それでも一週間後、八重は他の使用人に代わってもらって、内緒で家を出た。浅黄に今後会えないと伝えるためだった。急ぎ足で公園へ向かうともうそこには浅黄が居た。やあ、と朗らかに笑みを向けてくれる浅黄に胸が高鳴るが、そもそも叶う事のない想いだったのだ。だったら、身分違いらしく会わないのが普通だろう。八重は借りていた本を差し出して、まず手巾が奪われてしまったことの謝罪をした。
「申し訳ございません、浅黄さま。お借りした手巾を、その、叔母に見つかってしまい、取り上げられてしまったのです……。家じゅうを探したのですが、叔母が何処に仕舞ったのか分からなくて……。それに叔母からは、私が浅黄さまと会っていることが近所だけでなく世間に知られると、斎藤のお嬢さまの評判を落とすと言われました。奉公人の分際で、奉公先のお嬢さまの評判を落とすわけにはまいりません。浅黄さまとお会いするのは、今回を最後にしたいと思います。今まで、沢山お話してくださって、ありがとうございました……」
ぺこりと頭を下げると、目から涙が零れそうになった。ぎゅっと目を閉じ、それを耐える。浅黄はそうだったか、とひと言呟くと黙ってしまって、大層別れがたいのは八重の方だけだと分かってしまった。
「これ、お借りしていた本です。こちらもお返しいたします……」
八重がそう言うと、いやそれは持っていなさい、と浅黄が言った。
「え……っ?」
「君は本を読むのが好きだと言っていただろう? そして家には令嬢の使い古した本しかないと。であれば、もう読んでしまったかもしれないが、家から出られない時間を、読書で埋めると良いよ。僕は本をたくさん持っているから、一冊くらい君に貸していてもなんら不都合はない。それどころか、君がこれから屋敷に閉じこもらなければいけない時間をその本で支えてあげられるなら、僕はその方が嬉しいよ」
浅黄が、真っすぐ八重を見て言った。宮森侯爵の長男という高い身分の浅黄が、身元の知れない奉公人の八重に向けて施してくれる厚意としては、八重の手に余りあるものではないだろうか。八重は差し出していた本をもう一度自分の胸元に引き取り、ありがとうございます、と震えを抑えた声で礼を言った。
「このご本を、浅黄さまと過ごした思い出として、大事にいたします。……本当に、今までありがとうございました」
八重の生きてきた時間の中で、溢れんばかりの光に満ちた時間たちだった。八重は浅黄の前でいろんな感情を知った。これ以上は贅沢だ。そもそも、あやめとの見合いの話もあるというではないか。この場を去りがたく思っている心を叱咤して踵を返そうとした八重に、浅黄は穏やかに告げた。
「君のことは、斎藤殿に話を通そう。心配せず、待っていたまえ」
下げた頭を上げると、力のこもった眼差しで八重を見る浅黄が居た。
(話を……、通す……?)
何のことだろう。しかし浅黄がそれ以上何も言わなかったので、八重は今度こそ浅黄の前を辞した。