*
それから梵くんはパタリと学校に来なくなった。午前中だけでも登校していた今までとは違い、もう顔を出すことすらなくなった。
何かがおかしい。
そんなことはとっくに気づいていたけれど、答えを知るための箱を開ける勇気が私にはなかった。
「やさん……花宮さん、赤っ!」
「えっ、あ……」
ぐいっと手を引かれる感覚とともに、強めに名前を呼ばれて、ハッと意識が戻る。焦った表情で私を呼んでいるのは南くんだった。
「なにやってんの、赤だよ!?」
「へ、あ……」
見れば、信号は赤。どうやら私は、赤信号を渡ろうとしていたらしい。
「最近、ようすがおかしいのは藍琉が学校に来ないから?」
腕を掴まれたまま、そう聞かれる。泣きそうに揺れる南くんの瞳に私が映っている。こくりと頷くと、また悲しげに揺れた黒い瞳。
「どうして、梵くんは学校に来ないの? 南くん、何か知ってるなら教えて。お願いだから、教えてよ」
近づいて縋りつくと、視線を落とした南くん。しばし視線が彷徨う。
梵くんの秘密を知っている────と。南くんの表情はそれを痛いくらいに示していた。
「言えないことなの? そんなに深刻なことなの?」
「花宮さん、落ち着い……」
「落ち着けないよ! だって、だってっ……」
いくら言葉をかけられたところで、冷静になることなんてできない。こういうときの勘は外れたことがないのが恨めしい。だから必死に大丈夫、なんでもないと思っていても、やはり恐怖のほうが勝る。
「俺も、本当のところはよくわからない。教えてもらってなんかない」
「でも、幼馴染みって……」
そう、彼らは幼馴染みで。
だからあんなにも砕けた口調で話していたのだと後に説明されて納得した。
「俺は詳しいことも、真相もわからない。だから俺の予想でしかないし、俺から言っていい話かも分からないけど……」
その先を渋るように、ぎゅっと口を引き結ぶ南くん。まつ毛が震えて、吐き出される息もどことなく切迫詰まっているような気がする。
「藍琉は昔……いや、やっぱ違う。忘れて」
「ねえ、南くんっ」
何が違う、のか。
梵くんは昔、なに?
何度も赤と青を繰り返す信号機の前で、梵くんの話をする私たちの横を。
すっ、と通り過ぎたひとつの影。
「っ……梵くんのお母さんっ!」
思わず叫ぶと、びくりと上下した肩。ハイライトのない瞳が、じっとこちらを見つめる。
「あの、私花宮です。梵くんは、大丈夫なんですか? 最近、学校休みがちで……」
吐く量と吸う量が明らかに釣り合っていない。苦しくなるばかりなのに、それでも止まらなかった。
聞きたくて、知りたくて。でも、わかりたくなくて。
今までの違和感が徐々につながっていくような妙な感覚に身体を従えながら、震える唇でなんとか言葉を繕う。
やがて焦燥しきった顔の梵のお母さんは、小さく「家に、いるわ」と呟いた。
「えっ?」
「在宅療養」
今度ははっきりと、告げられる。私のとなりで南くんが小さく息を呑むのが分かった。
「梵くんが? なんで、どうしてっ」
やつれた顔のまま、梵くんのお母さんが血色のない口を開く。繋がりのない言葉が、ひどくはっきりと、私の耳に届いた。
「あの子は……病気なの。余命持ちの、病気」
「え……?」
「だからもう、あの子に関わらないで。あなたが苦しくなるだけよ」
雷のような……否、そんな言葉では表せないような衝撃が、頭を割るように重たく激しくのしかかってくる。
まったく理解できない。
あんなに元気そうだった梵くんが?あんなに柔らかく笑って、私を連れ出してくれた梵くんが?
余命を宣告されるほどの病気を患っているなんて。
「梵くんは、私と一緒に卒業しますよね……? 途中でいなくなったり、しませんよね?」
縋るように問いかけると、真っ黒な目を少しだけ動かした梵くんのお母さんは、視線を落として小さく首を振った。
「……悠ちゃんも知ってるように、昔、癌を患ってから闘病して一度は治ったわ。でも、最近の定期検診でまた影らしきものがあるって言われてね。検査の結果、再発と転移が見つかったの」
「えっ……」
南くんを見上げると、悔しげに唇を噛んでいる。やっぱり、知ってたんだ、病気のこと。幼馴染みだから、一度目の闘病生活のことを知っているのかもしれない。そばで、見続けてきたのかもしれない。
「再発は死亡リスクが上がる。あの子は見つかったのも遅くて……もってあと一週間、って言われているの」
「そんなの……なにかの、間違いで……っ」
「転移した場所が、治療が難しいところでね。手術しても、確率はそう高くないと聞いたわ。そしたら、あの子……治療は受けないなんて、言い出すから……っ」
頭が真っ白になる。
突然、『卒業』を奪い取られたような気がした。ゴールがないのなら、いったい何のために、どこへ進むためにこの道を進んでいけばいいのだろう。つらい、息苦しいと思う毎日だって、すべて価値あるものだったのだと昇華してくれるはずの『卒業』という節目を迎えることがないまま、梵くんはこの世界から消えてしまうの?
「そんなの、おかしいよ……」
やり場のない思いが、水滴となって地面へと落ちるだけ。涙の行方をたどっているうちに、梵くんの言葉がフラッシュバックする。
『家族に大切にされてる? どんなことをしても許される? それがどれだけつらいか、花宮は分かんないだろ。腫れ物みたいに扱われる気持ちなんて知らないだろ』
梵くんの家族が、彼に対して妙に優しい……というより、全て受け入れ、厳しいことを言わずに遠い場所から見守っているような視線も。
そういうもので違和感をすべて流してしまっていた過去の自分に戻ってやり直せるとしたら、今度こそ彼の痛みも苦しみも、ちゃんと分かってあげられるかもしれない。
だけどやり直しなんて、そんなことはできないから。
「私、梵くんに会いたいです。会わせてください」
「無理よ。もう、あの子とは関わらないで」
「お願いします。私、梵くんにまだ伝えてないことが、いっぱい……いっぱい、あるんです」
会いたい。彼に会って、伝えたい思いがたくさんある。
「そんなわがまま言わないで。迷惑よ」
「っ……」
心底迷惑だというふうに歪められた顔を見て、開こうとした口が固まって動かなくなった。
たしかに、梵くんとは喧嘩別れのようになっている。私と会いたいのならば、いくらでも連絡手段はあるはずなのに、それをしなかった。
ということは、やっぱり梵くんは私なんかに会いたくないのかもしれない。私が会いにいく資格なんて、ないのかもしれない。
「……分かりました。でしゃばって、すみません」
「藍琉と仲良くしてくれて、ありがとうね。幸せだったと思うわ」
伏し目がちに告げた梵くんのお母さんは、そのまま信号を渡って去っていく。
「……どうして。なんで……」
震える手が、背中をゆっくりとさすってくれる。自分だって、泣きたいはずなのに。
「俺たちが泣いてたら藍琉が悲しむよ。だから、さ」
「う、うんっ……そう、だね」
治療をしない選択をした梵くんの真意は分からないけれど、せめて彼が望む結末に。そしてそれが、ハッピーエンドであることを祈って。
チカチカと点滅する信号を見つめながら、ずいぶんあたたかくなった春の風を顔に受けた。
*
それから一週間。依然として、梵くんの席は空いたまま。
「今日の授業は特別授業として、みなさんに課題を出します。今から便箋を配るので、この時間、誰かに向けて手紙を書いてください」
そんな国語の授業内容は、手紙を書く、ということ。教室の端々から「ええ」「恥ず」などと声が上がり、クラス中が沸いている。
「相手は誰だっていいわ。家族でも、友達でも、恋人でも。将来の自分でもいい。普段言えないようなことも、文面では伝えられるかもしれない。大切な人へ言葉を綴るという体験を、今日はみんなにしてほしいの」
国語担当の鮫島先生は、そう言いながら便箋と封筒を配っていく。色とりどりのレターセット。
一人一人、違う色が配られていく。
手紙を渡す相手は、決まっていた。彼しかいないと思った。
便箋の色は藍。彼に、ピッタリだ。
「ねえ、花宮さん」
そのときふと、声がかかって肩が跳ねる。心臓が嫌な音を立てて動いているのがわかった。
ゆっくりと振り返ると、深緑色の便箋を持った田中さんが、首を傾げて訴えるようにこちらを見ている。
「便箋、交換してくれない? くるみ、藍色が使いたいの」
以前の私ならば────きっと。
嫌だなと思いつつも、笑顔を貼り付けて交換していたことだろう。何かを思われるよりは、多少自分が我慢したほうがマシだと。
だけど、これだけは譲れなかった。別に違う色でも気持ちは伝わる。だけど、やはり彼の名前が入った色で、溢れんばかりの想いを綴りたかった。
それが私の精一杯だったから。
「お願い田中さん。今回は私に藍色を使わせて」
こんなふうに言い返してくるとは思っていなかったのだろう。田中さんの目が大きくなって、たじろぐような視線が右往左往する。
「今日だけ、今回だけ。お願い」
「な、なによ。そんなに頭下げないで、目立つでしょう」
「この便箋が、私には必要なの」
まっすぐ彼女を見つめると、「変なの」と呟いた田中さんはくるっと踵を返した。
「よく分からないけど、わかった。今回は、譲ってあげる」
「ありがとう」
大きな揉め事にならなかったことに安堵しつつ、椅子に座りシャーペンを握る。手が震えて、うまく文字が書けない。
【梵くんへ】
そこから何ひとつ、進まない。思い出ばかり蘇ってくるのに、肝心な言葉が、なにも。周囲の騒音がシャットアウトされる。冷え切った世界の中で、言葉を手繰り寄せようとしても、空をきるだけで無駄だった。
「花宮さん」
そんなときだった。
急に鮫島先生が私の名前を呼ぶ。驚いて顔を上げると、差し出されたのは紫色の封筒。
「預かりもの。あなたの、大切な人からよ」
「えっ……?」
「この手紙企画を提案してくれたのも彼。きっと自分は渡せないだろうからって、前もって用意してたみたいよ」
裏返して、差出人の名前を目でなぞる。
【梵藍琉】
そこにはしっかりとした筆跡で、そう記してあった。
封を開けて、便箋を取り出す。淡い色をした封筒とは対照的に、便箋は濃い紫。
筆跡を辿って、彼の想いを丁寧にほぐして心に流してゆく。この一文字一文字に、彼の想いが詰まっている。そう思うと、涙が次から次から溢れて止まらなかった。
クラスメイトの声など聞こえない。世界には、二人だけ。この手紙だけで、私たちはつながっている。
何を迷うことがあったのだろう。
つらいことからは逃げてもいい。だけど、人と向き合うことから逃げてはダメだ。
自分の気持ちに素直になること、心のうちを吐露することが真面目卒業の第一歩ならば。
「先生、私……」
「いいわ。いってらっしゃい」
何かを察したように優しく微笑んだ鮫島先生は、私の肩に手を乗せて、ポンっと気合を入れるように叩く。
「あなたが彼じゃないとダメなように、彼にとってもきっとあなたじゃないとダメよ」
「ありがとう、ございます」
「あとね。その色、詳しく言えばただの紫色じゃないわ。あなたも彼も、考えることは同じなのね」
教室を飛び出す。
先生の言葉を耳朶に響かせながら、私はただ夢中で走った────。
*
「梵くん……! そよぎ、くんっ!」
インターホンを押しながら叫んでいると、がちゃっとドアが開いて梵くんのお母さんが顔を出す。
「あのっ、梵くんは……!」
「それが、いないのよ」
「え?」
同じように焦った顔をするお母さんは、私にそう告げた。
「じゃあ、いったいどこに」
「体力的に遠くには行けないはずだけど、どこに行ったのかまったく見当がつかなくて。あなたに会いに行ったものだと思ってたわ」
「わかりました……!」
放って、夢中で駆け出す。
『俺はこの世から去るとき、綺麗なものを見ながら大好きな人の横でいきたいんだ』
『俺は、桜のしたがいいな。冬を耐え凌いで、満開の桜とともに散りたい』
梵くんが行きそうな場所、手紙に記されていた場所。彼がさいごを願った場所。
それは────。
「梵くん……!」
人影薄い公園の、満開の桜のした。もたれるように座って、おだかやに目を閉じている彼は、そっとまぶたをあげて私をとらえた。
「は……なみ、や」
やっぱりそうだ。ここで彼は、私を待っていてくれた。
「手紙、読んだ。ありがとう、本当に、ありがとう」
息切れ切れに言うと、口角をわずかにあげた梵くんは、またすぐに苦しげに顔を歪ませる。
「す……き、だ」
そっと告げられた愛の言葉は、とてもささやかで、泣きたくなるほど気持ちがこもっていて。これまでもらったどんな言葉よりも、心を震わせる。
「私も、梵くんがすき。今日はね、学校を飛び出してきたの。梵くんに、会いたくて。やっぱり、自分の気持ちに嘘はつけなかった」
私の膝に頭を預けるようにして、梵くんは静かに目を閉じる。サラサラと春めいた風が髪を揺らす。ひらり、と桜の花びらが梵くんの鼻先へと舞い落ちた。
「ひどいこと言ってごめんね。梵くんのこと、何も分かってなかったのに」
「おれ、も……ごめ、ん」
途切れ途切れの声で、なんとか言葉を紡いでくれる梵くん。
「私の世界を変えてくれたのは梵くんだよ。真面目卒業に導いてくれたのは、梵くんなんだよ」
出会った、あの日から。まるでこうなる運命だったかのように。
運命のように出会って、旅をして、恋に落ちた。
「もし、またい……か出逢……ことが、あっ……たら────その、と……は、もう、いっ、か……い、はな……やを、連れ出……ても、いい?」
「うん……待ってる」
ぎゅっと手を握ると、目を細めて小さく笑った梵くんは、そのまま静かに眠りについた。儚顔から色が抜け落ちて、ああ、いってしまったんだと悟った途端、ぼろぼろ涙が溢れて止まらなくなる。
「梵くん……! 梵くん、っ、そよぎく……っ」
さくら、咲いてるよ。私たちの卒業式には、桜が咲いたんだ。
風に揺れて舞い落ちた桜が、ひら、と梵くんの頬に着地する。淡いピンクが、梵くんのさいごの世界を彩っていく。
「すごく……すごく、好き。大好きだよ、梵くん」
こんなにも自分の気持ちを伝えられるようになるなんて。大切な人の最期を見届けられるほど、強くなれるなんて。息苦しい世界から、抜け出すことができるなんて。
長年私を縛り付けてきた真面目"すぎる"ことを卒業できるなんて。
彼と出会い、旅をするまでは思いもよらなかった。
帰ったら、自分の気持ちを伝えよう。地獄のような日々に別れを告げて、そんな世界からは卒業しよう。私ならできる。だって、私は"悪い子"だから。我慢ばかりして自分を痛めつけるいい子ちゃんは卒業したのだから。
親に反抗して自分を守ることくらい、簡単なことだ。
『……乗る? このままどっか、行く?』
『今日だけ、悪いことしちゃおうか』
彼との思い出がひとつひとつ、鮮明に思い起こされていく。私は、安らかな顔で眠る梵くんの額に、そっと唇を落とした。
それは、彼の香りをした桜が咲く、三月の日のことだった。
❀・*:.。 。.:*・゚❀・*:.。 。.:*・゚❀・*:.。 。.:*・゚
花宮へ
書けるうちに、書いておこうと思う。
この手が動くうちに、君のことを考えていられるうちに、
自分の想いを綴っておこうと思う。
まず、俺が治療を受けていなかったこと。
このことを聞いたとしたら、
花宮はすごく泣くかもしれないし、怒るかもしれない。
そうであってほしいと、願ってしまう。
だけど、俺は生きることを諦めたわけじゃない。
むしろ、俺らしく『生きる』ことに懸けたんだ。
最期を思い描いた時、病室でひとりじゃなく、
花宮がいる桜のしたでいきたいと思った。
再発が見つかった時、全部、やめてしまおうと思った。
今まで演じていたいい子をやめて、
自分の好きなように、生きたいように生きようと思った。
治療をしたほうが生き続けられる確率は上がっただろう。
だけど、やっぱり最後見る景色は、花宮の顔がいい。
そんな俺のわがままで、花宮を連れ出してしまったこと、申し訳なく思う。
すべてが終わる俺とは違って、花宮の人生はこれからもずっと、
ずっと続いていくんだろうから。
だけど、後悔はしていない。
余命を宣告された漠然とした世界の中で、心残りを探したとき。
まっさきに、花宮の顔が浮かんだ。
いつも言いたいことを我慢して、自分を殺していて、
無理して笑っている花宮を。
当時の俺と少し似ていた花宮を、心の底から笑わせてやりたいと思った。
俺と一緒に少しだけ悪いことをして、たったそれだけで笑って、
涙を流してくれる花宮を見てると、生きたくてたまらなくなった。
俺のことなんて忘れてくれていい。
花宮の長い人生を構成する、たった一人に過ぎないから。
だけどたまに、本当にふと、俺たちの旅を思い出してくれたら。
一緒に見た景色を、風の心地を、屋上からの青を思い出してくれたら。
それだけで嬉しいなと思う。
そして俺の幼馴染みはいい奴だから。
それは花宮が一番分かってるだろうから。
二人が幸せになる未来があることを、願ってる。
ここまで読んで、もう気づいていると思うけど。
俺は君が好きだ。
どうか君の人生が、花あるものになりますように。
P.S. 桜のしたで君を待つ。
梵藍琉
《了》
それから梵くんはパタリと学校に来なくなった。午前中だけでも登校していた今までとは違い、もう顔を出すことすらなくなった。
何かがおかしい。
そんなことはとっくに気づいていたけれど、答えを知るための箱を開ける勇気が私にはなかった。
「やさん……花宮さん、赤っ!」
「えっ、あ……」
ぐいっと手を引かれる感覚とともに、強めに名前を呼ばれて、ハッと意識が戻る。焦った表情で私を呼んでいるのは南くんだった。
「なにやってんの、赤だよ!?」
「へ、あ……」
見れば、信号は赤。どうやら私は、赤信号を渡ろうとしていたらしい。
「最近、ようすがおかしいのは藍琉が学校に来ないから?」
腕を掴まれたまま、そう聞かれる。泣きそうに揺れる南くんの瞳に私が映っている。こくりと頷くと、また悲しげに揺れた黒い瞳。
「どうして、梵くんは学校に来ないの? 南くん、何か知ってるなら教えて。お願いだから、教えてよ」
近づいて縋りつくと、視線を落とした南くん。しばし視線が彷徨う。
梵くんの秘密を知っている────と。南くんの表情はそれを痛いくらいに示していた。
「言えないことなの? そんなに深刻なことなの?」
「花宮さん、落ち着い……」
「落ち着けないよ! だって、だってっ……」
いくら言葉をかけられたところで、冷静になることなんてできない。こういうときの勘は外れたことがないのが恨めしい。だから必死に大丈夫、なんでもないと思っていても、やはり恐怖のほうが勝る。
「俺も、本当のところはよくわからない。教えてもらってなんかない」
「でも、幼馴染みって……」
そう、彼らは幼馴染みで。
だからあんなにも砕けた口調で話していたのだと後に説明されて納得した。
「俺は詳しいことも、真相もわからない。だから俺の予想でしかないし、俺から言っていい話かも分からないけど……」
その先を渋るように、ぎゅっと口を引き結ぶ南くん。まつ毛が震えて、吐き出される息もどことなく切迫詰まっているような気がする。
「藍琉は昔……いや、やっぱ違う。忘れて」
「ねえ、南くんっ」
何が違う、のか。
梵くんは昔、なに?
何度も赤と青を繰り返す信号機の前で、梵くんの話をする私たちの横を。
すっ、と通り過ぎたひとつの影。
「っ……梵くんのお母さんっ!」
思わず叫ぶと、びくりと上下した肩。ハイライトのない瞳が、じっとこちらを見つめる。
「あの、私花宮です。梵くんは、大丈夫なんですか? 最近、学校休みがちで……」
吐く量と吸う量が明らかに釣り合っていない。苦しくなるばかりなのに、それでも止まらなかった。
聞きたくて、知りたくて。でも、わかりたくなくて。
今までの違和感が徐々につながっていくような妙な感覚に身体を従えながら、震える唇でなんとか言葉を繕う。
やがて焦燥しきった顔の梵のお母さんは、小さく「家に、いるわ」と呟いた。
「えっ?」
「在宅療養」
今度ははっきりと、告げられる。私のとなりで南くんが小さく息を呑むのが分かった。
「梵くんが? なんで、どうしてっ」
やつれた顔のまま、梵くんのお母さんが血色のない口を開く。繋がりのない言葉が、ひどくはっきりと、私の耳に届いた。
「あの子は……病気なの。余命持ちの、病気」
「え……?」
「だからもう、あの子に関わらないで。あなたが苦しくなるだけよ」
雷のような……否、そんな言葉では表せないような衝撃が、頭を割るように重たく激しくのしかかってくる。
まったく理解できない。
あんなに元気そうだった梵くんが?あんなに柔らかく笑って、私を連れ出してくれた梵くんが?
余命を宣告されるほどの病気を患っているなんて。
「梵くんは、私と一緒に卒業しますよね……? 途中でいなくなったり、しませんよね?」
縋るように問いかけると、真っ黒な目を少しだけ動かした梵くんのお母さんは、視線を落として小さく首を振った。
「……悠ちゃんも知ってるように、昔、癌を患ってから闘病して一度は治ったわ。でも、最近の定期検診でまた影らしきものがあるって言われてね。検査の結果、再発と転移が見つかったの」
「えっ……」
南くんを見上げると、悔しげに唇を噛んでいる。やっぱり、知ってたんだ、病気のこと。幼馴染みだから、一度目の闘病生活のことを知っているのかもしれない。そばで、見続けてきたのかもしれない。
「再発は死亡リスクが上がる。あの子は見つかったのも遅くて……もってあと一週間、って言われているの」
「そんなの……なにかの、間違いで……っ」
「転移した場所が、治療が難しいところでね。手術しても、確率はそう高くないと聞いたわ。そしたら、あの子……治療は受けないなんて、言い出すから……っ」
頭が真っ白になる。
突然、『卒業』を奪い取られたような気がした。ゴールがないのなら、いったい何のために、どこへ進むためにこの道を進んでいけばいいのだろう。つらい、息苦しいと思う毎日だって、すべて価値あるものだったのだと昇華してくれるはずの『卒業』という節目を迎えることがないまま、梵くんはこの世界から消えてしまうの?
「そんなの、おかしいよ……」
やり場のない思いが、水滴となって地面へと落ちるだけ。涙の行方をたどっているうちに、梵くんの言葉がフラッシュバックする。
『家族に大切にされてる? どんなことをしても許される? それがどれだけつらいか、花宮は分かんないだろ。腫れ物みたいに扱われる気持ちなんて知らないだろ』
梵くんの家族が、彼に対して妙に優しい……というより、全て受け入れ、厳しいことを言わずに遠い場所から見守っているような視線も。
そういうもので違和感をすべて流してしまっていた過去の自分に戻ってやり直せるとしたら、今度こそ彼の痛みも苦しみも、ちゃんと分かってあげられるかもしれない。
だけどやり直しなんて、そんなことはできないから。
「私、梵くんに会いたいです。会わせてください」
「無理よ。もう、あの子とは関わらないで」
「お願いします。私、梵くんにまだ伝えてないことが、いっぱい……いっぱい、あるんです」
会いたい。彼に会って、伝えたい思いがたくさんある。
「そんなわがまま言わないで。迷惑よ」
「っ……」
心底迷惑だというふうに歪められた顔を見て、開こうとした口が固まって動かなくなった。
たしかに、梵くんとは喧嘩別れのようになっている。私と会いたいのならば、いくらでも連絡手段はあるはずなのに、それをしなかった。
ということは、やっぱり梵くんは私なんかに会いたくないのかもしれない。私が会いにいく資格なんて、ないのかもしれない。
「……分かりました。でしゃばって、すみません」
「藍琉と仲良くしてくれて、ありがとうね。幸せだったと思うわ」
伏し目がちに告げた梵くんのお母さんは、そのまま信号を渡って去っていく。
「……どうして。なんで……」
震える手が、背中をゆっくりとさすってくれる。自分だって、泣きたいはずなのに。
「俺たちが泣いてたら藍琉が悲しむよ。だから、さ」
「う、うんっ……そう、だね」
治療をしない選択をした梵くんの真意は分からないけれど、せめて彼が望む結末に。そしてそれが、ハッピーエンドであることを祈って。
チカチカと点滅する信号を見つめながら、ずいぶんあたたかくなった春の風を顔に受けた。
*
それから一週間。依然として、梵くんの席は空いたまま。
「今日の授業は特別授業として、みなさんに課題を出します。今から便箋を配るので、この時間、誰かに向けて手紙を書いてください」
そんな国語の授業内容は、手紙を書く、ということ。教室の端々から「ええ」「恥ず」などと声が上がり、クラス中が沸いている。
「相手は誰だっていいわ。家族でも、友達でも、恋人でも。将来の自分でもいい。普段言えないようなことも、文面では伝えられるかもしれない。大切な人へ言葉を綴るという体験を、今日はみんなにしてほしいの」
国語担当の鮫島先生は、そう言いながら便箋と封筒を配っていく。色とりどりのレターセット。
一人一人、違う色が配られていく。
手紙を渡す相手は、決まっていた。彼しかいないと思った。
便箋の色は藍。彼に、ピッタリだ。
「ねえ、花宮さん」
そのときふと、声がかかって肩が跳ねる。心臓が嫌な音を立てて動いているのがわかった。
ゆっくりと振り返ると、深緑色の便箋を持った田中さんが、首を傾げて訴えるようにこちらを見ている。
「便箋、交換してくれない? くるみ、藍色が使いたいの」
以前の私ならば────きっと。
嫌だなと思いつつも、笑顔を貼り付けて交換していたことだろう。何かを思われるよりは、多少自分が我慢したほうがマシだと。
だけど、これだけは譲れなかった。別に違う色でも気持ちは伝わる。だけど、やはり彼の名前が入った色で、溢れんばかりの想いを綴りたかった。
それが私の精一杯だったから。
「お願い田中さん。今回は私に藍色を使わせて」
こんなふうに言い返してくるとは思っていなかったのだろう。田中さんの目が大きくなって、たじろぐような視線が右往左往する。
「今日だけ、今回だけ。お願い」
「な、なによ。そんなに頭下げないで、目立つでしょう」
「この便箋が、私には必要なの」
まっすぐ彼女を見つめると、「変なの」と呟いた田中さんはくるっと踵を返した。
「よく分からないけど、わかった。今回は、譲ってあげる」
「ありがとう」
大きな揉め事にならなかったことに安堵しつつ、椅子に座りシャーペンを握る。手が震えて、うまく文字が書けない。
【梵くんへ】
そこから何ひとつ、進まない。思い出ばかり蘇ってくるのに、肝心な言葉が、なにも。周囲の騒音がシャットアウトされる。冷え切った世界の中で、言葉を手繰り寄せようとしても、空をきるだけで無駄だった。
「花宮さん」
そんなときだった。
急に鮫島先生が私の名前を呼ぶ。驚いて顔を上げると、差し出されたのは紫色の封筒。
「預かりもの。あなたの、大切な人からよ」
「えっ……?」
「この手紙企画を提案してくれたのも彼。きっと自分は渡せないだろうからって、前もって用意してたみたいよ」
裏返して、差出人の名前を目でなぞる。
【梵藍琉】
そこにはしっかりとした筆跡で、そう記してあった。
封を開けて、便箋を取り出す。淡い色をした封筒とは対照的に、便箋は濃い紫。
筆跡を辿って、彼の想いを丁寧にほぐして心に流してゆく。この一文字一文字に、彼の想いが詰まっている。そう思うと、涙が次から次から溢れて止まらなかった。
クラスメイトの声など聞こえない。世界には、二人だけ。この手紙だけで、私たちはつながっている。
何を迷うことがあったのだろう。
つらいことからは逃げてもいい。だけど、人と向き合うことから逃げてはダメだ。
自分の気持ちに素直になること、心のうちを吐露することが真面目卒業の第一歩ならば。
「先生、私……」
「いいわ。いってらっしゃい」
何かを察したように優しく微笑んだ鮫島先生は、私の肩に手を乗せて、ポンっと気合を入れるように叩く。
「あなたが彼じゃないとダメなように、彼にとってもきっとあなたじゃないとダメよ」
「ありがとう、ございます」
「あとね。その色、詳しく言えばただの紫色じゃないわ。あなたも彼も、考えることは同じなのね」
教室を飛び出す。
先生の言葉を耳朶に響かせながら、私はただ夢中で走った────。
*
「梵くん……! そよぎ、くんっ!」
インターホンを押しながら叫んでいると、がちゃっとドアが開いて梵くんのお母さんが顔を出す。
「あのっ、梵くんは……!」
「それが、いないのよ」
「え?」
同じように焦った顔をするお母さんは、私にそう告げた。
「じゃあ、いったいどこに」
「体力的に遠くには行けないはずだけど、どこに行ったのかまったく見当がつかなくて。あなたに会いに行ったものだと思ってたわ」
「わかりました……!」
放って、夢中で駆け出す。
『俺はこの世から去るとき、綺麗なものを見ながら大好きな人の横でいきたいんだ』
『俺は、桜のしたがいいな。冬を耐え凌いで、満開の桜とともに散りたい』
梵くんが行きそうな場所、手紙に記されていた場所。彼がさいごを願った場所。
それは────。
「梵くん……!」
人影薄い公園の、満開の桜のした。もたれるように座って、おだかやに目を閉じている彼は、そっとまぶたをあげて私をとらえた。
「は……なみ、や」
やっぱりそうだ。ここで彼は、私を待っていてくれた。
「手紙、読んだ。ありがとう、本当に、ありがとう」
息切れ切れに言うと、口角をわずかにあげた梵くんは、またすぐに苦しげに顔を歪ませる。
「す……き、だ」
そっと告げられた愛の言葉は、とてもささやかで、泣きたくなるほど気持ちがこもっていて。これまでもらったどんな言葉よりも、心を震わせる。
「私も、梵くんがすき。今日はね、学校を飛び出してきたの。梵くんに、会いたくて。やっぱり、自分の気持ちに嘘はつけなかった」
私の膝に頭を預けるようにして、梵くんは静かに目を閉じる。サラサラと春めいた風が髪を揺らす。ひらり、と桜の花びらが梵くんの鼻先へと舞い落ちた。
「ひどいこと言ってごめんね。梵くんのこと、何も分かってなかったのに」
「おれ、も……ごめ、ん」
途切れ途切れの声で、なんとか言葉を紡いでくれる梵くん。
「私の世界を変えてくれたのは梵くんだよ。真面目卒業に導いてくれたのは、梵くんなんだよ」
出会った、あの日から。まるでこうなる運命だったかのように。
運命のように出会って、旅をして、恋に落ちた。
「もし、またい……か出逢……ことが、あっ……たら────その、と……は、もう、いっ、か……い、はな……やを、連れ出……ても、いい?」
「うん……待ってる」
ぎゅっと手を握ると、目を細めて小さく笑った梵くんは、そのまま静かに眠りについた。儚顔から色が抜け落ちて、ああ、いってしまったんだと悟った途端、ぼろぼろ涙が溢れて止まらなくなる。
「梵くん……! 梵くん、っ、そよぎく……っ」
さくら、咲いてるよ。私たちの卒業式には、桜が咲いたんだ。
風に揺れて舞い落ちた桜が、ひら、と梵くんの頬に着地する。淡いピンクが、梵くんのさいごの世界を彩っていく。
「すごく……すごく、好き。大好きだよ、梵くん」
こんなにも自分の気持ちを伝えられるようになるなんて。大切な人の最期を見届けられるほど、強くなれるなんて。息苦しい世界から、抜け出すことができるなんて。
長年私を縛り付けてきた真面目"すぎる"ことを卒業できるなんて。
彼と出会い、旅をするまでは思いもよらなかった。
帰ったら、自分の気持ちを伝えよう。地獄のような日々に別れを告げて、そんな世界からは卒業しよう。私ならできる。だって、私は"悪い子"だから。我慢ばかりして自分を痛めつけるいい子ちゃんは卒業したのだから。
親に反抗して自分を守ることくらい、簡単なことだ。
『……乗る? このままどっか、行く?』
『今日だけ、悪いことしちゃおうか』
彼との思い出がひとつひとつ、鮮明に思い起こされていく。私は、安らかな顔で眠る梵くんの額に、そっと唇を落とした。
それは、彼の香りをした桜が咲く、三月の日のことだった。
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花宮へ
書けるうちに、書いておこうと思う。
この手が動くうちに、君のことを考えていられるうちに、
自分の想いを綴っておこうと思う。
まず、俺が治療を受けていなかったこと。
このことを聞いたとしたら、
花宮はすごく泣くかもしれないし、怒るかもしれない。
そうであってほしいと、願ってしまう。
だけど、俺は生きることを諦めたわけじゃない。
むしろ、俺らしく『生きる』ことに懸けたんだ。
最期を思い描いた時、病室でひとりじゃなく、
花宮がいる桜のしたでいきたいと思った。
再発が見つかった時、全部、やめてしまおうと思った。
今まで演じていたいい子をやめて、
自分の好きなように、生きたいように生きようと思った。
治療をしたほうが生き続けられる確率は上がっただろう。
だけど、やっぱり最後見る景色は、花宮の顔がいい。
そんな俺のわがままで、花宮を連れ出してしまったこと、申し訳なく思う。
すべてが終わる俺とは違って、花宮の人生はこれからもずっと、
ずっと続いていくんだろうから。
だけど、後悔はしていない。
余命を宣告された漠然とした世界の中で、心残りを探したとき。
まっさきに、花宮の顔が浮かんだ。
いつも言いたいことを我慢して、自分を殺していて、
無理して笑っている花宮を。
当時の俺と少し似ていた花宮を、心の底から笑わせてやりたいと思った。
俺と一緒に少しだけ悪いことをして、たったそれだけで笑って、
涙を流してくれる花宮を見てると、生きたくてたまらなくなった。
俺のことなんて忘れてくれていい。
花宮の長い人生を構成する、たった一人に過ぎないから。
だけどたまに、本当にふと、俺たちの旅を思い出してくれたら。
一緒に見た景色を、風の心地を、屋上からの青を思い出してくれたら。
それだけで嬉しいなと思う。
そして俺の幼馴染みはいい奴だから。
それは花宮が一番分かってるだろうから。
二人が幸せになる未来があることを、願ってる。
ここまで読んで、もう気づいていると思うけど。
俺は君が好きだ。
どうか君の人生が、花あるものになりますように。
P.S. 桜のしたで君を待つ。
梵藍琉
《了》