「水凪様?」

いらえが欲しくて水凪の名を呼ぶと水凪は、ああ、もういい! と水凪が声を荒げた。

「そんなに過去が知りたければ調べれば良い。だがな、千代。どんな過去があろうとお前の運命は変わらないのだぞ」

「はい、わかっております。私は水凪様に尽くします」

「その言葉、確かに聞いたからな」

水凪は確認のようにそう言って、千代の前から去って行った。どうして水凪がむきになったのかが分からないが、千臣に教えを請い、過去を紐解く許可は得られた。

家に帰ると、水凪からいよいよ文字を習う許可が下りたことを千臣に知らせた。千臣は、さも意外、といった表情をした。

「千臣さん?」

「あ、いや。水凪殿は意外と人が良いというか、自信がおありなのだな」

「は?」

「いや、気にしないでくれ。ただの独り言だ」

そう言われてしまうと追及も出来ない。千代がちらりと千臣の顔を窺っていると、千臣は小屋の裏手に千代を誘(いざな)った。千代が千臣に並んで座ると、千臣は手元に一枚の紙を千代に示して見せた。

「これは……?」

「いろは歌だ。君の為に書き起こした。いろは歌を知っているなら、歌に合わせてこれで文字を覚えると良い」

「聞いたことないです……」

歌なら得意だけど、知らない歌は歌えない。そう肩を落としていると千臣が、一度だけ歌うから覚えなさい、と言っていろは歌を歌ってくれた。



『いろはにほへと、ちりぬるを
わかよたれそ、つねんらむ
うゐのおくやま、けふこえて
あさきゆめみし、ゑひもせすん』



「まあ、千臣さん、歌も上手! めっちゃ聞きやすかったです!」

「そうか? では、一緒に復唱してみよう。さん、はい」



『いろはにほへと、ちりぬるを
わかよたれそ、つねんらむ
うゐのおくやま、けふこえて
あさきゆめみし、ゑひもせすん』



二人で唱える歌は、声が伸びて気持ちが良かった。このままずっと千臣と謳っ
ていたいと思わせるほどだった。

「一文字一文字がひと言ひと言に対応している。君は歌が好きなのだろう。発音した音に合う文字を見つけて、手習いをすると良い」

「はい!」

千代は渡された和紙の上に書かれた千臣の書を指でなぞりながら、いろは歌を口ずさんだ。本当だ、文字が追える。歌を歌うだけで文字を追えるなんて、思いもしなかった。

「いろはにほへと……」

口ずさむたびに、口の端(は)が引きあがる。朱に染まった頬がつやつやしているのを、千臣が見て微笑んだ。