毎晩、夜は勉強を教えてくれた。私への対価としての彼なりの優しさなのかもしれないけれど――厳しい。
 鋭い目つきで鬼教官の如く叩き込まれる。
 蒼くんは地頭がいいから、呑み込みが早い。だから、できない私のような人間のことがあまり理解できないらしい。
「おまえ、こんな問題もわかんないのか」
 と言いつつ、何とかわかりやすく説明してくれる。
 数学の応用問題あたりだと、何度か聞いてなんとか解ける問題も多々ある。
「今回のヒロインは、まさに勉強が苦手なポンコツ女子だからリアルな状況が書きやすいな」
「ちなみに、そのヒロインと主人公って結ばれるんだよね?」
「結ばれないけど」
 あっさり否定される。
「どんなに好きになっても、好きになってもらえない恋愛っていうのもありかなって思って」
「何それ、全然今までの泣ける系ハッピーエンドじゃないじゃん」
「ちゃんと伏線回収できるようにしてるから、最後は泣けるよ」
「空野奏多ファンとしては、ハッピーエンド希望なのに」
「恋によってはハッピーエンドになるかどうかなんてわかんないだろ。現実なら尚更だ」
 蒼くんはパソコンに向かって、小説を書いているみたいだ。
 一番緊張するのは蒼くんの部屋で勉強している事。
 協力の対価としてはあまりにも甘辛すぎる。
 甘いは、好きな人と一緒にいられることだけれど。
 辛いは、蒼くんの勉強に対する指導の厳しさだ。
 小説を書いている蒼くんの横顔はとても真剣できれいだ。
 真摯に向き合う姿は誰よりもかっこいい。
 再会して最初こそ、がっかりしたというか変化に戸惑ったけれど、彼のことを知るともっと魅力を感じた。
 この人は、人一番努力家で辛抱強い王子様なのかもしれないと惚れ惚れする。
「手が動いてないぞ。ちゃんと解け」
「ちょっと、見惚れてました」
 正直者になろうと思う。言葉にすることによって、せめてこの人に私の気持ちが届けばいい。超鈍感王子様なのだから。
「なんだよ、きもちわりーな」
「ひどーい、私の顔はたしかに、美優ほどかわいくないし、世間一般からみたら、多く見積もって中の上。いや、中の中くらいだと思うけどさ」
 蒼くんが笑う。
「自分で中の上とか言うか?」
「少し盛ってみただけで、本当は中の下だということはわかっているから」
 頬が赤らむ。
「別に、俺は美優と比べてなんていないし、世間一般基準と比べてもいないから卑屈になるな」
「だって、蒼くんは美男子で私といたら不釣り合いだっていわれる容姿をしてるよ。スクールカースト最上位の蒼くんと私が一緒にいること自体、おかしいよ」
「その考え方、おかしいと思うけどな。だいたい、スクールカーストって何だよ。誰が分類してるんだよ。容姿だって、誰が良し悪しを決めてるんだ?」
「……」
 何も答えられない。世間一般的な考えだと思い込んでいた。
 スクールカーストや容姿の分類なんて自分が決めつけていただけ?
 きっと周囲も同じことを考えているだろうとは思う。
 でも、スクールカーストなんて、誰が決めたなんて聞いたことがあるわけでもない。
 自分自身の思い込みだった?
 蒼くんのそういった考え方はとてもまっすぐで好きだな。
 いけない。また、好きなポイントが増えてるよ。
 小説を書きながら、こちらを向いて蒼くんが私を見つめる。
「明日の土曜日疑似デートな」
 決定事項という言い方をする。相変わらず自分勝手な人。
 疑似という言葉がなかったらどんなに嬉しいだろうか。
 疑似というのは小説のリアル感を出すためだから、仕方がない。
 そうでなければ誘われることもないだろう。
 実際暇で何も予定はない。
「どうせ暇人なんだから、俺のために空けとけよ」
 この言い方、俺様王子様だなぁ。でも、蒼くんだから許せてしまう自分が情けない。
「でも、どこに行くの?」
「そうだな、遊園地とアクアリウムが一体となったテーマパークとかどうだ? あまりうちの学校の生徒もいないだろうし」
「たしかに街中だと誰に会うかわからないよね」
「俺は別に誰に会っても構わねーけど、おまえが人目が気になるんだろ。俺は頼んでいる立場だし、学校で嫌な思いをさせたいとは思わないからさ」
「意外と配慮があるというか、優しいね」
「俺の次回作はおまえにかかっていると言っても過言ではないからな」
「空野奏多の次回作が私にかかっている……」
 嬉しくて照れくさい。
「お前の仕草、すげえ参考になる。わかりやすい顔するからな」
「だって、ずっと蒼くんのことを好きだと思って生きてきたんだもん。その人と、一緒に住んで一緒に勉強して一緒に出掛けるなんてうれしいでしょ」
「最近、ちょっとずつ素直になってきたんじゃねーの?」
「恋愛超鈍感男には、ちゃんと言葉で伝えたほうがいいかなって。それが、空野奏多の新作につながるわけでしょ」
 蒼くんの指が私のおでこに触れる。
 優しい目をして私の前髪をかき分けて目をみつめる。
 ドキドキがとまらない。このまま瞳を閉じたほうがいいだろうか。
「なぁ、こういうシチュエーションってどんな感じ? 形に残したいからメッセージで送ってほしい」
「もしかして、小説のネタでこんなことしたの?」
「こんなことって前髪に触れただけだろ」
 そう言われると身も蓋もないが、実際かなり距離が近づいたような気がした。
 部屋に戻ってメッセージを送る。
『指がおでこにふれるときゅんと胸が弾むんだよね。胸がしめつけられそうになって、これからどう動いたらいいかわからなくなったっていう感じ』
『なるほど。きゅんかぁ。いい擬音語だな。一言で色々なものが詰まってる言葉だよ』
 小説のネタで平然とこういうことができるなんて、犯罪だ。
 心の泥棒に値する。って本人は微塵も感じてもいないみたい。
 でも、ここまで恋愛に無関心というか鈍感だと他に好きな人ができそうもないから、安心だな。
「風呂、先に入ったから、どうぞ」
 蒼くんの声が聞こえる。
「はーい」
 下に行くと、リビングで濡れ髪のまま麦茶を飲む蒼くんがいる。
 やっぱり、かっこいい。
 いつも長い前髪とば別でおでこ全開状態。
 おでこを出してもかっこいい人はかっこいいんだなと納得する。
 イケメンの特権。どんな髪型でもかっこいいということだ。
 じっとみつめていると目があう。
「もしかして、風呂上がりの姿に見とれてた?」
 冗談じみた本気顔で言う。いじわるな人だ。
「別に……少しばかり見ていただけよ」
「俺のあとは、おまえがふろに入るんだから、間接風呂みたいな感じか」
 間接風呂? 初めて聞いた言葉だけれど、間接キスみたいな意味合いだろうか?
「はい、この麦茶飲んでみて」
「ん……?」
 何もわからずごくりと飲んでみる。
「こーいうのって間接キスっていうらしいぞ」
 かあーっと顔が熱くなる。私、無意識に誘導されたの?
 親がいない隙を見計らってそんなことをしてくるなんて不意打ちだ。
 しかも、顔立ちは芸能事務所に所属していると言われてもおかしいくらいの美形。
「初めての間接キスの味はいかがかな?」
 わざと丁寧な言葉を使う。
「ちょっと、ただの麦茶の味に決まっているでしょ」
「うーん、そこはもっと文学的にきれいな感じの表現がないわけ?」
 また小説のネタかぁ。常に頭は小説のことでいっぱいなんだな。売れっ子の人気小説家なのだから、当然のことだ。
「でも、不意打ちの間接キスはありえないでしょ」
「一般的にはイチゴ味とかミント味とかっていうよな」
「これがサイダーだったら、サイダーの味っていうけどね」
「それ、いいかも。初恋の味はサイダーの味っていうのも響きがいいよな」
「まぁ、麦茶の味よりかっこいいというか、爽やかな印象だよね」
「ファン第一号だし、一番の協力者であるおまえには、一番最初に次回作を読んでもらう権限を与える」
「うれしい!!」
 思わず嬉しくて残った麦茶を飲み干す。
「麦茶、全部飲んじまったのか」
「はい……すみません。って蒼くんが私に勝手に渡して来たんでしょ」
 向こうの部屋からお母さんの声がする。
「羽留。早くお風呂に入りなさいよ」
 蒼くんが耳打ちする。
「今日の風呂は青空の下の樹木の香りがするから」
 にやりと笑う。今日、私が屋上で昼休みに述べた言葉を引用している。
 たしかに、蒼くんのお風呂のあとだから、彼の香りがすることは否めないけれど……。
 好きな匂いなんだ。落ち着く香り。でも、絶対にそんなこと本人には言えないけれど。
「いつも私をからかって、おもしろいの?」
「おもしろいよ。おまえって本当に顔に出やすいからからかい甲斐があるってもんだよな」
 ケラケラ笑う。蒼くんの笑顔はいつもどこかいたずらを含んでいる笑いだ。
 その後、入浴すると、青空の下の樹木の香りが本当にした。蒼くんがいないときはしなかった香りだ。
 これが最近はあたりまえになっているけれど、今後はいつかは別な家に引っ越してしまう。今の関係は難しいのだろうな。
 入浴しながら一抹の寂しさにおそわれる。
 でも、幸せに包まれている方が割合としては高い。
 まるで蒼くんに包まれているみたいで、どんな入浴剤よりも疲れを癒す効果がてきめんだ。
 たとえそれが疑似恋愛で疑似デートだとしても、偽りだとしても、私の好きは本物だから、舞い上がってしまう。

 デート当日――
「蒼くんにとっては、特別なことでもなんでもないんだろうけどね」
「俺にとっては結構特別なことだよ。おまえみたいに何でもはっきり怒ったり意見する女は周囲にいなかったし。空野奏多を純粋に好きだと言ってくれた女もいなかった。大ファンだと言ってくれる本音で何でも言ってくれる人と出かけるっていうのは初めてだからさ」
 なによ、ちょっと期待させるようなことを言わないでほしい。
 美優の足元にも及ばない私。
 ふと、昨日の言葉を思い出す。
「その考え方、おかしいと思うけどな。だいたい、スクールカーストって何だよ。誰が分類してるんだよ。容姿だって、誰が良し悪しを決めてるんだ?」
 確かに、蒼くんは美優と私を比べる発言はしていない。上下を言ったこともない。どっちが美しくて秀でているかなんて私が勝手に思っているだけだ。
「じゃあ、蒼くんの初めてのデートは私ってことで」
 にこりとしてみる。
「デートか、まぁそうかもな」
 え? 否定しないんだ。そこは絶対断固否定されるかと思っていた。驚きだ。
 一緒にいて心地いい感じ。でも、少しばかり恥ずかしくてくすぐったい感じ。
 憧れの人と、(仮)の初デート。仮でも何でもいいや。
「おまたせ」
「おまえ、それ、昨日必死で考えた服装だったりする?」
「必死ってわけじゃないけれど――まぁそれなりにはね」
「否定しないところが素直でよろしい」
 蒼くんはというと、全体的に爽やかという感じだ。白いTシャツに黒いスキニーデニムパンツ。
 これは、足が長くて細くないと絶対に似合わないという印象だ。
 白いTシャツの上には、青いワイシャツを羽織っている。
「青、似合うね」
「そうか。名前が蒼だからな」
「青色と蒼くんの名前って何が違うの?」
「水や空など、自然界にある澄んだ青。信号の緑色を青信号というように、緑色も青。野菜の青物も青だ。実際は緑色でも、青色として一般的に言われているものが意外とあるらしい。藍色や群青色などの濃い青色も青。で、俺の名前の方は、草木などの深い青色を差すらしい。日本の伝統色の「蒼色」は青色ではなく緑色らしい。なんでこの漢字にしたのかというと、漢字がカッコいいと思ったからだってさ。単純なんだよ」
「空野奏多ほどの人でも、スランプってあるの?」
「ある程度作品を書いていくと、自分の中のネタを使い切った感じがあってさ。より良い作品を書きたい、前作よりもいい作品を書きたいと思うと、慎重になってしまう自分がいる。実体験がないと新境地も拓けないと思うし」
 意外だった。完璧で勉強も友達関係も全てそつなくこなす人だと思っていたけれど、今、壁にぶち当たっていたのか。
 だから、私なんかに身分を明かしてまでお願いしてきたのかもしれない。
 一番のファンだからこそ助言できることもあるかもしれない。
 電車に乗って、遊園地に向かうまで、私たちの会話は途切れたり気まずくなることはなかった。
 自然に会話が生まれて流れていく感じだ。
 幼なじみだからだろうか。
 太陽の下の蒼くんの髪の毛はいつもより茶色く見えて、サラサラした感じがさらに増す。
 髪の毛も傷んでいなくて、つやがある。肌同様美しいな。
「作品を作るって更に欲が増すんだよな。高みを目指したいというかさ。だから、つい、もっといいものを書きたいっていう欲が出て、次回作が慎重になっているんだ」
「じゃあ、気分転換ってことで。今日は楽しもうよ。取材も兼ねて一石二鳥でしょ」
「じゃあ、あのジェットコースターからいってみようか」
「私、絶叫系苦手なんだけど……」
 冷や汗が浮かぶ。
「俺が隣にいるから、大丈夫」
 何よそれ、嬉しいセリフを言われると何かを期待してしまう。
 あっちとしては何も深い意味がないとしても、深い意味として受け取ってしまう。
 手を引っ張られる。手をつなぐわけではないけれど、手を持たれた感じ。
 手のぬくもりが温かい。
 繋がっているっていうのはこういうことを言うのかもしれない。
 心が繋がっているわけではないけれど、手だけでも繋がっていたい。
 超苦手な絶叫系ジェットコースターに乗り、私の手は確実に震え冷たくなっていた。
「本当に苦手なんだな」
 気を遣ってくれたのか、手をほどかずにいてくれる。
 苦手なジェットコースターに乗るのと、蒼くんとの手つなぎどちらがいいかと言われたら、手つなぎがいいに決まっている。
「ったく、仕方のない奴だ。あそこのベンチで休むぞ」
「蒼くんは平気なの?」
「こーいうの大好きだ」
 本当に楽しそうな顔をする。
「よかった」
「何がだよ?」
「蒼くんが思いの外楽しそうだから、今日ここにきてよかったと思ったの」
「おまえって、自分が楽しいっていう基準じゃなくて、他人を中心に考えるんだな。俺とは全然違う。これも、キャラクターの参考になるな」
「私、友達が多い方じゃないし、特別モテるわけでもない。つまり、相手に合わせないと一人ぼっちになっちゃうでしょ。だから、自然とそういった考えになるのかも」
「小さい時からそうだったのか?」
「どうかな。気づいたら、いつのまにかそうなっていたんだと思う」
 ベンチに座ると、蒼くんが持参したペットボトルを二本取り出す。
「今日は間接キスじゃないからがっかりするなよ」
「もう、すぐそーいうこというんだから」
 私は顔を赤らめながら、昨日の夜を思い出す。
 ただ、同じコップの麦茶を飲んだだけなのに。
 ずっと疑似デートできたらいいのに。
 こう思っているのは私だけなのだということは重々承知だ。
 まだ、本当の恋なんてわからない。
 でも、好きだと思う気持ちはたしかにここにある。
 隣にいる蒼くんと一緒にいたい。好きになってもらいたい。
 好きになってもらいたいは、到底無理なことだと思う。
 ずっと片思いだとしても、見返りなんて求めないから、好きでいさせてほしい。
 声が好き。肌のぬくもりが好き。瞳が好き。髪の毛が好き。筋肉の付き方も背の高さも全部好き。
 好きなポイントを挙げたらもっともっとある。きりがない。
 この距離が少しでも心地いいと思ってくれたら幸いだ。