「……あ、あの、聞いていいのかわからないんですけど……」
「……なんで白杖使っているか聞きたいんだろう? 俺、網膜色素変性症っていう病気なんだ」
「も、もう、もうまく?」
私の聞きたいことを、すんなりと教えてくれた。聞きなれない単語に一度聞いただけでは病名を覚えることが出来なかった。それは私の知識にその病気の詳細が載っていないからだろう。
「網膜色素変性症。知らなくて普通だよ。指定難病に指定されていて、珍しい病気だから」
「あの、昼間は少し見えるって言ってましたよね?」
「聞いてたんだ。ああ。見えるって言っても、見える視野がとにかく狭い。病気が発覚した時は見えてたけど、段々視野が欠けていった。最近は……昼間も誰だか視覚だけで判断するのは難しい」
「……」
なんて返せばいいのか分からなかった。「大変でしたね」「辛かったですね」浮かんでくる言葉はどれも安っぽく感じてしまう。もっと違う言葉で表現したいのに、ぴったり合う言葉が見つからないんだ。
「こんな重い話なんて聞きたくないよな」
黙り込む私に優しい言葉を届けてくれた。私が心配されてどうするんだろう。
「そ、そんなことないです……えっと、病気がわかったのって最近ですか?」
「病気が発覚したのは高校一年の時。見えにくいなあって思って、なんとなく病院に行ったら、精密検査されて……それで診断を受けた」
「そんな前から……戦ってたんですか」
「進行性の病気で、発症してすぐに失明する訳じゃないんだ。ただ、俺は若いからなのか、進行がかなり早いらしい」
「……」
病気のことを何一つ知らない。自分の無知さを痛感して顔が歪む。
「……」
「……」
「あの、もっと、もっと詳しく病気のこと教えもらえないですか? あ、もちろん、来衣先輩が嫌じゃなければ……」
「別にいいけど……聞いても面白くねえけど?」
「知りたいんです。来衣先輩のこと」
「……」
意を決して申し出た私の要求に、彼はゆっくりと話し出す。
「網膜色素変性症」
4,000人から8,000人に一人発症すると言われていて、進行すると視力が低下し、全く見えなくなってしまうという難病。この病気に罹っている親族はおらず、原因はわかっていない。
暗いところでの見え方が悪くなる(夜盲)
視野が狭くなっている(視野 狭窄 )
どちらの症状も出ている来衣先輩は、夜はすべて暗闇に包まれて何も見えない。一筋の光さえ見えない。
昼間は視野が狭くなる中、かろうじて少し見えるくらい。全体が白っぽく感じて、人の顔はほとんど認識できない。彼の病魔の進行は特に早いらしく、発症から数年で、視力のほとんどを失っていた。
私の相槌を確認しながら、ゆっくり教えてくれた。私は当事者じゃない。来衣先輩の見えてる世界が全く想像できない。そんな私に、彼はこう伝えた。
夜を迎えると俺の世界は黒一色に包まれる。
見えなくなった世界は、孤独で、闇で、これが夢ならいいのに。
そう毎日願い続けている。未来に一筋の光でさえ、見えない。少しの希望さえない。
今まで目が見えるのが、当たり前だった。これから先、いつ失明してするのかわからない。
「絶望」俺を表すのにぴったりな言葉だ。
私は浅はかだった。病気のことを聞けば、少し力になれることがあるのではないかと。とんだ勘違いをしていた。
彼にまた色彩のある世界を見せることは、私には出来ない。
彼を励ます綺麗な言葉は思いつかない。
なにもできない。そんな自分は無力だと実感する。
「なっ? 面白くない話だっただろ?」
来衣先輩は病気のことを話し終えると、へらっと笑った。わざと笑顔を浮かべたように感じる。
言葉を探して返答に詰まってしまった私を、気遣ってくれたんだと思う。
自分から聞いておいて、相手に気を遣わせるなんて、私はなにをやっているんだ。
「病気になってから、初めて光がみえたんだ」
「え、どんな光ですか?」
「君、」
「え」
「俺、目が見えないのに、君だけは見つけられるんだ」
「……私のこと視えてるんですか?」
「見えてるというより、存在を感じるっていう感じだな。見えないけど……確かにそこにいるだろ? 君の周りには光が視える」
胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛かった。それと同時に心の奥があたたかくなるのを感じた。
存在していない私を見つけてくれる。
その事実が途轍もなく嬉しいんだ。
「俺は今日、退学届を制服の内ポケットに忍ばせていた。退学しようと――」
「来衣先輩が、辞める必要ないと思います」
「綺麗ごというなよ。『なにか力になれることがあったら言ってね』『これからもずっと変わらず友達だ』上っ面の同情の言葉だけ残して、親しかった人もみんな離れていった。俺はこの学校にいたら、お荷物なんだよ」
「私、考えたんです。昨日の夜、なんで夜にコンビニにわざわざ行ったんだろうって。夜は視力が見えなくて危険なのに。きっと、コンビニまでの道を忘れないために危険を犯してまでコンビニに行ったのかなって」
「……」
「今日も来衣先輩を見てたら、学校の柱とか手すりとか必要以上に確認してて、記憶の中の視力を忘れないようにしてるのかなって――」
「そうだよ。学校もよく行ってたコンビニも。記憶の中にその景色があるから、それを忘れたくなくて……。まあ、そんなことしたところで……」
「病気の環境に馴染むように、努力している来衣先輩が、他人のせいでやめるのは違うと思うんです」
「健常者の君に何言われても、響かねえよ。所詮きれいごとだ」
「私も、事故で――」
思わず自分の置かれている状況を口にしそうになり口を押えた。
仮死状態の私は誰よりも、命の儚さ、当たり前の日常の尊さを知っている。
しかし、来衣先輩に伝えることはできない。言いたくても、言えない言葉を飲み込んだ。
「え、事故?」
「ま、ま、間違えました! ただ、この学校で一番、命の尊さを知ってる自信があります! 後悔する辛さも身に染みて知ってます! だから、来衣先輩に後悔して欲しくないんです」
彼はきょとんと固まっている。その表情を見て、おかしなことを口走ってしまったと知る。気づいたころにはもう訂正はできない。次の言葉を探して頭をフル回転させる。
「ははっ、なんで、そんなに言い切れんの? どんな人生歩んできたんだよ」
くくっと肩を揺らして笑った。目を細めて笑う彼の表情に、私の心は惹きつけられる。
~♪
「えー、最上来衣くん、職員室まで来てください」
校内放送が流れた。ぶっきらぼうに聞こえる声は田口先生だ。
退学の話の途中で、校長先生に呼ばれてしまった田口先生は来衣先輩のことを気にかけてくれたのだろう。
「あー、田口先生だ」
「……来衣先輩っ」
「俺、辞めるわ」
「……」
「退学すんのを辞める。なんか、君と話してたら辞めたくないって思ってる自分に気づいた」
「本当ですか! よかった……よかったです」
安堵のため息が漏れる。
「……ありがとうな」
「いや、私は、お礼を言われるようなことは……」
そうだ、私は励ます言葉。ひとつも言えていない。病気のことも知らず、無知で不甲斐なくて落ち込んだくらいだ。
「誰かに病気のこと話したの初めてだ。聞かれても、なんか言いたくなくてさ、なんでだろう。君には話せた」
柔らかく笑った瞳と視線が重なる。厳密にいえば、来衣先輩は目が見えていないので、視線は重なっていない。それでも吸い込まれるように彼の瞳から目が離せない。
「田口先生に退学しないって言わないと。退学手続きされっちまうな」
「そ、それは……笑えないですね。早く行きましょう」
「ふっ、君もついてくるの? 心配してくれてるなら大丈夫だから」
当たり前のように彼に着いていこうとしていた。今日の担当は田口先生だ。田口先生のそばにいないといけない。
今から向かう目的人物は一緒なのだ。しかし、守護霊代行の仕事のことを言えないので、ただのストーカーみたくなってしまう。
「あー、あはっ、それでは。いってらっしゃい」
後で時間差で田口先生のところへ行こう。
白杖を使ってゆっくり歩いていく来衣先輩の背中を見送った。しばらく歩いてぴたりと止まる。どうしたのか不思議に見ていると、振り返り私に向けて言い放つ。
「名前は?」
「え?」
「君の名前!」
「は、早川未蘭です」
「未蘭!……昨日会ったコンビニの前で待ってる」
「へ? え? なんて?」
「昨日会ったコンビニの前で18時に待ってる」
「え、なんでですか?」
「もっと、未蘭のことを知りたいから」
「……」
なんて返事をすればいいのか分からなくて、言葉に詰まる。私は来衣先輩に会う権利を持ち合わせていない。ゆえに、これ以上関わってはいけない。
「い……けません」
「まあ、俺は行くから……。未蘭が来るまで待ってる」
一方的に告げるとまた前を向いて歩き始めた。来衣先輩の言葉を受けてまた話したいと思っている自分がいた。しかしそれはルール違反だ。理解しているはずなのに断る言葉が出てこない。歩く足を止めない来衣先輩の背中がどんどん遠ざかる。
「わ、私、い……いけませんから!」
背中に投げた私の声は聞こえていたのだろうか。立ち止まることなく歩いていくので、声が届いていないのか、意図的に無視しているのか。どちらなのか分からなかった。