私が私を始めることに、こんなに手こずった日はない。
今日は散々だった。誰からも恥ずかしくない橘遥を、いつも通り開始することが出来なかった。それ程までに、朝の出来事が調子を狂わせていた。
1限目では、教師の呼びかけに気が付かず、何度か呼ばせてしまった。2限目では、いつもはしない計算ミスを何回もしたし、体育の授業では焦ってバレーボールをカゴから全てぶちまけてしまった。
「珍しいね。調子悪い?」とクラスメイトに心配をかけてしまったし、朝の手紙の子からも「気まずい思いさせてごめん」と申し訳なさそうに謝られてしまった。皆には「模試対策のせいで、ちょっと寝不足で注意力散漫になってた。心配かけてごめんね。」と説明し、手紙の子には「確かにちょっと動揺はしてるけど、寝不足が半分あるから気にしないで。気を使わせてごめんね」と伝えた。
皆に気を使わせてしまい、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。ただそのお陰か、申し訳なさが私をいつもの私にしてくれた。やっと本調子になったのは、昼休み後だった。ただ調子を戻したのにも関わらず、午前の不調の影響はまさかの出来事を運んできた。
放課後。午後学活の終わりを伝えるチャイムがなり、クラスメイトは帰りの支度や部活の準備に入る。私は生徒会があるので、生徒会議室に向かう為に準備を始める。朝、渡辺さんに告白されたが、きっと彼も気まずくなることは望んでいないだろう。いつも通り接するといい。そう思いながら、今日の仕事を思い返す。今日は再来週の抜き打ち服装検査の打ち合わせだ。顧問の先生も来てくれて、どこに重きを置いて検査するのかを吟味するのだ。
「遥!」
不意に実花の声がした。なぜと思って振り返ると、既に隣に実花がいるでは無いか。驚いて実花の顔をじっと見る。すると実花は心配そうに、私の顔を覗き込んできた。
「遥。今日、調子悪いんだって?体調悪い?無理してない?」
そう言いながら、実花は私の額に手を当て熱を測る。私は実花にされるがままで、呆然とその仕草を見ていた。昔みたいだ。ぼんやりと私はそう思った。ただ、ここは家では無い。私は笑顔を浮かべて、実花の手を取った。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。実花も部活でしょ?途中まで一緒に行こう」
「だめ。調子が悪いなら、帰ろう。遥が帰らないって言うなら私が送るから」
「ず、ずるい」
私は思わず言葉をこぼしてしまった。けれど実花は真剣な顔をして、私を見つめている。雑多な放課後は、私たちのこと等興味が無いように、人も時間も流れていく。だが、私は昔から変わらないこの実花の純粋さが大好きで、愛おしくて、憧れだった。だから、私は実花から目が離せなかった。
「でも、生徒会もあるし、今帰ったらおばさんに心配かけちゃうし」
「かけていいんだよ。家族でしょ。」
かっこいいな。かっこいいと感じると同時に、実花の真っ直ぐさに目を逸らしたくなった。今も昔も、実花は眩しくて眩して、私の身を焦がしてしまいそうだった。ただ、その眩しさが憧れになってしまっているので、私はいつだって彼女を求めてしまう。まるで太陽に近付き過ぎると焼け焦げてしまうことは、百も承知だ。
けれどギリシャ神話のイカロスの翼のように、傲慢になってしまう私がいる。身の丈にあった能力、生活をしていればいいのに、高みを目指してしまう。実花のようになりたい。実花のように、幸せを分け与えられる人間になりたい。純粋で健気で、魅力的な人間になりたかった。
でも、私は実花の真剣な瞳に弱かった。彼女が誰かのために動く時の瞳は、いつだってかっこいい眼差しなのだ。
「実花。部活遅れるぞ。俺ら、強化合宿の連絡会あるだろ。」
「健!」
いつの間にか、実花の友達の健がいた。
健くんの登場に、僅かに残っていたクラスメイトはザワザワし始める。健くんは気にせず、こちらに歩み寄ってくると、気まずそうに視線を泳がせ、私を視界に入れないようにしだした。なんだそれ。感じが悪い。私が思わず眉を顰めると、実花はサッと私の前にたった。
「私、遥と一緒に帰るから案内用紙の写真送ってくれない?」
遥の気遣いだった。私と健くんの気まずさを感じ取ったのだろう。瞬時に立ち回れる実花に私は思わず尊敬の念を抱いてしまった。
「いや、だめだろ。強化合宿の連絡会に、コーチまで来てくれるんだ。先方に迷惑だろ」
「でも、家族が体調不良なんだよ。」
「子供じゃないんだから、自分で出来ることは自分でやらなきゃいけないだろ。」
とてつもない正論を言う健くんに、私は実花とは違う眩しさを感じた。私は眩しい2人を見つめてしまう。2人のような、人間になりたかった。そんな感情が込み上げてくる。
「揉めてるんだったら、俺が引き受けようか。」
ふと背後から声がした。聞き覚えのある声に私は思わず振り返る。実花も健くんも驚いたようで、勢いよく声の主を見つめた。
「玲央!」
実花と健くんの声が重なる。
「暇だし、実花のおねーちゃん?のこと引き受けようか」
飄々とした態度で一ノ瀬玲央は私を見ながら告げた。面白がっている様子だった。
「……いいの?玲央にお願いしても」
「いいよ。ね、良いでしょ、健」
「まぁ、うん、いいと思うよ」
何故か3人の中で話が進んでいく。私が待ってと言おうとすると、一ノ瀬玲央はシーと口元に手を当て私の発言を制した。私がムッとしていると、彼は問答無用で私のカバンを手に取り、終いには私の手を取って歩き出した。
「遥!お大事にね!あとで欲しいもの送って!買ってく!」
「だ、大丈夫だよ!練習頑張ってね!」
私は手を引かれながら、遠くになりつつある実花に返事をした。私は私の手を掴む一ノ瀬玲央を眺めた。彼は迷いなく歩みを進めていく。
「ここまででいいよ。生徒会いくから」
「行かなくていいよ。顧問に伝えといたから、休むって」
「は?なんで」
理解が追いつかない。私は思わず眉を顰め、彼に低い声で問い返していた。なんで勝手なことするんだ。ほぼ初対面なのに、なんで私の行動をこうも阻害されなきゃいけない。
「実花が生徒会顧問に、『遥は体調不良でも無茶しちゃうから、今日休ませようと思います。すみません』って言ってたから、俺も『朝から体調悪そうでしたから、いいですよね』って言っただけだけど」
実花の援護射撃と、彼は付け足す。イタズラが成功した子供のように、彼は笑っていた。私は笑えないまま、彼を見つめている。綺麗な顔をする彼の顔が、その時ばかりは綺麗とは思えない。
周りの生徒たちも彼を見つめていた。廊下の窓から差し込む光が、彼の艶のある黒髪をキラキラと輝かせている。その輝きに、周りの皆は目を細めながら彼を見ていた。
私は一ノ瀬玲央に手を引かれながら、下校することになった。
とんでもない出来事が始まっている。