池突き落とし事件の翌日、雹華の反対を押し切って復帰した私は冷めた視線を周りから送られていることに気づいた。
「あの、すみません、これって――」
「今忙しいから後にして」
「え……、あっ、珠蘭さん、ちょっと聞きたいことが、」
あきらかに目が合ったはずなのに、珠蘭さんは顔を背けてどこかに行ってしまった。珠蘭さんは嫌がらせこそするものの、仕事のことで無視することはほとんどなかったのに……。
どういうことだろう。
池に落ちたことで迷惑をかけてしまっただろうか、と頭を悩ませたものの、考えても仕方がない、と私は気にせず自分の仕事に没頭した。
しかし、それも昼になって理由を知ることになる。
「――鈴風ちょっと!」
昼食を取りにやってきた雹華が、厨房の裏から私を呼ぶ。私はごみを捨てるフリをしてこっそり裏へと出た。
「どうしたの、今忙しいんだけど」
「それどころじゃないわよ! なぜだか鈴風と宦官さまが恋仲だって噂があちこちで広がってるの!」
「えっ」
驚いたのとほぼ同時に、今朝からの周りの冷たい視線や態度に納得がいった。それはそうだ、触らぬ神に祟りなし。誰だって、巻き込み事故には合いたくないものだ。
「まぁ、だからって、証拠もなにもないのに鈴風をどうこうするなんてことはないだろうけど……、宦官さまとは、ほとぼりが冷めるまでしばらく会わない方がいいかもしれないよ」
どうしよう……、私のせいで雲嵐に害が及んだら……。
雲嵐は、陛下の側仕えだから、もし陛下の耳に入ったらそれこそ首を切られかねないのではないか。
「鈴風大丈夫?」
震える手を雹華がぎゅっと握ってくれた。
「う、うん……大丈」
「――李鈴風、出てきなさい!」
突如響いた声に雹華と顔を見合せる。なにごとだ、と声の方に向かうと、食堂の外に色鮮やかな襦裙を纏った昭儀さまとその侍女が、さらにその後ろには槍のようなものを持った兵士が数人立っていた。
「なにあれ……」
「兵部がどうして……まさか」
雹華の予感は的中。
「あの栗毛の宮女が鈴風よ、捕まえなさい」
「はっ」
昭儀さまのひと声で、私は兵部の人たちに取り囲まれてあれよあれよと捕まってしまう。
「えっ、ちょ、待ってくださいってば、ええっ」
「鈴風!」
ご丁寧に両手を縄で縛られて、昭儀さまの目の前に放り投げられた。なにがなんだかわからないまま、私は目の前で目を吊り上げる美人を見上げた。
「あ、あの……、これは一体……」
「李鈴風、姦通罪でお前を処罰します」
「か……か?」
聞いたことのない単語に頭の中ははてなマークで埋め尽くされるが、昭儀さまはお構いなしに続ける。
「これまで数々の愚行に目を瞑り見逃してきたけれど、陛下への裏切りだけは許せないわ」
数々の愚行?
見逃してきた?
どの口が言うのか、これまで散々嫌がらせをしてきたのはどっちよ。
と、のどまで出かかったけど、そんなことを言えば火に油を注ぐようなものだから、押しとどめる。
きっと余程間抜けな顔をしていたんだろう、周りの侍女たちが次々に補足をしてくれた。
「前に食堂で宦官と抱き合ってたのを見たわ! なんて破廉恥な!」
「昨日は夜這いに来ていたでしょう!」
「陛下に仕える宮女とあろうものが、ほかの男と通ずるなどあってはならないことよ!」
どうやら姦通罪とは、男女の仲にあってはならない相手との関係を罰する罪名なのだとようやく理解できた。そして、雹華から聞いた通り、私と雲嵐の関係が疑われてのことらしい。
「誤解です! 決して男女の仲などでは、」
「おだまりなさい。目撃者がいるのにこの期に及んで言い逃れできるとでも?」
冷めた目で見下ろされて、もうだめだと私は悟った。
完全に潰しにかかってる。
私を池に突き落としたのも、もしかしたら昭儀さまかもしれないと私と雹華は疑っていた。きっと、私が死ななかったから、とどめを刺すためにこうして動いたんだ。
私を後宮から追放するために。
「罪を認めなさい!」
「……」
嫌だ……、私はなにも悪いことなんてしていないのに。
どうして、見た目が気に入らないからというだけで、こんな理不尽な扱いを受けなくちゃいけないの?
犯してもない罪を認めたら、もう雹華や雲嵐と二度と会えなくなってしまう。それどころか、一生牢屋から出れないかもしれない。
そんなの、絶対に嫌。
「――宦官と会っていたのは認めます。だけど、私はただ彼に食事を作って食べさせていただけです!」
「どうしても認めないつもりね。いいわ、それなら吐かせるだけよ。――さぁ、この者が自供するまで拷問にかけなさい! あと相手の宦官も見つけ次第捕らえるのよ!」
その声を合図に、兵たちは私の腕を掴むと強引に引っ張り上げた。痛みに顔をしかめたその時、
「――その宦官とは、もしや私のことか?」
張りのある艶やかな声とともに、どこからともなく雲嵐が姿を見せたのだった。
昭儀さまが目配せすると、側に居た侍女が「はい、この者で間違いございません」と声を張る。
「お前のようなぼさぼさ頭の冴えない宦官が、陛下の所有物である宮女に手をだすとは甚だおかしいわ」
なにが面白いのか、昭儀さまは声高らかに笑った。
って、雲嵐のバカ!
なんで……、なんでわざわざ名乗り出るのよ!
見つかるのは時間の問題だったかもしれないけど、自分から出てくるなんてバカじゃないの。
私は脱力のあまり、その場に再びへたり込む。そして、ありったけの念を込めて雲嵐を睨みつけたけれど、彼はそんな私を見て肩をすくめてみせるだけだった。
この人、今のこの状況わかってるんだろうか。
今すぐ胸ぐらをつかんで聞いてやりたい気持ちに駆られる。
「捕らえよ」
昭儀さまの声で動き出した兵よりも先に、雲嵐が手を挙げる。それが合図だった。
「悪いが、その罪状は無効だな」
今度は先ほどとは違う色の制服を着た兵士たちがぞろぞろと現れ、あっという間に周りを取り囲む。
「なっ、禁軍だと……⁉」
「一体なにがどうなってる!」
昭儀さまの連れてきた兵士たちは動揺が隠せずおろおろとするばかりだった。
「なんで、陛下の近衛兵たちがここに……」
昭儀さまの口からも驚きがこぼれる。私もなにがなんだかわからないでいると、近衛兵の一人が手の縄を解いてくれた。
「昭儀よ、兵まで使ってこのような騒ぎを起こすとは、少々行き過ぎだぞ」
雲嵐が、声を低くして言う。私に向けられたわけではないのに、すごい威圧感に体の芯がすーっと冷えた。
「え……」
「宦官ごときが、昭儀さまになんという口の利き方! 分をわきま」
「お、おやめっ」
よかれと思って取った行動を窘められた侍女は、不服そうな表情で主を振り返る。しかし、昭儀さまは雲嵐を見て恐怖に震えていた。
「やっと気づいたか、昭儀。だが、お前の侍女はまだわからんようだな」
これでどうだ、と雲嵐は結っていた髪を解き、鼻までかかっていた前髪を手でかき上げて後ろへと流した。
その場にいた誰もが、露わになったその美しい顔に目を奪われ、息を呑む。数人が、崩れ落ちるようにその場に平伏の姿勢を取ったのが視界の端に入り、「へ、陛下……」と驚きの声がどこからか上がった。
この人が……、雲嵐が、皇帝陛下……?
艶やかな雰囲気を纏うその顔を目にした瞬間私は、以前雹華に聞いた陛下の二つ名を思い出した。
――妖艶の帝。
男までも魅了する美しさからつけられた異名らしい。それを聞いた時は、そんな大げさなと思ったけど……、今目の前にいる雲嵐は、確かにその名にふさわしい端正な顔立ちをしていた。
漆黒の髪は、先ほどまで結われていたというのに、癖などなく背中に流れ、切れ長の瞳はびっしりと生えた長いまつ毛に縁どられ、色香を演出している。
「――ぼさぼさ頭の冴えない私に仕えるのはさぞ屈辱であっただろうな、昭儀」
雲嵐は、端正な顔を皮肉にゆがめた。
「どっどうか、お許しください!」
昭儀さまと侍女は、その場に平伏し、謝罪の言葉を口にする。その姿を眺めながら、私は完全に思考が停止していた。
「昭儀を廃位し、実家に帰すよう命を下す。これまでご苦労であった」
どよめきが走る。
昭儀さまはその場に泣き崩れた。
後宮は、皇帝陛下のもの。
たった一人の主の口から放たれた言葉は覆ることはないのだろう。
そして、雲嵐の視線が私に注がれ、パチリと目が合ってしまった。半ば放心状態だった私はハッとして、目で訴えかける。
――皇帝陛下って、どういうこと!
もちろん、届くわけもないのだけど、雲嵐はあほ面を晒す私にふっと微笑みかけてきた。
その破壊力たるや……!
心臓に悪いったらない。
雲嵐が片手を挙げると、文官と思しき青色の官服を着た人がどこからともなく現れて私の前で止まる。そして、巻物のようなものをこれ見よがしに広げて叫んだ。
「尚食局の宮女、李鈴風に皇命を下す!」
皇命。
頭の中でその二文字を思い浮かべる。
この宮殿内に住んでいる者ならば誰しも一度は耳にしたことがあるかもしれないが、まさかそれが自分に向けられようとは17年生きていたけど夢にも思わなかった。
私は地面に尻もちをついたまま、文官とその傍らに立つ雲嵐を交互に見やり、池で餌を待つ鯉よろしく口をぱくぱくとさせていた。
周囲は、その人並外れた美貌の皇帝陛下を一目見ようと、あわよくば一目見てもらおうと押し合いへし合いあれよあれよともみ合っている。
けれど、今は外野に構っている余裕などどこにもない。
皇命って、一体なに……?
もしかして、不敬罪で死刑?
だって、私、知らなかったとはいえ、雲嵐にため口で……あろうことか説教や皿洗いまでさせてしまっている。これはもう救いようがないのではないだろうか。
よくて流刑とか?
だったらせめて温かい所にある島にしてくれないかな……、そしたら釣りでもして自給自足ができそうな気がする。寒いのだけは嫌。文明の利器のエアコンやストーブのないこの世界で極寒の冬を過ごすのだけは勘弁して欲しい。
どうかお願いします、流刑は南の島でお願いします!
ありったけの念を込めて祈り、文官が次の文言を発するべく息を吸う様を私は見つめた。
「本日付けでその任を解き、正一品の賢妃の位を授け、居は水晶殿に置くこととする!」
言い切った後、一拍をおいて「えぇ⁉」とか「きゃー!」とか「うそー!」とか「なんで?」とか、周りから宮女たちの声があがる。
あまりにも予想とかけ離れていたそれに、私の口からは間抜けな声がこぼれ落ちた。
「――はぁっ?」