眠い、休みたい、仕事辞めたい。
そんなことしか考えられなくなってしまったのは、いったいいつ頃からだっただろう?
「昨日命じた炎鹿の角はどうした?」
「す、すみません。別の魔物討伐に行っていたため、まだ採取はできていなくて……」
「さっさと持って来い鈍間が! お前が怠けた分、俺の作業が遅れることになるんだぞ! 徒弟の分際で俺のアトリエに泥を塗るつもりか!」
アトリエの作業場でこちらを怒鳴っているのは、目つきの鋭い金髪の男。
白衣の袖を振り乱しながら、身長差のあるこちらを蔑むように見下ろしている。
彼は錬成師ババロア・ナスティ。
そしてここは、彼が立ち上げた錬成工房――ババロアのアトリエだ。
そこで私――見習い錬成師のショコラ・ノワールは、『素材採取係』として働いている。
「今すぐに取って来い! 今日は目標数の素材が集まるまでアトリエには入れんからな」
「は、はい……」
私は取りかかっていた素材棚の整理を手早く終えて、休む間もなくアトリエを出た。
そして素材採取のために魔物討伐に向かう。
錬成術には素材が必要不可欠だ。
薬草や木材、鉱石や動物素材など。
それらを魔力を用いた調合技法で一つの物質に作り替えることを『錬成術』と呼び、それを生業としている者たちを『錬成師』と呼ぶ。
そして取り分け、魔物から採れる素材は錬成術において重宝されるため、素材採取係の私はこのようにして度々魔物討伐に行かされているのだ。
「……はぁ」
別に私は、戦闘が得意なわけではない。
魔物に関しての知識が豊富というわけでもない。
だというのにババロアは、師範という立場を利用して無理矢理に私を魔物討伐に行かせている。
自分で素材採取に行く手間が省けるからと、“徒弟”の私をこき使っているのだ。
長時間労働、指導放棄、暴言による精神的侵害。
おかげで私は寝不足や体調不良に悩まされながら苦しい日々を味わわされている。
「前の休息日、いつだったかな……」
休みをもらったのなんて遠い日のことに感じる。
休みたいと思っても、師範のババロアが『働け』と言えば働かなければならない。
それが師範と徒弟の関係。
錬成師ギルドに一人前の錬成師として認めてもらうためには、まず師範の元で五年間の修行が必要になる。
その徒弟期間を終えて、ようやく職人と見做されるようになり、品評会への出品が可能になる。
そして品評会で作品を評価されれば、錬成師として自分のアトリエを開くことができるようになるのだ。
だから私は、自分のアトリエを開くためにババロアに徒弟として雇ってもらった。
けれど、今日まで錬成術の指導をしてもらったことは一度もない。
どころか時間が空けば何かしらの雑務を押しつけてくる、明らかに劣悪な労働環境だ。
「……辞めたい」
切実に思う。
今すぐにすべてを投げ出してしまいたいと。
任されている仕事を全部放ってどこか遠くへ逃げてしまいたいと。
それで大好きなあま〜いお菓子を好きなだけ食べて、幸せな満腹感に浸りながら好きなだけ眠るんだ。
そんなことする度胸もないため、私は諦めて森へと続く道を歩き続ける。
そもそも徒弟として入ったアトリエは辞めてはいけない決まりになっている。
五年の徒弟期間もまともに終えられず、途中で投げ出すような奴は根性無しと見做されて、他のアトリエでも雇ってくれなくなってしまうのだ。
だから辞められない。ババロアの言いなりになるしかない。危険な魔物討伐からは逃れられない。
「ピィィ!」
王都近くにある森に辿り着き、少し進んだところに目標の魔物が潜んでいた。
赤い体毛と漆黒の角、成人男性を上回る巨躯が特徴的な鹿型の魔物――炎鹿。
人間を見つけると積極的に襲いかかって来て、魔力で生成した火炎を黒角に宿して攻撃をしてくる。
その火はかなりの高熱を帯びているけど、炎鹿の角は耐久耐と耐熱性に優れていて、長時間火炎を纏っていてもまるで問題がないのだ。
ゆえにその炎鹿の角は、武器の素材や錬成の素材などで重宝されている。
「ピィ!」
薄暗い森の中で炎鹿と対峙していると、奴は地面を引っ掻いて突進の構えをとった。
地面を掻く度に、ボッボッと黒角に火柱が立ち、やがて迸るように火炎が立ち上る。
それを合図にするように、炎鹿が地面を蹴飛ばしてこちらに飛びかかって来た。
「――っ!」
私は鋭く息を吐きながら、右横に飛んで炎鹿の突進を回避する。
強烈な熱気が真横を通り過ぎて行くのを左頬に感じながら、私は後ろを振り返りつつ左手を構えた。
「【渦巻く水流――不快な穢れを――洗い流せ】――【水流】!」
瞬間、左の手の平に魔法陣が展開されて、そこから勢いよく大量の水が放たれた。
鹿を目掛けて放たれたそれは、角に宿っていた炎を消し去り、ついでに魔物の巨体を奥へ吹き飛ばしてくれる。
水属性魔法――【水流】。
これで熱気に邪魔されずに近づけるようになった。
私は奴の体勢が整えられる前に素早く肉薄し、懐のナイフを右手で抜きながらひと突きする。
「ピィィ!」
赤い体毛を貫いて胸のやや下に刃が食い込むと、そこから鮮血が溢れて私の茶色の髪を赤く染めてきた。
すかさずナイフを抜いて巨体を蹴飛ばすと、炎鹿は地面に倒れてバタバタと暴れる。
どうやら今の一撃で急所を突けたようで、やがて奴は脱力して静かになった。
直後、炎鹿は不自然に体が固まり、全身が灰となって風に攫われていく。
私に付着した血も不自然に蒸発し、後に残ったのは、唯一灰にならなかった炎鹿の黒角だけである。
「……ふぅ」
私はそれを担ぎ上げて、近くの茂みに隠しておく。
これで一本獲得。
散々魔物討伐をさせられてきたから、凶悪な魔物との戦いも随分と慣れてきた。
田舎村で畑の手伝いをしていた頃では、とても考えられない成長ぶりである。
ま、慣れてきたって言っても、疲れるものは疲れるんだよね。
「さてと……」
残り四本。
それが集め終わらなければ今日はアトリエには帰れない。
強烈な疲労感と眠気に襲われながらも、ババロアの険しい表情が脳裏に浮かんで、私はほぼ無意識のうちに次の標的を探し始めていた。
「遅い! いったい何をしていたのだ!」
「す、すみません……」
素材採取から戻って来ると、さっそくババロアから怒鳴り声を頂戴した。
アトリエを出てから六時間での帰還。
言うほど遅くはないと思うんだけど、ババロアはどうも気に食わなかったらしい。
「素材がなければ錬成術ができず、アトリエ全体の作業が止まることになるんだぞ! 素材採取係として相応の責任感を持てこの鈍間が!」
「は、はい……」
周りを見ると、他の職人さんや徒弟たちは、こちらと目を合わせようとせずに作業場の片付けをしている。
ここでババロアに意見できる人は他にいないし、下手に助け舟を出せば今度はその人が攻撃されることになる。
だから誰も何も言わずに、隠れるようにして身を縮こまらせていた。
「それと、『溶液の粘液』はどうした?」
「えっ? な、なんのことで……」
「言ったはずだぞ、明日の錬成依頼に使用する予定なので、二十体分の粘液を取って来いとな」
「……」
……言われてない。
そんな指示を受けた覚えは一切ない。
いくら寝不足だからと言って、ババロアの指示を聞き逃すような失敗はしないはずだ。
前にも何度かこういうことがあった。指示されていないはずのことを後から言われて、聞いていないと返したら怒鳴り散らかされるということが。
だからまた『言われてない』と返しても、怒鳴られるだけに違いない。
「す、すみません、忘れていました」
「……なんだと?」
「き、聞き逃していたのかも、しれません。申し訳ございません、ババロア様」
頭を下げて謝るが、ババロアの方から怒りの熱気が迸るのを感じる。
恐る恐る顔を上げると、やはり彼は険しい表情でこちらを見下ろしていた。
「ふざけるなよこの愚図が! 今すぐに素材を取ってこい! 目標数を回収して来なければ、絶対にアトリエには入れんからな!」
「……」
今から素材採取に行け?
日付が変わるまで、あと一時間もないのに?
ただでさえ夜は視界が悪くて、危険な魔物も多いし、素材採取が困難になっている。
だというのに今から溶液の粘液を二十体分回収なんて、帰って来られるのは完全に朝方になるじゃないか。
でも、行くしかない。
アトリエに入れないと言ったら確実に入れない人だから。
開き直って採取を諦めて、外で寝床を確保した場合は、最悪解雇処分を受けるかもしれないし。
せめて明日の錬成作業開始までに間に合わせれば、きっと許してもらえるはず。
私の睡眠時間は完全に無くなるけど、やっぱりそれしか……
「あ、明日の朝までには、必ず持ち帰って来ます。ですからどうか、それでお許しくださ……」
刹那――
突然視界が揺らいで、全身からすっと力が抜けていった。
そのまま支えを失った人形のように地面に倒れて、周りから職人たちの驚く声が聞こえてくる。
「お、おい! 大丈夫かショコラ!?」
「誰か手ぇ貸してくれ! 寝床まで運ぶぞ!」
私、倒れたの……?
体が思うように動かない。
起き上がろうとしても手足に力が入らない。
遅れて私は思い出す。
そういえば、最後にまともに寝たの…………五ヶ月も前だ。
「素材集めもまともにできない無能はここから出て行け」
「えっ……」
十時間後に目覚めた私は、ババロアの部屋に呼び出されてそんなことを言われた。
寝不足の不調から僅かに解放されて、頭はそれなりにすっきりしている。
だからこそババロアからの言葉が、より鮮明に頭の中に響いてきた。
「出て、行け……? ということは……」
「言わねばわからんのか? 徒弟を破門とし、俺のアトリエから解雇するという意味だ。今すぐに荷物をまとめてここから出て行け」
「……」
無慈悲なその宣告に、血の気がすっと引いていく。
アトリエからの解雇。
それだけは絶対にダメだ。
五年の徒弟期間を終えられずに解雇されてしまったら、他のアトリエでも雇ってもらえなくなる。
修行に耐えられずに逃げ出した“根性なし”と見做されてしまうからだ。
せっかく三年間、ババロアのアトリエで苦しみに耐え続けたっていうのに。
「お願いします、まだここにいさせてください……! もう絶対に、見苦しい姿はお見せしませんので……」
「与えられた役目も果たせず、他の職人たちの手も煩わせた無能をこの先もアトリエに置いておけと言うのか? 馬鹿も休み休み言え」
必死な懇願も、ババロアに一蹴されてしまう。
「最近は特にうちのアトリエは波に乗りつつあるのだ。俺の商品の品質に惹かれた客たちが次々と依頼を寄越してくる。そんな中で失態を晒した徒弟を見過ごしたとなれば、他の職人たちの気の緩みやアトリエの悪評に直結しかねない」
次いでババロアは不快そうに顔をしかめた。
「第一、お前のような出来損ないの徒弟を持っているというだけで、師範の俺の品位が周囲から疑われることになる。大事なこの時期に不評に繋がる種を残しておくことはできん」
「で、でしたら私は、錬成術の方には一切関与いたしません。ババロア様の不評になるような行いは絶対にしませんので、まだこのアトリエに……」
「くどいぞ!」
ダンッ! とババロアの手が卓上に叩きつけられる。
「いったいあと何秒、無能のお前に時間を割けばいい? ただでさえ滞っている作業が山ほどあるのだ。さっさと失せろこの才能なしが」
「……」
まるで取りつく島がなく、これ以上の抵抗は無意味だと私は悟った。
これで、私の錬成師人生は終わり。
徒弟期間中に解雇されて、それからどのアトリエにも雇ってもらえず夢を諦めた者たちはごまんといる。
私もその人たちと同じように、錬成師の夢を諦めるしかないの?
私は呆然としながら振り返り、覚束ない足取りで部屋の扉へと歩いて行く。
そしてババロアに言われた通り立ち去ろうとすると、最後に彼は……
「そもそも……」
耳を疑う言葉を掛けてきた。
「女が錬成師になろうということ自体、錬成師に対する侮辱に他ならない」
「…………はっ?」
「結局は女に錬成師が務まるはずもなかったのだ。事実、軟弱なお前は素材採取の役目もまともに果たせず倒れたではないか。たとえ錬成師になれていたとしても先は長くなかったはず。女ごときに大した物など、作れるはずもないのだからな」
「――っ!」
私は鋭く目を細めて、ババロアの方を振り返った。
その感情に任せて掴みかかろうかと思ったけれど、寸前で自制が働く。
そして何も言い返すことができずに、悔しさを噛み殺しながらババロアの部屋を出て行った。
こうして私は、なんとも理不尽な理由で、劣悪なアトリエから解雇されたのだった。