しかし1時間が経っても、2時間が経っても紫陽花は現れなかった。ぽつり、と冷たい水が頬をかすめ、璃仁の胸には諦めにも似た絶望が広がっていた。このまま待っていても、紫陽花は来ない。そう直感で分かった。
 狭い空間に長時間滞在していたので、身体中のあちこちが痛かった。壁を這うようにして外へと出て、念のため辺りを見渡してみたがやっぱり彼女の姿は見えない。ため息とともに校舎をあとにした。昨日梅雨入りをしたと聞いていたので雨が降るのは想定内だった。途中雨脚が強くなってきて、璃仁は鞄から折り畳み傘を取り出した。

 東雲駅までたどり着き、傘を畳んで鞄にしまう。意気消沈したまま改札をくぐろうとICカードを手にした璃仁の動きが止まる。東雲駅は周りにカフェやファーストフード店が立ち並んでいるのだが、カフェの扉の前で、一人の女の子が佇んでいたのだ。見紛うはずがない。その人は傘もささずにぼうっと遠くを眺めていた。誰かを待っているようで、胸が軋んだ。自分はきみを待っていたのだと叫びたい衝動に駆られながら、彼女に一歩近づいていく。雨はまだ止んでいなかったけれど、彼女と同じく傘はささなかった。それよりも何もよりも、彼女に近づきたい一心で進んだ。

「……紫陽花先輩」

 紫陽花にとって、璃仁に話しかけられるのは想定外の出来事だったの違いない。遠くを眺めていた彼女の瞳が揺れ、璃仁の目に焦点が合わさる。その目は驚きで大きく見開かれ、気まずそうに逸らされた。

「手紙、読んでくれましたか?」

 なぜこんなにも自分が強引に紫陽花に迫ることができているのか不思議なくらい、璃仁は積極的だった。

「……読んでない」

 璃仁の視線から逃れるように俯いた紫陽花を見て、手紙を読んだのだと瞬時に分かってしまった。その手紙を無視してしまったことに罪悪感があるのだろう。だったらどうして来てくれなかったのか。他に用事があるなら連絡を入れてくれれば良かったのに、と一方的な不満が募る。璃仁の視界には、もう紫陽花以外に何も映っていなかった。降り頻る雨でさえ、煩わしいとも思わない。紫陽花は濡れた前髪から雫を滴らせ、「まだ何か用か」とでも言わんばかりに璃仁を見上げた。

「俺、待ったんです。それで今ようやく帰ろうとしたところで紫陽花先輩を見つけて。いてもたってもいられなくなって……どうして、来てくれなかったんですか」

 拒絶される予感はあった。それは彼女が手紙を無視したことからも明らかだ。それなのに、どうしても聞かずにはいられない。傷つくのが分かっていても、なぜこんなにも紫陽花の心に触れようとしているのか。
 紫陽花は何を言おうかとしばらく逡巡している様子だった。瞳を泳がせて、周囲を見回している。誰かに見られるのを気にしているのだろうか。それともここで、誰かを待っているのだろうか。どちらにせよ、璃仁にとっては今紫陽花の返事を聞くことだけしか興味がない。

「私は溺れてる。息ができないの」

 蚊の鳴くようなか細い声だった。雨の音にかき消されてしまってもおかしくないくらいだったのに、なぜか璃仁の耳には言葉の輪郭を切り取ったかのようにくっきりと響いた。

 幸せっていうのは、溺れて息ができなくなること。

 桃畑の公園から海を眺めながら、紫陽花が語った言葉を思い出す。その時も、どういう意味なのか分からなかった。

「紫陽花先輩はいま、幸せなんですか?」

 とてもそうは見えない。幸せな人間がそんなに淋しそうな目で他人を見つめるわけがない。それでも聞かずにはいられなかった。
 紫陽花の前髪が額に張り付いている。頬を濡らす雨水が、顎から垂れて涙を流しているようだった。いや、もしかしたら本当に紫陽花は泣いているのかもしれない。そう錯覚させるくらい、彼女の表情は切なげに揺れたりはっと瞬きを繰り返したり、情緒不安定な様子だった。溢れそうな感情を無理やり封じ込めているかのように。

「たぶん、そう」

 どうしてなんだろう。毒を垂らすように、こんなにもはっきりと嘘と分かる嘘をつくなんて。

「それだけかな」

「え?」

 紫陽花は懇願するように璃仁を見ていた。

「それだけなら私、そろそろ行こうかな」

「あ……はい」

 はっきりとした拒絶を真正面から受け止めて、璃仁はその場に硬直してしまう。本当はもっと理由を問いたかった。なぜ自分を避けるのか、なぜそんなに悲しそうな目で幸せだなんて嘘をつくのか。でも、紫陽花の心の深淵に触れるのに、璃仁にはまだ足りない何かがあった。信頼、絆、友情、恋。そのどれもが、紫陽花の心からは感じられない。結局は紫陽花にとって、璃仁は一時的な暇つぶし相手だったのだ。

 璃仁の横をすり抜けた紫陽花はふらふらと改札の方へと進んでいく。カフェの前で誰かを待っていたのではなかったのか。それとも、待ち合わせをしていた人との約束を投げ出してまで、璃仁の顔を見ていたくなかったのか。
 どちらにせよ、璃仁が暗い絶望の淵に沈んだのは言うまでもない。その日、帰りの電車でいつも見ていた彼女のSNSアカウントを覗くことはできなかった。