二
「首尾はどうだね。ローレンス」
ハインリヒ・ローレンスが執務室に入ってくるのを確認するなり、国境防衛軍総司令官のジークフリート・バーナードは咥えていた葉巻を吸い、吐き出した。
ハインリヒは深く敬礼をし、畏まった態度でジークフリートに報告をする。
「はっ、国境付近につきましては現在のところ、こちらが優勢かと」
「ふむ…。先の戦いにて、例の“黒翼の王”が出向いてきたと聞いたが?」
ハインリヒは先日の激戦を思い浮かべる。誠に死闘であった。こちらが優位といえど、王に出張ってこられては状況が一変する。瞬く間に前線を食い破られ、兵士たちの死体の山が積みあがってしまった。だが。
「…問題なく。兵の消耗はございましたが、対魔族たいイェリ兵器にて対処し、撃退いたしました」
それでも帝国側が勝っている事実に変わりはない。なんせ、サンベルク帝国はかの女神オーディアに愛された、崇高な人類なのであるのだから。
ハインリヒの瞳には熱い情熱がたぎっていた。女神に選ばれし我らが、忌むべき魔族に敗するわけがない――と、胸の中で唱えながら。
「ほほう、そうかそうか。魔術が使える化け物であるとて、加護を受けた我々には敵うまい。それで? “黒翼の王”を屠ほふることはできたのだな?」
「ほぼ、間違いなく。死体の回収ができておらぬのですが、致命傷を与えることができました故」
「…死体が上がっていないのか。魔族の生命力は馬鹿にならないからな。徹底的に殲滅せねば。報復のため襲撃を企てられるのが関の山だ」
「ご心配には及びませぬ。万一生きていたとて、せいぜい、立ち上がるのが限界かと」
ハインリヒが胸の前に手を当てると、身に着けている甲冑が音を立てる。ジークフリートは吸っている葉巻を持ったまま、片手間で書類に目を通した。
「なるほど。承知した。…ローレンス、おまえには期待をしているぞ」
「はっ、ありがたきお言葉でございます」
堂々とした体躯をしたジークフリートは、この国を統べるサンベルク皇帝からも一目置かれている。ハインリヒは敬愛の眼差しを向けた。
「――それにしても、ローレンス。皇女殿下が伴侶を探し始めたそうだが…すでに申し入れは済んでいるのかな」
ジークフリートの問いかけに、ハインリヒは背筋をピンと伸ばす。
「はい。勿論でございます」
「おまえのような洗練された軍人であれば、皇帝陛下も安堵なさるだろう。離宮から出られてまもないというし、おまえから逢瀬の誘いでも持ち掛けてはどうだね」
ハインリヒは心の中でエレノアの面影を思い浮かべた。痛み一つない白銀の髪に、宝石のように輝く碧眼。穢れなど微塵もない美しさ。この国の男であるのならば、誰でも心惹かれてしまうような可憐な容姿。
(民のために祈り続ける女神のようなあの方を、どうか私がお支えしたい)
憧れ――いや、これは恋心であるだろう。
サンベルク帝国の男女は、基本的に定められた相手と結ばれる。ひとたび熱に浮かされると盲目になり、愚かな行いをするとされているためだ。夢や希望に絆された民は、純粋な信徒ではいられない。そうなると、女神オーディアが見限るのだ。
ハインリヒは、侯爵家の出であることもあることと、ジークフリートのお膳立てもあり、婚期が到来してもなお、伴侶をあてがわれることはなかった。
果たして、女神オーディアに愛されし皇女殿下へ向けるこの心は、愚かなものだといえるのだろうか。
――いや、この世でもっとも尊ばれるべき感情であるように思える。
(敬虔けいけんな御方には、この私こそがふさわしい)
「…ああでも、今は辺境のニールで休暇を取られているのだったな。どうしてあのような、加護も授からない辺鄙な田舎町に…」
ハインリヒは何度かエレノアへ手紙を出していた。使用人に上等なドレスを仕立てさせ、贈り物も三度ほど。
おそらく、連日謁見に立ち並ぶ男たちの対応に疲れてしまわれたのだろう、とハインリヒは考えた。エレノアは心優しい女性だ。一人一人と真摯に向き合い、決して無碍にはしないのだろう。
「近日、辺境の地にて遠征がございますため、その時にご挨拶ができたらと考えております」
「そうか。皇帝陛下のお墨付きであるのだから、皇女殿下の伴侶はおまえで決まりだろう。そうなれば、ますます軍部の士気が高まるというものだ。私としても鼻が高いよ」
「もったいなきお言葉でございます」
エレノアが祈る時、この世の神秘を見た。あたたかな風が吹き抜け、川の水はみるみるうちに澄み、雲が消え去り、青空が広がる。植物は息を吹き返し、この大地のあらゆるものが祝福を受ける。
――何にも染まっていない真っ白なエレノア。
燃え上がる情熱を胸に、ハインリヒは執務室をあとにした。
「首尾はどうだね。ローレンス」
ハインリヒ・ローレンスが執務室に入ってくるのを確認するなり、国境防衛軍総司令官のジークフリート・バーナードは咥えていた葉巻を吸い、吐き出した。
ハインリヒは深く敬礼をし、畏まった態度でジークフリートに報告をする。
「はっ、国境付近につきましては現在のところ、こちらが優勢かと」
「ふむ…。先の戦いにて、例の“黒翼の王”が出向いてきたと聞いたが?」
ハインリヒは先日の激戦を思い浮かべる。誠に死闘であった。こちらが優位といえど、王に出張ってこられては状況が一変する。瞬く間に前線を食い破られ、兵士たちの死体の山が積みあがってしまった。だが。
「…問題なく。兵の消耗はございましたが、対魔族たいイェリ兵器にて対処し、撃退いたしました」
それでも帝国側が勝っている事実に変わりはない。なんせ、サンベルク帝国はかの女神オーディアに愛された、崇高な人類なのであるのだから。
ハインリヒの瞳には熱い情熱がたぎっていた。女神に選ばれし我らが、忌むべき魔族に敗するわけがない――と、胸の中で唱えながら。
「ほほう、そうかそうか。魔術が使える化け物であるとて、加護を受けた我々には敵うまい。それで? “黒翼の王”を屠ほふることはできたのだな?」
「ほぼ、間違いなく。死体の回収ができておらぬのですが、致命傷を与えることができました故」
「…死体が上がっていないのか。魔族の生命力は馬鹿にならないからな。徹底的に殲滅せねば。報復のため襲撃を企てられるのが関の山だ」
「ご心配には及びませぬ。万一生きていたとて、せいぜい、立ち上がるのが限界かと」
ハインリヒが胸の前に手を当てると、身に着けている甲冑が音を立てる。ジークフリートは吸っている葉巻を持ったまま、片手間で書類に目を通した。
「なるほど。承知した。…ローレンス、おまえには期待をしているぞ」
「はっ、ありがたきお言葉でございます」
堂々とした体躯をしたジークフリートは、この国を統べるサンベルク皇帝からも一目置かれている。ハインリヒは敬愛の眼差しを向けた。
「――それにしても、ローレンス。皇女殿下が伴侶を探し始めたそうだが…すでに申し入れは済んでいるのかな」
ジークフリートの問いかけに、ハインリヒは背筋をピンと伸ばす。
「はい。勿論でございます」
「おまえのような洗練された軍人であれば、皇帝陛下も安堵なさるだろう。離宮から出られてまもないというし、おまえから逢瀬の誘いでも持ち掛けてはどうだね」
ハインリヒは心の中でエレノアの面影を思い浮かべた。痛み一つない白銀の髪に、宝石のように輝く碧眼。穢れなど微塵もない美しさ。この国の男であるのならば、誰でも心惹かれてしまうような可憐な容姿。
(民のために祈り続ける女神のようなあの方を、どうか私がお支えしたい)
憧れ――いや、これは恋心であるだろう。
サンベルク帝国の男女は、基本的に定められた相手と結ばれる。ひとたび熱に浮かされると盲目になり、愚かな行いをするとされているためだ。夢や希望に絆された民は、純粋な信徒ではいられない。そうなると、女神オーディアが見限るのだ。
ハインリヒは、侯爵家の出であることもあることと、ジークフリートのお膳立てもあり、婚期が到来してもなお、伴侶をあてがわれることはなかった。
果たして、女神オーディアに愛されし皇女殿下へ向けるこの心は、愚かなものだといえるのだろうか。
――いや、この世でもっとも尊ばれるべき感情であるように思える。
(敬虔けいけんな御方には、この私こそがふさわしい)
「…ああでも、今は辺境のニールで休暇を取られているのだったな。どうしてあのような、加護も授からない辺鄙な田舎町に…」
ハインリヒは何度かエレノアへ手紙を出していた。使用人に上等なドレスを仕立てさせ、贈り物も三度ほど。
おそらく、連日謁見に立ち並ぶ男たちの対応に疲れてしまわれたのだろう、とハインリヒは考えた。エレノアは心優しい女性だ。一人一人と真摯に向き合い、決して無碍にはしないのだろう。
「近日、辺境の地にて遠征がございますため、その時にご挨拶ができたらと考えております」
「そうか。皇帝陛下のお墨付きであるのだから、皇女殿下の伴侶はおまえで決まりだろう。そうなれば、ますます軍部の士気が高まるというものだ。私としても鼻が高いよ」
「もったいなきお言葉でございます」
エレノアが祈る時、この世の神秘を見た。あたたかな風が吹き抜け、川の水はみるみるうちに澄み、雲が消え去り、青空が広がる。植物は息を吹き返し、この大地のあらゆるものが祝福を受ける。
――何にも染まっていない真っ白なエレノア。
燃え上がる情熱を胸に、ハインリヒは執務室をあとにした。