私が宦官棟に戻り、間借りしている部屋に向かおうとしたら、「丁香」と声をかけられ、少なからず驚いた。
顔がやけにいい宦官に声をかけられたのだけれど、声だけはどこかで聞いたことがある。低いような高いような、必死に聞き取ろうとしても、いまいち掴み取れないのに印象だけはずっと残り続ける声。
それに宦官は「ああ」と言った。
「俺だ、紫珠だ」
「……っ!?」
思わず息を飲んでしまった。
女装しているときは、花神の化身と言われても信じてしまいそうなほどに、花の雰囲気を撒き散らしながら、風に流されて消えてしまいそうな儚さがあったはずなのに。それが宦官の服を着た途端に儚さが完全に霧散し、柳の枝のようにしなやかにいつまで立っても折れないし流されない雰囲気に変わっていた。性だけあやふやなままだけれども。
私が口をパクパクさせているのを、紫珠様は目を瞬かせて眺めていた。
「なんだ? 俺の変装に見とれたか? すまんな、本当の姿は後宮内じゃお目見えできなくて」
「い……いえ……私は別に」
「それで、春妃と話をして、どうだった?」
私は紫珠様を見た。よくよく考えれば、春妃様の占術結果を確認に行って欲しかったのだから、きちんと伝えるべきだろう。
一旦私の部屋に招き入れてから、占術結果を報告した。それに紫珠様は「ふーむ」と腕を組んだ。
「抽象的過ぎるでしょうか?」
「いや? 逆だ。俺は何度も何度も親父の首を取るために行動を起こされたが、その都度春妃に止められていた。天命がない中でやれば、星主に消されると」
「……でも、今回は星主を怖れるなと出たということは」
「やっと好機が来たという訳だ。だが、問題は親父が後宮に来ないことには、首を取れる機会もそうないんだがなあ」
「皇帝陛下の首を取れる機会が、後宮内でなかったら駄目という根拠は?」
「ひとつ、皇帝陛下の警備は厳重だ。常にふたりひと組は護衛に付き、護衛交替の機会でも、一個小隊が見張っている中で行われる。護衛が外れる機会は、後宮内に入ったときにしか訪れない」
男は後宮内に入れないため、護衛も女兵士たちに任せないといけない。その機会は他所で暗殺を行うよりも機会が存在する。
「ひとつ、後宮内では、必ず護衛が外れる時が存在する。まあ、渡りの屋敷は丁香救出で燃やしてしまったが、まだ機会はあるからなあ」
「すみません……その、他の機会というのは?」
「愛妃に会いに行くのに、わざわざ護衛は付けないからな。妃の屋敷は、基本的に後宮内でも別の権力が存在しているから、皇帝だからと言って、それを踏みにじって護衛を付けて入ることがかなわない」
屋敷持ちの妃たちは、基本的にどこかの権力者たちの子女か、春妃様のように一芸特化の特技を持っているかのどちらかになる。一芸特化の妃ならばそもそも自力で護衛を賄える訳がなく、どこかの権力者により妃として送り込まれたのならば、実家からの護衛を付けているのだから皇帝陛下の護衛を通すとは思えない。
たしかに護衛が引いた段階でだったら、まだ首を取る方法はあるのか。
「ところで、丁香は剣舞は舞えるか?」
唐突に紫珠様に言われ、私は首を捻った。
私が剣術の稽古を受けていたのは自衛のためだったが、剣舞は元々は劇団員が覚えるものであり、武道とは少々勝手が違う。
ただ……私も首都に劇団が来た際にそれを見物に出かけたことはある。くるくると回りながら重いはずの剣を振りかざして踊る様が美しく、私自身も見よう見まねで踊ったことならばある。
「……見よう見まね程度でしたら」
「それ、踊ってみろ」
意味がわからないな。私は訝しがったまま、ひとまず青竜刀を手に取った。
そして手首を意識しながら踊りはじめた。剣舞はなにも剣を振ればいいだけでなく、足の動き、円の描き方、体重移動、その全てに神経を注がなければ、途端に重ったるいあくびの出るような踊りになってしまうため、全神経を研ぎ澄ませた。
ただ、愛妃の話からどうして剣舞の話になるのか、訳がわからない。私がくるくると剣を回しながら自身を一回転させて踊りを止めると、息が切れる中、拍手が鳴り響いた。
「……こ、れで……よろしいですか?」
「上出来だ。まさか見よう見まねでここまで踊れるとはな」
「ですけど……これ、なんですか……?」
「今度、正一品の元に、劇団が招かれる。親父の愛妃だ、そこには当然ながら親父も来る。演目に夢中になっている隙に親父を殺そうと考えていたが、お前もそこに混ざれ」
絶句してしまった。
昨日の今日で、いきなり皇帝陛下を殺せと言ってくる。天にようやく許されたのだから、この人もこの機会を逃したくはないのだろう。
だが、そもそも私の剣の腕なんて大したことないのに、そんなんですぐ見つかったら、私が死ぬだけだ。私は思わず紫珠様を睨んだ。
「……さすがに私ひとりだけだと、死ぬかもしれないじゃないですか」
「その劇団、俺のものだが?」
「はい?」
「正確にはなあ、劇団の奴らは、皆皇帝陛下に恨みのある連中で構成され、俺もその中に加わっている。皆で殺せる機会を窺っていたんだ。混ざらないか?」
仲間に入れてやると言わんばかりの言い方だった。
そんな乱暴な、とは思うものの。この人が焦る気持ちもわからんでもなかった。
春妃様は芸によって身を助け、手込めにされるのを逃れたが。中には彼女のようにはいかず、故郷の人たちと無理矢理引き離された人もいるだろう。
それを考えたら、浅はかだと批難する気にはなれなかった。
「……わかりました。お付き合いしましょう」
「そうか。なら、次はその劇団に案内するか」
「って、後宮内にあるんですか!?」
「正確には、あの連中は半年に一度、七日間だけ後宮の滞在を許されている。後宮に七日間だけでも滞在できるのは稀少なんだよ」
そう言いながら、紫珠様は部屋を出て歩きはじめた。
私も慌ててついていったのである。
長い廊下をいくつも通ったあと、広い場所に出る。
その広い場所には天幕が張られ、その中を出入りしている人々が目に留まった。紫珠様がひとりに手を振ると、頭を下げられて通された。
「おっしゃってくだされば、こちらから出向きましたのに」
「わざわざ宦官棟に来させる訳にはいかない。あそこにも敵は紛れ込んでいるのだから」
「それで、彼女が……」
「俺の妻になる予定の娘だ」
私はそれに「ひぐっ」と喉を詰まらせた。
これは今言う必要があるのかとか、うちの実家の力が国復興に必要だからでしょうがとか、いろいろ思ったけれど、どうにか飲み下した。
劇団員はこちらをまじまじと見下ろした。
もっと劇団員は女の人の華麗な舞ばかり見るのかと思っていたのに、意外なことに腕っ節の強い宦官も混ざっているようだった。
女性の軽やかな踊りの練習に混ざって、宦官の躍動感ある踊りの練習も目に入る。
「それで、剣舞の腕は……」
「今ここでやればいいんでしょうか?」
「素人芸だと、一発でばれるからな」
たしかに。劇団員に混ざって皇帝陛下を仕留めるとなったら、まずは皇帝陛下を油断させるほどの演目でなければならないだろう。
私は青竜刀を手に、紫珠様に見せたものを披露しはじめた。
剣を振り、体を動かす。先程紫珠様に見せたときは、感心したように見ていたが、こちらは一転、見聞する目だ。こういう目で取引をしているお父様や姉は何度か見たことがある。
最後に私が一回転したあと、劇団の人は腕を組んだ。
「殿下。時間はどれだけいただけますか?」
その言葉に、私は「あれ」と思った。
紫珠様の連れてきた人間の剣舞だから、無理矢理褒めるか、逆に使い物にならないと苦言を呈するかと思っていたのに。
紫珠様は伝えた。
「次に親父が後宮を訪れるのは、梨妃の観劇だ。そのときまでに仕込んで欲しい」
「……たった三日ですか。名はなんと言う?」
そう劇団の人に尋ねられた。私は背を伸ばす。
「丁香です」
「そうか、丁香。俺は半夏だ。それでは殿下、三日でなんとか使い物になるように仕込みますんで」
「頼んだ」
「ちょ、ちょっと紫珠様!?」
「丁香、せいぜい頑張れよ。半夏の仕込みは、吐くほどに厳しいからな」
「は、吐くんですかぁ……!?」
私の悲鳴を無視して、さっさと紫珠様は天幕から立ち去ってしまった。
鬼か、あの人は。私はそう思いながらも、半夏さんから剣舞を徹底的に仕込まれ直すこととなった。
吐くとは言われていたものの、実際に姿勢ひとつで怒鳴られ、正しい姿勢のために何度も何度も竹の棒を当てられ、「こう! 正しい姿勢はこう!」と仕込まれ続けた。
一刻二刻と飲まず食わずで踊り続け、三刻目になったときにはへろへろだったけれども。それでも気のせいか体が軽く感じた。腹が減り過ぎたのか、それとも体がきちんと吸収したのか、頭が驚くほど鮮明になり、踊りたかった踊りが指の先から足の爪先まで通っていき、今までで一番いい演技ができた。
一度も拍手をしなかった半夏さんは、腕を組んだままだった。
私はぜいぜいと息を切らす。
「……食事をそろそろ摂れ。殿下のお気に入りが飲まず食わずで死んだんじゃシャレにならないからな」
「え?」
「腹を満たしても、今の感覚を忘れるな。これくらい踊れなかったら、十中八九皇帝の首は落とせない。審美眼を騙し通さなきゃならねえのは、なにも皇帝だけじゃねえ。愛妃も騙くらかさなきゃいけねえんだからなあ」
「は、はい……っ!」
出されたちまきを、私は泣きながら食べていた。優しい味のそれは、五臓六腑に染み渡るように感じ、私の分はあっという間になくなった。
「……あのう、半夏さんは」
「なんだ?」
この人も踊り手なんだろう。体の筋肉に無駄がなく、薄手の着物で軽々と剣を振って踊っていた。その剣が簡単に人の首を落とせるものだけれど、その動きには重さを感じない。
そんな人が紫珠様の起こそうとしている皇帝暗殺のことを知っているということは。
「……皇帝がお嫌いですか?」
「嫌いだね」
今までさっぱりとしていた人から、初めて湿度を感じた。彼の吐き出したそのひと言には、粘りがあった。いったいどれだけ皇帝陛下を憎んでいるのか、そのひと言だけでもわかった。
「……そうなんですか」
「そもそも好きな人間が後宮内にいるもんかね。朝廷は腐敗しきっているが、我関せずで後宮に篭もって女遊びばかり。何度も殿下は諫めたものの聞く耳持たずでな。いろいろ手は打ったものの、守りが堅い上に官吏たちまで見張っている。官吏の目が届かない後宮以外でやれる方法はないと判断したんだよ」
「ここでいきなり誘われたときは驚きましたけど、既にいろいろ手を打ったあとだったんですねえ……」
そう考えたら、紫珠様が次から次へと変装するのも頷ける。もう手段を選んでられなくなったんだろう。
姉が逃げたから身代わりに後宮に放り込まれた私からしてみれば、皆の言葉はいちいち重い。
半夏さんは水を舐めるように飲みながら、ふっと息を吐いた。
「なんだ、殿下に脅かされたか? 皇帝の首を取れと」
「脅かされてはいませんけど……私だって後宮を解体しないことには、二度と外には出られない身ですし、一生訳もわからないままここに縛られるくらいなら、紫珠様の手伝いをしたほうがまだましだと思っただけです」
「違いない。くたびれたら考えるのをなにもかも放棄してしまうからな……そういうところを、殿下は見込まれたんだろうさ」
そう半夏さんに言われると、私はなにも言えなくなった。思えば私は、助けてくれた人だというのに、紫珠様のことをなにも知らないのだ。
****
柔軟体操をして、体の負担を軽減させてから「明日も早朝から来るように」と言われて、やっと私は天幕から解放された。
こそこそと宦官棟に戻ると、黄精さんが「お疲れ様です」と食事の世話をしてくれた。私が剣舞の仕込みを受けていると知っているせいか、出してくれた料理は肉餡をたっぷりと詰めた水餃子、野菜炒めにはきくらげをたくさんにあんかけ麺と、体力増強を考えた料理だった。普段であったら入らない量だけれど、あれだけくたびれるほど仕込みを受けたら、いくらでも食べられる。
私がむしゃむしゃと食べている中、相変わらず宮女か宦官かすらわからない黄精さんは、こてんと首を傾げながらこちらを眺めていた。
「あ、あのう?」
「いえ。殿下もこのところ元気で。今までは、なかなか手ごたえがございませんでしたから。これだけ不満を溜め込んでいても、人の怒りすら飲み干して、陛下は増長しておりましたから。殿下の怒りは留まることを知りませんでした」
「そこまで、だったんですか……」
私の中で紫珠は掴みどころのない、花神のように一瞬だけ現れて去っていくような人という、そんな感じだった。
黄精さんはくつりと笑って頷く。
「流行り病で、後宮が一度解体の危機に陥ったことをご存じで?」
「はい?」
来たばかりの妃の私すら渡りの対象にする皇帝陛下のことを思い、私は首を捻った。
「それは、いいことではないのですか?」
「手順を踏んで後宮解体でしたら、官吏ですら文句も言いませんでしょうが、あれは解体というものではありません。放置というもので、とてもじゃないですが認められないものでした……後宮が流行り病のせいで崩壊寸前。あの頃に生まれた皇子たちも、殿下を除いて皆死に絶えました……首都にも広がったあの流行り病は、ただの不幸ではございません……人災でした」
黄精さんのきっぱりとした口調で、私は茫然とする。
そういえば。紫珠様は流行り病でお母様を亡くしたとおっしゃっていたけれど。もしかして、これがきっかけで皇帝陛下の首を狙っているというの?
「……いったいなにがあったんですか。紫珠様や、ここにいる人たちが皆、皇帝陛下を憎んでいるような出来事……」
「……少々しゃべり過ぎましたね。この辺りは、どうぞ殿下とゆっくりお話しくださいませ」
黄精さんはそれだけ言い残すと、食器を片付けて立ち去って行った。パタンという扉の閉まる音を聞きながら、私は考え込んだ。
ただ流されるだけでは、後宮で嘆いているだけの人たちとなにも変わらない。私はただ彼の手足となって、皇帝陛下の首を狙うだけでは、駄目なんじゃないだろうか。
私は、自分の意思で紫珠様の手助けをして、現状に戦いを挑まないといけないんじゃないだろうか。
そう、ひとり考えていたところで、扉が叩かれた。
「はい」
私の言葉に、「俺だが入っても大丈夫か?」と尋ねられた。紫珠様の声だ。私は少しだけ考えてから、ひと言添えた。
「誰だかわからない人は入れられません」
「そういうところが気に入っている」
そう言いながら、扉を開いた。やはり紫珠様だった。今は宮女の格好をし、綺麗に化粧を施している。
「どちらにいらっしゃったんですか?」
「梨妃の観劇のために、人手集めの手伝いだな。半夏にずいぶんと仕込まれたみたいじゃないか。上手くやれそうか?」
「できるとは思いますけど……でも、私が皇帝陛下を殺せるかどうかはわかりません」
「まさか親父の首をお前が落とせるとでも?」
「やれって言ったの、紫珠様じゃないですか……」
「ハハハハハハハ」
いきなり笑い出してから、私の頭を撫で回した。
「な、なにするんですかっ」
「すまんすまん。親父を殺す手伝いをしてくれとは言ったが、お前に直接やれとは言ってなかったんだが……失敗したな」
「……でも、私が必要だったんでしょう?」
「そりゃあな。劇団で梨妃の元にいる者たち皆を騙くらかして、やらなかったいけなかったからなあ……」
「……劇団の皆さんも、皇帝陛下を?」
「あれは全員、後宮で身内を殺された者たちだ」
あまりにも簡単に言い切ったのに、喉の奥が「ヒュン」と鳴った。
「あの人たち……全員ですか?」
「ああ……半夏は元から劇団員だったが、劇団にいた妹が親父に見初められ、後宮に入れられた……お前に起こりかけたことは全て彼女の身に起きた。耐えきれなくなった彼女は自害した。他にも似たような例が多い」
「そんな……」
考えてみればわかることだった。
首都では女は女の格好をして出歩けない。皇帝陛下の醜聞がさんざん流れているからだ。価値があったらそこまで無体な真似はされないだろうが、価値がなかったらそのまま後宮に放り込まれて一生出られない。意味がわからない。
「無茶苦茶じゃないですか……」
「そうなんだ、無茶苦茶だから殺すんだよ」
「だから、紫珠様も? 皆が皆、死んだから?」
そこで初めて紫珠様の顔が崩れた。
普段の謎めいた余裕のある表情から、苦虫を噛み潰したかのように、口元が歪む。
「……俺の母は、後宮の薬師だった」
「薬師?」
「ああ。流行り病は親父の起こした人災だった……西方の女を妃として迎え入れた際、彼女は既に患っていた……母曰く、彼女は既に流行り病の耐性を持っていたから無事だったが、後宮内はそうではなかった。気付いたときには手遅れなほどに、後宮内に蔓延していた。毎日倒れていく宮女、宦官。屋敷持ちの妃たちは屋敷内に立て篭もって、薬湯を飲んでやり過ごせたが、下の妃たちや宮女たちはたまったもんじゃない……次々と感染していった。俺が助かったのは、単純に母が口酸っぱく言っただけだ。『絶対に外に出るな』と。母は毎日毎日、危険を承知で屋敷の外に出て、看病して回ったし、上にも進言したが……親父は後宮にぱったりと来なくなった。自分で広めるだけ広めておいて、知らんぷりした。西方の妃はどこかに連れ去られた……あの地獄の中、流行り病が治まった頃には、屍の山が出来上がっていた。放置された後宮の遺体も、流行り病が治まるまで放置されていた。全てが終わってから盛大に合同葬式が行われたが、参列者の目は全員死んでいたよ……弔われた中には、母もいた」
あまりのひどさに、私は口を開けていた。
少しばかりは半夏さんからも聞いていたけれど、ここまでひどいとは思ってもいなかった。あれだけのやらかしをしておきながら、官吏は臭い物に蓋をした。皇帝陛下を見て見ぬふりして、自分たちの利益だけを吸うために。
皇帝陛下は自分の欲望に忠実な行動のせいで、後宮を壊滅寸前にまで追い込んだ事実をわかっていない。だからこそ、紫珠様は……。
私が震えている中、紫珠様はふっと笑った。
「すまんな。国が滅茶苦茶だから、親父を殺して立て直したいと……お前にはそう言ったが、結局のところは敵討ちだ。母が死に、見知った顔が死んで、どうにもならなかった、やりきれなかった感傷だ」
「……いえ。これは当然の感情だと思います」
思わず彼の手を取っていた。私よりも大きい手だった。そして驚いたことに、その手は荒れている……指の股が一本一本ささくれ立っているのは、書状をずっと書き続けた結果だろう。
この人は皇帝陛下を殺すために、どれだけ時間をかけて、人を集めていたのだろう。こんなの……どうにかしたいって思ったってしょうがないじゃないか。
「私はここから逃げ出そうとしました。こんなところにいるのはごめんだと。あなたは立ち向かった。お母様を殺された。理由はそれだけで充分じゃありませんか。私、劇団の舞台に立ちます。なにをすればいいんですか? どうすればいいんですか? どうか教えてください」
「……理不尽だと、思わないのか?」
「あなたには思っていませんよ。ただ、流されて、気付いたらなにもかもを勝手に決めつけられて、がんじがらめになるのが嫌なだけです。がんじがらめになって身動き取れなくなるくらいだったら、動ける内にいっぱい動いたほうがいいじゃないですか」
私が手を取ったままそう伝えると、紫珠様は目を細めた。
「……丁香、お前を妻に娶る」
「それ、私が復興に必要だからでしょう? うちの実家をどこまで動かせるかはわかりませんけど、なんとかなるでしょ……」
「もちろん最初はそのためだった。だが、お前は……理不尽にめげない。そういうところは気に入っている」
思わずぱちくりとして紫珠様を見上げた。
私は彼の本来の姿を未だに知らないし、妻にするという言葉は、宮女の身なりのときにしか言われていない。私はどう答えればいいのかわからず、ただ笑った。
「正式な求婚は、女装を解いてからしてくださいよ。それじゃあ、利用されてるのかどうだかわかんないじゃないですか」
「……違いないな」
「それで、私はどうすればいいんです? 舞台に立って、それから」
手を取り合いながら、話をする。
夜に密会するというのは淫靡な話なはずなのに、内容が暗殺計画なのだから色気もなにもあったもんじゃない。
最後に紫珠様は私の唇をツン、とつついてから、扉に手をかけた。
「それじゃあ、本番を楽しみにしている」
そう言いながら、私の唇に触れた指で、自分の唇をなぞった。それに私はどっと頬に熱を持った。
……からかわれている。
「わかってますよーっだ」
私たちはこうして、一旦別れたのだった。
****
それから二日間、私は紫珠様の段取りを聞いた後、半夏さんに稽古を付けられる。
一日目に飢餓状態で踊ったことは、不思議と身について、自然と足取りが軽やかに踊れるようになっていた。くるくると剣を回しながら、最後に拍子を取る。
それを見て、あれほど厳しかった半夏さんが、うっすらと笑ったのだった。
「よくやった。これならば本番も大丈夫そうだ」
「はい……ありがとうございます……」
汗がぐっしょりと出て、着物を濡らす。どれだけ拭っても拭っても、体のどこから水分が出てくるのかわからないくらいに噴き出てくる。
それを見ながら、半夏さんは水筒をくれたので、私は夢中で水を飲んだ。
「本番、いけるな?」
「……いけます」
さすがに表立って、皇帝陛下の首を取るとは、私たちも言えない。
皇帝陛下を事故死と見せかけて殺す。このために、劇団員たちは体の調子に演目の調整、得物の準備まで進めてきたのだ。
特に剣舞。本来ならば後宮内の見回りをする兵士以外、武装というものは禁止されているため、剣舞に使う剣だって、首を落とすほどの鋭さはないのだけれど。調子を合わせて皇帝陛下の首目掛けて剣を飛ばす。
何度も何度も練習して、その調子を合わせ続けていたのだ。体を自由自在に操れるようにならなければ、その芸当は不可能だった。
春妃さんの占術で吉報を占い、劇団員は仕掛けるために腕を磨き続ける。そして紫珠様はそのとき梨妃の屋敷に入る人材の調整を行い続けていた。
明日、皇帝陛下を殺す。
そのための準備を、ここまでしてきた以上は、成さなければならなかった。
舞台当日。
私はいつもよりも早く起きて、宦官棟の人々が仕事をし出すよりも早くに天幕へと向かっていった。天幕は物々しい空気に包まれていた。
半夏さんが言っていたように、劇団にいるほとんどの人たちが被害者であり、皇帝を殺したくて仕方がなく集まった人たちだ。私はその中に加えられるのかと、ほっと息を吐いた。
「緊張しているのか?」
不意に寄ってきた半夏さんに私は「おはようございます」と挨拶をしてから、頷いた。
「……皆の気持ちを背負って舞台に立つんですから、重いですね」
「まあ……皆が皆、今回も成功しないとは思っているがな」
「え……?」
そういえば。何度も何度も紫珠様は皇帝暗殺を謀ったとは言っていた。そのたびに春妃さんに止められていたとも。
半夏さんは腕を組んだ。
「殿下はとにかく、天運が足りない。全くない訳じゃないんだ。だが、あれだけ暴君と化した皇帝が、今もなお、殺されることもなく欲望赴くままに生きていると思う?」
「そういえば……」
後宮内であれだけやらかし、首都は女性は女の服を着られない。おまけに槐国は増税で貧しい者たちが次々倒れていっている。
普通に考えて、この人じゃ駄目だと暗殺しようとする人は、紫珠様以外にも出てくるのに、ピンピンとしている。
半夏さんは苦々しく言った。
「悔しいことに、皇帝陛下には天命がある。それが尽きないことには、俺たちに勝機はない」
私はそれに黙り込んだ。
「──星主から逃げる者あり。それを火をもって助けることで、玉座を得るだろう」
「うん?」
「春妃さんが占術で見てくださった、紫珠様の天命です。今までは天命が不明瞭過ぎて読み取ることができず、紫珠様のことを止め続けていたと言っていますが……彼の天命は晴れました」
私は手を握った。昨日紫珠様の手を取ったことを思い出す。
あの人はこれは復讐だと言っていたけれど、それだけでこんな大それたことはできやしないだろう。私はあの人を信じたいし、信じようと思う。
私があの人の星だなんておこがましいけれど、あの人の助けをしたいとは、心の底から思っている。
やがて、天幕にまたひとりやってきて──私は思わず息を飲んだ。
長い髪、涼やかな目元、通った鼻筋。このところずっと顔を合わせていたはずなのに、服を宮女のものや宦官のものから、官吏も着る着物に変えた途端に、静謐さと青竹のような美しさを纏った人に、目が釘付けになった。
「皆、ここまでよく励んでくれた」
途端に皆、膝を突いてお辞儀をした。私もそれにならう。
それを見回しながら、紫珠様は続けた。
「我らはこれまで、長きに渡る苦渋に耐えた。これで全てが終わり丸く治まるとは思えない。作戦を決行し、失敗したら即離脱。成功したら我々の勝利だ。気負うな。我々は何度も失敗を重ねている。しかし失敗は成功の母だ。また一歩成功に近付いたと思えばいいだけのこと。それでは……かかろう」
「はっ……!!」
皆の声に私はビリビリとした。
舞台用の衣装は、妃用の着物よりも布地はよろしくないが、同じくらいにひらりひらりと舞うもので、化粧も舞台用の厚めの化粧を施された。最後に唇に朱を差されたとき「丁香」と呼ばれた。
こちらを温かい眼差しで見ていた紫珠様だったことに、自然と視線が俯いた。
「……こんなところにいてよろしいんですか?」
「もう今は俺のやることはないからな。根回し、武器の後宮内の持ち込み、人材調整……それくらいしかしてない」
「そこまでやってくれたら充分じゃないですか」
「……実行犯の中にお前を混ぜたが、後悔はないのか?」
「というより、そこまで思ってるんだったらどうして私を巻き込んだんですか?」
単純に使える人材集めの一貫で私を助けたのかもしれないけれど、今は私はそれでいいんだ。
「私、まだなんにもしてませんから。役に立てるのかどうかも、まだなんにもわかりません。だから待っててくださいよ」
「……丁香」
私の朱を差した唇に軽く触れると、自身の唇にその指で触れる。
この人は本当に。私は思わず笑う。
「口付けは全てが終わってからでお願いします。化粧取れたら困りますから」
「……わかっている」
私はそう言いながら、劇団の元へと向かっていった。
ここから先が、大変なのだから。
****
招待された梨妃の屋敷。
そこは女性の兵士たちが並び、荷物検査をされる。もっとも、舞台に使う青竜刀などは「偽物です。壊されると困ります」と言い繕って持ち運ばなければならなかった。
広い中庭に舞台設置の準備を手伝っていたら、「陛下」と可憐な声をかけながら歩いている女性と、醜悪な男性に目が入った。
身綺麗な格好をしているにもかかわらず、年不相応に太くて垂れた肉は、とてもじゃないが美しいとは言えなかった。そしてそれに纏わり付いている女性。
彼女は綺麗な着物に花のひとつを髪飾りで付けるならわかるものの、首飾り、腕輪と、あまりにも装飾華美が過ぎ、それが品格を落としているように見えた。年は皇帝陛下よりもひと回りは下で、紫珠様よりも年は食っているはずなのに落ち着きが足りないように思えた。
しかし彼女は皇帝陛下にいい思いをさせてもらっている分、守る気はあるのだろう。護衛として、女性兵士が中庭の各地に配置されている。
だが、特等席で見ようと思えばどうしても座席は舞台からは近くなる。
私は手はず通りに剣舞を披露し、瞬間を謀って剣を壊す……剣舞用の青竜刀はわざと一カ所折れやすく仕掛けをつくっている……それを皇帝陛下に当てる。
それで皇帝陛下は死ぬはずだけれど。これは少し間違えば梨妃に当たり、梨妃が死んだ場合は彼女の実家を敵に回すことになる。彼女は皇帝陛下に利を与える家系であるのだから、後宮内で娘が死んだとなれば黙ってはいない。
殺せなくてもいいと、紫珠様がずっと連呼しているのはこういうことだ。
私は出番まで、青竜刀を構えて、息を飲んで見守っていた。
やがて、舞台ははじまった。舞踏はきらびやかな上に迫力があり、女性も宦官も踊りが冴え渡っている。
ここにいる人々が、皆皇帝陛下に殺意を抱いているとは、舞台の端からではわからない。皆が皆、殺意を押し殺しているのだから。
やがて。私の出番が来る。
青竜刀を構え、剣舞を舞いはじめた。もっと緊張すると思っていたのに、不思議と気持ちが凪いでいるのは、舞台を見ている人々の様子が見えるせいだろう。
心底楽しそうにしているのは、皇帝陛下と梨妃だけ。他の顔の端々が、どこか強張って見えるのだ。
舞台からだと、それがよく見える。なのに客席にいるはずの皇帝陛下も、その妃も見向きもしない。この人たちは、彼女たちの不幸の上に後宮生活が成り立っていることに、気付きもしないのだ。
だんだん私の剣舞に、共に踊る人たちが増えて行った。
時には剣を結び、時に剣を交わす。
そして私たちはじりじりと移動をする。皇帝陛下の前。その隣にへばりつく梨妃。彼女に当てずに皇帝陛下だけ狙うのは至難の業だ。これを……どうする?
そう思っていたところで、「おお」といきなり皇帝陛下が梨妃を引き剥がして立ち上がった。
って、なんで!? まさか暗殺がばれた? 私たちは舞台の人たちと視線を交わすが、周りも剣舞をしながら戸惑った空気が流れる。
「これ、半夏! この娘は何者か!?」
そう言いながら、団長の半夏さんをいきなり呼び出した。そして私のほうにねっとりとした視線を向けてくる。
……厚化粧のせいか。私と逃亡した姉は、顔の繊細さは天と地ほど違い、姉のほうがはるかに上だったが。舞台用に厚化粧をしてしまえば、なんとなく形だけは似てしまう。
……紫珠様に助けてもらったというのに、またこれか。
私が唇を噛んでいた中、ふいに誰かが舞台に上がってきた。
「失礼、父上。彼女は俺の妻になります」
そう言いながら、肩を抱いてきたのは、紫珠様だった。途端にざわつく。特に兵士たちは顔を真っ青にしている。
「殿下がどうして後宮に!?」
「警備はいったいどうなっている!?」
「殿下、困ります。後宮に勝手に入られるのは……!」
そのひと言に、皇帝陛下は目を細める。
「なんじゃ紫珠。なぜわしの後宮の女に手を出しておる?」
「先に出会ったのは俺ですよ。皇帝ともあろうお方が、正一品の前で皇太子妃に手を出すのはいかがなものかと思いますが?」
私はだらだらと冷や汗を掻きながら、ちらりと梨妃のほうを見る。実際に彼女は、顔を引きつらせて怒鳴りたいのを堪えていた。立場的に、ないがしろにしてはならない方なんだろう。
一応皇帝が皇太子妃に手を出した醜聞は、世の中結構あるんだけれど、正一品主催の催し物でそんなことをした例は私も聞いたことがない。正八品みたいな最下位妃と皇帝でいうところの正妻に当たる皇太子に対する皇太子妃だと、ここまで変わってくる。
「陛下……? どういうおつもりですか?」
「ああ、梨妃! 違うのだ、これは……!!」
「お父様にこのことは連絡させていただきますわね」
「梨妃……!!」
一旦梨妃が癇癪を起こしたことで、舞台の中断は一旦流れた。私は一旦舞台裏に紫珠様と移動する。
「……すみませんでした。庇わせてしまって。私、一応ここで皇帝陛下をやるつもりでしたのに……」
「こちらこそすまない。親父が女に手を出すことはあっても、まさか正一品の前で余計なことをするところまで読めなかった。いったいどこまで品位を下げるつもりだ、あの糞親父は」
「でも……私みたいなのが後宮に混ざってるってばれてしまったのは、少々まずいんじゃないですか? 劇団の人たちにも迷惑がかかるかと思いますし」
「どっちみち、今回の暗殺計画は一旦中止するしかないだろうさ。だがな」
紫珠様は私の唇を撫でる。そして自分のものに触れる。
「……後宮のほうがそれでも安全なんだ。外は親父だけでなく、官吏の目もある。親父は女のこと以外は本当になにも考えていないが、官吏は親父の使い方が上手い。迂闊に丁香を外に出して、人質に取られるくらいだったら……」
「……私がまだ、どこに匿われているかは、あちらも調べがついてはいませんよね」
「丁香?」
「後宮内での戦い方は、まだわかりませんが。味方を増やします。そして必ず、あの皇帝を倒しましょう」
私は手を取った。
まだ私たちはなにもできない。
剣は使えても、剣先が届かない。知恵はあっても、天命が不明瞭。
それでもいつかはこの、ひどい後宮を変えられると。そう信じている。
<了>