それにしても、主上の御渡りが無いのは参った。
 夜。花窓から届く虫の声を聞きながら、詩夏は一人、牀榻に座って考え込んでいた。
 蓮月国の後宮は、連理の姫を探すために営まれているのだ。
『天には比翼の君、地には連理の姫。さすれば古の神との誓約の下、国は整い、豊穣が齎される——』
 それが蓮月国の創生譚に伝わる一節である。
 実際、初代皇帝は連理の姫と出会い、力を合わせて蓮月国を興したという。
 それ以降も蓮月国には連理の姫が現れ、当代皇帝に嫁ぎ、国を栄えさせている。
 連理の姫の証はただ一つ——体の一部に比翼の印と呼ばれる痣が顕れること。
 先帝の連理の姫である珠蘭の手の甲に刻まれていたのもこれだ。形はまちまちだが、確かにそれと分かるような紋様がはっきりと浮かぶのだ。
 連理の姫を探すために、国中から後宮に娘を集める。そして連理の姫が見つかれば、後宮は解散。皇帝は唯一の妃を大切に慈しみ、手を携えて国を支えていくのだとか。
 もっとも、先帝のように連理の姫が見つかった後も後宮を維持する好色な皇帝がいないわけではない。皇帝の血統を保つため、となんとでも理由は付けられる。
(そういえば、珠蘭様には子供がいなかったわね)
 だから先帝は様々な妃嬪との間に皇子を作り、後宮は殺伐としていたのだ。
(今の主上は誰なのか調べておかないと)
 詩夏の知っている限り、先帝の皇子は七人。たぶん、一番目か二番目の皇子が践祚したのだろう。
 ふ、と懐かしさとともに七番目の皇子の顔が思い浮かぶ。彼は何をしているだろうか。兄を補佐する任についているのか、政から離れて穏やかな日々を送っているのか。後者がいい。
 釣り燈籠の明かりが、殺風景な室内を照らし出す。詩夏は弾みを付けて牀榻から下り、周囲を見渡した。
(香麗は他にも何か残しているかもしれない。探してみよう)
 卓の抽斗を全部開け、櫃をひっくり返し——牀榻の下を覗き込んだところで、それを見つけた。
「私の瑶琴だ……翠明宮に残っていたのね」
 (あおぎり)でできた台座に、七本の弦が張られた瑶琴。他の妃嬪に与えられた瑶琴と異なり、なんの装飾も無かったが、詩夏はこれが好きだった。詩夏には美貌も無いし、体付きもごく普通だったが、琴だけは得意だったのだ。聞いてくれたのは七番目の皇子くらいだったけれど。
 すっと手を伸ばし、弦を弾く。そのまま一曲奏でた。香麗も弾いていたのか、よく手入れされていて、昔と変わらない音の響きだった。
 と、扉の向こうでバタバタと足音がしたかと思うと、勢いよく鈴々が室に飛び込んできた。
「香麗様! 何をされているのです⁉︎」
 鈴々の声は鋭い。詩夏はヒャッと首を縮めた。
「ご、ごめんなさい。うるさかったかしら。ちょっと弾いてみたくなって……」
「そうではなくて、以前にも香麗様はその瑶琴をお弾きになっていたんです。でもその後、もう絶対に弾かない、と話されていたものですから」
「そ、そうだったの。でもどうして?」
「そこまでは。でも、私にも気安く触れてはならない、とお命じになられましたよ。……その翌日に、香麗様は姿を消され、記憶喪失になって帰ってきました。もしかすると、呪いの瑶琴なのかも……」
 鈴々が不気味そうに瑶琴を見下ろす。詩夏は苦笑した。確かに死者が愛用していた瑶琴だから縁起は悪いかもしれない。
「そういうことなら、弾くのは止めておきましょう」
 詩夏の言葉に、鈴々はホッとしたようだった。一緒に瑶琴をしまい、おやすみを言い合って眠りにつく。それでお終いのはずだった。
 ——しかし、確かに詩夏の瑶琴は事件を招く。
 次の日の夕方、血相を変えた鈴々が、掃き掃除をしていた詩夏の元へ駆け込んできた。
「香麗様! 今宵、主上が翠明宮に御渡りになります!」
「……へ?」