「あっ、たいしたことではございません。私が愚図なのがいけないのです」
さっと傷を隠す八重の弁明に、しかし青年は眉を寄せた。
「暴力か……。そのような事、本来だったら許してはおけないが……」
「いえ、本当にお気になさらず。私は養って頂いている身ですので」
見ず知らずの人に心配してもらう程のことでもないと、八重はぱたぱたと顔の前で手を振る。しかし、もともと通りすがりで終わっていてもおかしくなかった人と、こうやってまた会えて、話が出来ただけでも奇跡だと思うのに、これきりになってしまうのが寂しい、八重は思った。彼の人好きする笑みが、そう思わせたのかもしれない。口ごもっていると、青年は微笑んで、君、名前は? と聞いてきた。
「……って、名を聞く前に名乗らないのは筋が通らないか。僕は宮森浅黄という。君は?」
浅黄……。その名は八重が大切な大切な宝物として、脳裏に刻んでいた名だった。幼い頃の、まだ苦労を知らなかった時の思い出。今も大事にとってある、黄緑色の桜の栞。しかし、宮森と言えばここら一帯の中でも高位の華族だ。先の大戦での息子の軍功も高く、天皇陛下からのお声がけもあったとのこと。そんな身分になってしまった幼い頃の彼と、今の自分が同じ思い出を共有できるわけがなかった。
「……八重、……と、申します……。斎藤男爵家で、働いております……」
「ほう、斎藤殿のところで」
「ご、ご存じですか?」
「そうだな、貰っている縁談のうちのひとつだ。令嬢が居るのだろう? しかし斎藤家は道楽のし過ぎで家が傾きかけていると聞く。娘を差し出そうというのも、その金策の為だろうな」
あやめとの縁談……。八重は目の前が真っ暗になった。幼い頃から心のよりどころにして来た桜の主(ぬし)が、あやめと結婚するのを見届けなければならない現実があるかもしれないことに、八重は落胆した。
「まあ、そういう縁談は多いのだけど、しかし本心で言うと、そういう縁談は好かない」
浅黄の言葉を聞いて、八重は少し安堵した。しかし個人の意見が通るほど、身分のあるものの結婚は自由ではない。浅黄も、あやめではないかもしれないが、家の為に結婚をするのだろう。そう考えると気持ちが沈んでしまいそうになったので、話題を変えようと試みる。