黙ったまま一言も発さず、不貞腐れているように見える白威。
 何か言ったらどうなんだ、と何度も優子は言ってみたが返事はない。
 面白くなくなったので早く夢から覚めたい。両目を思い切り瞑り、夢よ覚めろと唱えるが目を開けると白威がいる。
 今までどうやって夢から覚めていたのか、分からない。
 何度か挑戦してみるも、やはり夢が覚めることはなかった。目の前にはずっと、むすっとしたままの白威が立っている。

「あんたねぇ、言わないと分からないでしょ」

 まるで母親にでもなったかのようだ。

「ほら、言いたいことがあるなら言う!」

 両頬を挟んで自らの顔を近づける。
 視界には優子の顔のみが入っており、白威に逃げ場はない。
 観念したかのようにぼそっと何かを呟くが、優子は聞き取れず「何?」と眉間にしわを寄せて問う。

「…まえ」
「聞こえない」
「…名前」
「名前?」
「…いつ教えてくれるの」

 そういえば、名前を教えていない。
 白威の名前を聞くことはできたが、自分の名前はあれからずっと教えていないままだ。
 それを根に持って、膨れていたらしい。

「あっははは!何それ、そんなことで怒ってたの?」

 ぶははは、と豪快に笑い始めた優子。
 白威は頬を赤くして、ぷいっとそっぽを向いた。
 身体ごと向きをかえてしまった白威に気付くも、笑いは止まらない。
 そんなことで不貞腐れていたのか。

「ぶはははは!ひぃ、お腹痛い!」

 お前のことが嫌いだ、とでも言われるのかと思っていたが、そんな理由だったとは。
 意地悪をして優子は名前を教えていない。あれから名前を聞かれることもなかったので、白威にとってはどうでもいいのなのだと思っていたが、どうやら気にしていたらしい。
 もしかしたら、優子が名乗るのを待っていたのか。優子から「私の名前はね」と話し始めるのを、健気に待っていたのか。そう考えると、この無口無表情が途端に可愛く見えた。

「くくく、知りたいの?私の名前知りたいんだ?拗ねるくらい知りたいんだ?教えてほしい?ねえ教えてほしいの?」

 白威の顔を見ようと周りこむが、顔を見られないように動くのでどんな表情をしているのか優子は見ることができない。
 煽りながら白威の周りをうろつく。

「ほら、言わないと分からないじゃん。教えてほしいの?ほしくないの?どっちなの?」
「…」
「ふうん、いいんだ。そう、じゃあもう教えない」

 そう言うと白威はちらっと優子の方を見て、ぐっと表情を強張らせた。
 なんだ、意外と分かりやすいところもあるのか。

「で、どうなの?」

 腕を組み、仁王立ちする優子と俯きながらも視線は優子にやる白威。
 このままだと気分を損ねた優子は本当に教えないつもりかもしれない。
 固く結んでいた唇を緩め、口を開く。

「…教えて」
「嫌よ」

 即答だった。
 この世の終わりのように顔を歪める白威を見て、また笑う。

「あっははは、嘘よ嘘」

 白威がこんなに面白いなんて初めて知った。
 表情が読めない時もあるが、こんなに豊かになることもあるのか。

「私の名前は優子。胸に刻みなさい」
「…ゆうこ」
「そう、優子。良い名前でしょ」
「うん」

 漸く知ることができた名前。
 表情はないというのに、周りに花が飛んでいるようだ。
 そんなに名前が知りたかったのか。
 そう思うと、優子の胸の辺りがむずむずとした。
 片手で胸辺りを触ってみるが、何もない。内側から刺激されるような、変な感じだ。

「優しい子になりますように、って親が付けてくれた名前なの」
「…優しい...?」

 こてん、と首を傾げる白威を見て、優子の眉はぴくりと動く。
 白威は考えていた。優子が、優しくしてくれたことがあっただろうか。名前は教えてくれないし、大声で笑うし、嘘を吐くし、優しいところが何かあっただろうか。
 思い返すが、なかなか見つからない。無理矢理挙げるならば、会話をしてくれるところ。無視はしないので、それは優しさだ。

「何よ、文句あるの?」
「…ない」
「私が優しくないとでも?」
「…そんなこと、ない」
「そうよね。私、ちゃんと優しいし」
「…」
「そうよね?」
「…うん」

 ぐいっと顔を近づけて言われると、「うん」以外に言葉が出なかった。
 白威は、目の前で満足そうに笑う優子を見て、数ミリ口角を上げた。
 未だ腕組みをし、ふふんと笑う優子だったがいつのまにか視界が暗転し、気づけば本殿の床に寝転がっていた。

「…名前、教えた気がする」

 夢を忘れてしまうのが悔しくて、身体を起こすと持って来た筆で腕に「名前」と書いた。
 これを見れば、時間が経っても今日は何の夢を見たか思い出すはずだ。我ながら良い考えだ。
 優子の傍で見上げている白蛇に「帰るわ」と律儀に告げて、神社を出た。
 帰宅後、母に夢の内容を話そうとするもやはり思い出せなかった。ふと自分の腕を見ると、「名前」と黒く書かれていた。何のことだろう。自分が書いたのだろうか。そういえば、今日は筆を持って行ったが、どうしてだったか思い出せない。
 結局この日も、夢のことはすぐに忘れてしまった。