まどろみの中、何度も同じ夢を見る。
 夢ではない過去にあった現実だと認識はしている。
 大好きな幼なじみの彼はいつも私にささやく。
 いつも曖昧な夢の中のぼんやりとした記憶――。
 たしかに彼の声は鮮明に刻まれている。
 でも、何という会話をしたのか、朧気で、不確かでほとんど覚えていない。
「合言葉は○○○○だよ。これは魔法の言葉だよ」
 その台詞はなんとなく覚えているけれど、肝心の合言葉の部分はいつも夢の中でも無音だ。起きている時間に必死に思い出そうとしても、全く思い出せない。その合言葉はなぜ魔法の言葉なのだろう。それを言うと何かが起こるというのだろうか。たしかに、大好きだった彼と会話をしたことは覚えている。でも、なぜそんな話をしたのかも前後のことは覚えていない。

 幼いときに仲が良かった蒼《あお》君。
 蒼色がよく似合う元気で優しい少年だった。
 蒼い空の下にはいつも蒼くんがいた。
 記憶の中の蒼くんはいつも笑っていた。
 だから、彼が同じ高校に入るということを知った時には、胸が高鳴った。
 親同士が仲が良かったので、引っ越して時は経ったものの同じ高校に受かったことを知った。蒼くんはこの町に戻って来たのだ。
 だからこそ、再会のその瞬間を心待ちにしていたのはいうまでもない。
 彼のことは大好きだと胸を張って言えた。
 お別れしたのは小学一年生の頃。十年後にまた会えたらいいねと言っていたことが実現した。
 また、出会えたら合言葉は「○○○○だよ」。
 声変わりする前のかわいらしい声。優しく包み込まれる感じがする。
 思い出せない合言葉にモヤモヤは止まらない。心臓がむずがゆい。かゆいところに手が届かないとはこのことだろうか。

 そんなことを思いながら、高校の予備登校へ向かう。
 蒼くんが同じ高校に入学したと母親に聞いていた。
 きっと運命の再会だ。
 初恋は実らないなんてことはない。
 ドキドキしながらクラス発表の掲示を見る。
 たくさんの名前が紙の上に溢れていたが、探していたのは清野蒼《きよのあお》という名前のみ。
 クラス発表を見ると、同じクラスに、なんと、蒼くんの名前がある。
 神様、ありがとう!! 普段は神様なんて拝みもしないくせにこんな時だけ感謝してしまう。
 慣れない教室に入ると知らない人ばかり。教室には独特の緊張感が流れていた。
 すぐに見てわかった。背も伸びて、大人びているけど、絶対にこの人が蒼くんだと確信した。笑顔の蒼くんがいる。それだけで嬉しい。声を掛けようかと思ったけれど、何やら少し派手な感じの女子と談笑していて、とても入れそうにもない。同じ中学の友達だろうか。幼稚園の頃から男女分け隔てなく接する子どもだった。誰にでも優しいのは健在だと思った。
 結局、声をかけることもできず、ホームルームが始まった。名前を呼ばれるので、きっと私の存在に気づくだろうと思う。でも、終始彼と目が合わない。
 帰り際、蒼くんが一人になるのを見計らって声をかけてみる。
 胸が高鳴る。ドクンドクンと心臓が波打つ。
 下唇を噛み締めて、手のひらをにぎる。
「蒼くん、久しぶり」
 一瞬の沈黙が走るが、蒼くんのまなざしは冷たく鋭い。まるで、知らない人に対する警戒心をあらわにする。
「誰だよ、おまえ」
 10年間待ちわびた言葉がこれとは、神様は残酷なことをする。
 冗談ではなく、真顔だった。
 完全に忘れ去られていた。現実を受け入れられない。
 でも、小学一年生の記憶くらいならば覚えているだろう。
 でも、その時の感情を10年維持できるかというと、そうでもないかもしれない。
 今更ながら、現実を見る。
 あぁ、恋心は私の一方通行だったんだ。
 思い続けていたのは私だけだったんだ。
「私の名前は舞空羽留《まいそらはる》」
「わりいけど、おまえのことは全然記憶にないんだよな。母さんにも、知り合いの子が同じ高校に入ると聞いていたけど、本当に思い出せなくてさ。記憶力には自信がある方なんだけどな」
 派手な女子はメイクをばっちりしていて、同じ歳なのに全然別世界の人みたいだった。聞き耳をたてていたらしく、かなり仲がいい様子だ。
「俺、この町で過ごしたことは覚えているんだ。でも、本当におまえのことだけ思い出せないんだよ」
 申し訳無さそうに言われる。
 私のことだけ思い出せない? やっぱり嘘だと信じたい。
「別にどっちでもいいけどな。なぜだかはわからないけれど、おまえの記憶だけ抜け落ちてるんだよ。知らない記憶があるなんて、気持ち悪いだけだ」
 蒼くんは変わってしまった。
 心底嫌な顔をされるなんて。これ以上嫌な顔をされたら私の心臓は壊れてしまう。
 蒼くんの顔立ちは、両方を兼ね備えている。かわいいしかっこいい。一言で言えば、見た目がいい顔立ちは変わらない。少しばかり大人びただけ。少しばかり派手でおしゃれな雰囲気になっただけ。別人のように変わってしまったのは内面なのかもしれない。
 気持ち悪い生き物を見るかのような冷たい眼差し。
 今後、蒼くんのことは忘れよう。
 関わらずに生活しよう。
 そう決めていたのに――自宅に帰ると、見慣れない車が停まっていた。
「お久しぶり。羽留ちゃん」
「蒼くんのお母さん!!」
 久々に会った蒼くんのお母さんはとても優しい笑みを与えてくれた。
「こんにちは」
「しばらくの間、蒼を羽留ちゃんのうちに居候させてもらいたいと以前からお願いしていたのよ。実は、夫が海外転勤になったの。でも、蒼は日本の高校に通いたいと言っているのよ。転勤が決まったのが急だったの。いい物件が見つかるまでお願いするわ」
 お母さんはにこにこして引き受けてしまっていた。勝手に相談なく引き受けるなんてひどいよ。
「え? 嘘でしょ?」
 思わず固まってしまった。なぜ、あんな冷たい男と学校だけでなく、安息の地である自宅で過ごさなきゃいけないのだろうか。たとえそれが、初恋の大好きな人だとしても。正確に言えば、初恋の大好きだった人。過去形だ。
「早速今日から、こちらのお宅でお世話になります。よろしくおねがいします」
 礼儀正しい挨拶。大人の前だと別人のように優等生。
 猫を被るとはこのことかもしれない。
「あの時は、大変だったわよね。私たちが引っ越す少し前に羽留ちゃんが事故に遭ったことがことがあったわよね」
 そういえば、小学一年生のころ交通事故に遭って、入院したことがある。死んでもおかしくなかったけれど、奇跡的にけがを負うことなく回避したらしい。気を失った私を見て、蒼くんは救急車を呼んでくれたと聞いた。大泣きして大変だったとも聞いた。入院中だったから、急に引っ越すことになった蒼くんは、挨拶することもなく行ってしまった。退院するといつのまにか、蒼くんは引っ越ししてしまった」
「あの後、うちの蒼の様子が少しおかしかったのよね」
「どういうことですか?」
「しばらく、事故の記憶やこの町であったことの記憶がなくなったみたいなの」
「一時的な記憶喪失じゃないかしら。幼い子どもにはショックだったと思うし」
 羽留の母親が心配そうな顔をする。
「今でも覚えていないんですよ。羽留さんのことは記憶からなぜか抜けてしまっているんです」
 蒼くんは姿勢もよく礼儀正しい言葉遣いをする。
 学校ではもっとあからさまに邪険な顔をするくせに、親の前だと丁寧に名前に「さん」づけだ。
 変わったんだなぁと改めて蒼くんの顔をじっと見つめる。
 蒼くんの顔はアイドルみたいに整っていて、かわいらしいというか綺麗というか――女子の私よりもずっと美しい。
 羨ましくなってしまう。さらさらした髪の毛も長いまつげも大きな瞳も全部がかっこいい。
 母親同士が学生時代からの親友だ。今でも仲良しということで、同居の話はスムーズに進んでいった。
「俺、記憶には自信あるんだけどな。どうにもおまえのことだけ思い出せないのはむずがゆくてさ」
 無意識に距離を取ってしまう。
 あんなに会いたかった人が今隣にいるのに、すごく遠い。
「おまえさぁ、俺のこと好きだったりする?」
 予想もしないストレートな質問に驚き怒る。
 顔はきっと真っ赤になり、驚きと怒りの混じったどうにもならない表情になっていたかもしれない。
 自分の顔が想像もつかなかった。十年間ずっと会いたかった人。
 その人は私のことを忘れていた。夢と現実は違う。
 恋愛物語というものはお互いがずっと大切に想いあっているものが王道だ。
 しかし、私は恋愛物語の主人公ではない。
 忘れられているのが現実で、相手にもされていない。
「たしかに、昔のあなたのことは好きだったけど、今のあなたのことは好きじゃない」
 思った以上に大きな声が出る。
「そんなこと言っていいのかな? 後悔するかもよ?」
 ピコンとスマホの音が鳴る。
「あ、美優かよ」
「美優ってさっき教室にいた女子?」
「そうそう」
「もしかして、彼女だったりするの?」
「いや、友達以上恋人未満の関係。おしかけ彼女みたいな感じだけど、好きになるまで恋人未満でいいって言ってくれていてさ」
 一瞬で衝撃波をくらう。私の心は撃沈する。まるで隕石が落ちて来たかのようだ。今日は衝撃が多すぎる。
「って言っても、まぁ形だけかな。何度も告白されても、好きにはなれてないんだ。美優のことは嫌いじゃないけどさ。中学の時からその関係は続いていて、恋人未満」
 この男、非常に冷酷だ。女子の恋心をわかってない。
「俺は、そーいう心が欠落してるのかもしれない。一度も恋愛心を抱けない自分がいたんだよな」
「変な奴」
「おまえこそ、彼氏とかいねーのかよ。まぁ、いなそうだよな。男子と話すのに慣れてなさそうだし、顔立ちもぱっとしないしな」
 苦笑いされる。絶対に馬鹿にしてるでしょ。
「馬鹿にしないでよ。私だって、告白されたことはあるんだからね」
「でも、付き合ってないんだ?」
「好きな人じゃなかったから断ったの。でも、その人は同じ高校で同じクラスになったよ。今でも好きだって言ってくれてる」
 この話は本当だ。中学が一緒だった大滝零次。彼は私のことが好きだといつも言ってくれる。
 だから、異性としての意識はしているけれど、蒼くんのことが好きだから、ずっと断っていた。
 でも、今日、断る理由がないことに気づく。
「零次くんと付き合ってもいいかもしれない」
「零次君っていうのか。物好きな奴もいるんだな」
 まじまじと顔を見られる。
「おまえはこの写真と全然変わんねーな。地味だし、鈍臭そうだし」
「蒼くんって昔はもっと優しかったんだよ。また会えたら一緒に遊ぼうねって言ってくれた。私のことを大好きだって言ってくれたんだよ。私は、ずっと会えるのを楽しみにしていたのに」
「俺、おまえのことはタイプじゃないし、好きじゃない」
 好きじゃないしという言葉が何回も耳の奥で響く。
 五回から十回はリフレインしているような気がする。
「おまえ、この小説家が好きなのか?」
 蒼くんが指を差したのは、空野奏多という小説家の小説だった。ウェブ小説出身で既に5冊ほど出版しているプロの小説家だ。素性は明かしておらず、男性か女性かもわからない。年齢も不詳だ。大人気の作家で、超売れっ子だ。この部屋に空野奏多の小説が5冊並んでいる。実は、これは保存用で、部屋には何度も読んだ読書用のものも5冊ある。私はというと、新刊が楽しみな大ファンの一人だ。
「私、小説よりは漫画のほうが読む比率は高いけれど、空野奏多の作品はなぜかドストライクなんだよね。読みやすいし、きれいできゅんとする描写が多いでしょ? 実は、ファンレターも書いたことあるんだけどね。返事はもちろんもらえないけど、読んでもらえたかもしれないと思うと嬉しいよね」
「俺、人を好きになれないのかもしれない。そういう感情になれなくってさ」
「嘘? 小さなときは何回も好き好き言ってきたじゃん」
「信じられないな。明日の入学式で新入生代表の言葉を頼まれてるんだけど、めんどくさいな」
「ということは、一位で入学ってこと? こんなにちゃらちゃらした雰囲気を醸し出してるのに?」
「一位入学は、いかにも勉強してますっていう雰囲気じゃないとダメっていう決まりはないだろ?」
「そのとおりだけど……」
「羽留。蒼くんのお母さんが帰るから、挨拶して」
 お母さんの声がする。
「はーい」 

 リビングへ行くと、蒼くんのお母さんは不動屋に寄って、すぐに空港へ向かうらしい。
 蒼くんは自立した大人になっていた。
 しかもイケメン秀才ときた。まるで王子様だ。でも、私はお姫様なんかじゃない。
 つまり、運命の相手ではないということだ。
「うちの蒼、生意気だけど、よろしくね。本当に羽留ちゃんのことは覚えていないみたいで、ごめんね。あの頃、羽留ちゃんのことを大好きだったのよ。だから、事故に遭って入院したときに、神社に行ってお参りするって走っていったことがあったわ。まだ幼かったから、私が付き添ったんだけど。この町にある記憶を司るって言われている記憶の神様がいると言われていた神社だったと思うわ。まさか、ただのいいつたえだと思うけど、あれから、蒼の記憶は抜け落ちた部分が一部あるような気がするの。悪気はないから、ごめんなさいね」
「少しの期間ですし、今まで会えなかった分、蒼くんと過ごせるのも悪くはないですよ」
 これは本心だった。半分だけだけれど。正直今の蒼くんと過ごせることが楽しいのかはわからない。
 でも、今までの空白を埋められそうな気がする。
 今まで家着でだらだら過ごしていた自宅。髪の毛もぼさぼさでおでこ全開にしていたけど、これからは蒼くんがいる。
 つまり、食事の時も、お風呂の時も、寝るときも同じ屋根の下にいる。部屋は皮肉にも隣同士。
 気を抜けない。恥ずかしい姿は見せられない。元々、好みじゃないって言われているけれど、もっと幻滅されないように、自宅でもかわいい服を着て、髪型にも気を遣って、少しでもかわいいかもって思われたい。これは、勝手な独りよがりな願望だけれど、印象をいい方にしたいと思っている。
 あぁ、私はこんなにも蒼くんが好きなんだな。好きと嫌いの感情が入り混じる。
 外出するほど派手できちんとしていないけれど、部屋着としてもおかしくないけれどかわいい服を選ぶ。
 私は毎日こんなことをすることになるのだろうか。
 ずっと会いたかった蒼くんがすぐ手の届くところにいる。
 夢の中でしか会えなかった蒼くん。
 でも、これからは嫌でも毎日会えるんだよね。