ私のいる方向を見つめて、白杖のコツコツという金属音と共に足を進める。


「いた。……やっと見つけた。探したんだよ?」

「……なんだよっ、何の用だよ?」

 来衣先輩は私に向かって言葉を投げかける。
 その問いに答えたのは、もちろん私ではない。
 大河先輩だ。


 大河先輩に私の姿は視えないため、来衣先輩の言葉が自分に投げかけられたと思っている。

「探したよ。約束したのに、会いにこないから――。会えて良かった」

 胸の奥がきゅっと疼いた。整った顔がくしゃっとなる笑顔は反則級に心臓に悪い。私のトキメキ数値は上昇する。


「な、なっ、なんだよ。いきなり……な、なに言ってんだよ?」

 大河先輩は頬を赤らめた。私の姿が視えない大河先輩は美術室に来衣先輩と二人きりだと思っている。

 そしてなぜか大河先輩の声は、来衣先輩に届いていない。瞳は私の方だけを見つめている。おそらく大河先輩の存在に気づいていない。奇跡が重なり、このややこしい三角関係の会話が生まれてしまっている。

 ただこれ以上私に話かけられたら、さすがの大河先輩も不審に思うだろう。
 私が声を出すわけにはいかないので、この危険な状況から逃げる方法を考えていた。
 
「……昨日の話、覚えてる?」

 困っている私の願いも虚しく、ひたすらに私の方に視線を向けて、言葉を投げかけ続ける。
 来衣先輩、すぐ近くに大河先輩もいるよ?
 気づいてあげてよ。

 大河先輩はいよいよ、来衣先輩の行動を不審がって、視線の先の方を不思議そうに見つめている。

 その視線の先は私だ。その瞳からは怪しんでる様子が伺える。


「聞いてる? 未蘭」

 ついに恐れていたことが起きる。
 そこにいないはずの、私の名前を口にしてしまった。
 大河先輩の反応が、怖くて全身から変な汗が吹き出しそうだ。



「……誰だよ。未蘭って」

「ああ?」


 やっと大河先輩の声が来衣先輩に届いた。この空間にもう一人いると気づいた来衣先輩は、さっきまでの甘い声から一変して、低く素っ気ない声に変わった。


「……お前、大河か? なんだよ、いたのかよ」

「ずっといただろうが! 俺しかいないだろ」

 そうなんですよ。大河先輩は最初からいたんです。
 心の中で同調する。


「……いつからいたんだ?」

「何言ってんだよ、最初からいたわ」

「最初から……? なんで2人きりなんだよ」

「ああ? そんなに俺と2人きりが嫌かよ?」

「当たり前だろ、俺のなんだから」

 当の本人たちは気づいていないが、すれ違いの会話が繰り広げられている。
 来衣先輩が怒っているように見えるのは、もしかして……私が大河先輩と2人きりだったことにヤキモチを妬いている?
 自意識過剰ながらにそう思ってしまったのは、来衣先輩が不機嫌丸出しの表情をしていたからだ。 

 今にも喧嘩に発展しそうな2人を目の前にして、声が出せない私はオロオロすることしかできなかった。事態を収集できなくて、パニックになった私は、何をおもったのか、来衣先輩の手を握ってその場から連れ出した。

 いきなり手を引かれた来衣先輩は、体制を崩しながらも私に連れられて行く。誰もいない廊下までたどり着くと、とりあえず、危険な状況からは抜け出せたのでホッとため息が自然と漏れた。


「あ、来衣先輩、いきなりすみません」

「ずっとシカトされてたから、嫌われたのかと思った」

「き、嫌ってなんてないですよ?」

「よかった、それ聞けたからもう言うことないや、嬉しい」

 感情をストレートに伝えてくれる来衣先輩の言葉に、心は素直に喜んでしまう。

「来衣先輩と大河先輩って仲悪いんですか?」

「……いや、仲良い方だと思ってたんだけどな」

 先ほどの二人のやり取りと雰囲気が気になり尋ねると、来衣先輩は少し目を伏せながら話を続けた。


「目が見えなくて、絵が描けなくなった俺のことは、もう見たくないんだってよ」

「そんな酷いこと言ったんですか?」

「……ああ」

 大河先輩に再び嫌悪感が募る。

「……本当はわかってるんだ。大河は俺以上に、俺が描けなくなったことが悔しいんだよ」

 来衣先輩は、大河先輩との間に起きたことを丁寧に教えてくれた。
 病気がわかって、最初はとても心配してくれていた大河先輩。しかし来衣先輩が美術部を辞めると言い出すと、態度が豹変したらしい。


「俺も辞めたくなかったけど……目が見えないから諦めざるを得なくて。仕方なかったんだ」

「……」

「俺が辞めたあたりから、大河も美術部に顔を出さなくなったって、人伝に聞いた」

「……そう、だったんだ」

「俺もあの時、もっとしっかり大河と話せばよかったと思ってる。ただ、病気だとわかった頃は、もう精神的にいっぱいいっぱいで……大河のことまで考える余裕がなかったんだよな」

 悲しげに弱々しくなる声が、後悔してることを伝えてくれるようだった。
 きっと、それぞれに思うことがあって、上手く伝わらずに、少しすれ違っちゃったのかな。

 言葉を伝えることって大切だ。友達だった二人が言葉が足りないばかりに、仲がこじれてしまうなんて……。なんだか悲しい気持ちが込み上げてくる。

 こうして来衣先輩とずっと話しているわけにはいかない。仕事を放棄していることになってしまう。ハッと気づいた私は、まだ来衣先輩の話を聞きたかったけど、大河先輩の元に戻ることにした。

「来衣先輩、私、ちょっと……」

「え、未蘭?」

 名残惜しくなってしまうので、顔は見ないで言葉だけ残してその場を後にした。