職員室で学級日誌を貰い、朝の静けさを纏う廊下を歩く。
「高校生になって日直の仕事をしっかりやるのは、橘お前くらいだよ。ちゃんとしてるな。」と担任に言われた言葉を思い出して、私は内心安堵していた。
良かった。ちゃんとできてる。私はその安堵を抱きながら、学級日誌をぎゅっと握り直した。
正直、日直だから早く出た訳では無い。ただ、住まわせてもらっているおばさんやおじさん、そして実花にとって、私という存在が恥ずかしくないものとして証明したいだけだった。日直がなくても、生徒会の仕事があるからと毎日、朝練の実花には負けるが、早めにあの家を出る。それが私の日課だった。
2年A組の札が見え、私は自分の教室へと歩みを少しだけ早くした。日誌を書いて、ルーティンの教室の掃き掃除をして、花瓶の水を変え、そして自習をしよう。時折窓から見える、陸上部で練習に精を出す実花の様子が眺められればいい。それで私の今日が始まるのだ。
そう意気込んで、教室のドアをガラリと開ける。
「邪魔」
「へ?」
“玲央”がいた。さっきのさっきで、まさか会うとは思わなかった。ついでに言えば、玲央はこのクラスの生徒では無い。AB組が特進科で、CDE組が普通科、FG組が体育科だった。玲央はB組の特進科で、別世界の人間だった。私の所属するA組は、いわゆる一般家庭から進学をした生徒が多くクラスメイトの多くが奨学金制度を利用して在学していた。無論私も奨学金制度を利用し、この学校に在学している。だが、B組は分かりやすく、お嬢様お坊ちゃまが多いクラスだった。前提として、私が通うこの高校は私立なので、そういった家庭状況が色濃く反映されている可能性が大いにあった。
ぽかんとしている私に、玲央はチッと舌打ちをして、私の肩をグイッと押しのけた。
「ちょ、ちょっと待って!」
その玲央の後ろから、女の子の声が聞こえた。クラスメイトの子だった。どうしたのだろうと私は狼狽えていると、玲央は苛立ちを隠せない様子で、その子に向き直る。
「何を待つんだよ。俺の話は終わった。」
「何も納得できない。なんでそんな事言われなきゃいけないの。」
「なんでって、気に入らないからだろ。」
朝からこんな修羅場に鉢合わせしたくなかった。この2人は恋人だったのだろうか。噂に聞く玲央は、実花と仲がいい位しか知らないが、恋人はいないという情報だった気がする。それくらいの情報しかない私は、この場面に鉢合わせするなんて、事故のようなものだ。
「なんで健くんへのラブレターを、アンタに破られなきゃいけないの。」
飛んだ修羅場だ。しかも変化球の修羅場と来た。私は居心地が悪いのを誤魔化すように、視線を泳がせていると確かに床に可愛らしい色合いの紙が粉々になって散らばっていた。
“健”というのは、玲央の幼なじみだ。これまた実花と仲がいいという話で、健くんは実花と同じ体育科で、同じ陸上部だった。爽やかなスポーツ少年。今だって実花と一緒に陸上部の朝練にいるのだろう。
「健くんに呼び出されたと思って来たら、まさかアンタだとは思わなかった。」
「今、健は大事な時期なんだよ。そんなことも考えられないバカだから、俺が来たんだろ」
「でも!」
「バカは相手にできない。」
玲央は冷たく吐き捨てて、この場から去った。気だるそうにスラックスのポッケに左手を入れ、右手で学ランのボタンを開けていく。少し隠れていた太陽が、彼の黒髪を照らし白い肌とのコントラストの差が鮮やかだった。
私はぽかんとしながら、視線を戻すとクラスメイトは涙を溜めて震えていた。怒りだろう、悔しさだろう、情けなさだろう、恥ずかしさだろう。色んな感情が予想出来た。そんな繊細な彼女の様子を見て、酷く胸が締め付けられる。けれどなんと言っていいのか分からない。
だから私は何も言えず、とにかく早く粉々になった手紙を拾い集めた。そっと拾い集めていると、彼女も無言で肩を震わせながら手紙を拾い始めた。
外からは色んな部活の朝練の賑やかな声が聞こえる。野球部がノックをしたキンっという金属音だったり、女子テニス部の甲高いサーブ練習の掛け声だったり、私たちの静寂の周りを囲うように、賑やかさがあった。また少しずつ生徒の登校時間にも差し掛かっているようで、部活以外の賑やかさも聞こえ始めた。
「ごめんね。」
彼女は静かに呟いた。前髪で表情は隠れており、明確な感情は読み取れない。だが、彼女の感情は容易に想像できた。
「私はなにも知らないし、見てないよ。」
だから、言って欲しいことがわかってしまった。無かったことにして欲しいのだ。きっと、愚痴を零すまで感情が追いついていない。そんな彼女を慰めても、別の火種を産むだけだ。だから私は、無かったことにした。
安心してほしい。その意味を込めて、私は掻き集めた手紙を彼女に返した。そして、私は無かったことにするために、そっと耳打ちをする。
「保健室の先生、もう出勤してたから、目にチョークの粉入ったとか言って休んでおいで」
私は彼女に微笑むと、彼女はこくりと頷き走り出した。少しでも気持ちの整理がつくといい。私は彼女がパタパタと走り抜けていく背中を見つめながら、そう思った。
そして私はゆっくり、掃除用具入れから箒を取り出し、床の掃き掃除をする。冷静になるための、私がちゃんとするためのルーティンを開始した。窓の外では、実花と”健くん”が真剣に話している。2人は陸上部の期待のエースだ。大会新記録を目指し、切磋琢磨している存在だと聞いている。
実花に影響が無ければいい。ぼんやりとそんなことを考えて、私は慌ててかぶりを振って、そんな酷い思いを捨てるかのように箒を動かした。すると次第に埃が少しずつ纏まって、ゴミとして視覚化できるようになっていく。最初は細々とした目に見えなかったモノ達が、名称のついたなにかになりかけていた。
ただ、ナニかになりかける前に、実花の楽しげな声と共にやってきた、あたたかい風にそれらは散布される。散り散りになったナニかに、安堵しつつ私はゴミを纏め、そして掃き掃除を終えた。
最後は花瓶の水を変えなければいけない。それでやっと私が私として、一日を始められる。そう思って、花瓶を持って廊下を歩いた。チラホラと生徒数が多くなってきている。もう5分ほどしたら、いつも通りの賑やかな校舎になる。それまでに私を形作らなきゃいけなかった。ちょっとした焦燥感。いつもより早足に、洗面台に向かう。
窓の外の木々には、昨日の夜に降った雨の残りが、装飾のように飾り付けられている。雲から出てきた太陽が、それらを照らし、まるで輝かしいものなんだぞと見せつけるかのような光景だった。
鬱屈しつつある感情をどうにか振り払いたくて、私は洗面台に着くなり勢いよく蛇口を捻った。銀色の洗面台にバチバチと水滴が当たり、雫が跳ね上がった。
「すげー」
後ろから気だるげな声が聞こえる。私のルーティンを見だした男だった。
「……一ノ瀬くん。」
「あ、知ってたんだ。俺の事」
「有名だからね。」
一ノ瀬玲央くん。特進科B組のお坊ちゃま、一ノ瀬玲央くん。今朝の事件の元凶の一ノ瀬玲央くんだった。
私は彼を見ずに、蛇口の調節をしようとした。冷たい銀色の取手に触れた時、そっとあたたかいものが触れた。驚いて手を見ると、私より大きな手が覆いかぶさっていた。蛇口、私の手、彼の手が重なっている。彼はお構いなしに、蛇口を捻り水の勢いを弱めた。
私は手の甲から伝う、彼の体温に動揺を隠せなかった。
ピロン。
間抜けな音。私の鼓動は早った。これでもかと早った。まさかと思えば思うほど、冷や汗が額から滲み出てくる。喉の奥がひゅっとしまりそうになった時。
「あっ、その、お、おはよう。一ノ瀬くん。」
「おはよう。今日もウザイい。」
「あは、その、橘さんと何してるの?」
「蛇口暴発してたから、助けてあげただけ。あっちいって」
「そ、そっか〜。またね。」
彼女はこちらを気にしながらも、一ノ瀬玲央に言われるがまま、パタパタと背中を向けて走り去っていった。私は安堵しつつ、キッと一ノ瀬玲央を睨んだ。すると彼はひゅうと口笛を吹いて、楽しそうにこちらを見てくる。完全におちょくっている顔だ。もしくはおもちゃを見つけて、楽しんでる顔。私にはそう見えた。
「……公共施設ではラブマップは電源をお切りください。これはマナーだよ。」
「なに、自分が鳴らしたと思ったの。可愛いじゃん。」
「そんな訳ない。ほら、切ってラブマップを。」
「はーい。」
彼は面白そうにこちらを見ながら、スマホをつけた。そしてなんてことないように、ラブマップのアイコンをタップした。いたずらっ子みたいな笑顔を向けながら、彼は1種類目のカメラ機能を付けながら、私にスマホのレンズを向けた。その行為に失礼だなと思いながら、私は花瓶に向き直って水を入れ替え始めた。
「まぁ、タチバナさんではないよな。」
淡々と事実を告げる一ノ瀬玲央の言葉。それはラブマップに、私の反応が無いということだろう。
「当たり前でしょ。」
「当たり前じゃないけど」
私が構わずに花瓶に花を刺し直していると、彼は後ろからスマホを私の前に差し出してきた。彼のスマホ画面には、2種類目のマップ。地図上に沢山のピンがたっている。ざっと数えただけでも、軽く20はいる。このまだ閑散とした朝の校舎であるのに。
俺を好きな人はこれだけいる。だから、お前も惚れていてもおかしくない。そう言いたいのだろうか。なんて自信過剰なんだろう。羨ましいくらいだ。
「そうね。私にとっての当たり前だもないから」
私は、グッと彼の右足つま先を踏みつけてやった。すると彼は驚いて、私から距離をとる。そんな彼を気にせず、私は教室に戻ることにした。
この花瓶さえ教室に戻すことが出来れば、私はちゃんと私を今日も始めることが出来る。ちゃんとしてる私でいたいのだ。
遠くで「おい!」と呼び止める一ノ瀬玲央がいたが、気にしないことにした。私は私を始めることに必死だった。
「高校生になって日直の仕事をしっかりやるのは、橘お前くらいだよ。ちゃんとしてるな。」と担任に言われた言葉を思い出して、私は内心安堵していた。
良かった。ちゃんとできてる。私はその安堵を抱きながら、学級日誌をぎゅっと握り直した。
正直、日直だから早く出た訳では無い。ただ、住まわせてもらっているおばさんやおじさん、そして実花にとって、私という存在が恥ずかしくないものとして証明したいだけだった。日直がなくても、生徒会の仕事があるからと毎日、朝練の実花には負けるが、早めにあの家を出る。それが私の日課だった。
2年A組の札が見え、私は自分の教室へと歩みを少しだけ早くした。日誌を書いて、ルーティンの教室の掃き掃除をして、花瓶の水を変え、そして自習をしよう。時折窓から見える、陸上部で練習に精を出す実花の様子が眺められればいい。それで私の今日が始まるのだ。
そう意気込んで、教室のドアをガラリと開ける。
「邪魔」
「へ?」
“玲央”がいた。さっきのさっきで、まさか会うとは思わなかった。ついでに言えば、玲央はこのクラスの生徒では無い。AB組が特進科で、CDE組が普通科、FG組が体育科だった。玲央はB組の特進科で、別世界の人間だった。私の所属するA組は、いわゆる一般家庭から進学をした生徒が多くクラスメイトの多くが奨学金制度を利用して在学していた。無論私も奨学金制度を利用し、この学校に在学している。だが、B組は分かりやすく、お嬢様お坊ちゃまが多いクラスだった。前提として、私が通うこの高校は私立なので、そういった家庭状況が色濃く反映されている可能性が大いにあった。
ぽかんとしている私に、玲央はチッと舌打ちをして、私の肩をグイッと押しのけた。
「ちょ、ちょっと待って!」
その玲央の後ろから、女の子の声が聞こえた。クラスメイトの子だった。どうしたのだろうと私は狼狽えていると、玲央は苛立ちを隠せない様子で、その子に向き直る。
「何を待つんだよ。俺の話は終わった。」
「何も納得できない。なんでそんな事言われなきゃいけないの。」
「なんでって、気に入らないからだろ。」
朝からこんな修羅場に鉢合わせしたくなかった。この2人は恋人だったのだろうか。噂に聞く玲央は、実花と仲がいい位しか知らないが、恋人はいないという情報だった気がする。それくらいの情報しかない私は、この場面に鉢合わせするなんて、事故のようなものだ。
「なんで健くんへのラブレターを、アンタに破られなきゃいけないの。」
飛んだ修羅場だ。しかも変化球の修羅場と来た。私は居心地が悪いのを誤魔化すように、視線を泳がせていると確かに床に可愛らしい色合いの紙が粉々になって散らばっていた。
“健”というのは、玲央の幼なじみだ。これまた実花と仲がいいという話で、健くんは実花と同じ体育科で、同じ陸上部だった。爽やかなスポーツ少年。今だって実花と一緒に陸上部の朝練にいるのだろう。
「健くんに呼び出されたと思って来たら、まさかアンタだとは思わなかった。」
「今、健は大事な時期なんだよ。そんなことも考えられないバカだから、俺が来たんだろ」
「でも!」
「バカは相手にできない。」
玲央は冷たく吐き捨てて、この場から去った。気だるそうにスラックスのポッケに左手を入れ、右手で学ランのボタンを開けていく。少し隠れていた太陽が、彼の黒髪を照らし白い肌とのコントラストの差が鮮やかだった。
私はぽかんとしながら、視線を戻すとクラスメイトは涙を溜めて震えていた。怒りだろう、悔しさだろう、情けなさだろう、恥ずかしさだろう。色んな感情が予想出来た。そんな繊細な彼女の様子を見て、酷く胸が締め付けられる。けれどなんと言っていいのか分からない。
だから私は何も言えず、とにかく早く粉々になった手紙を拾い集めた。そっと拾い集めていると、彼女も無言で肩を震わせながら手紙を拾い始めた。
外からは色んな部活の朝練の賑やかな声が聞こえる。野球部がノックをしたキンっという金属音だったり、女子テニス部の甲高いサーブ練習の掛け声だったり、私たちの静寂の周りを囲うように、賑やかさがあった。また少しずつ生徒の登校時間にも差し掛かっているようで、部活以外の賑やかさも聞こえ始めた。
「ごめんね。」
彼女は静かに呟いた。前髪で表情は隠れており、明確な感情は読み取れない。だが、彼女の感情は容易に想像できた。
「私はなにも知らないし、見てないよ。」
だから、言って欲しいことがわかってしまった。無かったことにして欲しいのだ。きっと、愚痴を零すまで感情が追いついていない。そんな彼女を慰めても、別の火種を産むだけだ。だから私は、無かったことにした。
安心してほしい。その意味を込めて、私は掻き集めた手紙を彼女に返した。そして、私は無かったことにするために、そっと耳打ちをする。
「保健室の先生、もう出勤してたから、目にチョークの粉入ったとか言って休んでおいで」
私は彼女に微笑むと、彼女はこくりと頷き走り出した。少しでも気持ちの整理がつくといい。私は彼女がパタパタと走り抜けていく背中を見つめながら、そう思った。
そして私はゆっくり、掃除用具入れから箒を取り出し、床の掃き掃除をする。冷静になるための、私がちゃんとするためのルーティンを開始した。窓の外では、実花と”健くん”が真剣に話している。2人は陸上部の期待のエースだ。大会新記録を目指し、切磋琢磨している存在だと聞いている。
実花に影響が無ければいい。ぼんやりとそんなことを考えて、私は慌ててかぶりを振って、そんな酷い思いを捨てるかのように箒を動かした。すると次第に埃が少しずつ纏まって、ゴミとして視覚化できるようになっていく。最初は細々とした目に見えなかったモノ達が、名称のついたなにかになりかけていた。
ただ、ナニかになりかける前に、実花の楽しげな声と共にやってきた、あたたかい風にそれらは散布される。散り散りになったナニかに、安堵しつつ私はゴミを纏め、そして掃き掃除を終えた。
最後は花瓶の水を変えなければいけない。それでやっと私が私として、一日を始められる。そう思って、花瓶を持って廊下を歩いた。チラホラと生徒数が多くなってきている。もう5分ほどしたら、いつも通りの賑やかな校舎になる。それまでに私を形作らなきゃいけなかった。ちょっとした焦燥感。いつもより早足に、洗面台に向かう。
窓の外の木々には、昨日の夜に降った雨の残りが、装飾のように飾り付けられている。雲から出てきた太陽が、それらを照らし、まるで輝かしいものなんだぞと見せつけるかのような光景だった。
鬱屈しつつある感情をどうにか振り払いたくて、私は洗面台に着くなり勢いよく蛇口を捻った。銀色の洗面台にバチバチと水滴が当たり、雫が跳ね上がった。
「すげー」
後ろから気だるげな声が聞こえる。私のルーティンを見だした男だった。
「……一ノ瀬くん。」
「あ、知ってたんだ。俺の事」
「有名だからね。」
一ノ瀬玲央くん。特進科B組のお坊ちゃま、一ノ瀬玲央くん。今朝の事件の元凶の一ノ瀬玲央くんだった。
私は彼を見ずに、蛇口の調節をしようとした。冷たい銀色の取手に触れた時、そっとあたたかいものが触れた。驚いて手を見ると、私より大きな手が覆いかぶさっていた。蛇口、私の手、彼の手が重なっている。彼はお構いなしに、蛇口を捻り水の勢いを弱めた。
私は手の甲から伝う、彼の体温に動揺を隠せなかった。
ピロン。
間抜けな音。私の鼓動は早った。これでもかと早った。まさかと思えば思うほど、冷や汗が額から滲み出てくる。喉の奥がひゅっとしまりそうになった時。
「あっ、その、お、おはよう。一ノ瀬くん。」
「おはよう。今日もウザイい。」
「あは、その、橘さんと何してるの?」
「蛇口暴発してたから、助けてあげただけ。あっちいって」
「そ、そっか〜。またね。」
彼女はこちらを気にしながらも、一ノ瀬玲央に言われるがまま、パタパタと背中を向けて走り去っていった。私は安堵しつつ、キッと一ノ瀬玲央を睨んだ。すると彼はひゅうと口笛を吹いて、楽しそうにこちらを見てくる。完全におちょくっている顔だ。もしくはおもちゃを見つけて、楽しんでる顔。私にはそう見えた。
「……公共施設ではラブマップは電源をお切りください。これはマナーだよ。」
「なに、自分が鳴らしたと思ったの。可愛いじゃん。」
「そんな訳ない。ほら、切ってラブマップを。」
「はーい。」
彼は面白そうにこちらを見ながら、スマホをつけた。そしてなんてことないように、ラブマップのアイコンをタップした。いたずらっ子みたいな笑顔を向けながら、彼は1種類目のカメラ機能を付けながら、私にスマホのレンズを向けた。その行為に失礼だなと思いながら、私は花瓶に向き直って水を入れ替え始めた。
「まぁ、タチバナさんではないよな。」
淡々と事実を告げる一ノ瀬玲央の言葉。それはラブマップに、私の反応が無いということだろう。
「当たり前でしょ。」
「当たり前じゃないけど」
私が構わずに花瓶に花を刺し直していると、彼は後ろからスマホを私の前に差し出してきた。彼のスマホ画面には、2種類目のマップ。地図上に沢山のピンがたっている。ざっと数えただけでも、軽く20はいる。このまだ閑散とした朝の校舎であるのに。
俺を好きな人はこれだけいる。だから、お前も惚れていてもおかしくない。そう言いたいのだろうか。なんて自信過剰なんだろう。羨ましいくらいだ。
「そうね。私にとっての当たり前だもないから」
私は、グッと彼の右足つま先を踏みつけてやった。すると彼は驚いて、私から距離をとる。そんな彼を気にせず、私は教室に戻ることにした。
この花瓶さえ教室に戻すことが出来れば、私はちゃんと私を今日も始めることが出来る。ちゃんとしてる私でいたいのだ。
遠くで「おい!」と呼び止める一ノ瀬玲央がいたが、気にしないことにした。私は私を始めることに必死だった。