「毎度あり。いつもごひいきにありがとうね」

「こちらこそ、ありがとうございます」

和菓子屋の店主にそう言われて店を出る。軒の上の空はどんより重たく垂れこめて、今にも雨が落ちて来そうである。立ち並ぶ商店に集う人々も、足早に駅や家へと向かって歩いている。

(早く帰らないと、降ってきてしまうわね……)

八重は饅頭の包みをしっかり持って、帰りを急いだ。商店の通りを抜け、家の近くの公園まで戻って来ると、とうとう空からぽつぽつと雨粒が落ちてきた。

(大変。あやめさんはちゃんと傘を買えたかしら……)

八重も、自分用のみすぼらしい和傘を開いて、饅頭を守る。そのまま近くの公園の脇を通り過ぎようとした時、公園の大きな桜の木の下の三人用の腰掛に座っている男性を見つけた。男性は帝国海軍の軍服を着ており、トランクケースを傍に置いたまま、雨が落ち来る空を見つめていた。

(濡れて、風邪をひかないかしら)

そう思ったら、足が男性の方へ向いた。

「もし。濡れるとお風邪をお召しになりますよ」

八重が声を掛けると、男性は八重を振り返った。

美しい人だった。切れ長の双眸にスッと通った鼻梁。薄く、端が持ち上がった唇に、絹糸のようにサラサラの髪の毛。背広の皴から見て均整の取れた体躯であることも分かった。八重は落ちる雨から彼を助けようと、自分の傘を彼に差しかけた。

「やあ、ありがとう、お嬢さん」

そう微笑まれて、思わずどきりとする。今の家に引き取られてから、知らない男性に微笑まれたのは初めてだったからだ。おおよその世の人は、八重の綻んだ粗末な身なりを笑ったり同情したりした。屋敷の使用人たちのように給金が出るわけでもない八重は、どの使用人よりもボロの着物を着ている。こんな風に正面切って微笑まれたのなんて、もう十年以上経験がない。

「か、傘もお持ちにならず、なにをされていたのですか? お風邪を召されます」

軍服を身に着けていることからも、青年が華族なのだということが分かる。そんな人が、傘も持たずに何をしているのだろう、という素直な疑問だった。青年は人懐こい笑みを浮かべてこう言った。

「今日、欧州から帰ったばかりでね。傘の持ち合わせなど、無かったんだよ」

欧州……。やはり八重とは住む世界の違う人だ。

「お宅はこのあたりですか? 宜しければこの傘をお使いください。ぼろ傘ですが、無いより雨をしのげます」

八重はそう言って自分の傘を差しだした。青年は驚いたように、それは申し訳ないよ、と手を横に振った。

「いえ、私はこちらの従姉妹の洋傘(もの)も持っておりますし、家も近くです。もし私のことを気にされているのでしたら、ご心配には及びません」

八重がそう言うと、青年は、君は親切な子だね、と言って頷いた。

「ではお心遣い、ありがたく頂戴しようかな」

「はい」

傘を受け取ってもらって安心すると、八重は青年に頭を下げて公園を去ろうとした。すると。

「明日、傘を返しにこの公園に来るよ。待っている」

そんなことを言われて、言いつけのあった時にしか家から出られないのだが、八重は了承してしまった。