紫陽花と今すぐどうこうなりたいわけじゃない。第一、彼女はフォロワー10万人超えの超人気者で。10万人と言ったら、東雲高校を超えて、いや、全国各地に彼女のファンがいるということだ。ちっぽけな町の端くれに暮らしている璃仁のことなど、紫陽花がいつまで相手にしてくれるんだろうか。学校にだって友達は多いだろうし、彼女を追いかける男だってうようよいる。実際、紫陽花は出会った当初、璃仁に告白をしてこないかと聞いてきたじゃないか。それってつまり、告白されすぎてうんざりしているということだろう。今朝だってそう。紫陽花に話しかける海藤の映像がフラッシュバックする。あまり思い出したくない記憶だが、あれは完全に海藤が紫陽花に言い寄っていたのだから、紫陽花のモテっぷりが窺えた。
「はあ。ご飯でも食べよう」
考えすぎて、いい加減脳が疲れてきた。
璃仁は閉めっぱなしだった部屋の窓を開ける。雨はもう一滴も降っていなくて、薄闇に沈む小さな町の小さな住宅たちが、どこか自信なさげに佇んでいるように見えた。
いつか、自分はこの町を出るときが来るんだろうか。
クラスメイトたちに服装や持ち物が「汚い」「ダサい」と罵られ、「お前って、××町に住んでるんだっけ?」と馬鹿にされる度に、家に帰るのがいやになったのを思い出す。父親も母親も、恥ずかしくはないんだろうか。もっといい家に住みたいとは思わないのか。周りの友達の中には、海藤のように金持ちでいわゆる高級住宅街に住んでいる人も少なくなかった。そんな連中に紛れてこの町から登校していくのは、軽装備でラスボスの眠る洞窟へと向かうときのような心細さを覚えた。
父や母にとっても同じじゃないか、と思う。
大人の世界だから、ひょっとするともっと嫌らしく残酷な仕打ちを受けているのかもしれない。
璃仁たち若者がSNSで誰かの幸せを羨んで、それに比べて自分は、と不幸感を募らせていくように、大人たちだって周りの人間と自分の状況を比べる瞬間があるに違いない。それにもかかわらず、この場所に住み続ける両親のことを、璃仁は逆にすごいとさえ思っていた。
カーテンを閉めて、部屋から出る。一階へ降りて冷蔵庫を開けるとどーんとオムライスが現れた。作り置きをしてくれるメニューは一品ものが多い。さっと温めて食べられるから璃仁にとってはありがたかった。
オムライスをむしゃむしゃ口に運びながら手慰みにスマホを見る。当たり前だが紫陽花から返信は来ていない。分かってはいたのにがっかりしつつ、今度は例の写真アプリを開く。今日もおすすめに表示される若者たちの“リアルに充実した生活”を映し出した投稿が熱い。璃仁のアカウントはプロフィール画像は初期設定のままだし、フォロワーも小中学生の時の知り合いがちらほらいるだけだ。それも、友達というほどの人たちではなく、ほとんど会話を交わしたことのないような人たち。けれど表立って璃仁をいじめてきた連中とはまた別の人たち。たぶんその人たちは、璃仁をフォローしたくてフォローしたというよりも、単にフォロワーの数を増やしたいだけなんだろう。
自分の投稿なんて一切していない。紫陽花の投稿を鑑賞するだけだから十分だ。今も、「ストーリー」と呼ばれる24時間限定配信の投稿欄には、放課後に友達とカラオケに行く知り合いたちの熱い青春の時間が共有されている。受け入れるつもりなんてないのに、ただ画面を見ているだけで強制的に押し付けられる幸福の欠片は、璃仁には暴力的な刃となって襲いかかる。
見たくもないものを見てしまい、慌てて「ストーリー」を閉じる。いつものように「SHIO」のアカウントを覗き、新しい投稿がされていないことを確認する。最近、彼女はあまり投稿をしていないのか、最新投稿日は始業式の日で止まっていた。何度もその写真を眺めては、恋する乙女みたいに妄想を膨らませてしまうから始末が悪い。
そろそろオムライスを食べ終わるというころ、璃仁のスマホの通知が鳴った。心臓が分かりやすくドクンと跳ねて、通知に視線を移す。
紫陽花からだ。ご飯を食べてくると言っていたが、もう食べ終わったんだろうか。それにしても、今日の連絡はもう終わったと思っていたのに、食事後にまた連絡をくれるなんて、と璃仁は期待に胸を膨らませてメッセージを見た。
19:50『週末、13時に駅前』
ん、これはどういうことだ?
週末に、駅前……?
これって、待ち合わせをする時に送る内容だよな。それを自分に送ってくるって、もしかしてデート——。
と璃仁の頭の中で都合の良い妄想が膨らんでいったところで、紫陽花が先ほどのメッセージを取り消した。画面上には「送信者がメッセージを削除しました」という文言が浮かんでいる。
19:52『ごめん! 間違えた』
慌てた様子の紫陽花の断りと送られてきた「Sorry」のアニメっ子スタンプに、璃仁はなんだとため息をついた。
19:53『はい、大丈夫です。おっちょこちょいですね』
もう、と小言の一つでも言われるかと思い待ち構えていたが、それ以降紫陽花からのメッセージは来なかった。
夜、寝る前にもう一度紫陽花からのメッセージが来ていないか確認したけれど、やはりトーク画面にはアニメっ子のスタンプの女の子が物寂しく頭を下げているだけだった。