なんて、思うだけ無駄だった。

「…優子?」

 心を落ち着かせて眠りについたが、白威を前にすると駄目だ。
 目も合わせられず、声をかけてもらっても返すことすらできない。
 白威が自分を好き。
 そう思うと、動けない、話せない、顔も見ることができない。
 白威の声に淀みはない。澄んでいる、いつもの心地良い声だ。
 優子だけ過剰に意識している。
 その事実がまた優子を追い詰める。

「…大丈夫?」

 そっと優子の頬に触れる。
 びくりと大袈裟に反応してしまい、そんな優子の様子を白威は目を細めて眺める。
 あの優子が、しおらしくしている。目も合わせず、両手はそれぞれ服の裾を握りしめている。
 まるで恋する少女だった。
 いつも意地悪をされてばかりの白威だったが、今日だけは意地悪をする優子の気持ちが理解できた。
 一ミリも動かない優子は首から上を赤く染め、俯きがちに立っている。
 むくむくと悪戯心が動きだし、白威は両手で優子の頬を包む。
 ぴくりと動く優子の反応を見た後、親指で頬を撫でてみる。
 すると、両手がぎゅっと強く裾を握りしめ、優子の瞳に涙が浮かんだ。
 嫌がられているのか。
 そう思うも、優子の性格上、嫌ならば突き飛ばすなり手を振り払うなりするはずだ。そうしないということは、嫌ではないのだ。

「…優子、今日は大人しい」

 頬を触り、首を触り、髪を触る。
 突き飛ばされることはない。
 ぷるぷると震えながらも受け入れる優子にもう少し意地悪をしたくなる。

「どうして喋らないの?」
「…」
「いつもは、あんなに喋るのに」
「…」
「どうして?」
「…」
「言わないと分からない、って、優子が言ってた」

 立場が逆転した今、白威はちょっとだけ楽しくなってきた。
 黙ってばかりだと分からないでしょ、と優子は白威に何度も言ってきた。
 それが今や、優子が言われる立場だ。
 悔しくなって白威を見上げて睨みつけるが、穏やかに微笑む白威が視界に入り、きゅうんと胸が鷲摑みにされる。

「…優子」

 耳元で名前を呼ばれ、「うっ」と変な声が出る。
 近い。
 良い匂いがする。髪はさらさらで艶があり、優子の首を撫でていく。
 今日、優子はあることを言いに夢に入った。
 絶対に言おうと思っていたこと。
 一晩悩んで、考えて、伝えようと決心したこと。

「そ、その…」

 漸く声が出た。
 白威は「うん?」と優しく聞き返すが、距離はとらない。

「こういうの、よ、よくないと思う」

 優子にそう言われてぴたりと動きが止まる。
 よくない。
 嫌だということか。

「わ、私、もうちょっとで結婚するし、こういうの、よくないと思う」
「…こういうの?」
「だ、だから、結婚する白蛇以外と、こういう、こ、こ、恋人みたいな...?」
「…」
「結婚、するし。こうやって白威と…恋人みたいに仲良くしても、意味ないし…」

 白威の行動に舞い上がり、緊張し、受け入れてしまったが、結婚はすぐそこまで迫っている。今更、恋愛をしたところで意味がない。
 駆け落ちなんてできない。
 何せ、この結婚は両親のためにするのだ。両親を犠牲にはできない。

「だから、その、駄目だから。もう、会わない方がいいかも」

 眉を下げ、寂しそうに呟く優子から手を離す。
 優子は考えていた。
 白威が好意を持ってくれるのは嬉しいが、どうせこの恋は成就しないのだ。未来がない。
 芽が出ても花は咲かない。
 このまま白威と一緒にいても、結婚後に苦しい思いをするだけだ。
 白威と結婚したかった、白威と一緒がよかった。そんな気持ちを抱えたまま結婚生活を送るなんて、苦痛でしかない。
 それならば、早い段階で白威を絶つのが良い。
 会いたいのは同じだ、一緒にいたいのも同じ。けれど、どうしようもないことだってある。
 これはどうしようもないのだ。
 一晩考えて、優子が出した結論だった。

「…優子、昨日は、会いたいって言った」
「それはそうだけど、でも、会わない方がいい」

 有頂天に達した熱が、奈落の底に落ちた。
 一瞬でも舞い上がれた。楽しい時間を過ごせた。
 それで、いいと思わなければ。

「…優子は、それでいいの?」

 そんなわけない。会いたいに決まっている。

「…優子、僕のこと嫌い?」

 嫌いなわけない。
 むしろその逆だ。

「僕は、優子が…」
「言わないで」
「…」
「その先は言わないで」
「…夫婦は愛し合うもの?」
「夫婦?」
「優子、結婚する。なら、夫婦は愛し合う?」
「そ、そうよ」
「夫婦は好き同士?」
「そうよ!」

 会ったことも、見たこともない蛇と結婚するのだ。
 好きなわけがない。
 しかし、一般的な結婚とは、互いが愛し合い行うもの。

「…分かった」
「だから、もうここには来ない」

 神社で寝ること、書庫で寝ること。この二つが夢への入り方。
 だからもう書庫では寝ない。

「…分かった」

 白威の顔は見ることができない。
 どんな表情をして、どんな目で優子を見ているのか。
 寂しい、と白威の声が語っているのを無視すると、視界は暗転した。