「文字?」
千代は離れを辞した後、直ぐに水凪に文字を習いたいと頼みに行った。水凪は目を丸くして驚いた後、眉間にしわを寄せた。
「千代……。俺はあいつの看病に尽力せよとは言ったが、あいつと慣れ合うことは許していなかった筈だ。お前は俺の嫁になるんだ。許嫁が他の男と親しくしたら、いくら神の俺でも嫉妬するのは分かるだろう?」
「は、はい……」
水凪の指摘はごもっともだった。神に仕える巫女の身として、注力する先が別に出来るのはよくないことなのかもしれない。でも、今、千代の心には、知らなかったことへの好奇心が渦巻いていた。どうしても文字を習いたい。習って、水凪がこの地に降り立つべく定められた理由も知りたい。千代は懇願するように口を開いた。
「水凪様が、私をお求めになる理由が知りたいのです。神さまを迎えるよう定められた、その理由が知りたいのです」
ひたと水凪を見つめる千代の目にも、水凪の表情は冴えない。
「そのような理由、明確にあるだろうが。お前に水の気配を感じ取る力があるだろう? その力は水の神である龍神(おれ)に通じる力だ。つまり俺とお前は呼応し合っている。神(おれ)を迎えるのに、これ以上の相手が居るか?」
水凪の言うことに心当たりは沢山あった。水凪に触れられているときに、足の裏から水が伝ってくるような感覚を覚えていたのだ。あれは水凪と自分が呼び合っているからなのか。他の郷の人が水凪と触れ合っても何も感じていないようだったから、この感覚を有する限り、水凪は千代を求めるという訳なのか。
「そう……、です、か……」
湖底から湧きだした知識への好奇という水泡が、湖面に出てパチンと割れた。千代の意欲は行き場を失って、揺れる湖面に行方を預けていた。項垂れ、肩を落とした千代を、水凪が気まずげに見ている。少しの沈黙が耐えられなかったのは、水凪だったらしい。
「あああ、仕方ない! 特別に許してやる!」
大きな声に、千代がパッと顔を上げる。水凪の許可が下りたことに目を輝かせていたら、水凪が、ただし! と、千代の鼻の頭に人差し指をピッと向けた。
「絶対にあいつになびくな。お前は俺の嫁だ。俺と夫婦(めおと)になり、この地を潤すのが、お前の役目だ。それを重々忘れるな」
「は、はい! それは勿論です!」
「それと!」
まだ何かあるらしい。黙って次の言葉を待つ。
「お前が文字を習うのはお前の自己満足だが、郷に水を引くことは郷の者の悲願。水路の完成までは、習うことは許さない」
「分かりました。千臣さんの傷も、まだ完全に癒えておりませんし、全て収まってからという事ですね」
そういうことだ、と言う水凪に改めて謝意を述べ、頭を下げる。
(許可下りましたよ、千臣さん)
千代は唇を引き上げて、込み上げてくる嬉しさをかみしめた。