王城でうっかり気を失った私。次に目覚めたのは、何故か我が家の見慣れた天井と、まるで澄み切った青空のような、透き通る青い瞳。それからサラサラと流れる銀色の髪だった。
「おはよう。と言っても、もうすぐ夜だけど。具合はどう?」
「あ、私……」
「突然倒れた女性がいて。それが君だったから驚いたよ」
フェリクス様はベッドサイドに座り、私の片手を握ると、心配そうにこちらを見つめながら口を開く。
「ありがとうございます……。私はご迷惑をおかけしてしまったのですね」
私が起き上がろうとすると、彼はそれを制した。
「いや、いいんだ。それより、どこか痛むところはないかい?気分が悪いとか、体に異変があるとか」
彼の真剣な眼差しを受け、私は「心配されている」と嬉しくなり、少しだけ微笑んで見せた。
「大丈夫です」
私が答えると、フェリクス様はほっとしたような表情を浮かべる。
「よかった……」
彼があまりにも優しく笑うものだから、思わず見惚れてしまう。
「あ、そう言えば書類を」
「大丈夫。ちゃんと受け取ったし、今日はもう暇をもらってあるから」
フェリクス様が何気なく告げた言葉に、私は罪悪感をおぼえる。
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ございません。本来ならば何が何でも、お届けしなければならなかったのに」
本当にごめんなさいと、沈んだ声で告げる。すると彼は困ったように眉尻を下げて笑った。
「そんなこと気にしないでくれ。僕にとっては、君の体調の方が大事だから」
「でも……」
私が言い淀んでいると、彼は握っていた手を離し、今度は私の頭を撫でてくれた。
「それよりも僕は君を心配しているんだよ。最近食も細いと聞いていたし、顔色も悪い。それに何より、思い詰めた様子だったから」
懸命に隠していたつもりだった。けれどフェリクス様には全て見透かされていたようだ。
「すみません。イレーネが帰省してからずっと、寂しくて。それで、食欲もあまりでないんです」
私はいつものように嘘をつく。勿論全てが嘘ではない。イレーネと来月から会えなくなってしまったこと。それが私をより一層暗い気持ちにさせているのは確かだ。しかしここ数ヶ月。ひたすら私を悩ませているのは、フェリクス様に離縁されるかどうか、ということ。
自分の気持ちを密かに整理する私の脳裏に、文官の青年が発した、『離婚を申し立てる旨を陛下に相談された』という、残酷な言葉が思い出される。
「イレーネ嬢か。確かに彼女が帰省してから、君はより一層、塞ぎ込んだ様子だった。けれどもうずっと、僕といると君は辛そうだ」
フェリクス様の言葉にドキリとする。
「そんなことないです。私は毎日幸せです」
「そうだといいんだ。けれど、僕は君が心から幸せそうに笑う姿を、ここのところ見ていない」
彼の口から告げられた言葉に衝撃を受ける。私としては、フェリクス様の前で本音を隠し、上手く笑えていると思っていたからだ。
「二ヶ月後に迫る、議会のセッション開催に向け、僕はこれから忙しくなる」
突然告げられた言葉の意味がわからず、私はフェリクス様を見つめる。そもそも、フェリクス様が私に仕事の話をする事は稀だ。よってこの緊急事態に、私は嫌な予感を覚える。
「僕は今回、陛下より検査官長を任命されたんだ」
「検査官長ですか?」
「議会の財務や会計について監査を行い、問題があれば議会に報告する係だよ。今、王城に出向く事が増えたのも、それのせい。過去の監査報告書を確認しつつ、整理しているからなんだ」
それは初耳だったが、言われてみると納得できる部分もある。フェリクス様は今年、二十四歳になる。しかも公爵家の当主だ。これまで彼が政に関し目立って表の場に立つことはなかった。けれど、年齢的にも、地位的にも、そろそろ本格的に国政に関わらねばならないのだろう。
「もしかしたら、帰宅出来ない日もあるかも知れない」
「……そう、なんですね」
私はがっかりすると同時に、それでは妻失格だと唇を噛む。
夫が陛下より、名誉ある任を与えられた。
それは喜ぶべき事であって、憂う事ではない。
そう思うのに、帰宅出来ないということは、子を成すための行為も出来ないということだと気付かされる。最近では、フェリクス様と肌を合わせる度、「どうせ無駄なのに」と感じてしまう事も多かった。しかし、実際共寝出来ない日が増えると聞かされると、ガッカリする気持ちに襲われた。
これからフェリクス様が忙しくなるのは確実だ。だとしたら、忙しくなる前に、四年間もあったのに、子を成せなかった私はやはり妻失格なのだろう。
落ち込む私の脳裏にふと、議場と議員控室をつなぐ中庭に面した回廊で、仲良く微笑み合い、話を弾ませるフェリクス様と女性の姿が蘇る。あの人ならば、今私の髪に優しく触れる彼の子を残せるかも知れない。悔しいけれど私には出来なかったことを、あっさりとやってのけてしまうに違いない。
完璧な公爵夫人であるために私は、フェリクス様が検査官長に任命された事を喜ばなくてはいけないように、彼の子を残す確率が高い未来。つまり自分が身をひくことを、そろそろ選択しなくてはいけないのかも知れない。
人知れず決意し、フェリクス様の優しく細められた、私を見つめる美しい瞳と目が合う。すると数秒前に決意した思いは、たちまち薄れていってしまう。許されるのならば、まだもう少し。この幸せを独り占めしたいと、我儘に願ってしまった。
悶々とした気持ちを抱える私に、フェリクスはこちらを見つめたまま、声をかけてきた。
「そこで、なんだけど」
何かを言いづらそうに。そしてその気持ちを隠すかのように、私の頬にかかる髪を払う。
「はい」
私は、今度は一体何を告げられるのだろうかと身構える。
「今から話すこと。それは決して君の事が嫌になったとか、愛してないだとか、それこそ離縁だとか、愛人を連れ込みたいから。そんな理由じゃない。それだけは理解して聞いて欲しい」
「はい」
静かに相槌を打ちつつ、やたら長い前置き。そしてフェリクス様の眉間に深く皺が寄ったことに気付き、私はこれから告げられる事が、自分にとってあまりいい事ではない。それを悟る。
「君はしばらく」
そこで言葉を切ると一呼吸おいて、フェリクス様の薄く整った唇が開く。
「ビッテンフェルト伯爵家で療養をしたらどうかと思うんだ」
告げられた言葉に私は息を飲む。
これは想像していた以上。私にとって悪い知らせだ。
なぜならビッテンフェルト伯爵家とは、私の実家なのだから。
「この決断は、本当に、決して悪い意味の別居ではないという事を理解して欲しい」
焦ったように、早口で弁解するフェリクス様。それがまた、私を遠ざけるためなのではないかと、疑う気持ちをおこさせる。きっと妻である私に、愛人候補となる、あの女性との逢引を見せないための、フェリクス様の優しさなのかも知れない。
「実はここ最近、君の塞ぎ込んだ様子をビッテンフェルト伯とトニーに相談していたんだ。そうしたら、一回領地で療養してみたらどうかと、提案されたんだ」
「そう、なんですね」
私は脱力し、相槌を打つ。確かに父と兄に相談すればそうなるだろう。なんせ私は、母の忘れ形見のような存在なのだから。そして私に甘い二人は、いつになっても子が成せない事を、「気に病むな」と励ましてくるか、全く触れないか。そのどちらかだろう。
私は脳裏にしばらく顔を合わせていない家族の顔を思い出す。そして、ひたすら疲れ果てた心を癒やしてくれるに違いない、故郷に広がる自然の美しさが思い出される。緑豊かな丘や森林、流れる川や優雅に泳ぐ魚たち。思い描くだけで目の前が緑で溢れ、爽やかな風を感じられるかのようだった。
そこには、私が子供の頃に遊んだ小川や、自転車で走り抜けた小道、大好きだった並木道の景色が広がっている。夏の夜には遠くの山に響く虫の音と、風に揺れる木々の音が聞こえていた。秋には、枯葉を踏みしめながら、美しい紅葉を楽しんだ。
きっと故郷の自然は、私の心を癒し、力を与えてくれる。
「わかりました。私は実家に帰ります」
私が告げると、何故かフェリクス様は傷ついたような表情をする。
「君が了承してくれて嬉しいよ。じゃあ早速手配しておく」
フェリクス様は私の額に軽く唇を落とすと、すぐに立ち上がり部屋から出て行ってしまった。
「たぶん、これでいい」
ひとりぼっち、残された部屋で私は自分に言い聞かせる。
こうして私は、結婚四年目にして初めて。フェリクス様と離れ離れの生活を送ることになったのであった。
「おはよう。と言っても、もうすぐ夜だけど。具合はどう?」
「あ、私……」
「突然倒れた女性がいて。それが君だったから驚いたよ」
フェリクス様はベッドサイドに座り、私の片手を握ると、心配そうにこちらを見つめながら口を開く。
「ありがとうございます……。私はご迷惑をおかけしてしまったのですね」
私が起き上がろうとすると、彼はそれを制した。
「いや、いいんだ。それより、どこか痛むところはないかい?気分が悪いとか、体に異変があるとか」
彼の真剣な眼差しを受け、私は「心配されている」と嬉しくなり、少しだけ微笑んで見せた。
「大丈夫です」
私が答えると、フェリクス様はほっとしたような表情を浮かべる。
「よかった……」
彼があまりにも優しく笑うものだから、思わず見惚れてしまう。
「あ、そう言えば書類を」
「大丈夫。ちゃんと受け取ったし、今日はもう暇をもらってあるから」
フェリクス様が何気なく告げた言葉に、私は罪悪感をおぼえる。
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ございません。本来ならば何が何でも、お届けしなければならなかったのに」
本当にごめんなさいと、沈んだ声で告げる。すると彼は困ったように眉尻を下げて笑った。
「そんなこと気にしないでくれ。僕にとっては、君の体調の方が大事だから」
「でも……」
私が言い淀んでいると、彼は握っていた手を離し、今度は私の頭を撫でてくれた。
「それよりも僕は君を心配しているんだよ。最近食も細いと聞いていたし、顔色も悪い。それに何より、思い詰めた様子だったから」
懸命に隠していたつもりだった。けれどフェリクス様には全て見透かされていたようだ。
「すみません。イレーネが帰省してからずっと、寂しくて。それで、食欲もあまりでないんです」
私はいつものように嘘をつく。勿論全てが嘘ではない。イレーネと来月から会えなくなってしまったこと。それが私をより一層暗い気持ちにさせているのは確かだ。しかしここ数ヶ月。ひたすら私を悩ませているのは、フェリクス様に離縁されるかどうか、ということ。
自分の気持ちを密かに整理する私の脳裏に、文官の青年が発した、『離婚を申し立てる旨を陛下に相談された』という、残酷な言葉が思い出される。
「イレーネ嬢か。確かに彼女が帰省してから、君はより一層、塞ぎ込んだ様子だった。けれどもうずっと、僕といると君は辛そうだ」
フェリクス様の言葉にドキリとする。
「そんなことないです。私は毎日幸せです」
「そうだといいんだ。けれど、僕は君が心から幸せそうに笑う姿を、ここのところ見ていない」
彼の口から告げられた言葉に衝撃を受ける。私としては、フェリクス様の前で本音を隠し、上手く笑えていると思っていたからだ。
「二ヶ月後に迫る、議会のセッション開催に向け、僕はこれから忙しくなる」
突然告げられた言葉の意味がわからず、私はフェリクス様を見つめる。そもそも、フェリクス様が私に仕事の話をする事は稀だ。よってこの緊急事態に、私は嫌な予感を覚える。
「僕は今回、陛下より検査官長を任命されたんだ」
「検査官長ですか?」
「議会の財務や会計について監査を行い、問題があれば議会に報告する係だよ。今、王城に出向く事が増えたのも、それのせい。過去の監査報告書を確認しつつ、整理しているからなんだ」
それは初耳だったが、言われてみると納得できる部分もある。フェリクス様は今年、二十四歳になる。しかも公爵家の当主だ。これまで彼が政に関し目立って表の場に立つことはなかった。けれど、年齢的にも、地位的にも、そろそろ本格的に国政に関わらねばならないのだろう。
「もしかしたら、帰宅出来ない日もあるかも知れない」
「……そう、なんですね」
私はがっかりすると同時に、それでは妻失格だと唇を噛む。
夫が陛下より、名誉ある任を与えられた。
それは喜ぶべき事であって、憂う事ではない。
そう思うのに、帰宅出来ないということは、子を成すための行為も出来ないということだと気付かされる。最近では、フェリクス様と肌を合わせる度、「どうせ無駄なのに」と感じてしまう事も多かった。しかし、実際共寝出来ない日が増えると聞かされると、ガッカリする気持ちに襲われた。
これからフェリクス様が忙しくなるのは確実だ。だとしたら、忙しくなる前に、四年間もあったのに、子を成せなかった私はやはり妻失格なのだろう。
落ち込む私の脳裏にふと、議場と議員控室をつなぐ中庭に面した回廊で、仲良く微笑み合い、話を弾ませるフェリクス様と女性の姿が蘇る。あの人ならば、今私の髪に優しく触れる彼の子を残せるかも知れない。悔しいけれど私には出来なかったことを、あっさりとやってのけてしまうに違いない。
完璧な公爵夫人であるために私は、フェリクス様が検査官長に任命された事を喜ばなくてはいけないように、彼の子を残す確率が高い未来。つまり自分が身をひくことを、そろそろ選択しなくてはいけないのかも知れない。
人知れず決意し、フェリクス様の優しく細められた、私を見つめる美しい瞳と目が合う。すると数秒前に決意した思いは、たちまち薄れていってしまう。許されるのならば、まだもう少し。この幸せを独り占めしたいと、我儘に願ってしまった。
悶々とした気持ちを抱える私に、フェリクスはこちらを見つめたまま、声をかけてきた。
「そこで、なんだけど」
何かを言いづらそうに。そしてその気持ちを隠すかのように、私の頬にかかる髪を払う。
「はい」
私は、今度は一体何を告げられるのだろうかと身構える。
「今から話すこと。それは決して君の事が嫌になったとか、愛してないだとか、それこそ離縁だとか、愛人を連れ込みたいから。そんな理由じゃない。それだけは理解して聞いて欲しい」
「はい」
静かに相槌を打ちつつ、やたら長い前置き。そしてフェリクス様の眉間に深く皺が寄ったことに気付き、私はこれから告げられる事が、自分にとってあまりいい事ではない。それを悟る。
「君はしばらく」
そこで言葉を切ると一呼吸おいて、フェリクス様の薄く整った唇が開く。
「ビッテンフェルト伯爵家で療養をしたらどうかと思うんだ」
告げられた言葉に私は息を飲む。
これは想像していた以上。私にとって悪い知らせだ。
なぜならビッテンフェルト伯爵家とは、私の実家なのだから。
「この決断は、本当に、決して悪い意味の別居ではないという事を理解して欲しい」
焦ったように、早口で弁解するフェリクス様。それがまた、私を遠ざけるためなのではないかと、疑う気持ちをおこさせる。きっと妻である私に、愛人候補となる、あの女性との逢引を見せないための、フェリクス様の優しさなのかも知れない。
「実はここ最近、君の塞ぎ込んだ様子をビッテンフェルト伯とトニーに相談していたんだ。そうしたら、一回領地で療養してみたらどうかと、提案されたんだ」
「そう、なんですね」
私は脱力し、相槌を打つ。確かに父と兄に相談すればそうなるだろう。なんせ私は、母の忘れ形見のような存在なのだから。そして私に甘い二人は、いつになっても子が成せない事を、「気に病むな」と励ましてくるか、全く触れないか。そのどちらかだろう。
私は脳裏にしばらく顔を合わせていない家族の顔を思い出す。そして、ひたすら疲れ果てた心を癒やしてくれるに違いない、故郷に広がる自然の美しさが思い出される。緑豊かな丘や森林、流れる川や優雅に泳ぐ魚たち。思い描くだけで目の前が緑で溢れ、爽やかな風を感じられるかのようだった。
そこには、私が子供の頃に遊んだ小川や、自転車で走り抜けた小道、大好きだった並木道の景色が広がっている。夏の夜には遠くの山に響く虫の音と、風に揺れる木々の音が聞こえていた。秋には、枯葉を踏みしめながら、美しい紅葉を楽しんだ。
きっと故郷の自然は、私の心を癒し、力を与えてくれる。
「わかりました。私は実家に帰ります」
私が告げると、何故かフェリクス様は傷ついたような表情をする。
「君が了承してくれて嬉しいよ。じゃあ早速手配しておく」
フェリクス様は私の額に軽く唇を落とすと、すぐに立ち上がり部屋から出て行ってしまった。
「たぶん、これでいい」
ひとりぼっち、残された部屋で私は自分に言い聞かせる。
こうして私は、結婚四年目にして初めて。フェリクス様と離れ離れの生活を送ることになったのであった。