「宮森侯爵。今宵は良い夜でございますね。先日は娘に着物をありがとうございました。娘は大層気に入って、今日も着て参った次第です」
父の挨拶に白髪白髭の老人が振り向いた。
「ホッホ。お嬢さんが八重さんとおっしゃるのかな。読書家でやさしい人だと浅黄が言っておったが、ほんに賢そうな顔をしておられる。浅黄は所かまわず本をひろげる性質だからの。あやつ、『幾たびも 君が呼びし名 こころ燃ゆ 見ずとも香る 桜の如し』などと言っておったが、お嬢さんがいらっしゃると知っていたら、浅黄も欠席しなかったじゃろうにのう。ホッホ」
(浅黄さまとおっしゃるのね。でも、読書が好きだなんて、誰が吹聴したのかしら。解釈が幾通りもできる古い歌を持ち出すんじゃなくて、私を想ってくれるんなら、もっと贈り物をしてくれればいいのに)
あやめは宮森候の言うことに焦ったが、なんとか話を合わせた。
「女学校で嗜みました。ところで宮森さま。わたくしの名はあやめですわ。斎藤あやめでございます」
あやめの訂正に老人は片目を見開き、ほう? と髭を撫でた。
「じじいは聞いた言葉を忘れるでなあ。あやめさん、すまんかったな」
「いいえ、浅黄さまにもよろしくお伝えくださいませ。このご縁が実ることを願っております」
しなりと頭を下げ、老人の前を辞す。父が、読書家だったのか? とあやめに聞いた。
「お父さま、侯爵さまはどなたかのお話と混同されているのよ。先程ご自身で仰ってたじゃない。わたくし、買い物は好きですけど、本は嫌いでしてよ」
「そうだよなあ。どうしてそんな話になってたんだと、私も思ったんだ。宮森家に入るなら、その前に誤解は解いておいた方がいい。四六時中、本を開いているような御仁だったら、なおのことだ」
「でも、侯爵さまにお目通りかなって良かったですわ。浅黄さまにお会い出来たらもっと良かったのですけど」
「まあ、焦るな。宮森さまに浮ついたお話は聞かないし、堅実な方だったらなおのことお前がその着物を贈られた意味がある」
「そうですわね。これでわたくし、侯爵夫人ですわ」
ほほほ、とあやめは上機嫌で笑った。