王城を舞台に、城下に広がる大きな街。

 本日私が訪れるブルーチャペル周辺の地域は、ハイドパークや王族の住む宮殿の庭園など、緑地に近い場所にあたる、グレンホロウと呼ばれる場所だ。

 グレンホロウは、貴族を始めとする、裕福な人々が住む静かな住宅街。多くの住宅は煉瓦造りで、いくつかの家には美しい庭があり、青々とした芝生や手入れされた花壇を埋める花が、通りを歩く人を楽しい気分にさせている。

 そこに住む人々は穏やかで親切な人ばかり。そして大抵がフェリクス様や私の知り合いばかりだ。そのせいか、馬車の窓から外を(のぞ)く私と目が会うと、皆笑顔で手をあげたり、会釈を返してくれる。

 因みに私達の屋敷、ノイラート公爵家があるのは隣のロイヤルスクエア。その名の通り、元を辿(たど)れば、王族に連なる人物が代々居を構えているエリアだ。

 程なくして私を乗せた黒塗りの、一人で乗るには大きすぎる馬車は、目的地であるブルーチャペルに到着する。私は従者の手を借り公爵家の、フェリクス様の妻として恥ずかしくないよう、細心の注意を払い、優雅に馬車から降りた。

「お気をつけて」
「ありがとう」

 私は、従者と御者に礼を言い、教会へと続く道を歩き出した。途中、何人か、顔見知りの貴族の夫人に挨拶され、それに微笑みながら応えていく。

 私も含め、どの夫人達も訪問先が教会とあって、黒や紺やグレーといった、地味で控えめな色のドレスに身を包んでいる。しかしそこはお洒落にぬかりのない夫人達。ちゃっかり黒いレースの手袋の下には、指輪などの装飾品を身につけていた。しかし、どれも舞踏会や夜会に出席する時とは比べ物にならないほど控えめであり、過剰な装飾や派手さを極端に避けたものを選んでつけている。

 このような、TPOに合わせた、一見すると堅苦しく思える、暗黙の了解からくるルールによる服装の規定は、社会階級制度において、上流階級の地位と威厳(いげん)を表す、重要な象徴の一つであると考えられている。

 私たち貴族の妻は夫同様、屋敷の敷地から一歩外に出た途端、自分達が家名を背負う者であるという事を自覚し、行動しなくてはならない。

 私は、ズラリと並ぶ馬車から降りたばかり。教会に向かう夫人達と挨拶を交わしながら、石畳の上をゆっくりと進み、目的である教会に到着した。

 私が今日訪ねた場所。ブルーチャペルは、その名の由来通り、壁や天井が美しいコバルトブルーに塗られた教会だ。開け放たれた、大きな扉の横を通り過ぎ、私は教会内にゆっくりと足を踏み入れる。

 するとすぐに、まるで熱帯魚のように美しく色づいた、ステンドグラスから差し込む光が目に飛び込んできた。窓から床に向かって落ちるカラフルな光の筋は、暗い教会内に彩りを与え、神聖な雰囲気をさらに増幅(ぞうふく)させている。

 外に比べると教会内は薄暗く、私は目を慣らすために脇にそれ、しばらく立ち止まる。

 石畳の床の上には、沢山の椅子が並べられており、すでに多くの着飾ったドレスに身を包む女性達で埋まっていた。ぼんやりと着席した夫人達の背中を眺めていると、嬉しそうな顔でこちらに手を振る友人の姿を発見する。私は迷わず、幼馴染でもあり、気心知れた彼女の座る席へと進む。

 イレーネはいつもより薄目の化粧をし、濃紺色のドレスに身を包んでいた。無事、彼女の元に辿りついた私は、幼い頃のように挨拶はそこそこ。近況報告のために、今すぐ喋り出したい気持ちをこらえ、笑顔で挨拶を交わす。

「ごきげんよう、イレーネ。今日も綺麗ね」
「ふふっ、ありがとう。でもリディこそ……ねぇ、ちょっとまた()せた?顔色も悪いわ」

 親友の、真実をそのまま切り取る言葉に、私は泣きそうになる。

「旦那様がお美しい方だもの。私だって努力しないと」
「はいはい。ご馳走さま。ねぇ、とにかく座りなさいよ」

 イレーネは言いながら、横にずれる。私は空いた席に遠慮なく、静かに腰を下ろした。

「その様子だと、まだ悩んでるのね?」

 パサリと開いた扇子(せんす)を口元にあて、私に身を寄せたイレーネは小声で聞いてきた。

「うん……」

 私はポシェットの中から扇子を取り出しながら、力なく微笑む。

「そっか。でもうちの主人の情報だと、フェリクス様は、相変わらずあなたに夢中だって話よ」

 イレーネは、私に励ましの言葉をかけてくれる。彼女の夫、ブレンナー伯爵はフェリクス様の友人だ。ただ、伯爵はイレーネと私が親友だと言う事を知っている。だから気を遣い、私に夢中だと口にした可能性がある。

 離縁の危機に怯える私は、親友がもたらす情報を、もはや素直に受け取る事は不可能だ。

「そもそも私の抱える問題に旦那様は関係ないもの。全部、私がいたらないだけだから。ここだけの話、私は近いうちに離縁されると思う」

 私は口元に扇子をあて、イレーナに自分の不甲斐(ふがい)なさを、存分に愚痴る。

「また悪い方に考えて。先月会った時もそう言ってたじゃない。だけど今もあなたはノイラート公爵夫人よ」
「それは、たまたま先月は運が良かっただけよ。旦那様がとても優しいから言い出せないだけ。きっと今月こそは、離縁を言い渡されるに決まってる」

 頑なに認めない私に、イレーネが大きくため息をつく。

「そもそも、リディは完璧じゃない」
「そんなことない」
「もうっ、あなたが完璧じゃなかったら、細かい事が苦手な私なんて、とっくに離縁されてるわ」

 イレーネが私を小突く。丁度その時、ざわざわとしていた教会内に衣擦れの音が響いた。そして人の声が徐々に失われていく。

「あ、もう始まるみたい。また後でゆっくり話しましょう?」
「うん」

 礼拝堂の正面。演壇(えんだん)に神父様とバルリング伯爵夫人が現れた。それを合図に、私達は会話をやめ、前を見据える。

「本日は、お集まり頂きありがとうございます。皆様の慈悲深き御心に、神も感謝している事でしょう」

 神父様の声が響く。それからすぐに、神に祈りを捧げ、本日の目的である、慈善活動の大事さを説く、神父様のお説教へと続く。そしてバルリンク伯爵夫人が紹介され、演壇の前に立つ。

「こんなにも沢山。心優しい皆様がこの国にいらっしゃる事を光栄に思い、私は今この場に立っております」

 私達は前を向き、静かに話を聞き、時折関心の声をあげたりもしながら、この国における孤児の現状を訴える、バルリング伯爵夫人の話に耳を傾けた。

 内容は、親に、社会に見捨てられ、五、六歳から働く事を余儀なくされている子がいること。その子達の現状といった話だった。あえてなのか。静かに語られる内容は耳を塞ぎたくなるものばかり。話を聞いているうちに、涙が目尻に滲むほどだった。

「ですから、彼ら、彼女達に私達の常識を押し付けてはいけません。まず何より彼らに必要なのは、文字の書き方ではありません。雨風のしのげる屋根のある家。そしてお腹を満たせるものです」

 バルリンク伯爵夫人の(りん)とした声が、静まる教会内に響く。

 話を聞き終え、確かにその通りだと思った。

 タバコを吸うな、お酒を飲むな。劣悪な環境に置かれた子ども達に、そんな説教を垂れるより、本当に必要な、衣食住に関する支援を、()ずはすべきだという気持ちになっていた。

 一方、どうして自分で産んだ子を育てられない人の元には子が恵まれ、本当に欲しいと願う私の元には、いつになっても来てくれないのだろうと、やるせない気持ちにも襲われていた。

 募金箱が回され、今回の(つど)いが終了すると、最後には拍手が起こり、帰り支度をする人々で教会内は溢れる。

 私は悶々(もんもん)とした気持ちを抱えたまま脱力し、なかなか、席を立てないでいた。

「さ、ゆっくり話を聞くわよ」

 結婚して一年とちょっと。現在一人目を妊娠中であるイレーネに、私は力強く腕を組まれた。

「お願いします」

 私は彼女の少し膨らんできたお腹を目に入れないようにし、イレーネと共に、ブレンナー伯爵家の馬車に乗り込んだのであった。