しかし、雰囲気が合うからと言って人が神様の泉に入ってはならない。振り返ったまま其処を動こうとしない青年に焦れて千代が歩み寄ると、青年は右手に杖のように使っている木の枝を持っていた。見ると右足を怪我している。ざっくりとひざ下から脛に掛けて切れた傷は、赤黒い色からして深いのだろう、打撲のような痕も見受けられた。

「どうしはったんですか、その傷は」

驚いて千代が声を上げると、青年は苦しそうに言葉を吐いた。

「……山を越えようとしたら、夜、獣に襲われた。大きさからして熊かなにかだと思うが」

言葉を発するのにも顔を歪める。もしかすると怪我は脚だけではないのかもしれない。しかし、父が命を落とした熊を相手に、命を落とさなかったなんて奇跡に近い。千代は彼の運の強さを感じていた。

「山を下りて歩いてきたらこの泉があった。霊泉と言うことだったから、治るかと思ったんだが……」

「この泉は神様のもんであって、私たち人間のものではありません。脚をお出しください。家で手当てが出来ます。水凪様、この方を家に上げてもええでしょうか?」

水凪が、困った人は助けてやりなさい、と柔和な笑みを浮かべて言ってくれたので、安心して家の離れに案内する。千代が青年に手を差し伸べたのに気づいて、瀬楽も肩を貸してくれた。瀬良と千代に肩を借りた青年は見た目よりもしっかりした体躯で、青年を支えるのには力が要ったが、なんとか二人で社務所の離れまで連れていくことが出来た。