夜明け前の部屋は一日の始まりを待つかのような静けさだった。ふと目覚めた私は、ベッドの中でスマートフォンを握る。
 いつものルーティーン、SNSの巡回だ。
 今朝のターゲットは佐々木さんの裏アカウントにしよう。彼女は会社の親しい後輩だった。

「また裸ばっかり。佐々木さん好きだねー」

 非公開ブックマークはセミヌードのグラビアまみれだった。箱推し中の男性アイドルグループがいるとは聞いていたけれど、こうもグラビア転載アカから集めているとは。ダイレクトメッセージもグッズ交換やチケット代理購入の連絡でぎっしりだし。

(楽しそうにお金使っちゃって)

 呆れ半分、微笑ましさ半分の気持ちで笑っているうちに眠くなって、私は穏やかな二度寝へと落ちた。
 次に目覚めたのは一時間後。出社時間にはまだ早く、私は本格的に起きてノートパソコンを開いた。早朝の静寂の中で、ファンの音が空っぽな心を埋めてゆく。
 一杯のコーヒーを用意してからSNSのサイトを表示させる。パスワードの入力画面の前で一瞬考え、そして躊躇わずに打ち込んだ。
 自分のではなくターゲットのIDとパスワードだ。よく覗く人のは覚えてしまっている。
 悪趣味だろうか、不正アクセスが習慣だなんて。けれど私にとっては生きる上で必要な行為だった。

「頂きます、と」

 ログインの瞬間、私いつも別の誰かになれたような感覚があった。目の前のログは自分の足跡でなく他人の人生。特に裏アカウントのダイレクトメッセージ欄は常に見物だ。
 知っている人の知らない顔は、新鮮さと同時にちょっとした畏怖を感じさせてくれる。でも二面性が悪なんじゃない。そもそも裏アカウントなんて作って当然、むしろ何も作っていない人の方が怪しく思えるというのが私の見解だ。

「裏アカでもお行儀いいね、森さん。裏表なさすぎて聖人」

 次のターゲット森さんは同期の女性。彼女の善良な生き方に実は少し憧れている。
 裏アカウントは基本的に隠れ家であったり、日常から逃れる場所だったりすると思う。でも彼女にはそんな後ろ暗さがない。勉強になる。
 子どもの頃から性格や共感性に難のあった私は、こうして日々、性格の良い人のアカウントを行き来させてもらいながら感情を学習している。現実の私と別の誰かの世界を往復することで学びを満喫していた。

『だから大きらい。りんお姉ちゃんなんて』

 昔、妹からは度々そんな風に避けられてたっけ。
 子どもの頃の私は祖父母と親に好かれるよう演じるのが精一杯で、双子の妹への配慮にまで気が回らなかった。なので当然の結果かもしれない。けれど過去は過去。私は今できる目の前の学習に集中しなおす。

 お嬢様生まれ風の森さんだけど、裏では相当の漫画小説フリークだった。学生の頃からの読書仲間たちと感想を送り合ったり、最近やっと作家になった友人には応援メッセージを欠かさずに送ったりと楽しそうだった。

(私も、こんな人に声をかけてもらえていたら、まともな二十代になれたのかな。いや無理か)

 ログをスクロールさせながら速読する。目の前に広がる善良なオーラを浴びて、自分の不要なところを書き加えていかないと。
 私の中にある他人への憧れ。そして世界を共有することで得られる喜びを、限られた時間で享受した。

「ごちそうさまでした。次は先輩も」

 次々とターゲットを変えていく。中には上司のアカウントも含まれる。三城先輩はクールな女性だ。仕事はスマートにこなし、プライベートはあまり語らない。だが裏アカウントからだけは彼女の人間性が垣間見える。
 私の目は彼女のメディア欄を凝視した。清潔そうなキッチン、センスのいいフラワーアレンジメント、独身の四十代女性の私生活が詰まっている。その優雅な生活はまたしても私のものではないけれども、その一部が一時的にでも手に入った気になれる。リスクを冒している以上この程度の高揚感がなくては。

 私が求めるのは最高に本質的なコミュニケーションだけ。だからこれまで不正アクセスを繰り返してきた。

 本質はいつも仮面の下に隠れている。なので人知れず剥がす。秘めた本性に触れさせてもらい、味わったことのない体験を受け取ることが何より重要なのだ。誰にも知られず誰も傷つけずにコミュニケーションが行える覗き見は、合理的な行為だと自負している。
 そう確信を固めながら読み進めていた時のことだ。私は、不穏な文字に行き当たった。

『最終通告です、三城さん』

『不倫で炎上させるよ?』

 脳が覚醒した。
 ダイレクトメール、脅迫者とのやりとり、若い既婚者との密会写真。情報の奔流を遡りながら私は邪推してしまう。
 先輩は弱みを握られている。そして社内の何らかの情報を流すように脅されている。ログを見た限り、脅迫者は元交際相手の女性の住所と電話番号を聞き出そうとしているように思える。が、その後のやりとりは通話で行われたようで、文字データとしては残っていない。

(個人情報、渡したのかな)

 現実と夢、意識と無意識の間を行き来するような気持ち悪さに囚われる。今のは見てはならないもの、完璧である三城先輩の弱みを握る決定的な証拠だ。
 私は無言で考え込む。ただ、答えが降るのを待っても、夜明けの光の粒子が部屋に迷い込むだけだった。

 ……結局、私はログアウトした。
 まとまらない頭で空のカップを手に取る。温かいコーヒーを淹れ直し、カーテンの隙間から窓の外を眺めた。ガラスの向こうには明けきらない空が広がり、どこか遠くで鳥が鳴いている。
 鳥の声を聞きながら、会社でどう演じるべきか考えた。そして決めた。
 三城先輩が脅されていることは、一切見なかったことにしよう。私は三城先輩の働きぶりを尊敬している。裏アカウントの内側から彼女の人間性を見つめていたことで、私だけは彼女を誰より理解できている。その上で思う。
 問題は、不倫のことも含めて彼女自身で解決しなければならない。

「深入りしてどうするの。おこがましい。誰かを助けようなんて」

 そしてカップを手に、また次のアカウントへ。
 善良な人の罪や苦悩に触れた後だからか、心が無性にバランスを取りたがっている。
 私の瞳孔は貪欲に色とりどりの光を吸収した。

 大量の情報を摂取しながら陶器を両指で撫でる。コーヒーの湯気がローストされた豆の香りを運んでくれる。落ち着く香りだ。
 この豆は、先日恋人とのデート中に購入したもの。そこは古めかしい喫茶店で、壁には色褪せた絵画が掛けられていた。なんとなく見ていたら、私は彼から言われた。「一緒に指輪を選びに行こう」と。

 思い出の声と香りに包まれながら、私は自分の癖を振り返る。
 他人のアカウントに侵入する、それは長年続けてしまった奇妙な儀式だ。
 初めは祖父の不用心なアカウントを覗いてしまったのがきっかけだった。彼は端末にもアカウントにもロックをかけない人だったので。
 当初は無意識のうちに行っていた行為が、それ以来、依存症のように続いてしまった。祖父以外のアカウント情報もなぜか労せず入手できた。後で知ったのだけど、私はソーシャルハッキングという古典的な技法を自然と使いこなしていたらしい。
 家族の次は親友、クラスメイト、先生のことも知りたい……と、無邪気にターゲットは広がる。知識欲の成長は止められない。

 コーヒーの苦みが舌を刺激するたびに、私は自分の癖を客観視する。知人たちの生活や思考、隠したい感情や性癖は、空虚を埋めるに適した栄養だった。自分が何者で何を求めているのかすらわからない私は、他人の人生を覗き見ることで安息を得ていたのだ。
 こんな習慣、いつか終わりにできるのだろうか? 例えば今日すぐに、手放せるものなのだろうか?
 すがる思いで他人のアカウントへと侵入する。こんな萎れた気分の時は、佐々木さんの表アカウントで元気をもらうのに限る。

『じゃあ前祝いしましょうか。幹事は引き受けるわ』
『お願いしまーす!』
『私、お店の候補を出しましょうか?』

 佐々木さんは三城先輩と森さんとでグループDMを行っていた。
 私の知らないところで三人だけが和気藹々と……心のモヤを自覚しながら文脈を読み解く。
 そもそも何の話をしているんだろう、私のいない所で。

『凜さんの予定は直接聞いてみますね』

 ……凜は、私の名前だった。

 ログを読み直してみる。
 遡ると、そもそもは私の結婚が間近らしいという噂が発端になっていたようだ。だから前祝いなのか。

(みんな善意で話してただけなのに。私だけ何してるんだろ)

 カップをコースターに戻すと、私は行為を省みた
 どこかで鳥が鳴いている。遠くで車がモーター音を立てている。それ以外には特に何もない朝だけど、空はやたらと青い。

(十分贅沢だ。恵まれてるって確信できたじゃない)

 ある人になりすます楽しさ。他人の視座を手に入れるという、一時的な解放。それが面白くて仕方がなかったはずなのに。
 私は今、何となく、そういうことをやめてみたいと思っている。理由はない。ただ本当に何となく、そう浮かんだだけだ。
 プロポーズが影響したのかもしれないし、友人たちの優しさに浄化されたのかもしれない。

「自信が、持てたのかな」

 キーボードに手を伸ばす。指先は軽く恋人のパスワードを打つ。恋人は今、自分がアカウントを乗っ取られようとしていることを知らない。
 それが最後の一押しになる。その指の動き一つで、私は彼の一部になる。そして彼の一部が私自身にもなる。

「最後にするから、ごめんね。乗っ取るの」

 呟いた声は小さすぎて儚く消えた。
 よく考えたら、乗っ取りって変な言葉だ。
 人の一部を乗っ取る、そんなことが趣味だったなんて苦笑いしてしまう。けれどそれが私だった。歪な私は、自分自身で歪な物語を幕引きしようとしている。

「……うん、これで本当に最後」

 私は少し微笑んでいた。
 恋人のアカウントに侵入するときが、なぜか一番優しくなれた。
 彼はインフルエンサーとして商業活動している人なのに、一般人の恋人がいることを最初から公開していた。私と出かけたときの写真はいつもエモく加工して上げてくれる。その芸術的な一枚は、決まってフォロワーが集まる時間帯に予約投稿している。幸せをおすそ分けしたいからだ、なんて本気で言って。だから彼のアカウントでは、予約投稿リストが一番興味深い。

「優越感あったよ。この写真たちを誰より先に見られて」

 なのに私は辞めるんだ。
 私は手の込んだ写真を見納めてから、顎を引いた。
 人には誰しも思い立つ朝があって、それがたまたま今日だった。

「じゃあね。ありがとう」

 ログアウトボタンを押す。画面が一瞬、白く閃く。そして新たなログインページが開かれる。
 無限の他者という半身なしで生きる、新たな生活の始まりだ。

 またどこかで鳥が鳴いている。近くまで車のモーター音がやってきて、そのうち止まる。それ以外には特に何もない。ああ、いや。今朝の空はやたらと青くて、眩しいな。

 パソコンをシャットアウトすると、体から気が抜け落ちた。悪癖と別れた分だけ身軽になったようだ。
 自分は、邪悪だったのかもしれない。何度かきっかけを自問したこともあったけれど答えは出ない。
 きっと、答えを決めるメリットが私にはないから。
 これが知人のことなら突き詰めたはずだ。距離を置くか様子を見るか栄養にするかの判断基準とするために。
 ただそんな機会は幸いなかっただけ。私には善良な知人しかいなかったおかげで。

 ――目覚ましアプリのアラームが鳴った。
 私の表向きの一日がここから始まる。
 早朝から不正アクセスしていた自分は存在しない。
 シャワーを浴びて、着替えて、音楽の配信を流しながら朝食を用意する。ミルク多めのカフェオレとトースト、そして半分に切ったオレンジ。それが表向きの日常を始めるトリガーだ。
 トーストにお気に入りのバターを塗ろう。ナイフをスッと差し込む。薄く抉る感触とほぼ同時に、私用メールの着信音が鳴った。

『不正アクセスが検出されました』

 送信元はSNSのサポート係。さっきまで回遊していた、あのSNSだ。件名も含めてありがちなバルクメールそのものだ、とは思ったが。

(偽装じゃない……?)

 ウィルスを警戒しながら本文を確認する。期待は外れ、それは本物の警告メールだった。
 ナイフを置いてメールと向き合う。不正アクセスを受けたのは私の最も古いサブアカウント。IDは、RIN。

(誰、うっとうしいな)

 さっさとパスワードを変えてやれ。そう思ったけれど迷う。数度間違えたら私のログインもしばらく弾かれるので、慎重に思い出さないといけない。ただ、正しいパスワードは自分の記憶の中にしかない。
 こちらが焦る間にRINは連投を開始した。

『あ』

『ああ』

『ちがう』

『けしかた』

 無意味な文字列が生理的に気持ち悪い。スマホもSNSも苦手なのだろうか。私も、RINのアカウントで練習をしていたような頃はデタラメを書いた気がするけれど。

(あ、そういえばパスワード)

 RINのアカウントを作ったのは子どもの頃だ。SNSのベータ版がオープンした時に、レアな三文字アカウントを早い者勝ちで取っておいた。単なる記念だし本名で運用するつもりもなかったので、パスワードは自分の誕生日にしてある。初歩的すぎるミスだ。
 苦く思っているうちに、犯人は写真を投稿し始めた。

『わかった』

『うける』

『よし』

 やめろ、私名義でブレた画像を投稿するな。どれだけ操作が苦手なんだ。
 共感性羞恥を刺激されていたたまれない。
 さっきまで心地よい逃避の世界に浸っていたのに。隠れ家が突然、外の世界に晒されたような。
 投稿の一つ一つがおかしくて耐えられない。犯人は、何がしたいんだろう?
 私はスマートフォンを伏せ、再びトーストにバターを塗ろうとした。でももう冷めて伸ばせない。オレンジは皿の端で倒れ、カフェオレも熱を失って香らない。
 日常の流れがゆっくりと淀んでいくような悪寒を覚える。
 それでも冷めたトーストをかじると、硬直した脳は動いてくれた。

 思い浮かんだのは、そもそもアカウントを取り戻して良いのかということだった。
 誰とも知れない犯人を刺激して恨みを買うなら、あの休眠アカウントは捨てて構わないように思える。犯罪者とのやりとりなんてリスクしかない。
 トーストをカフェオレで喉に流し込む。冷静になれ。出勤時間も迫っている。
 食事を終えてシンクで食器を洗う。流れる水の音で心をリセットしながらもう一度考える。パスワードの流出経路は後で把握すれば良いだろう。
 それよりも、乗っ取り犯の目的が何か。
 少なくとも相手は、私のようにログインだけで満足するタイプでは全くない。

 何かヒントを。スマホを見る。汚い写真は増え続ける。
 そのブレた写真は徐々にピントが合い始めていた。屋内だ。どことなく見覚えがあり睨んでいると、次第にとんでもないことに気が付いた。

(実家に入ってる、こいつ)

 祖父母と遊んでもらった居間、宿題をした台所。懐かしい木製の天井。
 犯人は今、家に侵入している。私はすぐ固定電話にかける。
 でも誰も出ない。留守番電話に繋がるとメッセージを残した。

「っ、凜です。お爺ちゃんたちいる? 連絡空いちゃってごめんね。また電話します」

 都心の大学に入ってからも、就職してからも、私は一度も帰省していない。メリットがなかったので。でも不用心だった。
 変なことが起きてなければいいと思いながらスマホを眺めると、タイムラインに動きが出てくる。

『みみがよごれた』

『えらそう』

『きらい』

 どういうことだ。実家にいるらしい乗っ取り犯は、私の留守電に反応している? というか、聞いて気分を害したってこと?

「はは、なんだ。じゃあ犯人は……」

 あの子だったのか。妹の愛茉。
 無器用で、電子機器の扱いが下手で、神経質で、SNSも毛嫌いしていて、年中家に引きこもっていても気にされず、私のことが嫌いな人物。双子の妹は馬鹿馬鹿しいくらい条件を満たした。
 私が盗まれたのは本名そのままのIDと、誕生日がパスワードという古典的なダメアカウントだ。知っている人なら乗っ取りはできる。
 なぜ今日、なぜ急にとは思ったけれど、それ以上深入りするメリットは感じなかった。妹に関する記憶がほとんどないので、推測をしても的外れに終わるだろうし。

(あの子、どういう人間に育ってるんだろうな。昔は堅物だったっけ)

 ただ憎まれていたことだけを覚えている。だから引っ越したときも住所は教えなかった。祖父母や親にも伝えないように頼んである。
 別れの日、悔し紛れに言い捨てられたけれど意味がわからない。

『わ、私はあなたの養分じゃありません』

 あの言葉、あの恨みがましい目はなんだったのか……少しだけ、今さらのように興味が涌く。

 私は、すでに妹のものとなったRINのアカウントを表示させたまま出勤の準備を始めた。放っているうちに、彼女は引用機能などを使いこなすようになったようだ。

『おうえんしています』『すきです』

 有名人の投稿を無言で引用したあと、エアリプライの形で何か書いている。意外だ。あの子がインフルエンサーに興味をもっていたなんて。それもよりによって――

『はじめてすきになったひと』
『Xさんしあわせになって』

 ――Xは、私の恋人のハンドルネームだった。
 あの子は彼を無邪気に褒めちぎり続けている。
 姉が彼と交際していることも知らないまま。

「あ……はははははっ。なにこれ可哀想」

 私はこの時こそ、最高に優しい気持ちになれた。
 古い実家に隠れSNSに耽る妹を想像する。あの子は今ごろ、私のアカウントに浸りきって別人の人生を謳歌しているのか。
 もしかしたら、あの堅物の妹は初めてSNSを楽しんでいるのかも知れない。そう想像している間に、また新たな片思いポエムが投稿される。

(趣味が似てたんだね。他にも歩み寄れるところはあったのかな)

 それこそ同僚の森さんのように、私の方から裏表のない心で声をかけてやれていたら、違った現在があった「かも」しれない。
 結局私は、妹のハッキングを見なかったことにしてやった。
 どうせ彼女とは近々会うことになる。彼本人を連れて挨拶に行くのだから。
 だから、SNSを通じてではなく直接話そう。
 様々な人が言うように、本当は顔を合わせた方が本質的なコミュニケーションができる可能性だってあるのだし。

 そう結論付けたのは、実のところ犯人こと妹への興味が一気に消えたからだった。
 私は出勤モードに頭を切り換えて準備を終える。余計なことは、仕事の後にまとめて考えればいい。

「ああでも、こういう考え方が傲慢だって嫌われてたっけ?」

 上手く行かないなぁ。そう苦笑しながらドアを開けると――黒フードの女が現われた。
 待ちかまえていたかのように落ち着いて、私に覆い被さった。
 私と同じ顔をした女は不吉を運んできた。ナイフを、握っていた。
「なん、で……!」
「ここにいるのかって?」
 違う、お前が私を刺す理由を。
 そう聞きたくても声が出ない。私は灼けるような腹部を押さえながら倒れ込む。
 これに近い経験が過去に一度ある。
 あの日、キッチンの床には血のついた包丁が落ちていた。

『もう二度と私の真似をしないで』

 切りつけたのは妹のくせに、被害者面で叫んでいたっけ。
 祖父母も親も妹より私に好意的で、妹はいつも私に嫉妬していたのかもしれない。
 だからあれは、私に仕返しをするための病的な報復。
 ただあの時は腕を撫でられただけで済んだけれど――

 下足場に倒れ込んだ。地面へ頬を擦りつけている間も、腹部の傷口からは血が流れ出し続けていた。玄関先に赤く溜まってゆく。傷口から強烈な熱が迸り、体が無様にガタガタ震える。

「住所は上司さんに譲ってもらっていました。旧アカの投稿は予約していたフェイクです。アラートは気を引くために、わざと不審なログインを」
「聞いてない……私を、恨んで……?」
「や、やめてください気持ち悪い。恨みで人を殺して、私にメリットがあると思います?」
 話しながらナイフの握り手を捻られた。私が鋭く呻くと、後ろ手でドアを閉められる。密室になった瞬間、刃は私の内臓を切り裂いた。血が噴き出し、ヒールやスーツを真紅に染める。
(なんでこんなこと、なんでこんなこと)
「盗聴はしていました。けど念のため答えてください」
 フードの闇から聞こえる声は今までで一番優しかった。私が初めて聞く、恍惚とした響きだ。
「Xさんとは間違いなく恋人ですね? 本当に愛し合っていましたか?」
 妹にとっての正解はなんだ。わからない。
 死にたくなくって必死に頷く。でも助けを期待した私は愚かだ。
「良かった。じゃあこれで、Xさんに一目会える」
 私が理解へ近付く間も、ナイフは静かに、慎重に、血飛沫が上がらないよう差し込まれ続ける。
「お葬式ではウソ泣きしますね。だからさよなら姉さん」
 ……本質は急に訪れた。愛茉は本当に、恋人を奪いたいなんて考えてはいない。
 最低の本性に触れたのと入れ違いに、私は死へと落ちてゆく。
「Xさんを呼んで、慰めてもらって、一生の思い出にするので」

 私は邪悪な夢の生贄にされたのだ。
 彼女はただ一度きり、彼に優しく触れてもらうのを夢見て人を殺めた。