舞台当日。
 私はいつもよりも早く起きて、宦官棟の人々が仕事をし出すよりも早くに天幕へと向かっていった。天幕は物々しい空気に包まれていた。
 半夏さんが言っていたように、劇団にいるほとんどの人たちが被害者であり、皇帝を殺したくて仕方がなく集まった人たちだ。私はその中に加えられるのかと、ほっと息を吐いた。

「緊張しているのか?」

 不意に寄ってきた半夏さんに私は「おはようございます」と挨拶をしてから、頷いた。

「……皆の気持ちを背負って舞台に立つんですから、重いですね」
「まあ……皆が皆、今回も成功しないとは思っているがな」
「え……?」

 そういえば。何度も何度も紫珠様は皇帝暗殺を謀ったとは言っていた。そのたびに春妃さんに止められていたとも。
 半夏さんは腕を組んだ。

「殿下はとにかく、天運が足りない。全くない訳じゃないんだ。だが、あれだけ暴君と化した皇帝が、今もなお、殺されることもなく欲望赴くままに生きていると思う?」
「そういえば……」

 後宮内であれだけやらかし、首都は女性は女の服を着られない。おまけに槐国は増税で貧しい者たちが次々倒れていっている。
 普通に考えて、この人じゃ駄目だと暗殺しようとする人は、紫珠様以外にも出てくるのに、ピンピンとしている。
 半夏さんは苦々しく言った。

「悔しいことに、皇帝陛下には天命がある。それが尽きないことには、俺たちに勝機はない」

 私はそれに黙り込んだ。

「──星主から逃げる者あり。それを火をもって助けることで、玉座を得るだろう」
「うん?」
「春妃さんが占術で見てくださった、紫珠様の天命です。今までは天命が不明瞭過ぎて読み取ることができず、紫珠様のことを止め続けていたと言っていますが……彼の天命は晴れました」

 私は手を握った。昨日紫珠様の手を取ったことを思い出す。
 あの人はこれは復讐だと言っていたけれど、それだけでこんな大それたことはできやしないだろう。私はあの人を信じたいし、信じようと思う。
 私があの人の星だなんておこがましいけれど、あの人の助けをしたいとは、心の底から思っている。
 やがて、天幕にまたひとりやってきて──私は思わず息を飲んだ。
 長い髪、涼やかな目元、通った鼻筋。このところずっと顔を合わせていたはずなのに、服を宮女のものや宦官のものから、官吏も着る着物に変えた途端に、静謐さと青竹のような美しさを纏った人に、目が釘付けになった。

「皆、ここまでよく励んでくれた」

 途端に皆、膝を突いてお辞儀をした。私もそれにならう。
 それを見回しながら、紫珠様は続けた。

「我らはこれまで、長きに渡る苦渋に耐えた。これで全てが終わり丸く治まるとは思えない。作戦を決行し、失敗したら即離脱。成功したら我々の勝利だ。気負うな。我々は何度も失敗を重ねている。しかし失敗は成功の母だ。また一歩成功に近付いたと思えばいいだけのこと。それでは……かかろう」
「はっ……!!」

 皆の声に私はビリビリとした。
 舞台用の衣装は、妃用の着物よりも布地はよろしくないが、同じくらいにひらりひらりと舞うもので、化粧も舞台用の厚めの化粧を施された。最後に唇に朱を差されたとき「丁香」と呼ばれた。
 こちらを温かい眼差しで見ていた紫珠様だったことに、自然と視線が俯いた。

「……こんなところにいてよろしいんですか?」
「もう今は俺のやることはないからな。根回し、武器の後宮内の持ち込み、人材調整……それくらいしかしてない」
「そこまでやってくれたら充分じゃないですか」
「……実行犯の中にお前を混ぜたが、後悔はないのか?」
「というより、そこまで思ってるんだったらどうして私を巻き込んだんですか?」

 単純に使える人材集めの一貫で私を助けたのかもしれないけれど、今は私はそれでいいんだ。

「私、まだなんにもしてませんから。役に立てるのかどうかも、まだなんにもわかりません。だから待っててくださいよ」
「……丁香」

 私の朱を差した唇に軽く触れると、自身の唇にその指で触れる。
 この人は本当に。私は思わず笑う。

「口付けは全てが終わってからでお願いします。化粧取れたら困りますから」
「……わかっている」

 私はそう言いながら、劇団の元へと向かっていった。
 ここから先が、大変なのだから。

****

 招待された梨妃の屋敷。
 そこは女性の兵士たちが並び、荷物検査をされる。もっとも、舞台に使う青竜刀などは「偽物です。壊されると困ります」と言い繕って持ち運ばなければならなかった。
 広い中庭に舞台設置の準備を手伝っていたら、「陛下」と可憐な声をかけながら歩いている女性と、醜悪な男性に目が入った。
 身綺麗な格好をしているにもかかわらず、年不相応に太くて垂れた肉は、とてもじゃないが美しいとは言えなかった。そしてそれに纏わり付いている女性。
 彼女は綺麗な着物に花のひとつを髪飾りで付けるならわかるものの、首飾り、腕輪と、あまりにも装飾華美が過ぎ、それが品格を落としているように見えた。年は皇帝陛下よりもひと回りは下で、紫珠様よりも年は食っているはずなのに落ち着きが足りないように思えた。
 しかし彼女は皇帝陛下にいい思いをさせてもらっている分、守る気はあるのだろう。護衛として、女性兵士が中庭の各地に配置されている。
 だが、特等席で見ようと思えばどうしても座席は舞台からは近くなる。
 私は手はず通りに剣舞を披露し、瞬間を謀って剣を壊す……剣舞用の青竜刀はわざと一カ所折れやすく仕掛けをつくっている……それを皇帝陛下に当てる。
 それで皇帝陛下は死ぬはずだけれど。これは少し間違えば梨妃に当たり、梨妃が死んだ場合は彼女の実家を敵に回すことになる。彼女は皇帝陛下に利を与える家系であるのだから、後宮内で娘が死んだとなれば黙ってはいない。
 殺せなくてもいいと、紫珠様がずっと連呼しているのはこういうことだ。
 私は出番まで、青竜刀を構えて、息を飲んで見守っていた。
 やがて、舞台ははじまった。舞踏はきらびやかな上に迫力があり、女性も宦官も踊りが冴え渡っている。
 ここにいる人々が、皆皇帝陛下に殺意を抱いているとは、舞台の端からではわからない。皆が皆、殺意を押し殺しているのだから。
 やがて。私の出番が来る。
 青竜刀を構え、剣舞を舞いはじめた。もっと緊張すると思っていたのに、不思議と気持ちが凪いでいるのは、舞台を見ている人々の様子が見えるせいだろう。
 心底楽しそうにしているのは、皇帝陛下と梨妃だけ。他の顔の端々が、どこか強張って見えるのだ。
 舞台からだと、それがよく見える。なのに客席にいるはずの皇帝陛下も、その妃も見向きもしない。この人たちは、彼女たちの不幸の上に後宮生活が成り立っていることに、気付きもしないのだ。
 だんだん私の剣舞に、共に踊る人たちが増えて行った。
 時には剣を結び、時に剣を交わす。
 そして私たちはじりじりと移動をする。皇帝陛下の前。その隣にへばりつく梨妃。彼女に当てずに皇帝陛下だけ狙うのは至難の業だ。これを……どうする?
 そう思っていたところで、「おお」といきなり皇帝陛下が梨妃を引き剥がして立ち上がった。
 って、なんで!? まさか暗殺がばれた? 私たちは舞台の人たちと視線を交わすが、周りも剣舞をしながら戸惑った空気が流れる。

「これ、半夏! この娘は何者か!?」

 そう言いながら、団長の半夏さんをいきなり呼び出した。そして私のほうにねっとりとした視線を向けてくる。
 ……厚化粧のせいか。私と逃亡した姉は、顔の繊細さは天と地ほど違い、姉のほうがはるかに上だったが。舞台用に厚化粧をしてしまえば、なんとなく形だけは似てしまう。
 ……紫珠様に助けてもらったというのに、またこれか。
 私が唇を噛んでいた中、ふいに誰かが舞台に上がってきた。

「失礼、父上。彼女は俺の妻になります」

 そう言いながら、肩を抱いてきたのは、紫珠様だった。途端にざわつく。特に兵士たちは顔を真っ青にしている。

「殿下がどうして後宮に!?」
「警備はいったいどうなっている!?」
「殿下、困ります。後宮に勝手に入られるのは……!」

 そのひと言に、皇帝陛下は目を細める。

「なんじゃ紫珠。なぜわしの後宮の女に手を出しておる?」
「先に出会ったのは俺ですよ。皇帝ともあろうお方が、正一品の前で皇太子妃に手を出すのはいかがなものかと思いますが?」

 私はだらだらと冷や汗を掻きながら、ちらりと梨妃のほうを見る。実際に彼女は、顔を引きつらせて怒鳴りたいのを堪えていた。立場的に、ないがしろにしてはならない方なんだろう。
 一応皇帝が皇太子妃に手を出した醜聞は、世の中結構あるんだけれど、正一品主催の催し物でそんなことをした例は私も聞いたことがない。正八品みたいな最下位妃と皇帝でいうところの正妻に当たる皇太子に対する皇太子妃だと、ここまで変わってくる。

「陛下……? どういうおつもりですか?」
「ああ、梨妃! 違うのだ、これは……!!」
「お父様にこのことは連絡させていただきますわね」
「梨妃……!!」

 一旦梨妃が癇癪を起こしたことで、舞台の中断は一旦流れた。私は一旦舞台裏に紫珠様と移動する。

「……すみませんでした。庇わせてしまって。私、一応ここで皇帝陛下をやるつもりでしたのに……」
「こちらこそすまない。親父が女に手を出すことはあっても、まさか正一品の前で余計なことをするところまで読めなかった。いったいどこまで品位を下げるつもりだ、あの糞親父は」
「でも……私みたいなのが後宮に混ざってるってばれてしまったのは、少々まずいんじゃないですか? 劇団の人たちにも迷惑がかかるかと思いますし」
「どっちみち、今回の暗殺計画は一旦中止するしかないだろうさ。だがな」

 紫珠様は私の唇を撫でる。そして自分のものに触れる。

「……後宮のほうがそれでも安全なんだ。外は親父だけでなく、官吏の目もある。親父は女のこと以外は本当になにも考えていないが、官吏は親父の使い方が上手い。迂闊に丁香を外に出して、人質に取られるくらいだったら……」
「……私がまだ、どこに匿われているかは、あちらも調べがついてはいませんよね」
「丁香?」
「後宮内での戦い方は、まだわかりませんが。味方を増やします。そして必ず、あの皇帝を倒しましょう」

 私は手を取った。

 まだ私たちはなにもできない。
 剣は使えても、剣先が届かない。知恵はあっても、天命が不明瞭。
 それでもいつかはこの、ひどい後宮を変えられると。そう信じている。

<了>