傘を届け終わったのはいいけれど、真っ暗な家に戻ってくると急に現実というものを突きつけられたような気がして、ゆかはとたんに気持ちがソワソワしてきた。
 
母の仕事が終わるのは夕方で、それまでの間はこの家の中で1人で過ごさなければならないから。

毎日こうやって家の中で過ごしているだけだと、だんだんとすることもなくなってきてしまい、時間を持て余してしまう。
 
母は「本でも読んだら」とか「映画でも観たら」とか言ってはくるけれど、そういった問題ではない。
 
学校に行けてないことに罪悪感を感じている中で、そんな娯楽みたいなことをするだなんて絶対に許せなくて、だけど何かしたいのかって言われたらそういうわけでもないから、だから困っている。

たまにおばあちゃんとお茶をすることもあるけれど、それも別に楽しくてしているわけでもなくて、仕方なくしているっていった感じ。

時計を見るとまだ11時で、たった30分しか経っていなかった。
 
今日は何をして時間を潰そう、と考えながらソファの上に勢いよく倒れ込んだ。

こんなことを考えている時点で、なんて毎日を無駄に生きているのだろう、とこれからの人生が思いやられてしまい、はーと深いため息が出た。
 
ゆかしかいない部屋の中はカチカチと時計の針が響きわたるだけで、あまりにも静かすぎて逆に落ち着かなくなってくる。

テーブルに手を伸ばして、上にあったリモコンを取るとなんとなくテレビをつけてみた。

特別観たい番組があったというわけでもないから、そのままワイドショーを流していたけれど、テレビの中から聞こえてくるゲストの笑い声が、自分を嘲笑っているかのように聞こえて、つい被害妄想に陥ってしまう。
 
こんな怠けた人間なんて、生きている意味ない、とでも思っているんでしょ。

思わず心の声が、独り言として口から出てしまったことに自分でも驚いて右手で口を押さえた。
 
テレビを消した瞬間、テーブルの上に置いてあった携帯のバイブ音が短く鳴って、画面が光った。

ゆかの全身がビクッと小さく反応する。
 

誰からだろう?
 

学校に行かなくなってからは連絡を取り合う友だちなんてほとんどいなくなったから、こうやって携帯が鳴るだけで、異常なほどに驚いてしまう。
 

なんて自分は孤独なのだろう。


「ゆか、お誕生おめでとう。素敵な一年になりますように。ところで、ゆかは最近どんなしてるの?」
 

中学時代の友達からだった。
 

誕生日を覚えていてくれた。
 

嬉しいはずの「お祝いメール」だったけれど、思わずゆかは別のところに反応してしまった。
 
 
ゆかは最近どんなしてるの?

 
「どんなしてるの」この言葉がゆかの心を一瞬で大きくかき乱した。
 
この言葉の意味は「今、どんなことをしているの?」という意味ではなくて「最近学校はどう?」っていう意味。

そう頭の中で自動的に解釈してしまうと、学校に行っていない自分のことを遠回しに責められているような気がして、存在を消してしまいたい気持ちに襲われてしまう。
 

昔の友達は誰1人として、今の自分が学校に行っていないということを知らない。
 
毎日家の中で生活しているということを知らない。
 
こんな恥ずかしい生活、絶対に誰にも知られたくない。
 

頭の中がどんどんとグチャグチャになっていく。

自分にイライラしているのか、友達にイライラしているのか、何に対してこんなにむしゃくしゃしているのか、わからない。

たったメール1通で、こんなにもメンタルが不安定になってしまう自分が、むしろ怖くなった。


「ありがとうね。ぼちぼち過ごしているよ」
 

ふーっと深呼吸をして、返信を打ち込んだ。

「ぼちぼち」という言葉は便利で、可もなく、不可もなく、そんな感じで相手にやんわりと伝えることができる便利な言葉。

今の生活を曖昧にしてしまうには、この表現がピッタリだった。
 
送信ボタンを押してからも、なんとなくまだ居心地が悪い。

そして、なんだか一気に嫌気がさした。

こんな風にみんなから隠れるような生活をコソコソ送っていたって、今の生活が変わるということはない。

なんでこんなにも元気なふりを演じないといけないんだろう、バカみたい。
 
1度そんな風に思ってしまうと、何もかもが鬱陶しく思えてきて、自分の中でだんだん嫌な予感が湧いてくる。

突然入ってしまう、あのスイッチ。
 
よくないスイッチ。

悪いスイッチ。
 
スイッチが一度入ってしまうと、自分ではもうコントロールができなくて、全くの別人になってしまうことは知っている。

トートバックに財布と携帯を押し込むようにして入れると、急いで玄関へと向かった。
 

食べたい。

詰め込みたい。

早く口に入れたい。
 

外はまだ雨が降っていたけれど、スーパーに1秒でも早く着きたくて、ゆかは思わず小走りになった。

右手に持つ傘が鬱陶しくて、早く走れない。


もう、どうでもいい。

濡れてもいい。


傘を閉じて、全速力で走り出した。
 

こんな雨の中、傘をささないで手に持つだなんて、ありえないよ。

頭の中どうにかしてるよ。
 
 
頭の中で自分を非難する声が、次から次へと浮かんでくるけれど、今、誰かに冷静になりなさいって声をかけられても、無理だと思う。
 

こんな行動、本当はやりたくなんかない。
 
家に帰りたいのに。
 
大人しくゆっくりしていたいのに。
 

視界がゆっくりと歪んでいき、それが雨にぬれて歪んでいるのではないということに、ゆかは気がついた。
 

走りながら泣いてるじゃん、自分。
 

スーパーまでは大人が走っても5分以上はかかるけれど、雨で湿った洋服の袖で目を何度も擦りながら、ゆかは無我夢中で走り続けた。

苦しい、とか、恥ずかしい、とかそういった感情をはるかに超えた、コントロール不可能、そういった感覚だった。