「やあ、八重さん」
公園へ行くと、浅黄は既にそこに居た。長椅子に座ったまま手を上げてこちらを見る浅黄に、やはり鼓動が弾むのをこらえきれない。せめて普通の顔で居ようと、八重はお辞儀をして公園に入った。
「これ、ありがとうございました。とても面白くて、一週間に分けて読むのに苦労しました」
「はははっ、そんなに喜んでもらえると、貸した僕も嬉しいよ。彼らの恋について、八重さんはどう思った?」
正面に見る笑顔が眩しい。八重は手元に視線を落として、かなり身につまされました、と告白した。
「ほう? 八重さんも、主人公みたいに恋をしている?」
「い、いえ! そういうわけではございませんが、身分というものは、人の何もかもを縛るのだな、と改めて思ったのです。自由でありたいと思う心までをも縛る身分というものが、私は巨大な蛇のように感じられました」
なんとか浅黄の問いを誤魔化して、本の感想を述べた。浅黄は無制限に与えられたものよりも、有限の中での経験こそが輝くことは、古来よりの人間の生活の中で知られてきたことだよ、と反論した。
「つまり僕は、彼らが身分違いでなければ、ここに書かれている話は成立しなかったのではないかと考えている」
「では、浅黄さまは二人の恋がまやかしだったと……?」
伺うような八重の問いに、浅黄は裏のない笑みで応えた。
「いや、まやかしとは思っていないよ。ただ、その状況でしか得られなかった感情なのではないか、と思ったんだ。政太郎と清子は、政太郎の婚約が決まっていて、清子がそれに異議を唱えられない奉公人である、という状況ででしか描かれていないからね。もし二人の間に身分の差が無かったら逆にどうだろう? 政太郎には清子以上の身分の令嬢からの縁談が来て、お家(いえ)はそちらの令嬢と結婚するようにおぜん立てするかもしれない。そうなったら、二人は違う家に離れ離れになって、もっと不幸なのではないかな。この話の政太郎は、少なくとも目の端に清子を捕らえ続けられることが約束されているだろう? だからこそ政太郎は最後まで清子を諦めなかったんだと、僕は思うんだ」
政太郎と清子、とは話の中の登場人物だ。浅黄は清子と政太郎が平民だったら、という発想にはならなかったようだった。自分が、家に対して責のある身分であるからかもしれない。
「私では思いもよらない見方で、興味深いです」
「僕も、身分差が心までをも縛るという感想は初めて聞いたよ。読後談義がこんなに楽しいとはね」
にこにこと機嫌の良さそうな浅黄と本の話をしていると、時間を忘れそうだ。でも、もうそろそろ行かなければならない。
「申し訳ございません、浅黄さま。このあと、買い物に行かなければならないので、今日は失礼しますね」
八重がそう言うと、浅黄は残念そうな顔をしてくれた。
「時間がもっと欲しいな。今度はいつ会えそうだろうか」
まさかの申し出で、八重は飛び上がりそうになるほど驚いた。
「夕方でしたら、夕食のお買い物に出掛けるついでに立ち寄ることが可能です」
それでも平静を保って応える。本当は買い出しの係は他の使用人の役回りだったが、なんとか変わってもらえると思い、返事をした。浅黄は喜んで鞄から次の本を差し出すと、ではまた一週間後、夕方にこの公園で、と言った。浅黄との約束が嬉しくて、八重も頷いて返事をする。八重が公園を出ていくのを浅黄は見送ってくれて、後ろ髪を引かれるとはこういう感情のことを言うのだと、八重は胸いっぱいの気持ちで思った。