窓に張り付いた雨水が一粒ずつ滑り落ちていく様子を、授業中にぼんやりと眺めていた。6月に入り、席替えをして窓際の席になった。こんな日は校庭で体育をしているクラスはないので耳を研ぎ澄ませたところで紫陽花の笑い声は聞こえてこない。代わりにザーッという雨の音が耳の奥まで反響している。せっかく窓際の席になったのに、さっそく梅雨入りで雨ばかり眺めることになるなんてツイてない。
 雨を眺めていると、海藤が『海辺のカフカ』を投げ捨てた日のことを思い出す。あの日紫陽花の優しさに触れた。紫陽花を本当の意味で愛しいと思ったのはあの瞬間だったかもしれない。決してさらけ出されることのない紫陽花の本心を知りたいと思ったのも、あの時だった。

 紫陽花先輩。
 心の中で何度も呟いてみる。
 1ヶ月前、GW最終日のデートを最後に、璃仁は紫陽花と会えないでいた。何度か教室まで足を運んだこともあったが、一度拒絶されたことが堪えて、紫陽花を呼ぶことさえできなかった。3年1組の教室の外から彼女の横顔をそっと眺めては退散する、を繰り返す。時々ちぃ先輩が気を利かせて出て来てくれたこともあったけど、申し訳なさそうに首を横に振るので、璃仁の気持ちはだんだんと萎えていった。
 このまま花を咲かせることなく、萎んでいくのかもしれない。紫陽花のことを愛しいと思う気持ちがどんどん成長して、蕾はもう大きく丸く膨れていた。会えばすぐにでも開花してしまうだろう。それがデートだったらなおさら。でも、会いたくないと言われてしまった璃仁の花は、蕾を開くことなく萎れてしまう運命なのかもしれない。

 そんなのは嫌だ。
 古典の授業中、先生が昔の人は愛しい人と会うのに歌を詠んだと話した。歌を詠まれた側も、やっぱり歌で返事をする。そんな粋なこと、現代っ子は絶対にできない。だけど、そう簡単には好きな人に会うことの許されなかった身分の人たちは、歌を詠むことだけが相手と心を通わせる唯一の手段だったのだ。

 歌なんて、璃仁には詠めない。いくら読書好きでも自分で和歌をつくるなんて恥ずかしいし、作法だって知らない。そんなものを受け取ったところで紫陽花に伝わらなければ意味がないのだし。

 だけど、そうだ。手紙ならどうだ?
 今の時代、メッセージなら簡単に相手に送ることができる。でも、簡単なゆえに見過ごしたり、蔑ろにしたりすることも多い。現に紫陽花に送った連絡も、時々既読スルーされてしまうことがあった。忙しいからとか気分が乗らないとか、理由は様々あるだろうけれど無視された側も、「まあそんなこともあるよね」と受け入れてしまうものだ。

 でも、手紙だったら、そうはいかないのではないだろうか。
 相手が自分のことを考えて書いたリアルな文字を見れば、無視はできない。もし璃仁が誰かから気持ちのこもった手紙をもらったら、返事を書こうという気になる。その点で手紙は効果的だろう。ただ一つ、手紙の与える「重い」という印象を除けば今の璃仁にとって紫陽花とコンタクトをとるのには有効な手段かもしれない。

 そうと決まれば、璃仁の行動は早かった。
 授業後、さっそくノートを一枚ちぎって紫陽花に手紙を書いた。可愛らしい便箋じゃなくて申し訳ないが、背に腹は変えられない。
 内容は、明日の放課後に初めて話した場所に来て欲しいというものだ。体育館と講堂の壁の隙間。あそこなら誰かに見られることなく話をすることができる。紫陽花が他人の目を気にしているのだったら、ちょうど良いと思った。

 翌日、璃仁は朝早く登校すると3年生の下駄箱に行き、紫陽花の名前を探した。「崎川」という彼女の苗字を発見し、下駄箱に手紙をそっと差し込む。早朝だったので3年1組の先輩たちはまだ誰も登校してきていない。無事に手紙を置くとさっと下駄箱から離れた。
 心臓がうるさいほどに鳴っている。断言しよう。下駄箱に手紙を入れるなんて古典的な手法、たぶんこの時代に実行する人は璃仁しかいない。だが逆にパンチがあるのではないか。そう期待せずにはいられなかった。

 その日、授業にはまったく集中できずに一日を終えた。5時間授業だったので、5時間目が終わるとすぐに教室を出た。後ろから海藤の視線を感じたが、振り返らずに進んだ。
 紫陽花との秘密の場所にたどり着くと、壁に背中をつけて座り込む。上を見上げると曇り空に浮かぶ雲がゆっくりと流れていく。璃仁の行動を知っているのはあの雲だけだ。他の誰も、璃仁が上級生を呼び出して待ち合わせしているなんて知らない。
 果たして紫陽花は来てくれるのだろうか。かなり長い時間、紫陽花が現れるのを待った。もしかしたら6時間授業なのかもしれない。その間ずっと、雨が降らないようにと心の中で祈っていた。