「連理の姫って、本当に情報が少ないのね……」
 王宮府庫の閲覧席にて。史書の頁をめくりながら詩夏は呟いた。
 ——丁香麗の王宮府庫への入室許可。
 これが憂炎への願いだった。
 後宮で連理の姫を探しても仕方がない。比翼の印が顕れれば否が応でも明らかになる。
 ならば、後宮の外で連理の姫に関する情報を集めた方がいい。
(そう思ったのだけれど、あまり成果は得られないかも……)
 よく考えれば連理の姫の条件が明確ならば後宮に娘を集める必要などない。詩夏が少し調べたくらいで分かるものでは無いのだ。
 それよりも、と詩夏は窓から眼下を見晴かす。閲覧席は府庫の三階にあって、都の様子が一望できた。
 大路に人通りは少なく、行き交う人々の顔つきは暗い。物乞いが慈悲を求めるが、誰一人として目もくれない。
 所々に煙が上がっているのは道観の炊き出しだ。大勢の人々が椀を手に列をなしている。泣く子供を母親があやすのに、並んでいた男が何か言い立てていた。その横から別の男が口を出し、乱闘が始まる。
 王宮の門前では、襤褸を着た老人が兵士に何かを訴えて蹴飛ばされていた。
 ぐっと下唇を噛む。珠蘭が朝廷を我が物にしようとしていると伝え聞いていた。けれど、その結果がどうなっているかまでは気が回らなかった。
 思えば、詩夏はずっと後宮でしか生きてこなかった。
 だから知らなかったのだ。この国がこんなに荒廃していたなんて。
(香麗は巫女だった。だからこの惨状を知っていて連理の姫を求めたのかしら……)
 窓から無理やり目を離し、史書を書棚に戻しに行く。そこで、辺りを憚るような話し声を耳が拾って詩夏は書棚に身を隠した。
 宦官が二人、こそこそと会話しているようだった。
「丁香麗の殺害には失敗した……」
「確実に心ノ臓を貫いただろう、なぜ生きている?」
「さてな、だが珠蘭様になんと報告すればいいのか……」
「にしても不運な娘だ。たかだか一度、主上と口をきいたくらいで邪魔者扱い。命を狙われる羽目になるとはな」
 それを聞いた時には、もう飛び出していた。
「一体どういうこと⁉︎」
 不意をつかれた宦官の一人に飛びかかる。頭は真っ白だった。
(香麗は珠蘭の命令で殺された。憂炎が話しかけたのは、私の瑶琴を弾いたからだ)
 憂炎との話が蘇る。憂炎は瑶琴をもう弾かないように頼んだだけで、二人の間に何か色めいたものがあったわけではないのに。
(ただ、それだけのことで)
 総身に怖気が走る。宦官の胸ぐらを掴む手から力が抜けた。すぐにもう一人の宦官に腕を掴まれ、床に引き倒される。
「丁香麗だ!」
「なぜこんなところに⁉︎ まあいい、殺せ!」
 頬を床に擦り付けられ、背中に腕を捻り上げられる。詩夏は唇を噛み締めた。
(どれだけ美しくても、一人で死ぬことはある)
 これだけ騒ぎになっているのに、誰もやって来る気配がない。府庫になんて誰も寄り付かないのだ。だからこそ二人も密談していたのだろう。
(ならどうしてあのとき雪花姉様は生き延びて、私は死ななきゃいけなかったの)
 宦官が詩夏の髪を引っ張る。ぶちぶちと何本か抜ける痛みに涙が滲んだ。
(決まってる。姉様よりも、私は皆に愛されなかったからだ)
 ふと、鈴々に聞いた香麗の過去を思い出す。香麗も、家族に売られて後宮へやって来た。そして死んだ。
(どうして私たちは一人で死ななくちゃいけなかったの)
 瞼の裏に珠蘭の顔が浮かぶ。少なくとも、香麗と詩夏の死には彼女が関わっていた。彼女の指先一つで、虫けらみたいに殺されたのだ。
(私と香麗は、最期に同じことを思ったのかもしれない。『愛して欲しい』って)
 抵抗する両足を押さえ付けられる。背中を踏まれて、息ができなくなった。
(だって一人で死んでしまうのって、寂しいから)
 明滅する視界の中、拳が振り下ろされるのを捉えて、固く目を閉じた。
「……うぐっ⁉︎」
 呻き声は、宦官の口から漏れた。
 一向にやってこない衝撃に、詩夏は恐る恐る瞼を上げる。一瞬の間ののち、眼前に白目を剥いた宦官がどさりと転がり落ちてきてヒッと息を飲んだ。
 降り落ちるのは聞き知った声。
「——誰に断ってその人に触れている」
 冴え凍る瞳でこちらを睥睨するのは憂炎。右手に抜き身の剣を持ち、皇帝にのみ許された冕服の袖を翻す。白刃が窓からの日を受けてきらめいた。
 その白々とした輝きに、詩夏の産毛が逆立った。
 弱々しい悲鳴を上げて、宦官が腰の抜けたようにへたり込む。詩夏は慌てて跳ね起きた。本気の殺意だ。人が死ぬのは見たくない。宦官と憂炎の間に立ち塞がるように両手を広げ、
「わ、わ、私は無事! だからどうか刃を収めて!」
 色の失せた憂炎の瞳がちらと詩夏に向けられる。ぞくりと背筋に冷たいものを感じたとき、兵士たちがドッと府庫に雪崩れ込んできて、憂炎は鞘に刀身を収めた。
 宦官が引き立てられていくのを声もなく眺めていると、指示を出し終わった憂炎に腕を引かれる。