家に帰ると叔母に、饅頭の包みが濡れていることを叱られた。あやめの洋傘は、青年にああいった手前、公園から見える範囲では差しておらねばならず、青年から死角に入ったところで閉じはしたのだが、濡れてしまった。角を曲がってあやめの傘を閉じてからは雨の中を濡れて帰って来ており、結果、饅頭の包みは濡れてしまった。おまけに夕方帰って来たあやめは、女学校の帰りに八重と会わなかったと叔母に愚痴をこぼした。
「雨が降ってきて仕方なく傘を買ったのよ。わたくしだって、八重が傘を持ってきてくれれば、傘を新調するなんて考えないわ」
あやめの言葉に叔母が八重を叩いた。
「お前は言いつけられたことも満足に出来ないの!?」
叩かれた勢いで廊下に倒れ伏したが、あやめの言うことは違う、と八重は言いつのった。
「あやめさまが、新しい傘を買いたいからとおっしゃったのです。本当です……」
しかし叔母は八重の言葉を言い訳だと理解した。
「あやめに無駄遣いの罪を擦(なす)り付けようというの!? おまけに自分の傘を忘れて行ったからと言って、下働きのお前があやめの傘を使うなんて、お前は本当に根性が曲がっている! 今日は夕飯抜きです! 反省しなさい!」
最後にもう一度八重の頬を叩いて、叔母は部屋へと帰って行く。八重の隣であやめがくすりと笑った。
「お前が汚い手でわたくしの傘を持ったからいけないのよ」
ふふふ、と機嫌よく奥に行くあやめの背中を、八重は項垂れながら見送った。
翌日八重は、叔母に文句を言われないように家じゅうをピカピカに磨き上げると、裏戸から家を抜け出して公園へ向かった。必要な時以外、八重を閉じ込めていた屋敷を無断で出ると、心臓がどきどきした。
(奥さまに知られたら、きっと酷く折檻される)
でも。
(傘を返してもらいに行くだけだもの)
そう思って、春まだ早い風の中を公園へ急ぐ。走るから、余計に心臓が跳ねた。体の底から水が沸騰するかのようになにかがざわめきたつのを、我慢できない。
(どうしちゃったのかしら、私。そもそもあんな古い傘を、わざわざ返しに来てくれる人がいるのかしら?)
華族の位に居る人が使うのにも不似合いだったのに、それを持って、また公園に来てくれるなんて、本当は冗談だったのでは? そんな風に思ったのに、葉のない寂しい木々が立ち並ぶ公園に足を踏み入れると、昨日と同じところに青年が居て、八重はなんだか胸の奥がじん、と痺れてたまらなくなった。青年は今日は着物を着ており、そのたたずまいもくちなしの花の様で似合っている。走ってきて乱れた前髪を手で直しておずおずと青年に近づくと、青年は読んでいた本から顔を上げて、やあ、と朗らかに笑った。その笑顔にどきりと心臓が鼓動を叩く。