職員室に入ってくる窓からの日差しが、赤みを帯びたあたたかい光に変わってきた。
 デスクに座って、なにやら仕事をしている田口先生を少し離れたところから見守りをしている。

 デスク周りを整理して帰りの支度をする先生も見受けられ、退勤時間が近づいてきていることが分かった。
 
「田口先生、お疲れ様です。名簿を見ながら、熱心ですね。……あー、最上ですか?」

「ええ、担任なのでね。何か力になれないかと」

 名簿を見つめている田口先生に声を掛けてきたのは、生徒から人気のある椎名先生だった。椎名先生は勤務二年目で他の先生と比べても若い。年齢が生徒に近いのもあって、フレンドリーで優しく、人気のある先生だった。

「正直、ろう学校とか考えた方がいいんじゃないですか?」

「……それはなぜです?」

「だって……普通の生徒と同じ生活は無理でしょう? 他の生徒の迷惑になりでもしたら、ねえ」

 鼻で笑いながら零す言葉は棘のある言葉だった。椎名先生の表の印象と違って、半笑いで生徒のことを話す目の前の彼には嫌悪感を抱いてしまう。


「……その時は俺がなんとかしますから。担任なのでね、このまま卒業させてやりたいんですよ」

「そ、そうですか……まあ、田口先生が、そう言うなら何も言いませんよ?」


 田口先生は淡々と告げた言葉には強さも感じられた。椎名先生は言い返すことなく、少し気まずそうに空笑いを浮かべて離れていく。私は今まで田口先生を誤解していたかもしれない。怖い印象で生徒に寄り添わない先生だと思い込んでいたが、田口先生は他の先生よりも、来衣先輩のことを考えて寄り添おうとしてくれている。

 今日一日、守護霊代行の仕事を通して近くで見ていたから知れた真実だった。
 職員室の窓から空を見ると、夕焼けと夜空が譲り合い、空の様子が1日を終えようとしていた。

 
 田口先生の就業時間も終わりを過ぎていた。就業時間を過ぎてもデスクで仕事をする田口先生を、後ろから見つめた。朝感じた田口先生への不信感は完全に消えていた。

 外に出ると、薄っすらと暗くなり始めた街には明かりが灯り始めている。覗き込むように田口先生の腕時計を確認すると、時計の針は17時45分を指していた。もうすぐ、来衣先輩との約束の時間だ。

 私には、約束の場所へ行く権利なんてない。
 本当は来衣先輩と話すことも禁止事項なのだ。それなのに、幽霊だと知られず生きてる頃と同じように接してもらえることが嬉しくて心地良くて。禁止られている会話をしてしまった。私はすでにたくさんんのルール違反を犯している。

 ダメなことは分かっている。ルール違反だと自覚している。
 分かっているのに、今日は朝からずっと来衣先輩のことが脳裏に浮かんでくる。今も来衣先輩のことばかり考えてしまう。どうやら頭の中から離れてはくれないようだ。

 ダメ。会いに行ってはダメ。
 頭では分かっていても、心は分かってくれない。

「……ルール違反します。ごめんなさい」

 気づくと地面を蹴っていた。
 約束の場所へ向かわずにはいられなかった。あの日、来衣先輩に会ってから、頭の片隅にずっと来衣先輩がいて離れてはくれない。

 どうしてこんなに来衣先輩のことばかりを考えてしまうのか、この気持ちの正体はなんなのか。
 分からなくて、自分で考えても分かりそうもないので会いにいく。

 担当の田口先生のそばを離れて、足が向かっていくのは、目の見えない来衣先輩と初めて会ったあの場所だ。薄ら暗くなった景色に、一際目立つ光が放たれている。背中に照明の光を浴びて、コンビニの前に来衣先輩が立っていた。


 遠目から見ても目を惹くスタイル。カッコいいと感じずにはいられなかった。高鳴る心臓を落ち着かせながら、ゆっくりと来衣先輩のいるところへ歩いていく。近くまで来ると、彼は下を向いていた顔をぱっとあげた。

 人には視えない私のことを見つけてくれたような錯覚に陥って、ドクドクと心臓の音がうるさくなる。


「……やっぱり、未蘭だけは見つけられる」

「えっ?」

「少し話さない?」

 コンビニには人が集まる。人には私の姿は視えないので、ここで来衣先輩と話しをしたら、はたから見れば、来衣先輩が一人で話しているように見えてしまう。それは避けなければならない事態だ。少し考えて、視界の片隅に公園が映った。


「あ、あの……公園で話しませんか?」

 私の提案を快く受け入れてくれた来衣先輩と公園へと向かう。コツコツとアスファルトとぶつかる白杖の音が耳に心地よい。肩を並べて歩いているけれど、傍から見たら来衣先輩が一人で歩いているようにしか見えない。その証拠に私のところに影は現れていない。

 広い公園の中、学校帰りの小学生がボールを蹴ったり、走り回って賑やかな声が聞こえる。夜がすぐそこまで来ているので、人の数はまばらだった。きっと、ここなら来衣先輩が一人で話しているようにみえても大丈夫だろう。そう判断して人気のないベンチに腰を下ろした。

♪~
 公園内に音楽が流れはじめた。一瞬驚いたのは、ありふれたよくある夕方の音楽ではなく、少し前に流行ったラブソングだったからだ。

「この公園は、18時になると音楽が流れるんだよ」

 耳を澄ませて音楽を聞き入る来衣先輩が教えてくれた。

「普通、こういうのってもっと簡易的な音楽だったりしますよね?」

「俺はこっちの方が好きだけど。脳は音楽を聴いていたときに見えるものや、感じるものを同時に記憶しようとするんだって」

「音楽と共に、昔の出来事を思い出すってことですか?」

「そうらしいよ? 少なくとも、俺は思い出すだろうな」

 そう言い残した来衣先輩の横顔があまりにも綺麗でしばらく見入っていた。視線を送り続けてもバレないことを知っていて、ずっと見つめた。

 なんだか来衣先輩といると調子が狂うな。
 彼の表情や言葉は、恋愛経験値がない私には刺激が強過ぎて、簡単に胸が高鳴ってしまう。

 私の鼓動はうるさくて、来衣先輩にも聞こえてしまわないか心配になるほどだ。

「きてくれてよかった」

「だって……来るまで待つって言うから」

「あーでも言わないと、来てくれないと思って」

 来衣先輩の策略にまんまと乗せられた。だけど、したり顔で笑う表情に怒りは少しも湧いてこない。
 私も会いたかったんだ。来衣先輩に。

「見つけられるか少し不安だったけど、やっぱり未蘭は見つけられた」

 その言葉に、本当に私のことを見つけてくれたような錯覚に陥る。私は人には視えない存在なのに。
 
「それに、未蘭の声は表情がついてるみたいなんだ」

「声に表情?」

 来衣先輩の言っている意味が全く理解できなかった。いくら考えても、理解できないままだ。

「目が見えないから俺の情報源は耳が多い。声だけだと本当は何を思っているのかわからなくて、変に勘繰ってしまう」

「……うん」
 
「未蘭の声は感情が豊かで、俺の目にも表情が映し出されるみたいなんだ」

 目尻に皺を作ってくしゃっと笑った。私は何故か泣きそうになってしまった。感情が豊かだなんて、いつぶりに言われたのだろう。

 というのも、母が彼氏を頻繁に家に連れてくるようになってからの私は感情を知らず知らずのうちに捨てていた。それは傷つかないようにと自己防衛だったのかもしれない。

 来衣先輩の言葉を受けて少し考えてみた。
 守護霊代行の仕事をしてから焦ったり危ない場面ばかりに出くわして、いつの間にか感情的になっていた気がする。生きていたころより、仮死状態の今の方が感情が豊かになったなんてなんだかとてもおかしい。

「ふっ、」

「え、なんかおかしかった?」

「ご、ごめんなさい。感情が豊だなんて、久しぶりに言われたので……」

 思わず笑ってしまった私に優しい眼差しを向ける。

「俺さ……正直、この病気になって、暗闇が広がるたびに、視力がどんどん失われていくことが怖くて、この先の絶望していた。目が見えるのなんて、当たり前だと思うだろ? 爺さんになるまで見えることが当たり前だと、誰だって思うよな……」

「……」
 
「失った視力の中で、未蘭だけは見つけられるんだ」
 
 私の記憶の中の来衣先輩は、気だるげそうに話しかけられてもぶっきらぼうに返すばかりで笑顔なんて見せなかった。今目の前にいる先輩は穏やかで、笑顔も浮かべている。

 返す言葉が見つからず黙り込む私に、優しいまなざしを向け続ける。そんな彼に私の心は簡単に惑わされる。ドキドキと鼓動が速くなる。

 早く会話を終わらせて、担当の元に戻らなくては。
 そう頭が理解しているのに、楽しくて、あたたかくて。この時間がずっと続けばいいのに――。そう思ってしまうんだ。
 

「また、会える?」

「そ、それは、ダメなんです。私は……だめなんです」

「なんで?」

「え、えっと」

 私は今、普通の人間ではないんです。だから会う約束をしてはいけないんです。そう言いたいのに、存在がバレてはいけないという守護霊代行のルールが邪魔をする。

「……彼氏いんの?」

「か、彼氏? 彼氏なんて、いるはずないです!」

「じゃあ、友達から……ならいいだろ?」

 断るべきだ。頭ではそう理解しているけれど、心はそれを拒否する。生前なら、迷うことなく返事が出来るのに。今の私には様々な壁が邪魔をする。考え込み俯いていた顔を上げた。視線の先には、寂しげな瞳が揺れていた。
  
「……友達なら」

「よかった。……よろしくな、未蘭」

 断れる勇気もなかった。ただ目の前で嬉しそうに笑う来衣先輩を見ると、私の中の罪悪感が消えていくのが分かった。

「明日も学校で会いにきてよ」

「そ、それは約束できないです」

「えー、俺、周りから見放されて独りなのに?」

 そんなこと言われたら断れない。落胆するように眉を八の字にする来衣先輩の表情が追い打ちをかける。

「す、少しだけなら……」


 ちらりと来衣先輩を見上げると、満足そうな笑みを浮かべていた。笑顔を見ると同時に胸が高鳴ってしまう。
 顔を上げると、一瞬来衣先輩と視線が重なったような気がした。重なるはずがない視線は私に向けられていて、どくんと心臓が跳ねた。
 
 来衣先輩は目が見えてないので、目が合うことはない。……合うはずがないのに、重なった瞳に吸い込まれるように目が離せなかった。





 この感情が恋だなんて
 恋愛経験がない私にはわからなかったんだ。


 頭の中は、来衣先輩のことでいっぱいで、彼の笑顔は私の感情を大きく揺さぶる。私の中で彼の存在が大きくなっている。その事実だけは分かった。


 来衣先輩としばらく話して、公園内にある時計を見ると、あっという間に時間が過ぎていたことに気づいた。ハッと自分の立場を思い出した。


「あ、やばっ……。ら、来衣先輩。さようなら」


 返事を待たずに一方的にさよならを残して来衣先輩の元から走り去った。

 そばから離れたはずなのに、ドキドキと鼓動の音が収まる気配がない。


 邪な気持ちを掻き消すように、ひたすらに走っていた時だった。
 

「おーい、仕事を放棄して男と密会か? 放任主義の俺でも、流石に見過ごせないぞ?」

 背後からまた前触れもなく柊が現れた。


「わわっ、びっ、くりした……いきなり現れるのやめてよ、心臓に悪いよ」

「仕事放棄はダメだって言ったろ?」

「ち、違うよ?」

「へえ? どういうこと?」

 顔を大きく横に振って否定するが、柊は納得していないような表情を見せる。その表情からすべてお見通しだと分かった。それでも否定し続ける私に、眉をひそめて疑わしそうな目を私に向けたままだ。


「え、えっとね、来衣先輩が辞めたいっていうから、それを止めてね、辞めないでくれて、来衣先輩は目が見えなくて、でも私は視えてて……」

「……」

「……どうしよう! 私幽霊なのに、来衣先輩と友達になっちゃったよ……」

 柊に説明しているうちに自分がした過ちを改めて思い知った。そして罪悪感があふれ出す。私の頭はもういっぱいいっぱいで、泣きべそをかきながら、柊に助けを求めるしかなかった。


「全然、話が見えないんだが?」

「っ、えっと、えっとね……」


 今日一日で起きたこと。今の現状を説明した。すべて話終えると、柊は「うーん」と、うなだれながら考え込んでいる。私一人では答えが出せそうにないので、柊の答えを待つことにした。


「俺もわかんねえや! ただ……」

「……ただ?」

「よくないってことはわかる」

「で、ですよね……」

「まあ、この件は俺の中で留めといてやるよ」

「いいの?」

「ああ、無茶すんなよ?」

「う、うん!」

 たくさん怒られることを覚悟していたけど、柊は怒らずに話を聞いてくれた。その優しさが嬉しくて心地よかった。

「もう、そろそろ仕事も終わりの時間だな」

「え、もうそんな時間なの?」

 どうやら来衣先輩と話し込んでいたら、思っていたよりだいぶ時間が経過していたようだ。


「体感的には数分くらいの感じだったのになあ」

「それほど楽しかったってことだろ?」

「そ、そうなの、かな」

「楽しいことほど、時間が過ぎるの早いって言うしな」

 来衣先輩と話す時間は、ドキドキしたり感情が忙しくて、時間が過ぎるのがあっという間だった。


 現世の夜道をゆっくりと歩きながら、今日一日の出来事を振り返っていた。
 今日担当の田口先生は、今まで抱いていたイメージと違って生徒想いで良い先生だった。それは勝手に悪いイメージを抱いて、本当の田口先生を知ろうともしていなかったんだ。

 今日一日のことを振り返り、田口先生のことを考えていたはずなのに、いつのまにか頭に浮かんでいるのは来衣先輩の笑顔だった。

 その理由がわからず、ひたすら考えているうちに、2人目の守護霊代行の仕事が終わろうとしていた。