「うまいな、上手に書けている」

穏やかにそういう千臣の隣で、左右に出来た『神』という文字を見比べる。

「そうでしょうか……。なんだか千臣さんのと比べて、歪んどるように思えます」

とても、上手い、などと評されるような形ではないと思う。そんな気持ちで言うと、千臣がはは、と笑った。

「初めて文字を、しかも平仮名ではなく漢字を書いたにしては、上手いと思うぞ。千代は欲張りだな」

欲張り、と言われて恥ずかしくなった。顔を赤らめていると、悪いことじゃない、と千臣が微笑んだ。

「向上心があるのはいいことだ。己を生きようとする心の表れだからな」

己を生きる……。千臣の言葉を、千代は胸の中で反芻した。

千代は今、自分の人生を歩もうとしているのだろうか。それは水凪を迎える巫女として正しいのだろうか。千代に自覚がなくともそう見えてしまう行為は、郷の為に力を尽くしてくれる、やさしい水凪を裏切る行為にならないだろうか。

考え至って、千代は力なく俯いた。どうした、と問う千臣に、力なくかぶりを振って応える。

「私は……、神さまの為の巫女です……。自分の人生なんて、あってはならない……。全て神様に捧げなあかんのです……」

諦めてきた未来。水凪によって命は長らえたけど、自身の人生なんてないも同然だった。璃子たちを眩しいと思う時間はこれからも続くのだろう。黙った千代に何を思ったのか、千臣は諦めるな、と言った。

「千代はもっと欲張って良い。俺の治療をしてくれたのにも、郷の人の為に日々努力をして来たのにも、千代は見返りを求めていない。それは美しい心がけだと思うが、人はもっと欲張って良いんだ。自分がやりたいことを、殺すことはない。生きるという文字は、草木が成長していく姿から作られている。つまり、生きることは成長することだという事なんだ。だから、千代が自分を生きたいという思いを持ったなら、それを殺すべきではない」

千代は千臣の言葉をじっと聞いていた。自分を生きて良い。そんなこと郷の人は誰も言わなかった。口寄せの行事を見た瀬良でさえ、今では千代が神さまをお迎えすることを妨げられるとは思っていなかった。千臣の言葉に、一瞬、希望を滲ませた表情でふっと顔を上げた千代は、しかしやはり俯いた。

「……駄目です……。お役目を捨てるわけにはいかへん……。私がお役目を捨てたら、この郷はどうなってしまうんか。みんなの暮らしはどうなってしまうんか。それが怖い。郷と……、郷の人の希望に背くくらいなら、私は自分の人生なんてなくてええです。水凪様はおやさしい。神さまをお迎えすると同時に消えると思った人生も残っとる。これ以上の我儘は許されへんです」

静かに言った千代の言葉を、千臣は黙って聞いていた。ひと呼吸の後、そうか、と言って頷いて、ではこれ以上は言うまい、と、千代をまっすぐに見て、続けた。