臆病と言えば、生まれつきの性格だってそうだ。内向的でなんでもないことでも一人うじうじと悩んでしまう。ストレス発散に友達とカラオケに行くのではなく、部屋に引きこもって本を読む。外の世界はまぶしすぎて、璃仁には刺激が多すぎた。だけど、こういう内向的な性格の持ち主にありがちな「読書好きで勉強が得意」なんていうアドバンテージがあるわけでもなく、学校の成績は中の中、いや中の下ぐらいだった。
それゆえに璃仁が入学した東雲高校は県の中でも真ん中ぐらいの成績の者たちが通う学校で、生徒数も多い。確か、璃仁の学年は400人ほどの生徒がいる。その中で自分が人並みに華の高校生生活を送れるなんて、入学した時点で微塵も思っていなかった。璃仁にとって学校は剥き出しの自分を曝け出す刑務所のようなもので、笑うことのできない自分に楽しくて幸せな高校生活が待ち受けているはずがないと思い込んでいた。そういうのはもっと主人公っぽい人間が、例えば入学式の日に璃仁の後ろで仲良く小突き合いをしていた二人組や、桜の木の下で写真を撮っていた、あの艶やかな少女——「SHIO」のような人間が経験することだろう。
まだ始まったばかりの2年4組の教室を見渡して絶望的な気持ちになる。璃仁のことをいじってきた海藤は、もうとうに璃仁のことなど気にならない様子で友達と喋っていた。それなのに自分は過去の嫌な思い出まで思い出してしまい、ひどく滑稽だった。
璃仁は席から立ち上がり、教室をあとにする。昼休みはあと10分ほどしかない。どに行って何をする予定があるわけでもないが、とにかく海藤のいるあの教室から離れたい一心だった。
無心で教室から遠ざかり、辿り着いたのは図書室だ。2年生の教室のあるA棟と渡り廊下で繋がるB棟の3階にある図書室からは、2年4組の教室は見えない。そうと分かって自然と足が向いていた。1年生の時から週に2、3度は足を運んでいたので、図書室はもはや教室よりも馴染みの深い場所になりつつある。
図書室に入った璃仁は、いつもの癖で文庫本の棚の前をふらふらと行ったり来たりしていた。昼休みの終わりが近いので、図書委員たちが図書当番を終えて教室に戻り始めていた。璃仁は去年図書委員をしていたので図書委員の大体の動きは知っていた。最後に並んでいた生徒の本の貸し出しを済ませると、黒髪を耳の後ろへとかき上げて視線を上に上げた女子生徒がいた。
「あ」
声を上げたのは璃仁ではなく、その図書委員だった。
「本、借りますか?」
おそらく彼女は、璃仁が本の貸し出しで並んでいると思ったのだろう。貸し出し作業を終えたと思っていたところ、予想外にもまだ客がいた、というところか。璃仁は頭の片隅で冷静に彼女について分析をしつつ、もう一方で驚きと動揺を隠せずにいた。
図書委員のその人は、セミロング丈の茶色がかった髪の毛に艶のある瞳と唇が印象的で。なによりその顔に見覚えがあったのだ。
「いえ、大丈夫です……」
言葉と思考が合致しないまま、青色の校章をつけた彼女の質問に答える。
「そう」
璃仁の胸に視線を落とし、緑色の校章を見て相手が自分よりも年下だと分かったためか、砕けた口調で頷いた。それ以上は璃仁に関わろうとせず、返却された本を棚に戻しに行った。
その間、璃仁の頭の中は混乱と驚きでいっぱいだった。彼女が「SHIO」だということは目にした瞬間に分かった。一年前、入学式の日に見かけた彼女の姿を、璃仁が忘れるわけがない。彼女の放つ凛としたオーラは普通の生徒とは一線を画していた。それに、毎日のように彼女の投稿を眺めている璃仁にとって、彼女は二次元から飛び出してきたアイドルそのものだった。
5限目開始の予鈴が鳴り、図書室にいた生徒たちがぞろぞろと図書室から出て行った。璃仁も後に続くべきなのだが、まだ棚の前をうろうろする彼女のことが、どうしても頭から離れない。
話しかけられるなんて思ってもみなかった。ただ、ひっそりと陰から見ているだけで満足だった。でも、もし叶うなら一度だけでいい。彼女と挨拶だけでも交わしてみたいと思ったことは幾度となくある。
気がつけば璃仁は彼女の後を追っていた。図書館の中はそれほど広くはない。それに図書館の構造を熟知している璃仁にとって、彼女の元に行くのは簡単だった。
「あの」
普段、初対面の人に自分から話しかけにいく勇気など微塵もない璃仁なのに、この時ばかりは口が勝手に動いていた。「SHIO」はちょうどつい最近璃仁が読んだ医療ミステリーを文庫本の棚に戻しているところだった。呼びかけられたのが自分だと気づかないのか、彼女は璃仁の方に視線を向けようとしない。璃仁はもう一度深く息を吸って彼女に近づいた。
「すみません」
店員に話しかける客のような構図になってしまったのは否めない。だが、璃仁の諦めの悪さが功を奏したのか、「SHIO」はようやく璃仁の方を振り返った。
「どうかした?」
璃仁が先ほどカウンターで会った後輩だと気づいたからか、「SHIO」はタメ口で小首を傾げた。再び耳にした「SHIO」の声に璃仁は胸が高鳴っていた。
「いや、あの……ちょっと話してみたいなって」
話しかける口実など何もなかった璃仁は、今の本心をそのまま彼女に伝えるだけで精一杯だった。「SHIO」の方は突然話しかけてきた後輩がただ自分と「話したい」と伝えてきたことに目を瞬かせる。そりゃそうだ。璃仁だって、もし知らない後輩の女の子から今のように話しかけられたらドッキリか何かの罰ゲームで話しかけてきたんだと疑うだろう。
しばらく「SHIO」は返事をしなかった。その間、璃仁は冷や汗が止まらない。絶対に変人だと思われた。どうして安易に話しかけようだなんて思ったんだろう。せめて図書室ではなく廊下とか、校舎の外なら良かったのに——。
この一瞬の間に頭の中を駆け巡る様々な後悔に、身体が沈んでいきそうな心地だった。
しかし、「SHIO」はたっぷりの間を置いたあと、手に持っていた本を一度その辺の棚に置いて璃仁の目を見つめた。黒く澄んだ美しい瞳だった。写真投稿アプリで見る彼女も素敵だが、やはり実物はもっと綺麗で。璃仁は思わず息をのんだ。
「いいよ。でも昼休み終わっちゃうから、放課後でもいい?」
まさか了承されると思っていなかった璃仁は、この瞬間生まれて初めて聞くほどの激しい心臓の音を感じていた。しかも、今少しだけ言葉を交わすのではなく、わざわざ放課後に時間をつくってくれるなんて。璃仁の高校生活で訪れた一番の幸福と言っても過言ではない。
「ありがとう、ございます。放課後、図書室前でもいいですか?」
璃仁の提案に「SHIO」はこっくりとうなずいた。
それから彼女は「図書室閉めるから」と言って璃仁を図書室の外に出るよう促した。気がつけば他の生徒はもう皆図書室から退散していて。璃仁と「SHIO」だけが図書室に取り残されている状態だった。
「それでは、あとで」
妙にかしこまった口調で璃仁は「SHIO」の側から離れた。女の子と——しかもあの憧れだった「SHIO」と5分以上会話をしただけでも心臓が爆発しそうだった。こんなんで放課後に彼女と待ち合わせをして大丈夫なのだろうか。その日、5限目の数学も6限目の古典もまったく身に入らなかったのは言うまでもない。授業中、前から二番目の席に座る海藤がチラチラと後ろを振り返り璃仁の方を見ていた気がするが、今やそんな彼のいやらしい視線も気にならなかった。それくらい、放課後の「SHIO」との会合のことで頭がいっぱいだった。