詩夏がまだ蔡詩夏として生きていた頃——。
 ある日、翠明宮の外にガリガリに痩せ細った子供が倒れていた。しかも吐瀉物に塗れて。
 詩夏は悲鳴を上げてその子を翠明宮に連れ込んだ。そのときにはもう女官は一人もいなくて、手ずから子供を風呂に入れて、綺麗な袍を着せてやった。
 数日間の看病ののち、子供は目を覚ました。
 詩夏と目が合った第一声が、
「ごめんなさい! ぶたないでください!」
 だったので大体の事情を呑み込んだ。そもそも誰もこの子を迎えに来ない時点でお察しというやつだ。
「ぶたないわよ。そんなことのために看病したんじゃないわ。あなたは誰? どこの宮の子?」
 詩夏の問いに、子供は小さな声で「柳影宮の憂炎です……」と答えた。
「ああ、郭昭儀の息子さんなのね。そういえばそんな話も聞いたような。ええと、ならあなたは第七殿下かしら」
 確かめるような口調になってしまったのも無理もない。郭昭儀は皇子を産んで以来、自分の容色が衰えたと我が子を嫌い、七番目の皇子ということで後継になる可能性も低い子供は表舞台から放逐されていたのだ。
 詩夏だって同じ昭儀という位だから覚えていただけで、そうでなければ忘れていたに違いない。
 それにしても、と詩夏は腕を組んで嘆息した。牀榻で布に包まる憂炎が、不安そうに瞳を揺らす。頬は削げ、手足は枝のように細い。捨て猫の方がまだ生命力がありそうな感じだ。
「殿下」
 なるべく優しく声をかけると、びくりと憂炎は肩を震わせる。その双眸を覗き込んで、詩夏は言った。
「もし良かったら、ここでご飯を食べていきなさいな。贅沢はできないけれど、少なくとも安全な食事は用意できるから」
 視線の先で、憂炎の瞳が見張られる。みるみるうちに涙が盛り上がり、ぼろぼろっと雫をこぼすと、うわあんと声をあげて詩夏に抱き付いてきた。
 それから憂炎は毎日のように翠明宮に通ってくるようになった。
「母上は僕のことが嫌いだから、よく食事に毒を守られるんで……だよ」
 やはり母親から虐待を受けているようで、最初に吐瀉物に塗れていたのも毒の入った饅頭を与えられたせいらしい。
「でも、もう慣れまし……慣れたよ。体が痛いときにはね、心を遠くに飛ばすんだよ。そうすると何も感じなくなるから大丈夫なんだ」
 敬語を使おうとするが、憂炎は皇子なのだから不要、と教えている。だんだん口調にもぎこちなさが無くなってきて、詩夏は嬉しく思っていた。
 だけど、と食卓に帯子(ホタテ)粥や清炒菜心(油菜の塩炒め)を並べながら、眉をひそめる。
 これだけ凄惨なことを、なんでもないように言えてしまうのが痛ましかった。昨日見た夕焼けが綺麗だった、このご飯が好き、というのと同列に、母に鞭打たれた、宦官に殴られた、と告げるのだ。
(私にできるのは、ご飯をあげることくらいだけど……)
 粥を頬張る憂炎は、随分とふっくらしてきた。そうすると、母親に似た綺麗な顔立ちが露わになってより一層悲壮さが際立つ。
「詩夏姐。ご飯を食べたら、僕、瑶琴が聴きたい」
 憂炎がにこっと笑う。もちろん、と頷いても、詩夏は胸が苦しかった。
 詩夏には、郭昭儀の手から憂炎を救ってやる力は無い。できることは、翠明宮の苦しい内証をなんとかやりくりして憂炎にはお腹一杯食べさせてあげるだけ。
 湯気を立てる料理を見下ろし、胸の内で祈るように呟いた。
(どうか、この子の行く末には幸いがありますように)
 食事後、宮の一室で瑶琴を奏でた。琴の音に耳を澄まし、憂炎がささめく。
「僕、詩夏姐のこと、本当に好きなんだ。ずっとそばにいてくれる?」
 瑶琴を爪弾く手を止めず、詩夏は微笑んだ。
「ええ、約束するわ。殿下がいらないというまで、私はおそばにいましょう」
「そんなこと絶対に言わないよ」
「分からないわよ。殿下が大きくなって、自分の足で立てるようになったら、私の助けは不要になるもの」
「そうしたら、今度は僕が詩夏姐を助ける番だ。だからずっと一緒にいてね。約束だよ?」
 憂炎が控えめに襦裙の袖を引くので、詩夏は手を止めた。「はいはい。おいで」と両腕を広げると、憂炎が満面の笑みで抱き付いてくる。腕には確かな重みがあった。
 ——この約束は、詩夏の処刑によって破られることになる。
 捕らえられる直前、詩夏は何も知らない憂炎に、一粒の琥珀を渡した。
「これ、詩夏姐の大切なものでしょ? 僕が貰っちゃダメだよ」
 戸惑う憂炎の手に、詩夏は無理やり押し付けた。
「いいの、受け取って」
 その琥珀は詩夏の持つ中で、一番値打ちのあるものだった。後宮入りするときに、両親が祝いだと言って贈ってくれた琥珀の裸石。家族の誰も、詩夏に似合うように簪や首飾りに仕立ててはくれなかった。でも詩夏にとっては、両親がほんの一瞬でも詩夏に心を向けてくれた証だった。
 けれどもういらない。
 憂炎の小さな手を琥珀ごと握って、詩夏は告げた。
「何もかも嫌になったら、これを売って後宮から逃げなさい。外は厳しいかもしれないけれど、死ぬよりはずっとマシだから」
 きっと憂炎には意味が分からなかっただろう。それでも健気に頷く子供を、詩夏は力一杯抱き締めた。