「真菜。進路調査のことで、昨日先生から電話があったんだけど……」
ある朝、台所で食器を洗っていると、仕事に行く用意をバタバタとしていたお母さんに話しかけられた。お母さんの声が、珍しく弾んでいる。
「希望、“進学”に変えたんだって? 何かあったの? 大学行って欲しかったから、お母さんとしてはうれしいんだけど……」
我が家の家計を考えて、今まで私は、頑なに就職を希望していた。お母さんは奨学金だってあるしお金のことは心配しなくていいと言ってくれてたけど、それ以前に、やりたいことがなにひとつ見つからなかったからだ。
でも、文芸部に入って、文学に触れて、小さいけれど賞をもらって――おこがましいけど、少しだけ、文字の世界に浸ってみたいと思った。
「うん、ちょっと……」
文芸部に入ったことは先生伝いに知られてるみたいだけど、賞をもらったことは知られていない。恥ずかしくて言葉を濁すと、お母さんは私の気持ちを察したように笑顔を見せた。
「うれしいわ。……あなたが、変わってくれて」
小さく鼻を啜る音が聞こえて、私は慌てた。お母さんの目が潤んでいる。
「お母さん? どうしたの、急に……」
「あなたには、無理をさせてたから……。家のことも光のことも任せっぱなしで、ずっと申し訳なく思ってたの。そのせいか、まったく我儘を言わない子になってしまって……。就職したいって言ってたのも、私に気を遣ってるんじゃないかって、心配だったの」
「お母さん……」
「でも、このところ、あなた少し楽しそうだから、本当にうれしくて……」
せっかくお化粧をしたばっかりなのに、アイメイクの崩れてしまったお母さんの顔を、ちらりと見る。私は、心底情けない気持ちになった。
お父さんが亡くなってから、一番大変な想いをしてきたのは、お母さんなんだ。
自分本位な私には、それが見えていなかった。
お母さんだって、光のそばにずっといたいだろう。もともと料理が好きな人だから、私にお弁当だって作りたいだろう。だけど日々仕事に追われているせいで、泣く泣く、それらすべてを手放してきたのだ。
「増村先生も言ってたわ、クラスでも楽しそうにしてるって。いい友達ができたのね」
「……うん、そう。本当に、友達に恵まれてる」
答えると、「よかった」とお母さんはまた微笑んだ。
増村先生が言ってたように、クラスでの日々は、順調だ。夏葉とは相変わらず仲がいいし、美織と杏ともうまくやってる。みんなと過ごす日々は楽しい。
でも、私の中でもっとも大きな存在を放っているのは、桜人だ。
桜人は、自分を偽らないこと、逃げないことを教えてくれた。
それから、文字を紡ぐことの尊さも……。
そのとき、ガラッとふすまが開いて、光が出てきた。
ランドセルを背負って、通学用の黄色い帽子をかぶっている。
「あれ? 光、もう学校行くの?」
まだ、朝ご飯も食べていないのに。
「いらない」
それだけ答えると、光は暗い面持ちのまま玄関に向かい、行ってきますも言わずに外に出て行った。
私とお母さんと、目を合わすことすらしなかった。
光がアパートの階段を下りる音が、カンカンカン……と遠ざかっていく。
「光、今日も元気ないね」
光はこのところ、ずっと暗い顔をしている。それに、ことあるごとに私やお母さんに反抗していて、光が家にいるときはいつも重苦しい空気が漂っていた。
「学校で、友達とうまくいってないらしいの。あの子あの身体だから、どうしてもクラスメイトと同じように行動できなくて、それを不満に思っている子がいるみたいで……」
光が出て行った玄関扉を哀しげに見つめながら、お母さんが言う。
「そうだったんだ……」
重度喘息の光は、体育に参加できない。放課後友達と走り回ることもできないし、遠足にも行けない。前のクラスでは、それでもうまくやってたみたいだけど、今回は違うらしい。
クラスによって纏う雰囲気が違うことは、私もよく知っている。
「それに、病院のお友達とも、うまくいってないみたい」
「病院のお友達って、さっちゃんのこと?」
さっちゃんは、おそらく、光と同じ重度喘息の子供だ。入院中は光の支えになってくれたし、退院後も、定期受診の際によく会ってたみたい。
お母さんは、重い表情で頷いた。
「学校でうまくいってなくてもさっちゃんがいるから、って気持ちが、あの子の中にはあったと思うの。だけど両方いっぺんに失ったから、苦しんでるんだと思うわ」
病は、心までをも蝕む。
悪性リンパ腫だったお父さんもそうだった。
愚痴ひとつ吐かない気丈な人だったのに、晩年、やりきれない表情で項垂れている姿を何度も見た。
そのたびに私はお父さんに元気を取り戻してもらおうと、明るく振る舞った。だけどお父さんは、力なく笑うだけだった。
病気の苦しみは、当人にしか分からない。
光は、病と、孤独と、寂しさと、苦しみを抱えている。
それは、あの小さな体が抱え込むには、あまりにも多すぎる。
どうやったら、弟を救えるだろう。
いつまで経ってもその答えを見いだせないでいることが、歯がゆかった。
ある朝、台所で食器を洗っていると、仕事に行く用意をバタバタとしていたお母さんに話しかけられた。お母さんの声が、珍しく弾んでいる。
「希望、“進学”に変えたんだって? 何かあったの? 大学行って欲しかったから、お母さんとしてはうれしいんだけど……」
我が家の家計を考えて、今まで私は、頑なに就職を希望していた。お母さんは奨学金だってあるしお金のことは心配しなくていいと言ってくれてたけど、それ以前に、やりたいことがなにひとつ見つからなかったからだ。
でも、文芸部に入って、文学に触れて、小さいけれど賞をもらって――おこがましいけど、少しだけ、文字の世界に浸ってみたいと思った。
「うん、ちょっと……」
文芸部に入ったことは先生伝いに知られてるみたいだけど、賞をもらったことは知られていない。恥ずかしくて言葉を濁すと、お母さんは私の気持ちを察したように笑顔を見せた。
「うれしいわ。……あなたが、変わってくれて」
小さく鼻を啜る音が聞こえて、私は慌てた。お母さんの目が潤んでいる。
「お母さん? どうしたの、急に……」
「あなたには、無理をさせてたから……。家のことも光のことも任せっぱなしで、ずっと申し訳なく思ってたの。そのせいか、まったく我儘を言わない子になってしまって……。就職したいって言ってたのも、私に気を遣ってるんじゃないかって、心配だったの」
「お母さん……」
「でも、このところ、あなた少し楽しそうだから、本当にうれしくて……」
せっかくお化粧をしたばっかりなのに、アイメイクの崩れてしまったお母さんの顔を、ちらりと見る。私は、心底情けない気持ちになった。
お父さんが亡くなってから、一番大変な想いをしてきたのは、お母さんなんだ。
自分本位な私には、それが見えていなかった。
お母さんだって、光のそばにずっといたいだろう。もともと料理が好きな人だから、私にお弁当だって作りたいだろう。だけど日々仕事に追われているせいで、泣く泣く、それらすべてを手放してきたのだ。
「増村先生も言ってたわ、クラスでも楽しそうにしてるって。いい友達ができたのね」
「……うん、そう。本当に、友達に恵まれてる」
答えると、「よかった」とお母さんはまた微笑んだ。
増村先生が言ってたように、クラスでの日々は、順調だ。夏葉とは相変わらず仲がいいし、美織と杏ともうまくやってる。みんなと過ごす日々は楽しい。
でも、私の中でもっとも大きな存在を放っているのは、桜人だ。
桜人は、自分を偽らないこと、逃げないことを教えてくれた。
それから、文字を紡ぐことの尊さも……。
そのとき、ガラッとふすまが開いて、光が出てきた。
ランドセルを背負って、通学用の黄色い帽子をかぶっている。
「あれ? 光、もう学校行くの?」
まだ、朝ご飯も食べていないのに。
「いらない」
それだけ答えると、光は暗い面持ちのまま玄関に向かい、行ってきますも言わずに外に出て行った。
私とお母さんと、目を合わすことすらしなかった。
光がアパートの階段を下りる音が、カンカンカン……と遠ざかっていく。
「光、今日も元気ないね」
光はこのところ、ずっと暗い顔をしている。それに、ことあるごとに私やお母さんに反抗していて、光が家にいるときはいつも重苦しい空気が漂っていた。
「学校で、友達とうまくいってないらしいの。あの子あの身体だから、どうしてもクラスメイトと同じように行動できなくて、それを不満に思っている子がいるみたいで……」
光が出て行った玄関扉を哀しげに見つめながら、お母さんが言う。
「そうだったんだ……」
重度喘息の光は、体育に参加できない。放課後友達と走り回ることもできないし、遠足にも行けない。前のクラスでは、それでもうまくやってたみたいだけど、今回は違うらしい。
クラスによって纏う雰囲気が違うことは、私もよく知っている。
「それに、病院のお友達とも、うまくいってないみたい」
「病院のお友達って、さっちゃんのこと?」
さっちゃんは、おそらく、光と同じ重度喘息の子供だ。入院中は光の支えになってくれたし、退院後も、定期受診の際によく会ってたみたい。
お母さんは、重い表情で頷いた。
「学校でうまくいってなくてもさっちゃんがいるから、って気持ちが、あの子の中にはあったと思うの。だけど両方いっぺんに失ったから、苦しんでるんだと思うわ」
病は、心までをも蝕む。
悪性リンパ腫だったお父さんもそうだった。
愚痴ひとつ吐かない気丈な人だったのに、晩年、やりきれない表情で項垂れている姿を何度も見た。
そのたびに私はお父さんに元気を取り戻してもらおうと、明るく振る舞った。だけどお父さんは、力なく笑うだけだった。
病気の苦しみは、当人にしか分からない。
光は、病と、孤独と、寂しさと、苦しみを抱えている。
それは、あの小さな体が抱え込むには、あまりにも多すぎる。
どうやったら、弟を救えるだろう。
いつまで経ってもその答えを見いだせないでいることが、歯がゆかった。