死に戻り悪霊妃は、後宮で〈連理の姫〉を探す

 人目を避けて小径を歩いていると、前方に小ぶりな堂舎が見えてきた。上手い具合に庭には洗濯物が干されている。
 詩夏はそっと庭に忍び込み、乾いた襦裙を失敬した。何度も水をくぐったのか、生地は薄くなり所々ほつれているものの、血塗れの襦裙よりは有難い。
 そうして、着ていた襦裙を物陰に隠していたとき。
「香麗様⁉︎」
 驚いたような叫び声が背後から聞こえて、詩夏は凍り付いた。
 バッと振り向くと、薄青の襦裙を纏った少女が目を丸くして詩夏を見つめている。
「本当に心配していましたのよ! もう二日もお戻りにならないで……どこで何をされていたのです?」
 くりくりした瞳を潤ませて駆け寄ってくる。詩夏は「えぇっと」と呟いた。
 この少女なら、状況を教えてくれそうだ。
「ご、ごめんなさい。私、記憶がなくて……一体、私は誰だったかしら?」
 ぱちくり、と少女が目を瞬かせる。一拍置いて、庭に悲鳴が響き渡った。
 ——状況を整理すると。
 詩夏が死んでから、十七年経っていた。そのうちに皇帝は代わり、けれど珠蘭は相変わらず、国母として政を掌握しようとしているらしい。
 詩夏の体の主は(てい)香麗(こうれい)という。十八歳。元は巫女だったが、金目当ての両親に後宮へ売られた。位は才人。女官ではないものの最下級妃だ。大した後ろ盾があるわけでもなく、後宮の片隅で漠然と日々を送っていたらしい。
「ですから、与えられた堂舎もこの翠明宮一つで、私以外の女官はきちんと働きません。香麗様の着るものだって、満足にご用意できませんし」
 堂舎の入り口へ向かいながら、少女——鈴々がため息をついた。
「翠明宮……」
 袖のほつれを引っ張り、詩夏は堂舎を仰ぐ。くすんだ白壁には蔦が這い、屋根に葺かれた瑠璃瓦はひび割れている。
(ここ、前に私が住んでいた宮だ。随分うらぶれてしまっているけれど)
 詩夏が香麗に呼ばれたのは、そういう縁もあったのかもしれない。
 翠明宮に入ってすぐ、甲高い笑い声が耳を打って詩夏は足を止めた。
 見ると、入り口近くの室で女官二人がかしましく喋っている。一応主であるはずの香麗が帰ったにもかかわらず、気付く様子もない。
「お二人とも! 香麗様のお帰りですよ」
 鈴々が苦々しく言って、やっと二人はこちらを向いた。
「あら? 顔だけが取り柄の平民妃が帰ってきたの。良かったわねえ、鈴々。あんた、犬みたいに付いて回っていたものね」
「そりゃそうよね。鈴々は孤児だもの。卑しい巫女の最下級妃でも、取り入っておかないと行き場が無くなってしまうわよねえ」
 唇の端を曲げて、嫌な笑い声を立てる。鈴々がカッと赤くなって、視線を床に落とした。掃除する余裕がないのだろう、(レンガ)の敷き詰められた床は、土埃で汚れていた。
「——お黙りなさい」
 声をあげたのは反射だった。それにしても、香麗は声まで綺麗だな、としみじみ思う。
「私の女官に向かってなんという口をきくのです」
 キッと女官二人を睨み付ける。二人の顔が驚愕に染まった。鈴々もぽかんと口を開けている。たぶん、香麗は今までこんな風に反抗したことはなかったのだろう。
 でも詩夏は知っている。後宮は舐められたら終わり。横柄な女官をのさばらせておくと統率力が無いと見なされて他の妃嬪にも馬鹿にされる。
 それに何より。
 鈴々が香麗を心配してくれた気持ちは、本当だったと思う。庭で駆け寄ってきたときの、あの泣きそうな顔は嘘には見えなかった。
 香麗を侮辱されるのも気分が悪かった。やり方は詩夏にはいい迷惑だが、一人で死に立ち向かって、それでも願いを託せるような少女を侮るな、と胸がひりつく。
(——なんて言って、生きている間はこんなこと絶対にできなかったけれど)
 女官たちの方へ一歩踏み出す。ぎろりと睨むと、二人は気圧されたように視線を逸らす。新鮮な感覚だった。やはり美しいというのはそれだけで力なのだ、と納得する。
「二人とも、もう翠明宮には来なくて構いません。さぞ引く手数多なのでしょう? どこへなりともお行きなさい」
 出口を顎で指して、まごつく女官たちに「早くしなさい」と付け足す。二人は悔しげに顔を見合わせると、そそくさと出口へ向かった。
「……ふんっ、何が妃よ。主上の御渡りもない後宮じゃ、せっかくの顔も無意味だわ」
 鈴々が眉を吊り上げる。どうどうと宥めているうちに、二人は翠明宮から立ち去った。
 それにしても、主上の御渡りが無いのは参った。
 夜。花窓から届く虫の声を聞きながら、詩夏は一人、牀榻に座って考え込んでいた。
 蓮月国の後宮は、連理の姫を探すために営まれているのだ。
『天には比翼の君、地には連理の姫。さすれば古の神との誓約の下、国は整い、豊穣が齎される——』
 それが蓮月国の創生譚に伝わる一節である。
 実際、初代皇帝は連理の姫と出会い、力を合わせて蓮月国を興したという。
 それ以降も蓮月国には連理の姫が現れ、当代皇帝に嫁ぎ、国を栄えさせている。
 連理の姫の証はただ一つ——体の一部に比翼の印と呼ばれる痣が顕れること。
 先帝の連理の姫である珠蘭の手の甲に刻まれていたのもこれだ。形はまちまちだが、確かにそれと分かるような紋様がはっきりと浮かぶのだ。
 連理の姫を探すために、国中から後宮に娘を集める。そして連理の姫が見つかれば、後宮は解散。皇帝は唯一の妃を大切に慈しみ、手を携えて国を支えていくのだとか。
 もっとも、先帝のように連理の姫が見つかった後も後宮を維持する好色な皇帝がいないわけではない。皇帝の血統を保つため、となんとでも理由は付けられる。
(そういえば、珠蘭様には子供がいなかったわね)
 だから先帝は様々な妃嬪との間に皇子を作り、後宮は殺伐としていたのだ。
(今の主上は誰なのか調べておかないと)
 詩夏の知っている限り、先帝の皇子は七人。たぶん、一番目か二番目の皇子が践祚したのだろう。
 ふ、と懐かしさとともに七番目の皇子の顔が思い浮かぶ。彼は何をしているだろうか。兄を補佐する任についているのか、政から離れて穏やかな日々を送っているのか。後者がいい。
 釣り燈籠の明かりが、殺風景な室内を照らし出す。詩夏は弾みを付けて牀榻から下り、周囲を見渡した。
(香麗は他にも何か残しているかもしれない。探してみよう)
 卓の抽斗を全部開け、櫃をひっくり返し——牀榻の下を覗き込んだところで、それを見つけた。
「私の瑶琴だ……翠明宮に残っていたのね」
 (あおぎり)でできた台座に、七本の弦が張られた瑶琴。他の妃嬪に与えられた瑶琴と異なり、なんの装飾も無かったが、詩夏はこれが好きだった。詩夏には美貌も無いし、体付きもごく普通だったが、琴だけは得意だったのだ。聞いてくれたのは七番目の皇子くらいだったけれど。
 すっと手を伸ばし、弦を弾く。そのまま一曲奏でた。香麗も弾いていたのか、よく手入れされていて、昔と変わらない音の響きだった。
 と、扉の向こうでバタバタと足音がしたかと思うと、勢いよく鈴々が室に飛び込んできた。
「香麗様! 何をされているのです⁉︎」
 鈴々の声は鋭い。詩夏はヒャッと首を縮めた。
「ご、ごめんなさい。うるさかったかしら。ちょっと弾いてみたくなって……」
「そうではなくて、以前にも香麗様はその瑶琴をお弾きになっていたんです。でもその後、もう絶対に弾かない、と話されていたものですから」
「そ、そうだったの。でもどうして?」
「そこまでは。でも、私にも気安く触れてはならない、とお命じになられましたよ。……その翌日に、香麗様は姿を消され、記憶喪失になって帰ってきました。もしかすると、呪いの瑶琴なのかも……」
 鈴々が不気味そうに瑶琴を見下ろす。詩夏は苦笑した。確かに死者が愛用していた瑶琴だから縁起は悪いかもしれない。
「そういうことなら、弾くのは止めておきましょう」
 詩夏の言葉に、鈴々はホッとしたようだった。一緒に瑶琴をしまい、おやすみを言い合って眠りにつく。それでお終いのはずだった。
 ——しかし、確かに詩夏の瑶琴は事件を招く。
 次の日の夕方、血相を変えた鈴々が、掃き掃除をしていた詩夏の元へ駆け込んできた。
「香麗様! 今宵、主上が翠明宮に御渡りになります!」
「……へ?」
 主上を出迎えるには細々とした決まりがあって、鈴々は力を尽くして翠明宮を綺麗にし、香麗の世話を焼いてくれた。
「これで大丈夫です! 香麗様はお美しいですから、絹の白襦袢だけでも映えますわ!」
 寝室の鏡の前で詩夏の髪を梳っていた鈴々が言う。詩夏は曖昧に頷いた。
 鏡に映る香麗は、簡素な化粧に下ろし髪、纏うのは薄絹の白襦袢一枚だというのに恐ろしく可憐だ。確かに、微笑むだけでどんな男も落とせそうなほど。
 けれど内心、詩夏は頭を抱えていた。
(御渡りとは無縁だったから、房中術なんて全部忘れたわ! どうやって出迎えるんだったっけ⁉︎ 何か挨拶するんだったかしら?)
 鈴々に聞くわけにもいかない。大体、急な御渡りだったから今までろくに話す暇も無かった。
 詩夏の髪の先まで椿油を塗り終えると、鈴々は慌ただしく一礼した。
「それでは私はこれで失礼しますね。頑張ってください!」
「ああっ、待っ……」
 無情にも扉が閉まる。寝室に取り残された詩夏は、一人呆然と立ち尽くした。
 しかし、自失する暇もあらばこそ。すぐに足音が聞こえてきて、詩夏はとりあえずその場に膝をついて拱手する。
(ええい、これだけ美少女なら不興を買っても殺されることはないに決まってる! 雪花姉様だってそうだったんだから!)
 やがて、頭を垂れた詩夏の頭上で、ゆっくりと扉の開く音がした。
 誰かが寝室に入ってきた。女にはあり得ない、重い足音が夜気を揺らす。
 視界の端に、長袍の裾がひらめく。絹の靴の爪先が裾から覗いていた。
「——面を上げよ」
 低い声だった。聞き覚えはない。
 詩夏は恐る恐る顔を上げる。それから悲鳴を噛み殺した。
 詩夏を見下ろすのは白皙の美貌の男。皇帝にしか許されない紫色の袍を着こなし、漆黒の袴を履いている。
 形の良い眉の下、詩夏に向けられる切れ長の瞳は菫色で、鋭い光が宿る。薄い唇は何かを堪えるように噛み締められていた。
 長い黒髪は無造作に背に流され、乱れた幾筋かが頬にかかっている。だが男はそんなこと気にも留めていないようだった。
 詩夏には見覚えがある。正確には、彼の幼い頃を知っている。
 ——かつて詩夏に懐いていた、七番目の皇子。
 男は色の失せた唇を開き、確信を持った口調で言った。
「……詩夏姐、だな。俺のことは、覚えているか」
 詩夏の喉がごくりと鳴る。とっさに首を横に振る。
 その男は、名を憂炎(ゆうえん)といった。
 詩夏がまだ蔡詩夏として生きていた頃——。
 ある日、翠明宮の外にガリガリに痩せ細った子供が倒れていた。しかも吐瀉物に塗れて。
 詩夏は悲鳴を上げてその子を翠明宮に連れ込んだ。そのときにはもう女官は一人もいなくて、手ずから子供を風呂に入れて、綺麗な袍を着せてやった。
 数日間の看病ののち、子供は目を覚ました。
 詩夏と目が合った第一声が、
「ごめんなさい! ぶたないでください!」
 だったので大体の事情を呑み込んだ。そもそも誰もこの子を迎えに来ない時点でお察しというやつだ。
「ぶたないわよ。そんなことのために看病したんじゃないわ。あなたは誰? どこの宮の子?」
 詩夏の問いに、子供は小さな声で「柳影宮の憂炎です……」と答えた。
「ああ、郭昭儀の息子さんなのね。そういえばそんな話も聞いたような。ええと、ならあなたは第七殿下かしら」
 確かめるような口調になってしまったのも無理もない。郭昭儀は皇子を産んで以来、自分の容色が衰えたと我が子を嫌い、七番目の皇子ということで後継になる可能性も低い子供は表舞台から放逐されていたのだ。
 詩夏だって同じ昭儀という位だから覚えていただけで、そうでなければ忘れていたに違いない。
 それにしても、と詩夏は腕を組んで嘆息した。牀榻で布に包まる憂炎が、不安そうに瞳を揺らす。頬は削げ、手足は枝のように細い。捨て猫の方がまだ生命力がありそうな感じだ。
「殿下」
 なるべく優しく声をかけると、びくりと憂炎は肩を震わせる。その双眸を覗き込んで、詩夏は言った。
「もし良かったら、ここでご飯を食べていきなさいな。贅沢はできないけれど、少なくとも安全な食事は用意できるから」
 視線の先で、憂炎の瞳が見張られる。みるみるうちに涙が盛り上がり、ぼろぼろっと雫をこぼすと、うわあんと声をあげて詩夏に抱き付いてきた。
 それから憂炎は毎日のように翠明宮に通ってくるようになった。
「母上は僕のことが嫌いだから、よく食事に毒を守られるんで……だよ」
 やはり母親から虐待を受けているようで、最初に吐瀉物に塗れていたのも毒の入った饅頭を与えられたせいらしい。
「でも、もう慣れまし……慣れたよ。体が痛いときにはね、心を遠くに飛ばすんだよ。そうすると何も感じなくなるから大丈夫なんだ」
 敬語を使おうとするが、憂炎は皇子なのだから不要、と教えている。だんだん口調にもぎこちなさが無くなってきて、詩夏は嬉しく思っていた。
 だけど、と食卓に帯子(ホタテ)粥や清炒菜心(油菜の塩炒め)を並べながら、眉をひそめる。
 これだけ凄惨なことを、なんでもないように言えてしまうのが痛ましかった。昨日見た夕焼けが綺麗だった、このご飯が好き、というのと同列に、母に鞭打たれた、宦官に殴られた、と告げるのだ。
(私にできるのは、ご飯をあげることくらいだけど……)
 粥を頬張る憂炎は、随分とふっくらしてきた。そうすると、母親に似た綺麗な顔立ちが露わになってより一層悲壮さが際立つ。
「詩夏姐。ご飯を食べたら、僕、瑶琴が聴きたい」
 憂炎がにこっと笑う。もちろん、と頷いても、詩夏は胸が苦しかった。
 詩夏には、郭昭儀の手から憂炎を救ってやる力は無い。できることは、翠明宮の苦しい内証をなんとかやりくりして憂炎にはお腹一杯食べさせてあげるだけ。
 湯気を立てる料理を見下ろし、胸の内で祈るように呟いた。
(どうか、この子の行く末には幸いがありますように)
 食事後、宮の一室で瑶琴を奏でた。琴の音に耳を澄まし、憂炎がささめく。
「僕、詩夏姐のこと、本当に好きなんだ。ずっとそばにいてくれる?」
 瑶琴を爪弾く手を止めず、詩夏は微笑んだ。
「ええ、約束するわ。殿下がいらないというまで、私はおそばにいましょう」
「そんなこと絶対に言わないよ」
「分からないわよ。殿下が大きくなって、自分の足で立てるようになったら、私の助けは不要になるもの」
「そうしたら、今度は僕が詩夏姐を助ける番だ。だからずっと一緒にいてね。約束だよ?」
 憂炎が控えめに襦裙の袖を引くので、詩夏は手を止めた。「はいはい。おいで」と両腕を広げると、憂炎が満面の笑みで抱き付いてくる。腕には確かな重みがあった。
 ——この約束は、詩夏の処刑によって破られることになる。
 捕らえられる直前、詩夏は何も知らない憂炎に、一粒の琥珀を渡した。
「これ、詩夏姐の大切なものでしょ? 僕が貰っちゃダメだよ」
 戸惑う憂炎の手に、詩夏は無理やり押し付けた。
「いいの、受け取って」
 その琥珀は詩夏の持つ中で、一番値打ちのあるものだった。後宮入りするときに、両親が祝いだと言って贈ってくれた琥珀の裸石。家族の誰も、詩夏に似合うように簪や首飾りに仕立ててはくれなかった。でも詩夏にとっては、両親がほんの一瞬でも詩夏に心を向けてくれた証だった。
 けれどもういらない。
 憂炎の小さな手を琥珀ごと握って、詩夏は告げた。
「何もかも嫌になったら、これを売って後宮から逃げなさい。外は厳しいかもしれないけれど、死ぬよりはずっとマシだから」
 きっと憂炎には意味が分からなかっただろう。それでも健気に頷く子供を、詩夏は力一杯抱き締めた。
(って言ったのに、なんで皇帝なんかになってるの——⁉︎)
 完全に硬直した詩夏は、牀榻の上にちょこんと座っていた。憂炎は隣に腰掛け、俯く詩夏の顔を差し仰ぐようにしている。凄みを帯びるほどの真顔で、菫色の虹彩の中、黒々とした瞳孔が開き切っていた。美形の真顔は怖い。
「詩夏姐ではないと?」
「イヤ、違いますね……私は丁香麗なので……詩夏という方は存じ上げませんね……」
「だが、昨晩、瑶琴を弾いていただろう」
「え? あぁ、はい」
「それで分かった。あの音を出せるのは詩夏姐しかいない。確かに見た目は違うが、何かの術を使って蘇ったんだろう。王宮の府庫にもそういう伝承があった」
(なんで大正解を出せるのよ!)
 涙目になりながら詩夏は目を逸らす。姉がよくやっていたように、口元に片手を当てて、
「まあ、私にはなんのことだか分かりません。そんな恐ろしいことを仰らないでくださいまし」
 そうして視線を斜め右下に向けると、大体の男は黙って姉の言うことを聞いていた。香麗の美少女顔なら効果は抜群だろう。というか効いてくれ! 頼むから!
 だが、憂炎は微塵も心を動かされた様子もなく、眉間に皺を寄せている。
「翠明宮から瑶琴の音を聞いたのは、昨晩で二度目だ。一度目は確かに詩夏姐の音色ではなかった。すぐに立ち寄って、俺はその時の丁香麗と話した。気弱そうだったが人の心の分かる人間だった。その瑶琴は大切なものだから弾かないでくれと頼んだら、すぐに了承してくれた」
 だから香麗は瑶琴を弾かないと宣言していたのか、と合点がいく。別に呪いの瑶琴ではなかったわけだ。
「あのときの丁香麗は約束を破るようには思えなかった。それなのに再び瑶琴の音が聞こえて、それが詩夏姐の音色だ。俺が渡ってきた理由も分かるだろう。何があった? 話してくれ。俺は詩夏姐の力になりたい」
 憂炎の力強い言葉に、詩夏は目を合わせることができなかった。
「あの、大切な瑶琴を弾いてしまい申し訳なく……」
「構わない。十七年ぶりに、懐かしい音を聞けて嬉しかった」
 間近で憂炎が柔らかく微笑む。過ぎた時を惜しむような、失くしたものを数えるような、大人びた笑みだった。
 そんな風に笑うのか、と詩夏は瞬く。言われてみれば十七年も経っているのだ。詩夏は二十歳で死んで、今は十八歳の香麗の体に取り憑いている。けれど憂炎はあのとき九歳だったから、もう二十六歳になっているのだ。
 かたわらに座る憂炎は背も伸びて、体つきも逞しくなっている。両腕にすっぽり収まった小さなあの子はどこにもいない。
 なんとはなしに、取り残されたような寂しさを覚える。
 ——と同時に。
(お、大きくなったねえ〜‼︎)
 ぶわりと泣きそうになって、詩夏はますます顔を背けた。胸底に温かなものが湧き出てくる。脳裏に、翠明宮で憂炎と過ごした日々が次々に浮かんでは消えた。
(あんなに小さくて痩せっぽちだった子が、こんなに立派になって……っ‼︎)
「詩夏姐?」
「いえ、それは違いますが」
 訝しげな憂炎に、きっぱり首を振る。ものすごく姉心みたいなものが生まれているがそれはそれだ。
 ここで蔡詩夏だと明かしてもややこしいことになりそうだった。そもそも詩夏の目的は連理の姫を探すことなのだし。とりあえず詩夏の持つ武器で切り抜けよう。というより、香麗に借りた武器で。
「……主上」
 淑やかに言って、ぴたりと憂炎に身を寄せた。憂炎の体が強張る。
「後宮へ御渡りになってくださって嬉しいですわ。楽しい夜にして差し上げます。ですから、そのまま後宮で連理の姫を探してくださいましね」
 なーにが楽しい夜だ、と焦りながら、そんなことおくびにも出さずに詩夏は微笑う。香麗の体なのに申し訳ない気持ちが湧いてくるが、連理の姫は必ず探し出すからどうか許して欲しい。
(とはいえこれだけの美少女に迫られれば、憂炎とて平静ではいられまい! それで今夜はめちゃくちゃにして全てをウヤムヤにしよう!)
 憂炎が唇を引き結び、じっと詩夏を見据える。その長い指が、繊細な手つきで詩夏の前髪を払った。
 露わになった詩夏の表情を見定めるように瞳を眇め、
「……あなたは連理の姫ではないのか?」
「比翼の印がありませんもの……でも、本当にそうか、確かめてみます?」
 嫣然と適当こいたところで、はたと思い出す。白襦袢の合わせを思わず手で押さえた。
 実は胸元に、香麗が殺害されたときの切り傷が残っている。
(まずい、これを見られるとまた丁香麗=蔡詩夏説が復活する!)
 生きているのがおかしいくらいの、かなり大きな傷痕だ。疑っている相手には誤魔化しが効かない。
 詩夏の焦りを見抜いたのか、憂炎が意地悪げに唇の端を吊り上げる。詩夏の肩を押し、体を牀榻に押し倒した。そうして無防備な詩夏に覆い被さるようにして、
「……では、確かめてみるとしよう」
「あ、いや、その……」
 胸元を押さえる詩夏の手に、憂炎の手がかかる。万事きゅうす。詩夏はぎゅっと目を瞑り、いくつもの言い訳を考え始めた。
 静寂が寝室に広がる。憂炎の髪の一房が、詩夏の頬にこぼれ落ちる。吐息が唇を掠めた。
 長い間があった。
 すぐ近くで、くっと憂炎の喉が鳴る。何が、と目を開けると、憂炎が声を上げて笑い出したところだった。
 大きく肩を揺らし、詩夏の上から退きながら、
「そんなに怯えるな。俺に嗜虐趣味はない」
「え、あ、えぇ……?」
「そうか、詩夏姐にも苦手なものがあったんだな」
「私は詩夏ではありませんが」
 おずおずと身を起こし、ホッと息を吐く。何がなんだか分からないが、とりあえず窮地は脱したようだ。
「あくまでも詩夏姐ではないと言い張るんだな。ならば今夜は嘘に乗ってやろう。その可愛らしい反応に免じて」
 憂炎が優しく微笑み、詩夏の頬を愛おしげに撫でる。その仕草の甘さに詩夏はウッと呻きたくなった。
(私の間抜けな反応さえも可愛さに変える香麗の美少女っぷり、恐るべし!)
 ひっそり慄いていると、憂炎が名残惜しげに腰を上げた。
「俺は正寝に帰る。安心して眠れ」
 そう言って寝室の扉へ向かう背に、我に返って「待ってください」と声をかける。
 一つだけ、とても気になることがあった。
「あの、主上にとって詩夏とはどのような存在なのですか?」
 扉を押し開けていた憂炎が振り返る。燈籠の光はそこまで届かず、薄闇の中、菫色の瞳が底光りしているのだけが分かった。
 真摯な声が、夜の空気を低く震わせる。
「……俺の想い人だよ。ずっとな」
 御渡りの事実は、瞬く間に後宮中に広まった。
 相手は翠明宮の最下級妃。顔だけは綺麗だが、他に目立つわけでもない。
 そうすれば当然、気に入らない勢力が出てくるわけで——。
「丁才人。今日はわたくしの茶会に来てくださってありがとう」
「はは……ありがとう存じます」
 後宮の中央庭園、女郎花の黄色い花々に囲まれた(あずまや)にて。小卓を挟んで目の前に座る美女に、詩夏は乾いた笑い声を上げた。
 彼女は瑛万姫(ばんき)。れっきとした貴妃で、普通なら才人の香麗とは口もきかないはずの高位の妃嬪だ。しかも、国母である珠蘭の縁戚の娘だという。珠蘭は万姫を皇后にしたくて仕方がないのだろう。
(そのことを、貴妃はどう思っているのか)
 卓の上に、白磁の茶器が置かれる。甘い花の香りのするお茶が注がれていた。
 万姫が杯を手に取って、優雅な仕草で口をつける。詩夏もそれに倣った。けれど飲むふりだけしてすぐに杯を下ろす。毒でも入られていたら堪らない。
 万姫の紅唇が笑みの形に歪んだ。
「丁才人はさすがに美しいわね。主上が御渡りになったというだけあるわ」
「……瑛貴妃こそ、女郎花も色褪せてしまう美しさです」
 にこりと笑って返す。万姫の眉がぴくっと跳ねた。
「調子に乗らないで頂戴ね」
 冷ややかに言い、ほっそりした指で杯を卓に置く。耳障りな音がガチャンと鳴った。詩夏の背中に冷や汗が流れる。
(これは苦手分野!)
 生前、詩夏は妃嬪同士の争いには関わらないようにしていた。翠明宮で匿う憂炎を守るためでもあったが、そもそも凡庸で野心もない詩夏は、寵愛を競うには向いていなかった。
(美しくてもこんな目に遭うのね……いや、美しいからこそか)
 げんなりしながらも、詩夏は微笑を絶やさなかった。連理の姫について聞き出す良い機会かもしれない。
「ご存じだと思うけれど、皇后に一番近いのはわたくし。先代連理の姫であり、国母である珠蘭様の血を引いているのですもの。主上に一夜の情けを賜ったからといって、あなたが特別というわけではないのよ」
「ええと、貴妃には比翼の印はあるのですか?」
「このわたくしへの返事がそれ?」
 万姫が眉尻を吊り上げるのに対し、詩夏は真剣な顔で頷いた。大真面目だ。こちとら連理の姫を見つけないと消えてしまうのだ。
(……憂炎の特別が誰か、とか、悪霊の私が介入していいことでは無いし)
 あの夜の、憂炎の切なげな面差しを追い払う。彼には早く愛すべき連理の姫を見つけてもらいたい。そしたら詩夏は消えずに済む。
 それに、その方が詩夏との思い出に囚われているよりずっと良いと思う。
 過去の記憶ばかり大切にするのは寂しすぎる。
 だが、当然ながら詩夏の態度は万姫の神経を逆撫でしたようだった。
「わたくしを愚弄しているのかしら」
 ぶるぶる震えながら万姫が唸る。
「たとえ比翼の印が顕れなかったとしても、皇后になるのはこのわたくし! あなたみたいな卑しい身分の女の出る幕は無いわ!」
「どうしてそんなに皇后になりたいのですか?」
 これは純粋な疑問だった。詩夏は穏やかな慎ましい生活で満足する性質で、過去の翠明宮での暮らしも、そう悪いものではないと感じていた。
 確かに贅沢はできなかったけれど、足りない食糧を補うために畑仕事をして、瑶琴を弾いて、憂炎に勉強を教えて、それで十分。蔡家で家族と暮らしていたときよりも、ずっと満ち足りていたように思う。
 しかし万姫はふふんと鼻を鳴らし、胸元に手をやって断言した。
「決まっているわ、愛されたいからよ」
「愛されたい……」
 その言葉は、なぜだか詩夏の胸に引っかかった。
 胸裏に家族の顔が浮かび上がる。結局、さよならさえ必要とされなかった。
 なんとなく、万姫の望みを理解できるかも——と口を開きかけて、続く言葉に閉口する。
「この国一番の男性に愛されるのってとっても素敵でしょう? 主上は美しいし、文句無しだわ!」
「それはよく分かりませんが」
 詩夏は首を捻った。
「皇后になったら、主上と共にこの国を守り支えていかなくてはならないでしょう? 並大抵の苦労ではなさそうです」
「あら、いいのよ。そんなの珠蘭様にお任せすればいいのだもの。わたくしは主上と後宮で楽しく過ごすわ」
「へえ」
 詩夏は笑顔で頷く。胸底で何かが爆ぜた。言ってはいけない、と頭ではわかっていたのに、口が勝手に動いていた。
「瑛貴妃、私、あなたには皇后になってもらいたくありません」
 別に詩夏は、憂炎の小姑を気取るつもりはないが。
 でもこの人はダメだ、と直感した。本能が嫌悪する。
 憂炎が誰を選んだっていいが、できれば彼と一緒に歩いてくれる人が良いと思う。過去の思い出なんてくすむくらいに、鮮やかな未来を示してくれる人がきっといる。いつか願った憂炎の幸いは、そういうところにあると思う。
 もう笑顔を作る気にはなれなかった。キッと万姫を睨み付ける。万姫が苛立たしげに顔をしかめて繊手を振りかぶった。
「なんですって? 平民妃ごときが不敬な!」
 パンと乾いた音が鳴った。詩夏の頬に熱い痛みが走る。万姫に命じられていたのだろう、周囲から女官がわらわら近寄ってきて、詩夏を取り押さえようとする。これからもっと酷い目に遭わそうというわけだ。
 だが詩夏は怯まなかった。万姫だけを見据え、襦裙の袖に手を突っ込む。
 そして。
「えいやっ」
 袖から二、三匹の蛇を取り出して、卓に向かって放り投げた。この時のために用意していたものだ。翠明宮近くの林で鈴々と一緒に捕まえた。悪霊なのになんて地味な仕事。どうせいびられるに決まっているのだから、反撃手段くらいは当然備えている。
 毒々しい色をした蛇が頭をもたげた瞬間、亭に女たちの悲鳴が響き渡った。
 阿鼻叫喚を潜り抜けて、詩夏はそそくさと逃げ出す。伊達に死に戻っていない。後宮の隠し通路は熟知している。
 近くの祠から隠し通路に入った。もう長く使われていなさそうで、天井から蜘蛛が落ちてきたり、湿った何かを踏んだりする。
「ギャーッ! 蜘蛛の子が口に入った!」
「そうか、平気か?」
「うう、もう吐き出しから大丈、夫……」
 答えかけてぴたりと止まる。隠し通路の出口、翠明宮付近の食糧庫の裏手だった。
 ギギ、と軋む首を動かして振り返る。そこには、やけに晴れやかな笑顔をした憂炎が腕を組んで立っていた。
「それは何より。ところで、丁才人はなぜ隠し通路を知っているんだ? 今あなたが使ったのは、皇族しか知らないはずの道だ。俺は詩夏姐にしか教えていない」
「あ、いや……たまたま見つけたので……?」
「皇族用の隠し通路が『たまたま見つかる』程度の作りなわけはないだろう? 存在を知らなければ通れないはずだ。誰に聞いた? 秘密を知る人間を生かしておくわけにはいかないな。もちろん、皇族から聞いたのであれば問題ないが」
 笑顔のまま憂炎は滔々と語る。だが目だけは全く笑っていなくて、詩夏は両手を上げた。
「わかりました。平和に話し合いましょう。——お久しぶり、殿下」
「殿下、大丈夫?」
「大丈夫なものか……」
「一旦落ち着きましょう。ちょっと離れて。ね?」
「嫌だ」
 短い拒絶と共に、詩夏をひしと抱き締める腕に力がこもる。
 近くの空き室に引きずり込まれて一刻あまり。その間、憂炎は何も言わずに詩夏を抱き締め、微動だにしなかった。
「ほら、私も瑛貴妃に平手打ちされて怪我してるし……」
「すまない。診せてくれ」
 憂炎はガバリと顔を上げ、慎重な手つきで詩夏の頬に触れた。「熱を持っている。あの女、思い切り殴ったな……」と唸ると、懐から小さな陶器の入れ物を取り出す。中には白い軟膏が入っていた。憂炎は手際良くそれを清潔な布に塗り、詩夏の頬に当てる。ひやりとして気持ちが良い。
「しばらくこうしていろ」
「ありがとう。慣れた手つきね?」
「王宮の侍医もどこまで信用できるかわからないからな」
「皇帝なのに?」
「皇帝だからだ」
 憂炎は短く答え、室内を見回す。雑多に積まれた櫃の上に詩夏を座らせ、自分は立ったままで詩夏と目を合わせた。それでやっと、視線の高さが同じくらいになった。
 憂炎は眩しげに目を細め、しばらく詩夏を見つめる。そうされると詩夏の心臓がドキドキと強く脈打った。久方ぶりに詩夏として対面したので緊張しているのかもしれない。
 憂炎がおもむろに口を開く。
「……何があったんだ」
「それが——」
 悪霊として呼ばれてからのことを説明する。話が進むほどに、憂炎の眉間の皺が深くなっていった。
「連理の姫を探さないと詩夏姐が消えるだと」
「そうなの。殿下、心当たりは無い? この娘が気になる、とか」
「詩夏姐以外で? 無いな」
「じゃあ……私は消えるしかないみたいね」
 さよなら、と片手を振ってみると、殺されそうな目で睨まれた。悪霊冗句(ジョーク)は不評らしい。
 憂炎は壁にもたれかかり、ぐしゃぐしゃと前髪をかき混ぜる。口から深いため息が漏れた。
「俺は連理の姫など不要だと考えている」
「どうして?」
「そのせいで人が死ぬ。詩夏姐のようにな。大体、豊穣を齎す連理の姫なんて本当に存在するのか? 珠蘭が連理の姫だったときだって、天候不順や大火災で国は荒れた。それは今も続いている。皇帝が気に入った女を娶るための建前だったのが、権力争いの材料に使われているだけじゃないのか」
「でも私はいないと困るのよ」
 詩夏は腕組みして思考を巡らせた。
「史実には連理の姫がいて国が整った時代もあったでしょう? その代だけ奇跡的に自然災害が起きなくて、連理の姫がいなくなった途端にまた国が荒れ始めたとか。大体、悪霊召喚の術が存在するのよ。連理の姫がいたっておかしくないわ」
「それはそうだが……」
「香麗は本当に深い傷を負ったの。それなのに私は生きている。傷痕見る?」
「いや、やめろ、よせ。俺に易々と肌を見せるな」
 襦裙の襟を緩めようとすると、憂炎がじりじりと壁際に後ずさった。本気でやめて欲しそうだったので詩夏も手を止める。確かに見て気分のいいものではない。
「……消えたくないのもそうだけど、私は香麗の願いを叶えてあげたい」
 行儀悪く足をぶらぶらさせて、ぽつりと呟く。
 窓から斜めに日が差して、室に漂う埃をきらきら輝かせていた。
 黙り込んで唇を引き結ぶ詩夏に、憂炎がふっと表情を緩める。憂炎の纏う空気が、どこか安堵したように柔らかくなった。
「変わらないな、詩夏姐は」
「ええ?」
「俺を助けてくれたときと同じだ。どんな姿になっても、魂は変わらないんだろう」
「……そう、かしら」
「そうだ」
 憂炎がこちらへ歩いてきて、また詩夏をぎゅっと抱き締めた。
「もう二度と会えないと思っていたのに」
 力強い腕に、低い声。なんだか知らない年上の男の人みたいだ、と胸が疼く。
「絶対に手放さない。俺はずっと、あなたを……」
 低く囁く声を抑えるように、詩夏は憂炎を抱き締め返した。ぽんぽんと背中を撫でる。
「ええ。じゃあ連理の姫を探してね」
「それは約束できないが」
 答える声には苦笑が滲む。
「あなたを失わないためなら、俺はなんでもしよう」
 それなら、と詩夏は一つお願いをした。
「連理の姫って、本当に情報が少ないのね……」
 王宮府庫の閲覧席にて。史書の頁をめくりながら詩夏は呟いた。
 ——丁香麗の王宮府庫への入室許可。
 これが憂炎への願いだった。
 後宮で連理の姫を探しても仕方がない。比翼の印が顕れれば否が応でも明らかになる。
 ならば、後宮の外で連理の姫に関する情報を集めた方がいい。
(そう思ったのだけれど、あまり成果は得られないかも……)
 よく考えれば連理の姫の条件が明確ならば後宮に娘を集める必要などない。詩夏が少し調べたくらいで分かるものでは無いのだ。
 それよりも、と詩夏は窓から眼下を見晴かす。閲覧席は府庫の三階にあって、都の様子が一望できた。
 大路に人通りは少なく、行き交う人々の顔つきは暗い。物乞いが慈悲を求めるが、誰一人として目もくれない。
 所々に煙が上がっているのは道観の炊き出しだ。大勢の人々が椀を手に列をなしている。泣く子供を母親があやすのに、並んでいた男が何か言い立てていた。その横から別の男が口を出し、乱闘が始まる。
 王宮の門前では、襤褸を着た老人が兵士に何かを訴えて蹴飛ばされていた。
 ぐっと下唇を噛む。珠蘭が朝廷を我が物にしようとしていると伝え聞いていた。けれど、その結果がどうなっているかまでは気が回らなかった。
 思えば、詩夏はずっと後宮でしか生きてこなかった。
 だから知らなかったのだ。この国がこんなに荒廃していたなんて。
(香麗は巫女だった。だからこの惨状を知っていて連理の姫を求めたのかしら……)
 窓から無理やり目を離し、史書を書棚に戻しに行く。そこで、辺りを憚るような話し声を耳が拾って詩夏は書棚に身を隠した。
 宦官が二人、こそこそと会話しているようだった。
「丁香麗の殺害には失敗した……」
「確実に心ノ臓を貫いただろう、なぜ生きている?」
「さてな、だが珠蘭様になんと報告すればいいのか……」
「にしても不運な娘だ。たかだか一度、主上と口をきいたくらいで邪魔者扱い。命を狙われる羽目になるとはな」
 それを聞いた時には、もう飛び出していた。
「一体どういうこと⁉︎」
 不意をつかれた宦官の一人に飛びかかる。頭は真っ白だった。
(香麗は珠蘭の命令で殺された。憂炎が話しかけたのは、私の瑶琴を弾いたからだ)
 憂炎との話が蘇る。憂炎は瑶琴をもう弾かないように頼んだだけで、二人の間に何か色めいたものがあったわけではないのに。
(ただ、それだけのことで)
 総身に怖気が走る。宦官の胸ぐらを掴む手から力が抜けた。すぐにもう一人の宦官に腕を掴まれ、床に引き倒される。
「丁香麗だ!」
「なぜこんなところに⁉︎ まあいい、殺せ!」
 頬を床に擦り付けられ、背中に腕を捻り上げられる。詩夏は唇を噛み締めた。
(どれだけ美しくても、一人で死ぬことはある)
 これだけ騒ぎになっているのに、誰もやって来る気配がない。府庫になんて誰も寄り付かないのだ。だからこそ二人も密談していたのだろう。
(ならどうしてあのとき雪花姉様は生き延びて、私は死ななきゃいけなかったの)
 宦官が詩夏の髪を引っ張る。ぶちぶちと何本か抜ける痛みに涙が滲んだ。
(決まってる。姉様よりも、私は皆に愛されなかったからだ)
 ふと、鈴々に聞いた香麗の過去を思い出す。香麗も、家族に売られて後宮へやって来た。そして死んだ。
(どうして私たちは一人で死ななくちゃいけなかったの)
 瞼の裏に珠蘭の顔が浮かぶ。少なくとも、香麗と詩夏の死には彼女が関わっていた。彼女の指先一つで、虫けらみたいに殺されたのだ。
(私と香麗は、最期に同じことを思ったのかもしれない。『愛して欲しい』って)
 抵抗する両足を押さえ付けられる。背中を踏まれて、息ができなくなった。
(だって一人で死んでしまうのって、寂しいから)
 明滅する視界の中、拳が振り下ろされるのを捉えて、固く目を閉じた。
「……うぐっ⁉︎」
 呻き声は、宦官の口から漏れた。
 一向にやってこない衝撃に、詩夏は恐る恐る瞼を上げる。一瞬の間ののち、眼前に白目を剥いた宦官がどさりと転がり落ちてきてヒッと息を飲んだ。
 降り落ちるのは聞き知った声。
「——誰に断ってその人に触れている」
 冴え凍る瞳でこちらを睥睨するのは憂炎。右手に抜き身の剣を持ち、皇帝にのみ許された冕服の袖を翻す。白刃が窓からの日を受けてきらめいた。
 その白々とした輝きに、詩夏の産毛が逆立った。
 弱々しい悲鳴を上げて、宦官が腰の抜けたようにへたり込む。詩夏は慌てて跳ね起きた。本気の殺意だ。人が死ぬのは見たくない。宦官と憂炎の間に立ち塞がるように両手を広げ、
「わ、わ、私は無事! だからどうか刃を収めて!」
 色の失せた憂炎の瞳がちらと詩夏に向けられる。ぞくりと背筋に冷たいものを感じたとき、兵士たちがドッと府庫に雪崩れ込んできて、憂炎は鞘に刀身を収めた。
 宦官が引き立てられていくのを声もなく眺めていると、指示を出し終わった憂炎に腕を引かれる。
 そのまま無言で連れていかれたのは、明らかに豪奢な装飾が施された一室で——。
(ここ、皇帝の執務室なのでは⁉︎)
 ギョッとしているうちに、背後から抱きすくめられた。先ほどまでとは別人のような安堵の滲む声で、
「……またあなたを失うところだった……」
 吐息が耳朶にかかってくすぐったい。詩夏は目を伏せた。今更ながらに震えが立ち上ってくる。
「ごめんなさい、私、本当に殺されるところだった……。軽率だったわ」
「もう二度としないと誓ってくれ」
「……うん。助けてくれてありがとう」
 こくんと頷くと、憂炎が大きく息を吐いた。「あなたを守れて良かった。そうでなければ俺は自分を許せない」と囁いて、詩夏の乱れた前髪を撫でる。その手のひらの温度に、詩夏の震えが収まってきた。
「どうしてあんなことに? 普段の詩夏姐なら卒なく逃げるだろう」
 不思議そうに問われ、詩夏は口籠った。だが腕がほどかれる気配が一向に無いので、ぼそぼそと顛末を語る。
「香麗は国母の命令で殺されたのよ。たった一度、皇帝と話したというだけで」
「……やはりそうか」
 憂炎が暗い声で応じた。最後に一度、強く力を込めて詩夏を抱くと、パッと腕を離す。
 そうして室の奥まで歩いて行って、大きな椅子にどさりと腰を下ろした。
 組んだ足に肘をつき、深々と嘆息する。端正な顔には暗い苦悩の翳がかかっていた。
 詩夏は彼のかたわらまで寄って、その顔を覗く。
「香麗の殺害容疑くらいじゃ、国母は痛くも痒くもないでしょうね。どうにかして国母の専横を止められないの。この国の荒廃も、あの人が原因なのでしょう」
 憂炎の唇が悔しげに歪んだ。
「……そうだ。珠蘭は国母という立場を利用して贅を尽くし、国庫を圧迫している。民からは重税を搾り上げ、それでいて民のために還元しようとはしない。珠蘭派の役人も似たようなものだ。賂が横行し、理不尽な裁判が行われる」
「なら……」
「俺が第七皇子だったことを、詩夏姐は知っているだろう」
 詩夏は頬に指を当てた。そういえば気になっていたのだが。
「どうして殿下が皇帝に? 後宮から逃げるために琥珀を渡したけど、足りなかった?」
「違う。珠蘭の筋書きだ。……珠蘭には子供がいない。だから、傀儡としての皇帝が欲しかったんだ。皇子の中では、俺の母親の地位が一番低かった。地方の小貴族出身だからな。七番目の俺を玉座につければ、恩義を感じて操りやすいと踏んだ」
「操りやすい……?」
 首をかしげると、憂炎が皮肉っぽく笑う。
「そう思われるように大人しくしていたことは否定しない」
(初めから利用する気満々じゃないかこの子……)
 憂炎の話は続く。 
「俺とて、今まで何もしていなかったわけではない。色々と手は打っている。外朝にはいくらか味方も増えた。——だが」
 言葉を切って、憂炎は奥歯を噛み締める。
「先帝の代から続く長年の悪政で、朝廷は腐り切っている。あと一つ、致命的な破滅を珠蘭に与えてやりたい。そうすれば必ず……」
「殿下……」
 憂炎の大きな手が固く握り込まれる。それは自分に言い聞かせているようだったので、詩夏は黙ってそばに立っていた。
 窓の外で、チチ、と鳥の鳴く声が聞こえた。空は鈍色の雲に覆われ、もうすぐ雨が降りそうだった。
 ぼそりと憂炎が声を落とす。
「……もう、殿下と呼ぶのはやめてくれないか」
 ハッと胸を衝かれる。詩夏を見つめる憂炎の面持ちは、これ以上なく真剣だった。
 詩夏も背筋をまっすぐ伸ばす。憂炎の菫色の瞳を見据え、
「——主上」
「そうじゃない」
「そういう流れだったでしょう」
「それはそうだが。……名を呼んでくれ」
 その声がひどく切実に響いて聞こえて、詩夏は言葉に詰まる。意味も無く手を握り締め、うろうろと視線を彷徨わせた。
「……憂炎、様?」
 気恥ずかしくなって付け足すと、憂炎は可笑そうに短く笑った。
「今はそれで許す。……もう名前など誰にも呼ばれないと思っていたのにな」

 ——万姫の肌に比翼の印が顕れたのは、その数日後のことだった。