「聖女スピカ、貴様との婚約を破棄する」

 宮廷のパーティー会場にて行われている、上流階級を招いた夜会。
 その場にて、私は婚約者の第二王子ハダル・セントに婚約破棄を告げられた。
 周囲から夜会参加者たちの視線が殺到する。

 いつもは不干渉な婚約者が、いきなり今回の夜会に呼び出してきた。
 だから私はてっきり、正式に式の日取りでも決めて、皆の前で発表するんじゃないかと期待した。
 気合を入れてドレスを新調し、流行の装飾品も取り揃えて精一杯にめかし込んだ。
 けど、そんな風に浮かれていた私が間抜けでした。

「ど、どうしていきなり、婚約破棄なのでしょうか? それに、お隣のそのご令嬢は……」

 彼の隣には、煌びやかな黒ドレスを着ている女性が立っている。
 普段から彼と仲良くしている姿をよく見る侯爵令嬢カペラ。
 彼女はあからさまにこちらに見せつけるように、ハダル様の腕にぎゅっと身を寄せていた。
 私にはないたわわな果実がハダル様の腕に触れていて、それを羨むように見つめる貴族子息の者たちもチラホラと。

「どうやら婚約破棄された理由を自覚していないらしいな。ならば教えてやろう」

 ハダル様は周りの参加者たちにも聞こえるように声を張り上げた。

「貴様も知っての通り、近頃は様々な分野の技術進歩が目覚ましい。特にポーション技術の発展は目を見張るものがあり、誰でも良質なポーションを手に入れられる時代がすぐそこまでやって来ている」

 ハダル様はまさにその現物であるポーションを懐から取り出す。
 それを掲げながら、彼はさらに続けた。

「これにより聖女の治癒魔法は完全に無用の長物となる。聖女という存在自体に価値が無くなるのだ。そのためこの俺との婚約も破棄とし、宮廷からも解雇とする。そして俺はここにいる侯爵令嬢のカペラ・ラビアータを新たな婚約者として迎え入れることを宣言する」

「……」

 衆人たちのどよめきが会場を満たす。
 確かに今、ポーション技術の進歩は著しい。
 服用するだけで体の傷がみるみる塞がっていく魔法薬。
 聖女の私が使える治癒魔法とほとんど同じ効力を発揮する。
 だから私も聖女としての立場が危ぶまれるかもしれないと危惧していた。
 実際ここ最近は、治療活動を行う宮廷治療室に来るお客さんは減ってきていたし。

 でもだからって、いきなり解雇宣告と婚約破棄なんて理不尽すぎる。
 これまで私は、国民だけでなく王国騎士団の治療にも尽力してきた。
 ハダル様の婚約者として合間の花嫁修行も欠かさなかったのに。
 私たちの間に愛はなかった。でも国王陛下の意思で婚約が決まり、同じ使命感を持っていると思っていた。
 でも彼は、すぐにでも私との関係を終わらせて、侯爵令嬢カペラと添い遂げたいと思っていたようだ。

「長い間待たせてしまってすまないな、カペラ」

「ようやくハダル様はお辛いご使命から解放されるのですね。王族だからと言って聖女との婚約を義務づけられ、自由を奪われてしまうなど何度聞いてもお労しいですわ」

「しかしそんな使命も今世代限りで終わりだ。ポーション技術の発展により、聖女の力は不要になったのだからな。これでカペラとの真実の愛を貫くことができる」

 聖女。
 白色の魔力……通称『聖女の魔力』を宿した人間のこと。
 人は生まれながらに『魔力』を宿していて、『魔法』という超常的現象を引き起こすことができる。
 魔力には“色”が存在し、色によって得意魔法というのが変わる。
 赤魔力は炎魔法、青魔力は水魔法、緑魔力は風魔法、といった具合に。
 そして白魔力を持つ者は治癒魔法を得意とし、白色以外の魔力では治癒魔法を扱うことができないのだ。

 加えて白魔力を宿した人間は一世代に一人のみしか現れないと言われているほど希少。
 そのため白魔力持ちの人間はどの時代でも大事にされて、身分に関係なく宮廷で保護されたという。
 かつて世界的な大災害から王国を救った実績もあり、いつの時代からか白魔力を持った人間を『聖女』、白色の魔力を『聖女の魔力』と呼ぶようになった。
 かくいう私も五歳の時に白魔力を持っていることが判明してから、聖女として宮廷に囲われた。
 魔力の色や濃さはある程度血筋によって決まるため、聖女の魔力が後世に受け継がれる可能性を少しでも高めるために、王家の人間との婚約も結ばされた。

 しかし今、長らく続いてきたその慣習が終わりを告げようとしている。
 ポーション技術の発展によって。
 でも、ここで素直に婚約破棄を受け入れるわけにはいかない。

「お待ちくださいハダル様」

「なんだ? 何か文句でもあるのか?」

「私たちの婚約はすでに契約として、両家の間で正式に交わされております。確認なのですが、此度の婚約破棄を国王様は承知していらっしゃるのでしょうか?」

 夜会の場にはハダル様とカペラ、そして招かれた上流階級の人間しかいない。
 彼の兄である第一王子も、王国騎士団を率いて魔占領域の開拓作戦に参加中で王都に不在。
 国王様も王妃様もおらず、ハダル様より上の位の人物が一人もいない状況なのだ。
 もしかしたらこれはただのハダル様の暴走で、国王様に伝えれば彼を止めてくれるかもしれない。
 そんな淡い期待も、即座に打ち砕かれた。

「貴様も知っての通りだ。父上……リギル国王は現在、幼少時に受けた魔物の呪いが悪化し、体調を崩されて治療院で療養中だ。まともに面会も叶わない。だがリギル国王も必ず同じ決断をすると断言できる」

「そこは、国王様の意向をきちんとお確かめになってからの方が……」

「くどいぞ!」

 えぇ……
 聞く耳を持たないとはまさにこのこと。
 確かに国王様も聖女に価値が無くなったと判断する可能性はある。
 それほどまでに、現在普及しつつあるポーションは使い勝手もいいから。
 それで私が解雇されても不思議じゃないけど、そこは一応確かめてから婚約破棄の話を進めるべきなんじゃないでしょうか?

「貴様の思惑はわかっているぞ。生家のヴァルゴ伯爵家は多額の負債を抱えている。俺との婚約を成立させ、王家から経済的支援を得ようと考えているのだろう」

「王家との繋がりにしがみつこうという魂胆が見え透いておりますわよ」

 いや、確かにその通りではあるんですけどね。
 私の実家のヴァルゴ伯爵家は、先代の時期に魔物被害と領地の不作の二重打撃によって経営不振に陥っている。
 多方から多額の借金も背負っていて、このままでは地位の返上もやむなく没落する可能性がある。
 だから私に『聖女の魔力』が宿っていることがわかって、家族は揃って歓喜したものだ。
 王家との繋がりを得られれば、貧乏伯爵家の実家と領民たちを裕福にすることもできるから。
 そんなわけで私は、ハダル様との婚約を破棄されるわけにはいかないんだけど……

「たかが貧乏伯爵家の令嬢と第二王子の婚約が成立していたのは聖女に価値があったからだ。しかし聖女に価値がなくなればこの婚約は成立しなくなる。俺は呪縛から解き放たれて、真に愛する者と結ばれることができるようになったのだ」

 そのようなことを言われてしまえば、私に反論の余地はなかった。
 そして遅まきながら、今回の夜会はこのために催されたのだと理解する。
 聖女が無価値になったことを強調するための場所。
 加えて侯爵令嬢カペラとの婚約を大々的に発表するための場所。
 周りに目があれば、私もしつこく反論してくることはないと考えたのだろう。
 事実、会場は沸き立っていて、私は水を差すことができなかった。

 人知れずドレスをぎゅっと握り、身につけた装飾品が虚しく音を立てる中、私は涙を堪える。
 こんなに気合を入れて着飾って、馬鹿みたいだ。
 お互いが十八になったら婚姻を結ぶことになっていた。
 ちょうどその歳になったものだから、今日は式の日取りを正式に発表するものだと思っていたのに。

「皆様方、真実の愛によって結ばれたこの第二王子ハダルと婚約者のカペラのことを、これからどうか温かく見守ってくださいませ」

 政略だからって、私はハダル様の花嫁になれることを誇りに感じていた。
 分不相応かもしれないけど、あなたに相応しい花嫁になろうと決心していた。
 今日は皆に正式な婚姻を祝福してもらえるものだと、すごく嬉しい気持ちで満たされていたのに。
 衆人たちの拍手が鳴り響く中、私は耐え切れなくなって逃げるように背を向けた。
 そして背中越しにハダル様とカペラの仲睦まじいやり取りを聞きながら、宮廷のパーティー会場を後にしたのだった。



 宮廷に用意された自室で荷物をまとめて、私はその足で宮廷を出た。
 宮廷を出る直前、ハダル様の従者から後日生家の方に少なからずの慰謝料を手配する旨を、淡々と伝えられた。
 それを聞いて、改めて私は王子の婚約者でなくなったのだと自覚する。
 そしてその日は、とりあえず王都の宿に部屋をとって、そこで寝泊まりをすることにした。
 少し冷静になる時間と空間が欲しかったから。

「はぁ……」

 私はドレスと装飾品を取り払い、身軽な格好でベッドに倒れて嘆息する。
 思いがけない婚約破棄と解雇宣告。
 なんだか、これまでの頑張りをすべて否定されたような気持ちになった。
 たとえ愛がなくても立派な花嫁になろうと勉学と修行を怠らなかった。
 実家のためとは言え、王子の花嫁に相応しい女性になろうと心では誓っていた。
 でも無惨にも、私たちの間には少しの絆すら芽生えてはいなかったんだ。

「……いや、違うか」

 これは私が悪いんだ。
 使命に甘んじてハダル様との仲を深めようとしなかった私の失態。
 聖女である限りこの婚約は必ず成功すると慢心していた私の怠惰。
 しっかりハダル様と良好な関係を築けていたなら、私は見捨てられることはなかったんだ。
 カペラと仲良くしている姿を見て、どうして少しでも焦りを覚えなかったんだろう。
 婚約者としてもっと近くに寄り添うべきだった。好きになってもらえる努力をするべきだった。

「ごめんなさい、お父様、お母様。私が不甲斐ないせいで……」

 ……いや、くよくよするのはこの辺でやめておこう。
 それよりもこれからどうするかについて考えた方が建設的だ。
 ポーション技術の発展と普及のせいで、私は聖女のお役目を奪われてしまった。
 それによって婚約も破棄されて、宮廷も追放されてしまった。
 私は新しい働き口を見つけて、生活基盤を整えなければならない。
 どのような仕事に就くか、どのように仕事を探すかそれらを真っ先に考えなければ。
 ひとまず実家に戻るという手もあるけど。

「……できれば家には帰りたくないなぁ」

 落ち込むみんなの姿を見たくない。
 聖女の魔力が宿っているとわかって、私は宮廷にお呼ばれされた。
 その時の、感涙で顔を濡らしていた家族たちの様子が今でも忘れられない。
 宮廷を追い出されて婚約も無くなったと知ったら、きっとひどく落ち込んでしまうと思う。
 おまけに家族のみんなは優しいから、私のことを精一杯慰めてくれるだろうけど、その空気感に耐えられる自信がない。
 やっぱり実家に戻る手は無しだ。謝罪の手紙だけ送っておこう。

 というか私としては、今はこの国にいたくない。
 じきにここヴィーナス王国では、私が婚約破棄されて宮廷も追い出されたという不名誉な話が広まる。
 そうなれば憐れみの目や多くの嘲笑を受けることになるのは想像に難くない。
 きっと貴族令嬢らしく社交界に参加しても、後ろ指を指されて笑われるだけなんだろうなぁ。
 本音を言えば、ほとぼりが収まるまでは誰も自分のことを知らない場所で静かに過ごしていたい。

「となると、隣国のアース王国かなぁ」

 私は脳内で地図を広げて行き先を思い描く。
 アース王国なら誰も私のことを知らないし、不名誉な噂が流れてくることもまずない。
 このヴィーナス王国より僅かに魔物被害が多いくらいで、市民の生活水準は変わらないくらいだし。
 そこでしばらく過ごして、皆が聖女への関心を無くした頃に戻って来るのはどうだろう。
 悪くない案だと思う。

 で、問題は、その隣国でいったい何をするかだ。
 人間、仕事に従事していなければ食いっぱぐれるのが世の常。
 働かざる者食うべからずだ。
 一応、聖女時代にそれなりにお給金はもらっていたので、実家への仕送りをしながらでもそこそこの蓄えはできた。
 両替商に通貨を換えてもらえば、向こうでもしばらくは暮らせると思うけど、それもそう長くは持たない。

 だから食べていくための稼ぎ口をきちんと確保しないと。
 パッと思いつくのは酒場の店員とか花屋の手伝いかな?
 今までずっと宮廷にこもって治癒活動ばかりしていたから、私にできることなんて限られている。
 普通の魔術師だったら傭兵か衛兵という道もあるのだろうけど、白魔力では治癒魔法以外の魔法はほとんど使いものにならないから。

 ――まあ私としては、やっぱりまた誰かの傷を癒すような仕事に就きたいけどね。

 苦しんでいる人の傷を癒して感謝される。
 あれはとてもいいものだ。
 みんながみんな笑顔になって優しい気持ちに満たされるから。
 それなら隣国で治癒活動でもしてみようかな。
 あっ、でも、向こうでもポーションの普及は始まっているよね。
 だとすると怪我をして困っている人はほとんどいないよなぁ。

「ポーションポーションポーション……そんなにポーションがいいですか……」

 ポーションに仕事を奪われた憤りが沸々と出てくる。
 まあ、ポーションの方が使い勝手がいいのは認めるけどさ。
 手軽に持ち運べるし長期間の保存もできる。
 それなりに魔力を鍛えた人なら比較的簡単に調合もできるし。
 怪我人に直接手をかざして治癒魔法を掛けてあげる時代は終わりを告げてしまったのだ。
 そんな古臭い方法より、今はポーションの方が……

「あっ、そっか」

 ポーション、私も作っちゃえばいいんだ。
 ポーションを自作してそれを売る。
 そうすればまたみんなの傷を癒してあげることができる。
 それにポーションが普及したとは言っても、使い勝手の良さから供給が追いついていないと聞く。
 出せば出すだけ売れていくとのことなので、一攫千金を狙ってポーション作りを生業とする『魔法薬師(まほうやくし)』を目指す人も多くなったのだとか。

 でも、全員が簡単になれるわけではない。
 ポーションを作るためにはそれなりの魔力が必要になるから。
 でも私は、五歳の頃から聖女として治癒活動をしてきたから、魔力だけはかなり鍛えられている。
 あとは材料と知識さえあれば、魔法薬師になることも充分に可能だ。

「そうだよ、何も治癒魔法にこだわる必要はないんだ……」

 時代が変わったのなら、それに合わせて私も活動方法を変えればいい。
 聖女の治癒魔法を捨てて、より便利なポーションの方で怪我人を癒してあげるんだ。

「よし、明日からさっそく頑張ってみよう!」

 嫌なことがあったばかりだけど、私はへこたれずに前向きになった。



 諸々の準備と手続きを終えて、私は隣国のアース王国へとやって来た。
 ここで私は再出発をする。
 ポーション作りを生業とする『魔法薬師』として。

「さて、まずはコズミックの町を目指そうかな」

 最初の活動拠点として選んだのは、アース王国で最も“冒険者”が多いコズミックの町だ。
 理由は単純明快、魔物討伐を生業とする冒険者が一番ポーションの使用頻度が高いからである。
 そのため町には魔法薬師もそれなりにいて、ポーションの生産と消費は国内一だと言えるだろう。
 ここでポーションを売れば、買い取ってもらえる可能性は高くなる。

 というわけでコズミックの町に到着した私は、さっそく町を回って材料調達をした。
 ポーション作りに必要な材料は三種類。
 エメラルドハーブ。スターリーフ。綺麗な水。
 ポーション自体の価格は需要も高いため値を張るが、材料そのものはそこまでしない。
 調合できる人が少ないからだろうけど、少しでも節約したい私にとってはありがたいことだ。
 それから調合に必要な道具と、一応見本としてポーションも一つだけ買っておく。
 そして宿屋で部屋を借りると、調達した道具と材料でポーションを作ってみることにした。
 ポーションの作り方も改めて事前に調べておいたので抜かりはない。

「さあ、やってみますか。えっとまずは……」

 スターリーフを乳鉢と乳棒でコリコリと潰す。
 爽やかな香りが出てきて半ペースト状になったら、次に小さな調合釜を用意する。
 そこにエメラルドハーブと水、さらに潰したスターリーフを入れて火にかける。
 そして特殊な木ベラでかき混ぜながら魔力を注入し、煮立った液体を濾して冷ませば完成だ。

 これが技術進歩を遂げた、最先端のポーション製作方法。
 一見シンプルに見えるが、従来のポーションの作り方からかなり変わったらしい。
 そもそも以前は、材料がエメラルドハーブと水だけだったそうだ。
 治癒効果も気休め程度のもので、とても治療に使える代物ではなかったとのこと。
 それもそのはず、上記の二種類の素材だけではポーションにほとんど魔力が溶け込まないから。
 そのせいでハーブの治癒効果もほとんど活性化されず、粗悪なポーションが出来上がってしまうらしい。

 しかし研究が進むにつれて、スターリーフを水に溶かすと魔力の循環が促されることが判明した。
 加えて神木という神聖な木材で作った木ベラで魔力を注入すると、より効果的に魔力が注がれるとのこと。
 神木は魔術師の杖の素材にも使われていて、それをポーションの調合にも応用した結果、最大限の魔力を注ぎ込めるようになったのだとか。

「くるくる〜」

 そんなことを思い出しながら木ベラを動かしていると、やがて液体が完全に煮立った。
 それから一分ほどぐるぐるかき混ぜて、ハーブの成分が完璧に抽出されたのを確認して火を消す。
 あとはこの液体を冷まして瓶詰めすればポーション作りは終了だ。

「ふぅ、なんとかできた」

 小瓶に入った翠玉色の液体を見つめながら、私は安堵の息を吐き出す。
 そこまで複雑なことをしたわけじゃないけど、魔力を注ぎ込む分それなりに疲労感がある。
 確かにこれは充分に魔力を鍛えた人じゃないと作れないかもしれない。
 この手応えからすると、私も一日に二十本程度が限界だろう。
 まあとりあえずは第一号が無事に完成した。
 さて、問題は……

「うーん、どうやって治験しよう」

 これが上手く出来上がっているか確かめないと売り物にはできない。
 でも、私は別に怪我をしているわけじゃないから、自分で飲んでも確かめることができないんだよねぇ。

「や、やっぱり、これしかないか……」

 私は荷物の中から小さな“ナイフ”を取り出す。
 その刃を自分の指先にちょんと当てて、ごくりと喉を鳴らした。
 そう、傷がないなら、作ってしまえばいい。
 ナイフで指先を少し傷付けて、それからポーションを飲んで傷の具合を確認する。
 もしポーションがちゃんと作れていたら傷は治るし、何より指先だからそこまで痛くないはず。
 いざとなれば治癒魔法でも治せるんだから。
 そう、怖がる必要なんてない。

「う、うぅ……!」

 私はナイフの冷たい感触を指先に感じたまま、まったく動くことができなかった。
 やっぱり怖いよぉ。さすがに自分の体を傷付けるのはすごく怖い。
 これまで聖女として丁重に宮廷に囲われていて、危険なことから遠ざけられていた。
 だから痛みや苦しみとは無縁の生活を送ってきて、ろくに怪我だってしたことない。
 それでいきなり自傷はかなりの勇気が必要になる。
 いや、情けない足踏みをしている場合じゃないか。
 私は思い切って、『ピッ』と指先の薄皮を切った。
 瞬間、傷口から『プクッ』と血が出てくる。

「ひぃ! 痛い痛い痛いぃ! じゃあいただきまーす!」

 ゴクゴクゴクッ!
 夏場で猛仕事をした後、井戸から汲み上げたばかりの冷水を煽るかの如く一息に飲み干す。
 と、勢いで飲んでしまったけれど、ポーション自体の味や風味はちゃんと感じ取れた。
 一言で例えると、爽やかなハーブティーという感じだ。
 スターリーフの柑橘系を思わせる爽快な香りも悪くない。
 砂糖か蜂蜜でも加えれば子供でも飲みやすくなるんじゃないかな。
 そんな感想が脳内を駆け回る中、気が付けば指先の方に感じていた痛みが消え去っていた。

「な、治ってる!」

 傷付けた指に目をやると、そこは何事もなかったかのように完治していた。
 ってことは、これはちゃんとしたポーションってことだよね?
 よかった、調合手順も間違えてなくて、魔力もきちんと注ぎ込めていたみたいだ。
 これでとりあえずは売り物にできるぞ。
 手がける人によって多少の治癒効果の差は生まれるみたいだから、正直もう少し効果を確かめてみたかったけど。
 それにしても……

「これが、ポーションの力……」

 確かにとても便利だ。
 飲むだけという手軽さ。低コストの材料。充分な魔力があれば誰でも調合ができる簡易性。
 それでいて私が使っていた治癒魔法と同等の効果を発揮するのだから、悔しいけど納得できる。
 ポーションに私の仕事が奪われてしまったのも、仕方がないのかなと。

『これにより聖女の治癒魔法は完全に無用の長物となる。聖女という存在自体に価値が無くなるのだ』

「……」

 ハダル様の言葉を思い出してしまい、私は静かに唇を噛み締める。
 すごく悔しい。けど、今は悔やんでいる暇なんてない。
 私はこれからこのポーションを作って、自分に新しい価値を見出すんだから。

「よしっ、どんどん作っていこう……!」

 最低限の治癒効果は確認できたので、これをたくさん作って明日売りに行くことにした。



 翌日。
 作ったポーションを売るために、朝一番に商業ギルドに行って出店許可を得た。
 さらには出店場所の確保も抜かりない。
 町の東側にある商業地区の端っこの方にある酒場。
 その前の小さなスペースを、貸借料を支払って一週間借りる手続きをした。

「よしっ!」

 そこに大きな布を敷いて、布の上に昨日作ったばかりのポーションを並べる。
 かなり簡易的ではあるが、これで一応露店は完成だ。
 あとはひたすらお客さんが来るのを待つだけ。
 ここは酒場の前ということで、仕事終わりの冒険者たちが頻繁に通る道だという。
 だからポーションも買ってもらいやすいのではないかと思ってこの場所を借りてみた。

「ポ、ポーション……ポーションはいかがですか!」

 慣れない大声まで出して、客引きも精一杯してみる。
 しかし町を歩く人たちは、チラッとこちらを一瞥するだけで通り過ぎてしまう。
 たまにこんな会話も聞こえてきた。

「あっ、ポーション売ってるけどどうする?」

「まだ手持ちはあるしいいだろ。それに顔も名前も知らねえ魔法薬師だからな」

 やっぱり無名の魔法薬師だと、人がそんなに寄りついて来ないみたいだ。
 ポーションは誰が作ってもそれなりの治癒効果が保証されてはいるけど、それでも差は出るし。
 どうせ買うなら信用のあるところから、というのは当然の考えだ。
 ちなみにポーションの値段は一つ1000テルス。
 これはどうやらギルドで定められているポーションの基本価格らしい。
 これより下げるのは禁止のため、私もそれに倣ってその値段で売ることにした。

 だから低価格設定による客寄せもできない状況となっている。
 せめて今日の分の貸借料くらいは取り戻せたらと思ったけど、これだと厳しいかな。
 と思っていると、やがて一人の冒険者らしい男性が露店に近づいて来た。
 しかしよりにもよってそれは、超絶強面のイカつい男性冒険者だった。

「い、いらっしゃい、ませ」

「嬢ちゃん見ねえ顔だな」

「は、はい……ごめんなさい」

 なぜか我知らず謝ってしまう。
 だってめっちゃ怖いんだもん……!
 掠れた濁声に丸太のように太い手脚。
 糸のように細い黒目からは恐ろしい眼光が放たれている。
 お客さん、でいいんだよね? 恫喝しに来たとかじゃないよね?

「ほぉ、ポーションを売ってんのか。もしかして嬢ちゃんの手製か?」

「そそ、そうです。魔法薬師になりたくて、思い切って田舎から都に出てきて……」

 聖女のことは念のため伏せておく。
 この国にまで噂が流れているわけではないけど、聖女の存在自体は知っているだろうから。
 すると強面の男性は……

 くしゃっと、怖い顔を笑わせて、こくこくと頷いた。

「若いってのに大したもんだ。見たところポーションの出来もかなり良さそうだしな。町に出てきたばっかじゃ、色々金銭面とかで苦労することもあるだろうが、無理のない範囲で頑張ってくれ」

「…………は、はい。ありがとう、ございます」

 そして男性冒険者は、ポーションを二本買って立ち去って行った。
 怖い人かと思ったら、めちゃくちゃ優しい人だった。
 無名の私のポーションを買って行ってくれて、気遣いの言葉までくれた。
 しかもちゃっかり二本も買ってくれたし。
 人を見た目で判断してはいけない。

 とりあえず最初の売り上げを手にすることができて、私は嬉しい気持ちを噛み締めた。
 また、誰かの傷を癒して、役に立つことができた。
 お金をもらったことで、自分にはこれだけの価値があると言ってもらえたような気持ちになる。
 聖女として価値を失くした私だけど、新しい価値をまた誰かに認めてもらうことができたんだ。

「よし……! よし……!」

 この調子でどんどんお客さんを呼び込もう。
 今日の販売分の二十五本が全部捌けなくてもいいから、一本でも多く手に取ってもらうんだ。
 そして私のことを一人にでも多く知ってもらう。
 ポーション技術の発展でお払い箱になった哀れな聖女ではなく、魔法薬師スピカとして。

「私は無価値の存在じゃない……! 私はこの場所で、新しい価値を示してみせる……!」

 それから私は、一層大きな声で客引きをした。
 今さらになって沸いてきた、婚約破棄と強制解雇に対する怒りを発散するかのように。
 すると思った以上に足を止めてくれる人が多く、ポーションも凄まじい早さで売れていった。
 気が付けば、露店に並べていたポーションは綺麗になくなっていた。

「たくさん売れてよかったぁ」

 私の客引きがよかった、というよりも、やはりポーションの需要が凄まじいように思える。
 まあ長期の保存も効くし、いくらあっても困るものではないからね。
 無名の魔法薬師とはいえ、ちゃんとギルドの性質調査も通っていて、最低限の品質は保証されているわけだし。
 ともあれ明日からもこの調子で、どんどんポーションを作って売り捌いていくぞ。
 “少しずつ”でいいから、魔法薬師として名前を知ってもらうために。



 それから三日後のこと。

「もうポーションは売り切れてしまったのか!?」

「頼む! 今すぐに新しいポーションを作ってくれ!」

「一つ1万……いいや、10万テルスでいいからよ!」

 なんか、私のポーションが大反響を呼んでいました。

――――

 アース王国、第一王子レグルス・レオ。
 彼は『血染めの冷血王子』と謳われるほどの猛将だ。
 王子として王国騎士団の第一師団を率いて、敵国の軍と戦ったり魔占領域を切り開いたりしている。
 その武勇伝は数知れず、彼を現代最強の魔術師と断言する者も多い。
 特にその根拠として、彼の特異的な魔力が挙げられる。

 レグルスの魔力は世界でも類を見ない“黒い色”をしている。
 魔力は色によって得意魔法が変わるようになっているが、黒魔力だけは例外。
 黒魔力は治癒魔法を除いたすべての攻撃魔法を、最大限の力で扱うことができる。
 加えてレグルスは、その潜在能力に寄りかかることなく努力と研鑽を惜しまなかった。
 魔術師として経験と知識を蓄えて、王子として騎士団を導く指揮能力も磨き上げた。
 討ち倒した敵国の名将や災害級の魔物は両手では数え切れず、王国に光を灯す存在となっている。
 もはや世界的に見ても、歴史上に名前を残す人物であることに、疑いの余地は一片もありはしない。

 しかし、そんな彼は今…………見違えるかのように床に臥していた。

「……」

 鍛え抜かれていた体は線が細くなり、ガウンの隙間から覗く胸板は若干骨張っている。
 黒髪で僅かに隠れた目元には包帯が巻かれていて、両目を完全に覆っている。
 そんなレグルスからは気力も覇気も感じず、見た者は弱々しい男性という印象しか受けないだろう。
 血染めの冷血王子と呼ばれていた猛将の影は、今や影も形もない。

「レグルス様、失礼いたします」

「……ベガか」

「昼食をお持ちしました」

 そんな彼の部屋に、一人の少年がやって来る。
 ベガ・ライラ。
 公爵家の長男で、騎士修行のために二年前にレグルスの従者になった。
 修行中の見習い騎士は、手本となる先輩騎士の身の回りの世話をしながら騎士の素養を積んでいく。
 しかしベガが従者になった時には、すでにレグルスはこの状態で、ベガは本来の見習い騎士とは少し違った形で主の世話をしていた。

「本日もお手伝いさせていただきます」

「……いつもすまないな」

 ベガはレグルスが腰掛けるベッドまで行くと、昼食を匙でよそって口元にゆっくりと運んだ。
 レグルスは唇に匙が触れてからようやく口を開けて、匙の中身を口に含む。
 レグルスは、完全に“目が見えない状態”だ。
 二年前の災害級の魔物との戦いで、彼は仲間を庇って両目を失った。
 本来であれば死んでいてもおかしくないほどの重傷ではあったが、その時は運良くポーションを保有していた。
 当時はかなり希少だった上質なポーションを持っていたおかげで、なんとか一命は取り留めたが、完全に弾け飛んだ(まなこ)は再生されることはなかった。

 ポーションは常識外れの効力を持っている魔法薬ではあるが、所詮はただの傷薬だ。
 瞬時に傷を塞ぐだけで、人智を超越するような奇跡を起こせるわけじゃない。
 千切れた手足は繋がらないし、失われた部位は再生しないし、弾けた(まなこ)が元に戻ることもない。
 魔物はその後、辛くも撃退することができたが、レグルスは大切な両目を失って戦線離脱を余儀なくされた。
 それからというもの、一人で満足に生活をすることもままならず、その頃にちょうど騎士修行にやって来たベガに支えられるようになった。

「今日もこれくらいでいい。手を貸してくれてありがとう」

「も、もう少しお食べになりませんか? 味付けも甘めにと厨房に届け出て、レグルス様のお好みに合わせてみたのですが……」

 レグルスは無言でかぶりを振る。
 そう応えられてしまい、ベガはおもむろに匙を下げた。
 確かに甘めの味付けはレグルスの好みではあるが、目を失ってこの方、食事を美味しく感じない。
 視覚の効果というのは真に恐ろしいものらしく、それが何かを頭では理解していても、目からの情報がないと味がほとんどしないのだ。
 そのため食が進むことはなく、この通り細々とした体になってしまった。

「……恐れながら、レグルス様の体は栄養が不足しているように見受けられます。お食事の量を増やさないまでも、回数を増やして少しずつ取り入れていくというのはいかがでしょうか?」

「気遣ってくれて感謝する。でも大丈夫だ。これ以上ベガの自己鍛錬の時間を削ってしまうのも忍びないからな」

「私のことでしたら、お気になさらなくてもよろしいのに……」

 弱気なレグルスを見て、ベガは悲しげに肩を落とす。
 ベガは才腕を振るっていた当時のレグルスを知っており、密かに憧れを抱いている。
 幼い頃は高慢で公爵家の地位に寄りかかって怠惰な日々を送っていたが、血染めの冷血王子の勇姿を見て以来、心を奪われて真面目に魔法修行に取り組むようになった。
 ベガにとってレグルスは自分を変えてくれた恩人でもあるため、早く元気になってもらおうと親身に寄り添っている。

「私はレグルス様の従者ですので、身の回りのお手伝いをさせていただくのは当然のことです」

「だからと言って、このように付きっきりで見てもらわなくても大丈夫さ。それに僕も、多少のことなら自分で出来るようにはなったんだから」

「いいえ、お一人でいて怪我をされるかもしれませんので、どうか私にお手伝いさせてください」

 ベガは昼食を片付けながら、十四の少年らしい無垢な笑みを浮かべた。

「未来の国王様に、これ以上傷を負わせるわけにはいきませんから」

「……」

 ベガは第一王子のレグルスが次期国王になることを信じて疑っていない。
 しかしレグルス本人は、継承権を弟の第二王子に委ねたいと考えている。
 国の行く末を自分の目で見届けることができない国王など、滑稽だからと。

(ベガ、僕は君の顔すらまったく知らないんだよ。いつも身の回りの世話をしてくれている従者の顔もわからない。手を貸してもらわなければろくに城を歩くこともできない。本当にこんな僕が、一国を背負って立つ王になれるだろうか)

 そんな自嘲的な思いを、第一王子のレグルスは密かに抱えていた。

「あっ、そういえば忘れておりました。レグルス様、こちらをどうぞ……」

「んっ?」

 ゴトッとベッドの脇の小棚に何かを置く音が聞こえた。
 レグルスは音だけでそれが何かを察する。

「……また、どこかで仕入れて来たポーションか?」

「はい。お手すきの際に試してみてください」

 ベガはよく、町で見かけたポーションを仕入れて来る。
 彼はまだ、レグルスの目が治ることを諦めていない。
 超常的な効能を発揮する魔法薬であれば、いずれレグルスの目を治すものが見つかるのではないかと考えているのだ。
 もちろん失われた目を復元できる奇跡の魔法薬など、現状どの国でも開発や発見はされていないため、無駄な手間を掛けさせたとレグルスは罪悪感を募らせる。

「もう、無理に仕入れて来る必要はないんだぞ。所詮ポーションはポーションだ。この目を良くするほどのものが見つかるとはとても……」

「いえ、少しでも可能性があるのなら、試してみるべきだと私は思います。レグルス様の快気を、皆様心待ちにしていますから」

 そう言ったベガは、次いで興味深い話をした。

「それに今回のポーションは、少々面白い噂が流れておりまして」

「噂?」

「何やらコズミックの町では最近、とある魔法薬師のポーションが話題を集めているようです。特に冒険者たちの間で騒がれているようで、そのポーションを使った者たちいわく……」

 一拍置き、少し冗談めかすような口調で続けた。

「死んでいなければ、なんでも治してくれる秘薬だとか」

「ふふっ、それは本当に安全なものなのだろうな?」

 あまりにも冗談が利き過ぎているように聞こえる。
 そんなものが実在しているのなら、今頃世間は大騒ぎになっているはずだ。

「まあ、さすがにそれは言い過ぎかと思いますが、ポーション技術がまだまだ発展途上なのは確かです。もしかしたら不意に、レグルス様の目の回復を見込めるようなポーションも出来上がるかもしれませんよ。ですから引き続き、目ぼしいものを見つけましたらお持ちいたします」

「……面倒をかける」

 正直望みは薄いと思える。
 けれどベガの健気な思いだけは真っ直ぐ受け取ることにした。

「それにたとえ、目の回復が叶わずとも、私があなたの目になります。お傍に仕えてお役に立ってみせますから、どうかご安心くださいませ」

 ベガはそう言って、昼食を下げに行った。
 彼の前向きな空気に当てられて、レグルスは弱気になっていた心を少しだけ持ち直した。

(……そうだな。従者のベガがここまで親身になってくれているんだ。僕が弱気になってはいけない)

 目が治る可能性はほとんどないだろうが、それでも自分にできることはまだある。
 家族もいまだに背を押してくれていて、何より頼りになるベガが傍にいてくれる。

(ここまで支えてくれた皆の期待に応えたい)

 周りにはまだ苦労や不便をかけることにはなるだろうが、それでも諦めずに国王を目指すことを決めた。
 しかし、本音を言えば……

(この国の行く末は、しっかりと自分の目で見届けたかったがな)

 国の未来、国民たちの笑顔、大好きだった自然豊かなアース王国の景色。
 それがもう見られないというのは、やはりとても寂しく思えてくる。
 そんなことを考えながら、レグルスはベガが持って来てくれたポーションを手に取った。
 彼の優しさを無駄にしないために、小瓶の栓を開けてポーションを飲む。
 中身をすべて飲み干し、やはり何も変化がないことに少し落胆しながらも、従者の気遣いを感じて心は満たされた。
 今はこれだけで充分……

「んっ?」

 その時、レグルスは不意に目元に違和感を覚えた。
 何やら、目元が“熱い”。
 包帯の内側で熱気が広がるかのように、そこには確かに熱が生まれていた。

「なん、だ……これは……?」

 別に苦痛というわけではなく、むしろ心地良いとも思える温かな熱。
 次いで、空っぽだった目元に異物感のようなものが生まれて、レグルスは思わず目元を押さえた。

「い、いかがいたしましたかレグルス様!?」

 目を押さえて伏せていたからか、部屋に戻って来たベガが慌てて駆け寄って来る。
 心配はいらないと言うように、手を振りながら顔を上げたその時……
 包帯の隙間から、ベガの顔が“見えた”。

「見、える……」

「えっ?」

 そしてベガも見る。
 解かれかけた包帯の隙間から、失われたはずのレグルスの“黒い眼”が覗いているのを。

「レ、レグルス様、目が……!」

「あ、あぁ。どうやら、そうみたいだな」

 おもむろに包帯を取ると、暗闇に包まれていたレグルスの視界に、唐突に光が差し込んだ。
 久しく見る自分の部屋。見違えるように細くなった自分の手脚。初めて見る支え続けてくれた従者の顔。
 誠に信じがたいことに、失われたはずのレグルスの目が、一瞬にして元通りになった。

「う、噂は、本当だったということか」

 手にしていたポーションの空き瓶に目を移し、レグルスは驚愕の思いで息を呑んだ。

――――

 私のポーション、なんかおかしくない?
 そう気付いたのは、開店から三日目のことだった。
 その日のポーションがすべて捌き切れて、露店の後片付けをしている最中のこと……

 突然大勢のお客さんが押し寄せて来た。

『もうポーションは売り切れてしまったのか!?』

『頼む! 今すぐに新しいポーションを作ってくれ!』

『一つ1万……いいや、10万テルスでいいからよ!』

 みんな目の色を変えてポーションを買い求めに来て、私は思わず面食らったものだ。
 聞けば、ある冒険者パーティーの話がギルドに流れたのがきっかけらしい。
 魔物との戦いで仲間の一人が重傷を負い、右腕を落とされてしまったとのこと。
 そして止血のために私のポーションを飲んだところ……

 なんと、千切れた腕が再生したそうだ。

 普通のポーションであれば、千切れた腕は元に戻らずただ傷口を塞ぐだけのはず。
 しかし私のポーションは、欠損した部位を完璧に再生させることができたらしい。
 その事実に、製作者の私が一番びっくりしてしまった。
 まさかそこまでの治癒効果が秘められているなんて。
 ただ、それほどの効力が宿った理由に、少しばかりだけど心当たりはあった。

 おそらくだが、『聖女の魔力』が原因ではないかと思う。
 というかそれ以外に思いつかない。
 唯一治癒魔法を使うことができる白魔力が、ポーションの効力を大幅に活性化させた。
 それで腕を生やすほどの治癒効果が宿ったんだと私は考えている。
 とにかくあの日以来、私の露店には大勢の冒険者がやって来るようになった。
 あまりにも私のポーションを求める人が多いため、ギルドから値段の見直しを要求されたり、商店通りの端からもっと広いスペースに露店を移動するように言われたり……
 とりあえず値段を1万テルスに変更して、客足はひとまずの落ち着きを見た。
 ただそれでも、大枚を叩いてポーションを買い求める人はまだ多く、私はこの一週間でかなりの売り上げを叩き出したのだった。

「聖女の魔力に、こんな力が隠されていたなんて……」

 ただ治癒魔法が使えるだけの魔力じゃなかったんだ。
 すごいポーションを作れて、反響を呼ぶことができて、お金もそれなりに稼ぐことができた。
 自分の価値をみんなに認めてもらえたような気がしてとても嬉しい。
 そんなこんなで感触がよかったため、私は引き続きこの町でポーションを売ることにした。
 一週間は宿屋にこもってポーション作りに専念し、数を揃えてからまた出店許可をもらいに行く。

「いつかは自分のお店とか持てたりするのかなぁ……」

 そんな妄想をしながら、商業ギルドに向けて足を進めていると……
 近道の小道に入ったところで、目の前に黒ずくめの人物が現れた。

「……?」

 人がすれ違うのがやっとの道なので、私は端に寄って避けようとしたが、その人物は動かない。
 まるで私の行く先を塞ぐかのように佇んでいる。
 何か嫌な予感がした私は、すぐに踵を返して大通りに戻ろうとした。
 だが……

「えっ?」

 すぐ後ろにも同じような黒ずくめの人物がいて、いきなり二人に口と腕を押さえられてしまった。

「んぐっ……! んー!」

「おい、こいつだろ。例の秘薬作りの魔法薬師」

「あぁ、さっさと運んじまうぞ」

 黒ずくめの男二人は短いやり取りののち、手際よく私の手脚を縛って口に手巾を詰めてきた。
 そのまま流れるように大きな麻袋を取り出して、その中に私を入れようとする。
 まさか人攫い? でもこんな町の真ん中で?
 いくらなんでもリスクがありすぎるし、無理をしてまで狙うほどの価値なんて私には……

「悪いな、これからは俺らの指示で秘薬を作ってもらうぞ」

「あのとんでもねえポーションの出処を押さえちまえば、莫大な儲けは全部俺らのもんだ!」

「……」

 そうか、こいつらが目を付けたのは私ではなく、私が作るポーションだ。
 ポーションが高値で売れていることを知って、出処である私を押さえに来たらしい。
 そんな不届きな連中の言いなりになってたまるか!
 逃げることも叫ぶことも叶わなかったが、私は暴れることで麻袋に詰められるのを凌いだ。
 しかしやがて、痺れを切らした男が剣を抜き出す。

「おい、これ以上暴れるようなら容赦しねえぞ。どうせポーションで治るんだ、腕の一本くらい落としても問題ねえよな」

「……っ!」

 思わず血の気が引いて、私は暴れることをやめてしまった。
 こいつら、本気だ。
 冗談なんかじゃなく、本気で腕の一本くらいは問題ないという目つきをしている。
 あまりの恐怖心で身動きができなくなり、私はただ彼らに身を委ねることしかできなかった。

(誰か……誰か助けて!)

 刹那――

「そこで何をしているのかな?」

「あっ?」

 私の心の叫びを聞き届けてくれたかのように、一人の青年が私たちの前に現れた。
 力強さと優しさを感じる黒目に、そこに僅かに掛かるほどの黒髪。
 透き通るような白肌にはシミの一つもなく、顔立ちも大層整っている。
 年の程は二十代前半かそこらだろうか。
 羽織っている白コートや装飾品は上等なものに見えるが、本人は全体的に線が細長く、肉付きはやや悪く見える。
 それでも、例えようのない気迫みたいなものを感じた。
 この人はいったい……

「見たところ人攫いのようだから、町の治安のためにも拘束させてもらうよ。大人しく投降するなら手荒にはしないけど」

 人数的にも不利。体格的にも劣って見える。
 それでどうしてこんなにも余裕そうにしているのか。

「なんだてめえ? 邪魔するってんならてめえも容赦しねえぞ」

「つーかここまで見られて、ただで帰すわけねえだろ。てめえも一緒に来い」

「んー! んー!」

 黒ずくめの一人が青年に近づいて行き、私は思わず『逃げて!』と叫ぼうとした。
 この黒髪の青年では、人攫いの彼らに敵うはずがないと思ったから。
 しかし青年は……

「まだ病み上がりで本調子ではないんだけど、仕方ないね」

 呆れたように肩をすくめて、サッと右手を構えた。

「【氷の薔薇(グラシエス・ローザ)】」

「――っ!?」

 刹那、彼の右手に青い魔法陣が浮かび上がり、中から“氷の茨”が放たれた。
 凄まじい勢いで伸びたそれは、瞬く間に黒ずくめの男に絡みつく。
 男の体は氷の茨によって凍結し、完全に身動きが取れなくなった。
 驚異的なまでの魔法の操作精度。しかも使い手がほとんどいない氷魔法をこの次元で扱えるなんて。

「な、何者だ、てめえ……!」

「これでも多少は顔が知られていると自負していたけど、まだまだ威厳が足りないみたいだね。レグルス・レオ、と言えば伝わるかな?」

「レ、レグルスだと!?」

 男二人はその名前を知っているかのような反応を示す。
 それどころかその名前を聞いて、二人は途端に声を震わせ始めた。

「ど、どうしてお前が、ここにいやがる……!」

「血染めの冷血王子は、目を失って療養中のはずだろ!」

「……っ?」

 血染めの冷血王子って、確か……
 アース王国の第一王子の異名だったはず。
 世界で初めて黒魔力を発現させた規格外の魔術師。
 敵国の兵士に慈悲はかけず、返り血に塗れたその姿からそんな異名が定着したとか。

「まあ、まだ正式に公表はされていないけど、こうして無事に目が回復したんだよ。で、その関係である人物を探しにこの町に来たんだけど……」

 不意に冷血王子の視線が、私の方に向けられる。

「奇縁なことに、今まさに君たちが攫おうとしているその少女が、僕が探している人物と特徴が一致するんだ」

 わ、私?
 なんで王子様がわざわざ私のことを探しに来たんだろう?

「とにかくそういうわけだから、なおのことこの場を見過ごすわけにはいかないんだ。彼女を解放してもらうよ」

「う、うるせえ! そこから一歩でも動いてみろ、この女がどうなっても……」

 残っている人攫いの一人は、私に剣の先端を向けて怒号を飛ばした。
 冷血という噂が本当なら、私の命など顧みずに魔法を撃つんじゃ……
 そんな不安が脳裏をよぎった瞬間、地面から氷の茨が飛び出してきた。

「なっ――!?」

 不意なその攻撃に男は反応できず、手脚を絡め取られて氷漬けにされる。
 王子様は足でも魔法を発動させて、氷の茨を地中に走らせていたみたいだ。
 おかげで私は傷の一つも付けられることはなかった。

「君たちはこのままここで、衛兵が来るのを凍えながら待っているといい」

 次いでレグルス様は、私の口から優しく手巾を取り出して、そっと縄を外してくれた。

「怪我はないかい?」

「は、はい、大丈夫です」

「というか、もし怪我をしていても、君は自分のポーションで治せるんだったね」

「私のことを、ご存知なんですか?」

「あぁ、先ほども言ったけど、僕は君に会いにこの町に来たんだ。でもまさか、攫われそうになっている場面に遭遇するとは思わなかったけど」

 確かに探していた人物を見つけたと思ったら、攫われそうになっていたなんて奇縁だ。
 その時、大通りの方からガヤガヤとした喧騒が聞こえてきた。
 どうやら騒ぎを聞きつけて、町の人たちが集まって来たらしい。

「ここだと少し騒がしいね。この男たちを衛兵に任せた後、場所を移して話をさせてもらってもいいかな? 時間はそんなにとらせないから」

「は、はい」

 私としても助けてもらったお礼をしたいので、改めて話す機会を設けることにした。



 あわや攫われてしまうところを王子様に助けてもらった後、私はその彼と静かなカフェに来た。
 その道中でも少し話を聞いたけど、彼は秘薬作りの魔法薬師を探してコズミックの町に来たらしい。
 家臣の人たちも町で私を探していたようで、今は馬車の停留所で待っているとのことだ。
 いつの間にかそんな呼ばれ方をされていることに恥ずかしさを覚えていると、席に着いてすぐにレグルス様が言った。

「単刀直入に言わせてもらう。宮廷に来る気はないかい?」

「えっ?」

 宮廷。
 その言葉に少しだけ胸を刺される。
 前にいた宮廷からは、ひどい追い出され方をしたものだから。

「宮廷薬師として君を迎え入れたいと思っているんだ。もちろん高待遇を約束するよ」

「ど、どうして私を……?」

「それだけ君のポーションは規格外の性質なんだ。千切れた手脚を再生する。失った部位を復元できる。奇跡を引き起こせる秘薬と言っても過言じゃない」

 次いでレグルス様は自分の目を押さえて、柔らかな笑みを浮かべる。

「僕の目も、魔物との戦いによって完全に失われたはずだったんだ。でも君のポーションを飲んだら、この通り完璧に復元された。君のおかげで僕は、次期国王としてこの国の行く末を見届けることができる」

 血染めの冷血王子が戦いで重傷を負ったというのは、噂で少し聞いたことがある。
 その傷を私のポーションで治したってことか。
 僅かにだけど私のポーションは行商人の手にも渡っているし、そこから仕入れたのだろう。

「だからその力を見込んで、是非君の魔法薬作りを宮廷側で援助させてもらおうと思ってね」

「援助、ですか……?」

「宮廷薬師とは言っても、窮屈に宮廷に縛りつけるわけじゃなく、基本は君の自由に活動をしてもらって構わない。何か要望があればこちらが最大限それを叶えるし、少なくないほどの給金も約束させてもらう。ただその代わりに、王国騎士団の方にも少し君のポーションを分けてもらいたいんだ」

「そ、それだけですか?」

 ポーションを少し分けるだけで、そんな高待遇を受けてしまってもいいのだろうか?
 至れり尽くせりで逆に怖いんですけど。

「どうやらまだ、自分の価値を正しく理解できていないみたいだね」

「そう、みたいです。自分のポーションに、本当にそれだけの価値があるなんて……」

「君がいるだけで救われる国民が大勢いる。手脚を失くして苦しんでいる人。一生ものの傷を背負って悩んでいる人。僕だって君に助けられたその一人だ。だから君の魔法薬作りを支援することは、実質この国のためにもなるんだよ」

 そしてレグルス様は、運ばれてきた紅茶を一口啜って、一拍置いてから続けた。

「何より君、このままだったらまた人攫いか、君を利用しようとする悪党どもに狙われるだろ」

「うっ……!」

「だから宮廷薬師として君を迎え入れるのは、君を保護するためでもある。貴重なその力を守るために、是非宮廷に来てもらいたいって思っているんだ」

 確かにあんな目に遭うのはもう御免だ。
 だから保護してもらえて、しかも活動を支援してくれるというのならすごくありがたい。
 それにアース王国の宮廷と言えば、世界的に見ても美しい外観をしていると聞いたことがある。
 根なし草の私なんかがそんな場所に雇ってもらえるなんて願ってもない話だ。
 ただ、一つだけ懸念があった。

「あ、あの、宮廷入りの件は是非とも引き受けさせていただきたいんですけど、その前に一つお願いをしてもよろしいですか?」

「んっ、何かな?」

「王子様の紹介で、上流階級の集まる社交界とかに参加させてもらえないかなと思いまして……」

「社交界? それは別に構わないけれど、差し支えなければ理由を教えてもらえるかな?」

「私の実家はヴィーナス王国にあり、色々な事情があって経営難に陥っています。将来のことも見越して、良家との繋がりを作っておきたいと常々考えておりまして」

 おそらく宮廷にはかなりの高待遇で招かれると思う。
 たぶん魔法薬の売り上げも丸々私の懐に入って来るだろうし、その上で宮廷から給金も出る。
 しかしそれでも実家を助けられるほどの稼ぎではないだろう。
 あの貧乏伯爵家を救うには、やはり良家の子息と良縁に恵まれて、長期的な経済支援を受ける必要がある。
 そう思って王子の伝手で社交界に参加させてもらおうと考えたのだが……

「なら、僕と結婚しようか」

「…………はっ?」

「アース王国の第一王子の僕が、君と婚約すれば実家の問題は解決だろ。わざわざ社交界に参加するまでもない」

 王子と結婚……?
 何かの冗談とかですか?
 いや、レグルス様は至って真面目な顔をしている。
 確かにそれが叶って実家を助けてもらえたら、問題は解決しますけど。

「そ、そんなに勝手に決めてしまってよろしいのですか? 王族の婚姻、それも王位継承権を有する第一王子の婚姻ともなると、王国の行く末に直結するものになります。現国王の意向も伺っておりませんし……」

 私は戸惑いながら、目の前の王子の顔色を窺って尋ねた。

「な、何より、レグルス様のお気持ちというのもあるではないですか。ですのであまり簡単に決めてしまうのは……」

「僕は一向に構わないと思っているよ。と言うかむしろ、僕は君と結婚したいと思っている。切実にね」

「えぇ!?」

 なんで!?
 しかも切実に結婚したいって、そんなの……

「そ、それではまるで、レグルス様が私のことを好いているみたいに聞こえるのですが……」

「んっ? そう言っているつもりなんだが」

「……???」

 頭の中が疑問符で埋め尽くされてしまった。
 レグルス様が私のことを好き?
 何かの間違いではなくて?
 むしろ逆に『なんで好かれていないと思っていたんだい?』と言いたげな顔でこちらを見ている。
 血染めの冷血王子に好いてもらう理由がまったく思い当たらないんですけど。

「僕は君のポーションに救われた。深い暗闇の中から救い出してくれて、再び前を向かせてくれた。そんな恩人に対して感謝以上の気持ちが湧いても不思議じゃないだろ。それに実際に見た君は想像以上に可憐で美しく、恩人ではなく妻として迎え入れたいと思ってしまった」

 ……恥ずかしいから、あまり過剰に褒めないでほしい。
 理由を求めるような顔をしていた私も悪いんだけど。

「宮廷に迎え入れたいというのも、実益のためだけではなく半分は個人的感情も含まれている。君をこれ以上、危険な目に遭わせたくない。安全な宮廷に囲っていたい。伸び伸びと好きなことをしてもらいたい。そしてその姿を、僕は一番近くで見守りたいと思っているんだ」

「……」

 か、過保護すぎる……!
 あまりに私に都合が良すぎて言葉が出てこなかった。
 本当にこの人は、私のことが好きなんだ。
 これだけ真っ直ぐに熱い感情を向けられたことがないから、反応に困ってしまう。
 ただ、悪い気はまったくしなかった。
 むしろとても心地がよくて、この人からの熱い気持ちをもっと感じていたいような……

「それとも、第一王子という地位だけでは不足かい?」

 レグルス様はおもむろに手を差し伸べてくる。
 美しい宮廷に高待遇でご招待。
 それも超絶過保護な王子様との婚約付き。
 断る理由など、いったいどこにあろうというのか。
 私はレグルス王子の手を取って、新しい居場所を手に入れたのだった。

 過保護な王子に甘やかされつつの、自由気ままな宮廷生活が始まります。

――――

 スピカがヴィーナス王国を離れてから一月が経過。
 ここヴィーナス王国でも、スピカの作ったポーションの噂が広まるようになっていた。
 いわく、驚異的な治癒効果を持つ奇跡のポーションが、隣国のアース王国で作られていると。
 そしてそれを手掛けているのが、この国を去った『聖女スピカ』だと。
 そのため誰が呼んだか、奇跡のポーションは『聖女の秘薬』と謳われていた。

「くそっ……! くそっ……! くそっ……!」

 そんな聖女スピカとの婚約を破棄し、宮廷から追い出したハダルは、噂が広まってからというもの気が立っていた。
 それもそのはず、彼が逃がした魚はあまりにも大きすぎたから。

「あいつの魔力に、そんな使い道が……!」

 千切れた手足を再生させ、失われた部位を復元する奇跡の秘薬。
 それだけでいったいどれだけの国民たちが救われるだろうか。
 現在流通している治癒ポーションでは、救える命にも限度がある。
 大怪我を瞬時に塞ぐとは言っても、腕が千切れたら再生なんかするはずもなく、体に大穴が開けば塞ぎ切ることはまずできない。

 だが、聖女の秘薬ならそれができてしまう。
 どころか体を両断されたとしても、息があってポーションさえ飲むことができれば、一瞬にして肉体は元通りになるのだ。
 どれだけの軍事的価値と金銭的価値が含まれているか、言われずともわかってしまう。
 そのポーションの生産口を抱えているだけで、その国は世界的に優位に立てるだろう。
 これで治癒ポーション以外のものも規格外の効果を宿していたとしたら、聖女の価値は絶大なものに……
 そんな存在を、この自分がみすみす手放してしまった。

「ち、違う……。これは、仕方のないことだったのだ……。そんなの誰にも、わかるはずないではないか……!」

 わかっていたとしたら、手放すことなんてしなかった。
 婚約者として自分の懐に囲い、莫大な利益を得るためにポーションを作らせ続けていた。
 だからこれは、自分の責任では……

「聞いたぞ、『聖女の秘薬』の噂について」

「……兄上」

 遠征任務から戻って来た兄のプロキシマ・セントが、ハダルの自室にやって来た。
 この事態を知られたくない人物の筆頭で、ハダルは思わず歯噛みする。

「私や父に相談もなく独断で婚約破棄。しかもその相手が今話題の秘薬作りの聖女ときた。各界の重鎮たちはもちろん、当然父上も貴様の此度の愚行にお怒りだ」

「し、仕方がないではないですか! 他の誰もあいつの魔力の可能性には気が付いていなかった! 知っていれば俺だってこのようなことは……」

「百歩譲って、聖女の魔力にこのような価値が宿っていることを見抜けなかったのはまだいい。だが婚約破棄については貴様の私情と独断で行ったことだ」

「……っ!」

 痛いところを的確に突いてくる。
 そう、ハダルが独断専行でスピカとの婚約を破棄しなければ、秘薬はセント王家が独占できていた。
 知らなかったから仕方がない、では済まされない事態である。

「貴様が身勝手に行った婚約破棄が、結果的に莫大な損失を招いた。相応の罰は覚悟しておくんだな」

 次いでプロキシマは手に持っていた書類の束を机に置いた。

「それと婚約破棄の責任についても当然取ってもらう。伯爵家への慰謝料も貴様の私財から賄われる予定だ。下賜される予定だった土地。高価な私物。その査定表に目を通しておけ。最低限の必需品以外は残らないものと思った方がいい」

 そうとだけ言い残すと、プロキシマは部屋を後にした。
 ハダルは恐る恐る書類に目を通し、自分の失ったものの大きさを痛感して背筋を凍えさせる。
 まさかここまでの事態になるとは思いもしなかった。
 ポーション技術の発展によって聖女スピカは不要になると、父のリギル国王もそう考えると思っていたのに。
 莫大な損失。信用の墜落。科せられた重罰。
 逆に、もしスピカを手放していなかったら、今頃は自分の指示でポーションを作らせて莫大な利益を独占できたというのに……

「スピカさえ、手放していなければ……!」

 いや、あるいはただの聖女としてではなく、スピカ個人のことを愛する努力をしていたら……
 第二王子のハダル・セントは、そんな取り返しのつかない後悔に苛まれるのだった。