(さい)詩夏(しか)蓮月(れんげつ)国の玉座の間に入ったのは、その日が初めてだった。
 役人や宦官が五十人ほど詰めかけているにもかかわらず、まだまだ余裕のある広さ。壁にはこの国の創生譚が、天井には天宮図が、砕いた瑠璃や緑青、辰砂などを惜しみなく使って描かれている。
 けれど、詩夏にその美しさを愛でている余裕はなかった。
 なぜなら、詩夏は今から死罪を言い渡されるところだったからだ。
 玉座の間の奥に設えられた豪奢な椅子。そこに座っているのは蓮月国皇帝である蓮浩然(こうねん)、その隣の繊細な意匠の椅子に座すのは皇后、珠蘭(しゅらん)だ。
 珠蘭が真っ白な手を上げて、ざわめく室内を制する。その手の甲に、紅い痣のような紋様が浮かんでいるのが見えた。この国に豊穣を齎す唯一の存在——『連理の姫』である証、『比翼の印』だ。
 瞬く間に室が静まり返ると、珠蘭は満足げに頷いて口を開いた。
「蔡詩夏は、昭儀という立場にもかかわらず、(わらわ)に毒を盛ろうとした。これは明らかに主上の治世を脅かす罪じゃ。よって蔡詩夏は死罪。連座としてその父母、兄弟姉妹も全て縛り首がよかろう。異を唱える者はおるか?」
 詩夏はきつく唇を噛んだ。全て嘘っぱちだ。蔡家は政争に敗北した。皇后という立場を超えて(まつりごと)に介入しようとする珠蘭と、吏部尚書を務める父が対立し、そして負けたのだ。詩夏の罪などでっちあげに過ぎない。詩夏が妃嬪だったからちょうどよかった。それだけだ。
 玉座の間の中央に立たされた詩夏の元に、縄を打たれた両親と姉の雪花が連れられてくる。後宮入りして以来、久しぶりに会った両親はひどく年老いて見えて、詩夏の胸が痛んだ。
 ただ姉だけは、最後に別れたときそのままに可憐な容貌を保っていた。当然だ、彼女は大貴族の次男に嫁ぎ、それはそれは大切にされているという話だから。
 はらはらと落涙する雪花を、皇帝が舌舐めずりしながら凝視している。それから詩夏に視線を向けてため息をついた。
 逃した魚の大きさを嘆いているのだろう、と詩夏にはピンときた。
 かつて、雪花は妃嬪として後宮入りを望まれていた。しかし、美しい雪花が後宮で苦労するのは忍びない、と両親は代わりに詩夏を差し出して断ったのだ。雪花とは違って凡庸な詩夏なら後宮で埋もれるだろう、と。詩夏は「任せて!」とからりと笑って頷いた。「じゃない方」の扱いには慣れていた。
(だから主上のお手つきにもならなかったのに、こんなに注目を集める日が来るなんて思ってもみなかったわ)
 詩夏が無実の罪で捕らえられたのは数日前。それから今日までをずっと牢で過ごし、もはや死への恐怖はなくなっていた。顧みれば、誰にも望まれない人生だった。そんな詩夏が死んだところで、一体誰が惜しんでくれるというのだろうか。
(いや、もしかするとあの子だけは——)
 脳裏に幼い男の子の姿が浮かぶ。後宮に出入りを許される数少ない男。主上の七番目の息子だという小さな皇子。やけに詩夏に懐いてくれた、可愛い子供だった。
 詩夏は一瞬だけ固く目を瞑り、その懐かしい面影を振り払う。それより家族とともに死の運命を受け入れようと顔を上げたとき、父の声が玉座の間に響いた。
「お待ちください、主上!」
 父は震えながらその場に膝をついた。そのまま床に額突き、
「どうか雪花だけはお救いいただけませんでしょうか!」
 なんだと、と断罪劇を見物していた役人たちがざわつく。その視線が一斉に雪花に集中した。
 雪花は何も言わず、ちょっと俯いて涙をこぼしている。白い頬に水晶のような雫が流れて、雪の彫像が溶けるような儚さを醸し出していた。
「私からもお願いいたします! 雪花は私たちの可愛い娘なのです! 詩夏は仕方ないにしても、雪花だけは!」
 母も父の隣に身を投げ出して悲痛な叫び声を上げる。詩夏は呆然と立ちすくんだまま、両親と雪花を忙しく見比べた。
 呼吸が浅くなる。口の中がカラカラに乾いて、舌が上顎にくっついて離れない。きっと今、詩夏は青ざめて酷い顔をしているだろう。泣き顔も美しい雪花とは違って。
 玉座の間に、雪花に同情するような空気が流れ始める。皇帝が、ふむ、と呟いて顎を撫でた。
「確かに、そちらの娘はすでに嫁いで蔡家の人間ではないのだな。よかろう、雪花の罪は免除する」
 言い渡された瞬間、雪花が顔を上向けた。黒々とした大きな瞳を細め、堪えきれないというようなか細い声で、
「ああ、主上——ありがとう存じます」
 白い頬に朱が差して、恋する乙女の如く初々しく。玉座の間に集った全ての人間の視線を独占する、鮮烈な美貌だった。
 両親も口々に礼を言う。役人も宦官も安堵の胸を撫で下ろしている。珠蘭は苦々しく顔をしかめるものの、反対する気はないようだった。
 その中で、ただ一人、詩夏は——。
 今にも倒れそうになりながら、両親と雪花を見つめていた。三人は身を寄せ合い、涙ながらに別れを告げていた。
 兵士が近づいてきて、詩夏の腕を捕らえる。そこで初めて、心臓が異様に速く脈打っていることに気付いた。顔中に冷たい汗が噴き出て、視界の端が黒く染まっていく。
(私、死ぬ覚悟は決めていたはずだったのに)
 玉座の間から連れ出されながら、詩夏は荒い呼吸を繰り返す。
(全然、違った。お父様やお母様、雪花姉様と同じ気持ちだと思い込んでいたから、受け入れられただけだった……)
 兵士たちは詩夏を処刑場に連れて行こうとしている。もつれる足でほとんど引きずられるように歩きつつ、詩夏は心の中で呻いた。
(もしも次があるなら——)
 処刑方法は縛り首と決まっている。細い絹紐が首にかかる感触がやけにはっきりと感じられた。
(一人で死なずに済むくらい美しく生まれたい——!)
 蔡詩夏、享年二十。
 誰の日記にも残らないような、他愛もない死だった。