私が怯んでいる中、麗人はつかつかと私のほうへと歩いてきた。
 むせかえるほどの芳香が鼻孔をくすぐる。この人が本当に花神だったとしても信じてしまえそうなほどに。私が目眩を覚えている中、その人は私を上から下まで顎に手を当て眺めている。

「……ふーむ。もしそのまま逃げようとするならやめておけ。首都の警備を任された者たちだ。小娘ひとりの剣技じゃどうにもならん」
「なっ」
「たしかに鍛えているようだがな、ここの守備兵のほうが鍛え方は上だ。腕の一本や二本で済めばましなほうだな」

 そうだった。忘れてた。
 私は皇帝から逃げたいんだった。記憶の中の皇帝を思い浮かべ、いきなり渡り宣言をする節操なしっぷりが気味が悪く……私はぽつぽつと鳥肌を立てた。

「……嫌ですよ。私、駆け落ちした姉の身代わりでここに入れられたんです。姉だって嫌だったもんは、私だって嫌なんです」
「ほう。家族が多いのか」
「……まあ。吉兆商店(きっちょうしょうてん)っていう、そこそこ有名な商家には、女しか生まれなかったっていうのは、そこそこ有名な話じゃないかと」
「……ほーう」

 麗人はすっとまなじりを細める。やがてきゅっと口角を吊り上げた。

「助けてやってもいいぞ?」
「え、ええ……?」

 途端にこの人が、本当に花神かなんかじゃないかと錯覚した。私は目を潤ませて麗人を見つめる。

「ほ、本当ですか?」
「ただし、いくらこの辺りは人が捌けているとはいえど、真っ昼間だ。こんなところですぐ脱出なんて無理だ。夜まで待て」
「よ、夜になったら皇帝陛下来ちゃいますよ……」

 無理無理無理無理無理。
 私がプルプル震えていると、麗人はくつりと笑った。本当に笑っても考え込んでも様になる人だ。

「なに、問題ない。夜に仕込みはしておくさ……ただし条件がある」
「条件。ですか……?」

 人が条件を突きつけてきたとき、その条件をよく精査してから飲みなさい。
 お父様に小さい頃から口酸っぱく言われ続けていることを思い返して、私は麗人を見た。

「……なん、ですか?」
「俺の妻になれ」
「……はい?」

 妻になれもなにも、あなた女性じゃないですか。私は言葉が出てこなかった……いや、皇帝に顔も名前も覚えられているような妃はごく少数だ。下っ端の妃同士が関係を持つのはなにも珍しいことじゃないとは、後宮で商品を売っている人から小耳に挟んだ話ではあるが。そんな皇帝から堂々と逃げようとしている人間を娶ろうって、いったいなに。
 私は思わず自分を庇うように自分自身を抱き締めていたが、麗人はさっさと言ってしまった。

「だから屋敷に帰れ。あとは俺が手はずを整える」
「しっ、信じていいんですか?」
「ああ、約束する。商売人ならば、口約束すらも契約に値することは知っているだろう?」

 言いたいことを言うだけ言って、その人は目眩を覚えそうなほどのいい匂いだけを残して立ち去ってしまった。
 屋敷に戻るの……私はだだっ広い、渡りのためだけのあの屋敷を思いぞっとした。
 ……さっきの人、信じてもいいの? 思わずふたつ返事で了承してしまったけれど。私はさんざん考えたあと、元来た道をのろのろと戻り、着てきた着物をできる限り着崩れを抑えて着替え直した。
 もし本当に助けてくれなかった場合、私は皇帝陛下を殴ってでも逃げ出すしかなくなるけど……これって国家反逆罪になるのかなあと、そっと溜息をついた。

****

 後宮に来て初めての食事は、うちだったらまずはれの日じゃなかったら出さないようなごちそうだった。
 すっぽんのスープに、ふかひれの姿煮。肉饅頭。おいしいけれど、どれもこれも精を付けるための料理なため、これは私に嫌でも渡りをさせるためのものなんだと絶句する。

「……あのう、妃はここで渡りを済ませたあと、どうなって……」
「渡りを済ませた妃様は、次の渡りで呼び出しを受けるまでの間は、後宮内の労働に向かいます。もちろん労働せずに皇帝陛下を待つ妃様たちもおられますが、それは身分の高い方々ですので、妃様の全てではございません」
「ですかあ……」

 妃で身分が高いっていうと、諸侯の姫君とか、将軍の娘とかになるのかな。あの人たちの場合は、政治的にも有効だから手荒なことはしないと。
 逆に言ってしまえば、いくら大商家の娘とはいえど、美女だ美女だということで、適当に手込めにしたあとは、興味があったらまた呼び出すし、興味なかったらこのまま強制労働と……。
 そりゃ後宮に入りたくないからって、首都の未婚の女全員男装するよう言うわ。いったいどこからどう漏れて知れ渡ったのかは知らないけど。
 私は食事を済ませたあと、宮女さんたちに服を着せ替えられる。上質な絹の着物は美しいものの、これが渡りの正装だと思うと寒気がする。
 私はちらちらと外を気にした。
 ……もし、助けに来なかったらどうしよう。
 私の荷物は宮女さんたちが持って行っているから、青竜刀は荷物と一緒だ。
 皇帝殴って国家反逆罪か、麗人さん信じてここでひたすら耐えるか。
 宮女さんたちがてきぱきと寝台を整えていくのが生々しく、皇帝早く来るなら来い。いや、来ないでとひとりで葛藤している中。
 変な匂いがすることに気付いた。

「あ、あのう……暖炉とか付けてますか?」

 私が宮女さんに確認すると、宮女さんは怪訝な顔をする。

「今は寒くはありませんし、火は入れておりませんが」
「いえ……このにおい……なんか燃えてませんか?」

 だんだん、赤々と燃える炎、ばちばちと爆ぜる音が聞こえてきた。
 って、屋敷が燃えてる!?
 私は思わず叫んだ。

「火事だぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 宮女さんたちを慌てて屋敷の外に放り出すと、私自身も自分の荷物を取りに戻る。
 青竜刀がまだあることにほっとしつつ、荷物をまとめて必死に外に飛び出した。飛び出した途端に、ガラガラガラガラ……と音がした。
 振り返ると、見事に燃えた屋敷が、崩れているのが見える。

「なにこれ……」

 私が茫然としている中、宮女さんたちが声を張り上げる。

「見張りはなにをなさっていたのですか! これはどう考えても付け火ではありませんか!」
「兵士をここへ! ああ、火が他の建物にまで燃え広がってしまったら……!」

 なんとか火事を消し止めようとする人、こちらに向かっているはずの皇帝に速攻引き返すよう進言する人、付け火の犯人を捜そうとする人で、もう辺りはしっちゃかめっちゃかの混沌のるつぼと化していた。
 なによりも困るのが、私の処遇である。

「あのう、私これからどうしたら……」
「火は消えませんか!?」
「今宦官を呼びに行っています! こんなの、もう燃え尽きるまで待つしか……」
「しかしこれが後宮全域に広がっては困ります!!」

 駄目だ。どう考えても新入り妃よりも、屋敷の火事の消火のほうに意識が集中している。
 私が困り果てて立ち尽くしている中。焦げ臭いにおいの中でも燦然と放たれる芳香が鼻腔をくすぐった。私は驚いて振り返ると、昼間に出会った麗人がそこに立っていた。

「妃様、このまま放置しておいても仕方がございませんから、一旦は来賓館にお連れしてもよろしいですか?」
「そうですね……好きになさってください」

 皆が皆、それどころじゃないために、ちっともこの麗人のほうを向いていない。私はぽかんとしながらその人を見ていたら、その人はさっさと私の手を取ると、「どうぞこちらへ」と言いながら、私を連れ去ってしまった。
 私はポカンとしたまま、その人についていく。

「あ、あのう……屋敷に火を付けたのは……」
「うむ。俺の手引きで宦官が火を付けた。何分このところ渡りが多過ぎて困っていたところだったんだ。燃やしてしまえば、しばらくは付け火の犯人捜しと屋敷再築で時間がかかるから、渡りをずいぶんと遅らせることができる。おまけにお前も助け出すことができた」
「あ、あのう……」

 私は手を引かれながら、その人を見上げた。
 匂いのせいで気付かなかったけれど、手を繋がれてわかってしまった。この人、いくら背丈が私よりも大きいからって、これだけ掌が大きいってことは。

「どうして、後宮内に男の人がいるんですか? それとも……あなたも宦官?」
「ぷっ」

 麗人はそのまま背中を丸めて笑いはじめてしまった。きっと私と手を繋いでいなかったら、笑い転げていたことだろう。

「わ、笑うところですかね、それ……! それに、男の人が後宮内にいるってわかったら……まずいんじゃ……」

 そもそも、後宮は皇帝の跡継ぎをつくるための箱庭だ。そこで問題を起こされたら困るからと、女以外だったら去勢された宦官しか入れないし、親戚一同が正月に挨拶に来るのだって、来賓館以外で会うことは禁じられている。
 それには、またしても目を細めてころころと笑った。

「実家に帰ってきてなにが悪い」
「じ、実家って……?」

 後宮を実家。そんなこと言える人なんて、そう多くはない。

「俺は紫珠(しじゅ)。槐国の皇太子だ」
「こ、皇太子……!?」
「まあ、ここで話す話でもないし、俺がここにいるって知った以上、ただで帰れるとは思うなよ」

 なんだかとんでもないことになってないか?
 私は手を引かれるがままに、ぷるぷると震えていた。
 この人の父親を色ぼけ扱いしたり、生理的に無理と感じたり、不敬罪でしょっ引かれてもおかしくはない。
 でも……その実家に付け火をしたのはどうして?
 そもそもの問題として。この人どうして私に求婚してきたんだ?

『俺の妻になれ』

 ……その前後で口約束も契約と言っている人が、わざわざからかうためにそんなことを口にするとは考えにくい。ましてや後宮で、誰になにをどう聞かれているかもわからない場所で、失言なんてするだろうか。
 私はちらりと紫珠様を眺めた。
 ただただ美しいだけだったはずの人が、男だとわかった途端にその美しさに艶めかしさも足されたような気がした。男とか女とかそんなこと関係なく、ただただこの人は美しかった。