今日は律華ねぇが「この映画見に行くわよ。だから土曜日、空けときなさいね」と誘って?くれて、映画館に来た。
 始まりまで、まだ時間があるから併設しているデパートに行こうってなったのだけれど・・・。
「居ない・・」
  苦々しく呻きながら、辺りをキョロキョロと見渡す私。
 十中八九と言って良いほど、律華ねぇと出かけるとこうなる。
 少しでも、本当に一瞬でも目を離してしまったら、自由気ままな彼女を探し回るルートに入り込んでしまうのだ。
 私は「あぁ、やっちゃったよ」と思いながら小さく舌を打ち、ポケットに入っているスマホを取り出して、律華ねぇのアイコンを押して電話をかけた。ぷるるるっと電子音が鳴り、彼女のスマホに繋いでくれているが。何回かコールが続いた後に、私のスマホは彼女のスマホに「お繋ぎ出来ません」と一蹴されてしまった。
 出ないだろうなとは思っていたけれど、案の定で渋面を作ってしまう。
 本当に律華ねぇは・・・。
 はぁと嘆息し、どうしたもんかと私はその場で腕を組んだ。
 律華ねぇを探しに行くべきか。それとも、この辺りで律華ねぇを待ちながらプラプラするか・・・。
 うーん、後者だな。映画が始まる時間までに、映画館に行けば絶対会えるから、今探す必要はないもんね。
 私は律華ねぇにメッセージを入れてから「よしっ」と、くるっと勢いよくターンした。
 その時だ。唐突に動き出した私のせいで、後ろから来ていた男の人とドンッとぶつかってしまう。お互い「わっ」と小さく驚き、男の人に至っては手荷物を落としてしまった。
「あ、すみませんっ!」
 私は慌てて屈み、男の人が落とした手荷物を急いで拾いあげる。
 男の人は「ありがとうございます。こちらこそすみません」と、私から手荷物を受け取りながら、低心頭に謝った。
 見た目からして、二十代前半だろうと思うけれど。彼のオーラが、とても二十代前半で生み出せる様なものではない。とても落ち着き払っていて、柔らかな微笑が大人を感じさせた。
「僕の不注意でした。本当にすみません」
「い、いえ。私が唐突に動いたせいですから、こちらが、悪いです」
 彼の柔らかな言葉に、私はギクシャクとしながら返してしまう。
 彼の大人びた雰囲気が、私の余裕を削り取り、ドキドキと全身が緊張で強張ってしまったのだ。
 もっとうまく取り繕わないと!と、内心で泡を食ってしまうが。私の緊張は薄れない。それどころか、緊張に堅く縛られすぎて意識が遠のき、クラッとしてしまう。
 そうそう、クラッとしちゃうの。って、あれ。ま、待って?これ、本当に意識が遠のいてきていない・・・?
 自分から意識が乖離していくと感じると、急速に異変が起こり始めた。
 突然私の視界がぐにゃりと不自然に歪み、足の力がフッと消える。たたらを踏んでいる事すらも自分では分からず、何もかもが朧気だった。
 この人の魅惑で倒れそうって事?そ、そんな事あり得る?清黒さんとか桔梗さんを前にした時も、大分ヤバかったけれど。私、倒れなかったのに。この人の魅惑は、そこまで強かったって事・・?
 混濁する意識の中、そんな馬鹿みたいな事を考えていると。未だに正常で動いてくれている耳が、目の前の人の声を拾った。
「あっ、大丈夫ですか?!と、取り敢えず、こちらに運びますよ?」
「おい、クサい芝居続けんなよ。さっさと連れて行こうぜ、大黒司の当主様が首を長くして待ってんだからよ」
 柔らかな声に答えたのは、誰か別の人の声だった。刺々しくて、荒々しい男性の声。
 もう一人、後ろに居たの?分からなかった、気がつかなかった。
 それに、今、大黒司のご当主って。大黒司って、確か・・・。
 必死に考えようとしたが、遂に意識が持たず、全てが黒に塗りつぶされてしまった。唐突に襲ってきた闇に、私は抗えなかったのだ。
・・・
 飛んでいた意識が体にぶつかり、私はその衝撃でハッと慌てて体を起こした。
 そして目が平然と映し出す光景に、私は戦慄する。
「ここ、どこ・・・?」
 全く見覚えの無い和室に、私は恐怖と驚きが綯い交ぜになった言葉を吐き出した。
 こんな広々且つ楚々とした日本美がある和室で、落ち着きを覚えないなんてどうかしているとしか思えない。否、どうかしているのだ。
 私はデパートに居たはずなのに、こんな見覚えの無い所に居るんだから。
 唯一安堵すべき点は、服が乱れてもなく、変わってもいなかった事だけだ。他は何も安心出来ない!
 どこだろうと必死に考えていると、ボスッと何かが布団に転がり落ちる音がした。
 その音にハッと目を落とすと、私のスマホがジーンズのポケットから飛び出していた。
 取り上げられていなかったんだ!とホッとし、藁にすがり付く様にバッと拾い上げて見るが。スマホの電波表示は残酷にも「圏外」だった。隣のWi-Fiの表示も消えているし、位置情報も取得出来ないと弾かれてしまう。
 スマホを持っていた所で、何の助けにもならないガラクタだと分かってしまうと、とてつもない絶望感が襲ってきた。
 あぁ、最悪!どうしよう!
 スマホが繋がらないとなると助けも呼べないし、ここがどこかも分からない。場所の手がかりは、電波も繋がらない様な辺鄙な所なのだろうと言う事だけ。でも、そんなのかなりアバウトだし、手がかりなんて呼べたものじゃない。
 大きな絶望に打ちのめされそうになるが。私はぶんぶんっと頭を強く振った。
 今は、ここがどこかなんて考えない方が良い!
 まずは行動あるのみ!と言う事で、逃げよう!例え辺鄙な所でも、誰かしらに会えば状況は良くなるはずだもの!ここに居続けるよりはマシなはず!
 うんっと力強く頷き、パッと寝かされていた布団から飛び出し、障子に手をかけた刹那。
「おや、お目覚めでしたか」
 恭しい声が後ろから聞こえ、バッとその声の方を向く。
 後ろの襖を開けて入って来たのは、かっちりとした濃紺の着物に身を包んだ気難しそうなお爺さんだ。そして私をここに連れてきたであろう、あの大人びた青年も半歩後ろに控えている。
 私はキュッと唇を結んでから「私を姉の場所に帰して下さい」と、精一杯の虚勢を張った。
「どういうつもりでこんな所に拉致したのかは分かりませんけど、こんなの立派な犯罪ですよ」
 キッと睨みつけながら告げると、お爺さんは皺が寄った顔を更にくしゃりとさせ「いやはや、申し訳ない」と、諂う様に答える。
 とても物腰柔らかな態度なのは、私に掴んでいる剣を収めさせたいのだろう。
 でも、私は剣を抜いたままだ。収めるつもりは一切無い。
 当然でしょ。笑顔を浮かべていながらも、平然と拉致する様な人間に対して「危ない人じゃない」なんて思える訳がない。
 この笑顔は危険と、警戒心がドンドンと高まっていくだけだ。
「孫には手荒に連れてくるな、と言っていたんですがねぇ」
 お爺さんは薄ら笑みを浮かべながら、チラと孫と呼んだ彼を一瞥すると。彼はキュッと眉根を寄せて「申し訳なかったです」と、私に薄っぺらい謝罪を口にした。
 そして「ほら、蛇豸《じゃち》も謝って」と彼が私に向かって言う。
 蛇豸?と眉根を寄せた、その時だった。
 突然私の横からシューッと蛇が舌を鳴らす様な音がし、ゾクッとする恐怖が襲ってくる。
 バッと体を翻し、私はその場から慌てて距離を取った。
 するとそこには、いつの間にか、大きな黒い蛇が鎮座していた。いや、蛇の様で蛇ではない。大きくて逞しい黒色の翼が、背中からしっかりと生えているから、蛇の特徴を持っている、別の何かだ。
 さっきまで居なかったのは勿論だけれど。何かが動く様な気配も、迫ってくる気配もしなかったのに。
 ゾクリと全身が粟立ち、恐怖に染まった瞳でその蛇を見つめてしまう。
 鎌首をもたげ、長細い舌をチロチロと出し入れして遊んでいるのは、私の恐怖を嘲笑っているのか。真っ赤で縦長の瞳孔をニヤリと横に細めているのは、私の恐怖を喜んでいるのか・・・。
 ゴクリと唾を飲み込み、恐怖で竦む体に勇気を一欠片送り込む。
 その瞬間だった。
「馬鹿な事を言うんじゃねぇよ、怜人《れいと》。この女《あま》は玉陽の巫女だぜ?」
 意識を失う最後に聞いた声が、蛇から発せられる。
 私はその声に目を見開くが。「だからか」と、目の前の蛇に翼がある事に納得する。
 この蛇は式神だ、桔梗さんや牙琥と一緒。だから喋れるし、普通じゃない蛇の形をしているんだ。
 でも、桔梗さんや牙琥には、こんな恐ろしさは無かった。身の危険を感じる様な物は一切与えられなかった。
 この式神は、あの二人とは違う。とても、とても恐ろしい・・。
 冷たい恐怖に犯され、私の足がジリジリと二、三歩後退する。
 するとお爺さんがそれを見逃さず、ハッハッと野太く笑い「安心しなさい、玉陽の巫女」と言った。
「コイツを恐れる必要はありません。見てくれは確かに恐ろしいが、貴女に危害を与える事は絶対にありませんよ。ええ、ええ。そんな事は万に一つも無い。貴女は私共にとって、丁重に扱うべき美しい花ですからなぁ」
 朗らかな笑みで宥められるが、私はニコリとも出来ない。
 危害を与える事は絶対にない?じゃあ、この状態に陥った事はなんて言うの?
 この人達にとっては、私の意識を奪い、黙ってここに連れて来たのは「危害」ではないと言う事なの?
 信じられないと、私の中で敵意と言う剣を握る手が強くなる。
 だが、その瞬間。お爺さんが「あぁ、そう言えば名乗っておりませんでしたな」と、唐突に切り出してきた。
 私が強張っているのは「知らない人」を相手にしているからだ。と、でも思ったのかな。私の警戒がそんな所から来ている訳ないのに。
「私は大黒司家三十八代目当主大黒司崇人《だいこくしたかひと》と申します。よろしくお願い致しますなぁ」
「僕は、分家大黒司家の人間で怜人と申します。玉陽の巫女、貴女に会えて光栄です。そこに居るのは、僕の相棒です。十二天将の一人、騰蛇《とうだ》の蛇豸です。かなり口は悪いですが、根は良い奴ですから。安心して下さい」
 怜人と名乗った人は、蛇豸と言う恐ろしい式神の事も紹介し、私に蠱惑的な笑みで「よろしくお願いします」と言ってきた。
 彼の事を「とても落ち着いた人柄で、優しい笑顔を称えた好青年」と、捉えた第一印象が大きく覆る。いや、覆ると言う表現は適切じゃなかった。私は思い知ったのだ。
 彼は「とても食えない青年」だと言う事を。落ち着いた雰囲気は、相手を油断させる為の気体化された毒。柔らかな微笑は、相手に感情を読み取らせない為の冷ややかな作り笑い。
 悪を悪と感じさせない恐ろしさは、まっすぐな邪悪よりも恐ろしいと痛感する。
 私はキュッと拳を作ってから「鏡番の方々、ですね?」と言った。
 崇人さんは「おお、そうです。そうです。嬉しいですなぁ、我々を知って下さっているとは」と、手を揉みながら喜色を浮かべる。
「良かった、良かった。それなら話が早そうですな」
 恭しい口調ながらも不穏めいた単語に、私は怪訝を露わにして「話?」と反応した。
「何の話ですか」
 つっけんどんに尋ねると、崇人さんは「そう構えなさるな」とカラカラと笑う。
「何も悪い話ではない。端的に申し上げますと、我が大黒司家にお入り下さいと言う事ですよ」
 にこやかに告げられた話に、私は「入る?」と思い切り首を傾げた。
「どういう事ですか?」
「なぁに、我が家の保護下で暮らして頂きたいと言う簡単な話ですよ。いかんせん、貴女の力を狙っている者はとても多い。それらが全て弱ければ簡単に排除出来ますが、中には強い力を持った者も居る。それでは同等の強さを持った守りを側に置かないと、貴女の安全が確保されないでしょう?となると、やはり貴女を完璧に守れるのは我が家だけと言う事になるのですよ」
「大丈夫です」
 まだだらだらと話が続きそうだったが。一区切りした段階を見計らって、私はバッサリと申し出を拒否した。強い意志を見せつける様にピンと背筋を伸ばして、まっすぐ相手と対峙する。
「ご心配ありがとうございます。でも本当に大丈夫です、必要ありません。今までずっと普通に、平和に生きていられましたから。ここに連れ去られたのが初めての危険だったので、何も問題ないかと思います」
 艶然としながらも、最後にパンチを効かせた皮肉を放ってやると。崇人さんの眉間の皺がピクッと不自然に強張った。
 けれど、小娘の付け焼き刃で壊せる程その鉄仮面は脆くなく、すぐにまた嘘くさい笑みに戻り「必要ない、とは言えませんなぁ」と、白々しく吐き出してくる。
「今の貴女を守っているのは、あの清黒の若僧でしょう?アレはですねぇ、鏡番に向いていない奴なのですよ。未熟で突出した力もない。叔母の五十鈴と違って、アレは弱い。本当にダメな奴ですからな、貴女の守りが完璧とは言えないのです。虚を突かれ、貴女の身が危険に晒される事になるのは目に見えていますよ」
 つらつらと流されたのは、思いがけない悪口だった。
 あまりにも唐突な悪口だったと言うのもあるけれど。全く訳が分からなくて、点々としてしまう。そう、文字通り点々と。
 そんな私の前で、崇人さんはへつらいながら流暢に言葉を続けた。
「力のない弱者が力のある強者に敵うと思いますかな?適切な守護者を置かないと、ただただ貴女の御身が危険に晒されるだけですよ。何か起こった後では遅い、何か起きる前に正しい手を打たねば。何か起きてしまえば、手の打ちようがなくなってしまう事だってあるのですからね。あちらの世界に連れ去られでもしたら、貴女も我々も終わりですよ?ですから、適切な守護者を置かねばならないのです。いいですか、玉陽の巫女。私の言葉は、全て貴女の為を思っての事です」
 貴女は聡明なお嬢さんに見えますから、理解出来ましょう?と、ニヤリと下卑た笑みで怜人さんを振り返った。
「怜人ほど、貴女の守りを務めるに申し分ない人間はいませんよ。えぇ、えぇ。我が家では十二天将を四人、他多数の精鋭達を抱えておりますが。怜人はその中でも、一番の実力者でしてな。怜人だけではなく、蛇豸も十二天将のナンバーツーに匹敵する力がある。ですから、怜人と蛇豸に守りを任せておけば、不測の事態なんて馬鹿みたいな事は起きんのですよ」
 意地悪な笑みを受けた怜人さんが、爽やかな笑みを称えながらスッと私の方に進み出る。
「僕達が貴女を必ずお守りしますよ。僕達、紲君よりは力になるはずです」
 彼がニコリと目を細めると、崇人さんがその答えを強調する様に「その通り!」と叫んだ。
「怜人はあの若僧よりも力になる!私が保証しますよ!清黒の若僧は、周りに祭り上げられただけの無能!清黒は落ちた所まで落ちたと思ったが、アレを見るとまだ下があったと思う程だ」
 私への媚びを忘れ、自身が抱く清黒さんへの憎悪を剥き出しにする崇人さん。
 そしてそんな崇人さんを止める事も窘める事もせず、怜人さんは「紲君は紲君なりに頑張っているよ」と上から目線の一言を口にするだけだった。何の感情も読み取れぬ、食えない笑みで。
 何故、彼等がこうも清黒さんを罵っているのかが分からない。清黒さんはこんな風に言われる人じゃないのに。
 だって、彼は私の意志を汲み、この世界に無理やり引き入れなかった。彼は、私の思いを尊重して、平和な世界に行かせてくれた。本当はそんな風にさせたくないだろうに、私のわがままを許してくれているのだ。
 そればかりか、私が危険な時に真っ先に駆けつけてくれた。助けてくれた後は何事もなかった様に、元の世界に戻らせてくれた。
 そんな人が無能な訳があるか。無力な訳があるか。
 私の中で、段々と怒りが滾ってきた。
 こんな人達が、清黒さんの事を悪く言う資格は一切ない。て言うか、この人達が清黒さんの悪く言うなんて論外。
 清黒さんは、私の意識を失わせて、助けも呼べない辺鄙な所に攫うなんてしなかったから。他人をとことん見下して自分の株を上げようなんてしなかったから。
 そう、だから私からしてみれば彼等の方が「無能」だ。人を思いやる脳がないし、人を正しく見る事も出来ないんだから。
「返答に困る必要はありませんよ、玉陽の巫女」
 崇人さんが恭しく言うと、怜人さんが私の方に歩み寄り、サッと手を差し伸べてきた。
「僕達が命がけで貴女をお守りしますから、どうかこの手を取っていただけませんか?」
 まるでおとぎ話のワンシーン。王子が大切なお姫様を守る事を誓って、手を差し伸べるなんて。お姫様はそんな王子様にキュンとときめくんだろう。
 でも、私はお姫様じゃない。よしんば私がお姫様であっても、この王子様の手は絶対に取らない。こんな王子様にキュンとときめく事なんて、もっとない。
 私は目の前の怜人さんを怒りの孕んだ目で睨みつけ、「取りません」とけんもほろろに答えた。
「絶対に嫌です」
 私の答えに、怜人さんは「嫌われちゃったなぁ」とおどけて答えるが。崇人さんは信じられないと言わんばかりに「馬鹿を言わんでくれ!」と怒声を張り上げた。
 けれど私も怒りに染まっているから「言っていません」と、冷淡にぴしゃりとはねのける。
「色々とお話を聞いた上で、冷静に判断して言っています」
 私の冷徹な一言に、崇人さんの顔に朱が注がれ始めた。仮面がボロボロと崩れ、本性と言う名の素顔が見えてくる。
「生意気を言うな、小娘!我が家の力が一番相応しいと言う、簡単な事が分からんのか?!自分の身が危険に晒されても良いと言う事か?!」
 あれほど、聡明なお嬢さんだなんだとへつらっていたのに。こうも居丈高に怒鳴り散らすなんて。
 豹変ってこういう事かぁ。なんて、内心で小さく笑みを零してしまった。
「貴方方に守られなくても大丈夫です。私を危険から守ってくれる人は他に居ますから」
 無自覚に口角が緩み、声も朗らかに弾んでしまう。内心で留めたつもりの笑みが、表にも現れてしまったみたいだ。
 目の前の崇人さんの顔がどんどん怒りに歪み、激昂の準備に移っていく。
 こう言うタイプの人が激昂したら、何をしでかすか分からない。怜人さんの事も警戒しつつ、逃げ道に飛び込める様にしておかないと。
 私がパッと一瞬で部屋を見渡すと同時に、激怒が到来した。
「彼女がそこまで言っているのですから、素直に手を引くべきではありませんか?」
 スパンッと横の襖が勢いよく開かれると、清黒さんと桔梗さんが現れた。
 突然の来訪者に、私は唖然と彼等に釘付けになってしまうけれど。清黒さんは私を一瞥する事もなく、静かな激怒で大黒司の二人を睨んでいた。桔梗さんも蛇豸を睨みつけ、火花を散らしている。
 けれど、大黒司の人達はその怒りをものともしていなかった。崇人さんは「貴様等!」と吠え、怜人さんは「わぁ紲君、随分早かったねぇ」と飄々とした賞賛を送る。
「何の連絡も寄越さず、我が大黒司本家の敷地を貴様等如きが踏んで良いと思っているのか?!とんと無礼な若僧だ!さっさと出て行け!」
「確かに、その点については詫びを入れましょう。しかし俺達の無礼は無礼だと喚き立てる程じゃないはずですよ、崇人さん。貴方の方が無礼、いや、非礼を働いていると思いませんか?何らこの世界に関わりない一般の女性を、しかも未成年の高校生を勝手に攫い、挙げ句家で囲おうとしたんですから」
「この世界に関わりない一般の女性だと?!馬鹿を言うな、この娘子は玉陽の巫女なのだぞ!魁魔がこぞって狙う、伝説の力を持つ娘子だ!我々が守るべき宝だ!」
「だからと言って、こんな事をして良いとはなりませんよ。彼女の意志を無視して、自分の話を強要する事も良い行いだとは到底思えませんね」
 淡々と言葉を突き詰める清黒さんに対して、怒声を張り上げるばかりの崇人さん。色の違う激怒は互いに一歩も退く事なく、激しくぶつかり合った。
「こんな事をさせたのは、お前のせいだと言うのが分からんか!お前が甘い事をしているせいで、魁魔の手が彼女に伸び続けているのだぞ!それだからワシが貴様の代わりに最善の手を打ってやっているのだ!お前が頼りない弱者だから、このワシが直々に舵を切ってやっているのだ!そんな事も分からんのか、愚か者めが!」
「貴方に言われるまでもなく、自身の力量不足は理解しています。ですから、俺では手が届かない所を叔母上や他の方々に頼んで対応していただいている。良いですか、崇人さん。俺達は、彼女をただの女子高生で留める為に動いているのですよ。なので、貴方が勝手にしゃしゃり出て来て、勝手にとんちんかんな舵を切られてもこちらが困ります」
「生意気を言い続けるのも大概にせんか、若僧が!誰に向かって物を申しているのだ!」
 崇人さんが、唾を盛大に撒き散らしながら今日一番の怒声を張り上げた。大きな牙で、清黒さんに容赦なく噛みつく。
 だが、その大きな牙は相手に食らいつく前にバキッと折れた。「それはこちらの台詞だ」と言う、物々しい声によって。
「俺に対して、随分と口が過ぎているとは思わないか?俺がどの立場に立っているのか、アンタが知らない訳ないだろう」
 清黒さんの丁寧な口調が、がらりと変わった。だが、変わったのは口調だけでない。込められている圧も、声音も、態度も、全てのスイッチがバチッと切り替わった。
 その瞬間、崇人さんは怒りに震えながらも苦々しく顔を歪める。何か思い当たる節があるのか、悔しそうな眼差しで彼を射抜くばかりで何も言い返さなかった。あれほど怒り狂っていたのに、潮騒がサーッと引いていく様に沈静化されていく。
 私は、この状況に愕然とした。
 崇人さんなら、あんな言葉を言われたら余計に怒ると思ったのに。怒りもせずに、言い返しもしないなんて・・・。
 どうしてだろう?と不思議に思っていると、清黒さんからその訳が明かされる。
「俺が今の鏡番総統であり、主三家の宗主だぞ。そろそろ、いい加減にしてもらおうか」
 鏡番総統で、主三家の宗主って事は・・・清黒さんが、鏡番の人間で一番偉い人って事だ!だから崇人さんも牙を収めて、黙るしかなかったんだ!
 彼の一言で全て理解する。そして戦慄にも近い感情を抱き、彼の凄さを痛感した。
 清黒さんが鏡番の一番上に立つ存在だったなんて・・・。
 私は愕然としてしまうが、清黒さんは話の流れを止めずに「良いか」と続けた。
「彼女、神森叶架さんを二度と拉致するな。こうして自家で囲い、所有物の様に扱う事も許さない。これは忠告ではなく、現主三家宗主・鏡番総統清黒紲からの直々の命だ。分かったな?俺の命に従えないと言うのなら、大黒司家の当主だろうが、先代宗主だろうが関係無い。厳罰に処す」
 今回俺が受け付けるのは彼女への謝罪のみだ。と、崇人さんを底冷えした眼差しで貫きながら、物々しく告げる。
 崇人さんは「クソガキがぁ」と苦々しく呻き、憤懣とするが。数分後には「畏まりました、謹んでお受け致します」と忌々しそうに答えていた。明らかに不承不承の降参と言うのが分かる。
 清黒さんはその答えを聞くと、一人飄々としている怜人さんに視線を移した。
「貴方も従ってもらいますからね、怜人さん」
 再び物腰柔らかな口調に戻し、怜人さんに投げかける。怜人さんは「勿論」と、蠱惑的に微笑んだ。
「喜んで従うよ?宗主様からの命は最優先すべきものだし、従わないと言う選択はないからね」
 清黒さんを安心させる様に朗らかに答えるが、やはり彼の笑みは腹の内が読めない。
 清黒さんもそれをよく分かっているのだろう。「信用して良いのか?」と言わんばかりの胡乱げな眼差しで、彼を射抜いていた。
 そうして怜人さんを図った結果、彼は「ありがとうございます」と一礼する。
「では、今後この様な事をなさらない様に」
 ぐぬぬと歯がみしている崇人さん、食えない笑みを浮かべている怜人さん、「だっせぇ」と嘲笑を零している蛇豸を順に見てから、彼は最後に私を見据えた。
「戻るぞ」
 温かな微笑を浮かべ、彼は手を差し伸べる。
 それを見た瞬間、私の中で一気にそれぞれの感情が動き回った。これを言葉で現すのはあまりにも難しい。それぞれがガツガツと主張し合いながら私の中を生きているから、ピタリと当てはまる物が分からない。
 嬉しい?こそばゆい?温かい?幸せ?・・・ううん、今は「どれだろう」とか考えなくてもいいよね。今はただ、清黒さんの手を取れば良いんだ。
「はい!」
 タタタッと小走りで彼の元に駆ける。
 そして私の手がしっかりと彼の手に受け止められた。
 その刹那、私の心の中でパアッと一つの花が咲く。綯い交ぜになった感情も、一つ一つの花びらとなり、その花を際立てる。
 複雑だとか、言葉にするには難しいとか思っていたけれど。単純明白な答えだ。何も複雑なんかじゃない、言葉にするのも難しくない。
 私は、彼が好きだ。
 清黒紲さんが、好きだ。