目を開けると、本殿だった。
 重い体は黒無垢のせいだと気づき、両腕で体を持ち上げる。
 辺りを見渡すが、何もない。
 起き上がった反動で、瞳から涙が一筋流れ落ちた。
 そうだ、夢を見ていた。
 白威の夢。
 良い夢だった。
 あれが現実だったなら、どれほどいいか。
 静かな本殿に一人。
 汚れている床をぼーっと眺め、何にためにここへ来たか思い出す。
 結婚するために来た。
 けれど、相手はいない。
 いつ来るのか、来ないのか。分からない。
 やっぱり、白蛇の話は嘘だったのか。
 でも、日記があった。
 ぐるぐる考えてみるが、夢の中の白威が優子の思考を引っ張る。暫くは、何も考えたくない。白威の夢に浸っていたい。
 俯きながらぼーっとしていると、視界に白いものが映った。
 何だろうかと、その先を視線が追う。

「…優子」

 すぐ傍に、会いたくて会いたくて仕方がない人が立っていた。
 どうしてここに。
 瞬きすら忘れていると、手を引かれて立ち上がる。
 夢の中で何度も会った。
 ずっと一緒に居たいと思っていた。
 叶うことはないのだと思っていた。
 恋焦がれた人が、そこにいた。

「結婚、しよう」

 白威は柔和な瞳で、優子を見下ろしていた。

「…白威?」
「うん」

 夢の内容ははっきりと覚えている。
 過去一番、鮮明に覚えている。
 確かに結婚しようと白威は言った。それに優子は頷いた。そこで夢は途切れた。

「…白威?」
「うん」
「白威?」
「うん」
「…白威?」
「うん」

 何度も何度も名前を呼んで確認する。
 夢の中より、表情が分かりやすい。
 嬉しそうな、愛おしそうな、幸せそうな、そんな表情で笑っている。
 こんな顔、初めて見た。

「…何て言ったの?」
「結婚、しよう」
「…結婚?」
「うん」
「な、なんで?」

 二重結婚など、できるのだろうか。
 相手は人ではなく蛇だ。人の法など通用しないとは思うが、蛇の世界でも一妻多夫は善しとされないだろう。
 優子が返答に困っていると、白威は優子の前髪を整えながら言った。

「僕と、結婚する話だったでしょ」
「…でも、私、結婚するし」
「だから、僕と」
「いや、白蛇様と」
「だから、僕」
「…?」
「黒髪と結婚するの、僕」
「は、は?」
「僕、白蛇様」
「は!?」

 自分を指さす白威に、優子は疑問符を頭の上に浮かべる。
 白蛇様は、優子が結婚する相手だ。
 黒髪は、そういう運命なのだ。
 その白蛇様が、白威。
 つまり、優子は白威と結婚する運命。

「ん、うん?いや、だから、私は祀られてる白蛇の嫁になるんだってば!」
「だから、僕」
「いや、姿形も知らない白蛇なんだってば!」
「だから、僕」
「...?」

 状況が把握できない優子は、頭の中を整理しようと身動きせずじっと考える。
 突然固まった優子を不思議に思いつつも、状況を飲み込もうとしているのを察し、優子の顔に触れたり、前髪を触ったり、抱きしめたり、白威は好き放題していた。

 優子が生まれたその時から、白威と結婚する運命だった。
 白威は幼い頃、優子の夢に現れた。
 そこからずっと、夢に現れ続けていた。
 それは白威が白蛇の使者ではなく、本人だったから。結婚相手の黒髪に会いに来ていたのだ。
 最初から、白威は知っていた。優子が結婚相手だと。黒髪だから、間違えることはない。
 そんな白威に、優子は何度も結婚する予定の白蛇のことを聞いた。変態だと罵ったこともある。それは、白威が使者だと思い込んでいたからだ。
 つまり優子は、結婚相手本人に罵倒していた。
 頭の中で整理がつくと、優子は白威を見上げる。
 終わったのか、と白威は腕の中にいる優子を見下ろす。

「うっ」
「どうして最初に言ってくれなかったのよおおお!」

 白威の胸倉を掴み、揺さぶる。されるがままの白威は「ごめん」と言うも、納得できない優子は揺さぶり続けた。

「最初に言ってくれてたら、私はこんなに悩むことはなかったのに!」
「ごめん」
「凄く考えて、悩んでたのに!!」
「ごめん」
「先に言いなさいよ、そういうことは!!」
「ごめん」
「私がどれだけ悩んだと思ってるの!?」
「ごめん」

 今度は違う涙が瞳からあふれた。

「優子、泣き虫」
「うるさいわね!誰のせいよ!」
「…僕?」
「どうして何も言わなかったの!?私の反応を見て楽しんでたんでしょ!最低!ていうか、何で疑問形なのよ。あんたのせいに決まってるでしょ、この馬鹿!」

 ぽかぽかと胸元を叩き、白威にダメージを負わせようとするがそんなことできるはずもなく、力なく叩く優子の拳を握り、白威は再度引き寄せる。

「私を見て笑ってたんでしょ、楽しんでたんでしょ。本当に最低」
「違う」
「じゃあ何よ、言ってみなさいよ。私が納得するような言い訳をね」
「…優子だって」
「何よ、文句なの?」

 優子に顔を見られないよう、ぎゅっと頭を固定して抱きしめる。

「ちょ、離せ!」
「…優子、名前教えてくれなかった。それに、名前、読んでくれなかった」
「…そ、そうだっけ?」
「そう。だから、つい、意地悪した」

 優子に名前を呼ばれたのは、今日が初めてだ。
 ずっと、あんたと呼ばれていた。
 名前を呼んでほしいと思っていたが、そんなことを言うとまた優子に揶揄われると思い、反抗の意志を込めて正体を隠した。
 罪悪感がないこともなかったが、優子の本心を知ることができたので、悪くはなかった。