領地に里帰りをして、一カ月がたった。
 私は美味しい空気と、広がる自然のおかげか、フェリクス様によって実家に戻された時よりもずっと、明るく前向きな気分で日々を過ごす事ができていた。

 そんな中、来月から始まる議会のセッション開催に向け、ビッテンフェルト伯爵家でも王都のタウンハウスに、家族が移動するための準備に忙しくなってきていた。

 特に今回は、兄の第二子となる娘、エレオノーラのお披露目(ひろめ)も兼ねての王都訪問となる。そのため、いろいろと準備が大変なようだ。もちろん私も手伝うつもりだったのだが。

『リディ、君には大事な仕事がある。これは君にしかできない、大事な、それはもうとても大事な仕事だ』

 やたら「大事な」という言葉を連呼し、ニヤニヤする兄から押し付けられたのは、やっぱりと言った感じ。三歳になる小さな紳士、カミルだ。

 母親が伯爵家に戻った事で、幾分落ち着きを取り戻すかと思われたカミルだったが、自分より小さな妹に母親がかかりきりになりがちな事に不満なのか、カミルはエレオノーラにかみついた。

 その事件をきっかけに、家族会議が開催されることとなる。そしてカミルが妹を自分と同じように、家族の一員であるという認識を持つまで、ひとまず、私が面倒を見るという案に満場一致で決定されたのである。

 そして私は現在、屋敷の前に広がる広大な庭園にて、小さなカミルとお散歩中という訳だ。

「いいわよね。私もカミルも、お荷物仲間だものね。二人で仲良く遊びましょ」

 不貞腐(ふてくさ)れつつ、素直になれない愛情に飢えた状態のカミルに対し、いつの間にか仲間意識を持ち始めた私。

「リディ、すき」

 一緒にいる時間が多いせいか。それとも、生まれつき備わった生存本能によるものなのか。
 カミルもいつの間にか私に懐き、現在私たちは、「のけもの仲間」として、なかなか良い関係を築けているという状態だ。

「うわぁ」

 突然丘の向こう側から吹いてきた突風に、思わず目を閉じてしまう。私のスカートの裾が大きく広がり、ふわりと舞い上がる。片手でスカートを押さえた私が、あっと思った時には、すでに遅かった。私の視界に手をつなぐカミルの頭から、白い帽子が風に乗って飛んで行く様子が映り込む。

「あ、ぼくの、ぼうし!」

 カミルが私の手を払い、ふわふわと空を舞う帽子を追いかける。

「あ、ちょっと待って」

 私も慌ててカミルの跡を追うため、走り出す。

「今の風はすごかったですね。ふふ、久々よーいどんですわね!」

 私たちの散歩に付きあってくれていたアンネも、元気ハツラツと言った感じ。
 私に負けじと、カミルの跡を追うため、ドレスの(すそ)(ひるがえ)し走り出す。

「たいへん。リディ、みて」

 大きなナラの木の下で停止したカミルが枝を指差す。
 私は少し息を整えてから、カミルの隣に立ち、顔を上にあげる。するとそこには、しっかりとした幹につかまるように、木の上に引っかかっている帽子があった。

「木登りをすれば取れそうじゃない。カミルは登れそう?」

 とりあえず帽子はそこにあると、ほっとした表情を浮かべる私とは対照的に、カミルの顔色は青ざめている。

「こわいよ……」
「大丈夫よ。 いざとなったら、私が助けてあげるから」

 そう言って安心させようとするのだが、カミルは今にも泣き出しそうな顔のままだ。

「こわくて、いけない、やだ」

 カミルはブンブンと首をふる。木の上の帽子を取るためには、木に登る必要がある。しかし、正直たいした高さではない。しかし、私よりずっと背の低いカミルにとってみれば、帽子が引っ掛かった位置は、はるか上空に感じるのかも知れない。

「じゃ、私にまかせて」
「リディア様、まさか、登るつもりなのですか?」

 アンネが驚いた様子で声をかけてくる。

「えぇ、小さな頃、この木は隠れんぼの定番だったし。天辺まで登るわけじゃないから、何とかなると思うの」
「でも危険ですわ。私が誰か呼んで来ます」
「大丈夫よ。みんな王都へ行く準備で忙しいだろうし、たまには木登りも悪くないもの。それにカミルにいいところを見せたいし」

 私は不安げな表情で、木に引っかかる自分の帽子を見上げるカミルにほほ笑む。

「私にまかせて。こんな木、余裕なんだから」

 私がカミルの小さな手を離そうとすると、カミルはギュッと握り返してきた。

「リディ、いかないで」
「えっ!?」
「ひとりはやだよぉ」

 カミルの大きな瞳から、ポロっと涙がこぼれ落ちる。私はそんなカミルの様子に、「兄さんの子なのに」と思わず動揺してしまう。なぜなら、幼い頃の兄のイメージは私と変わらず、野生児といった感じ。この辺の木は全て登った事があるし、しょっちゅう泥んこになって庭を駆け回っていたからだ。

「いくら大事な嫡男だからって、兄様は少し過保護すぎるのよ。それに、妹に見本を見せるのは兄の義務なのよ」

 私は自分に言い聞かせるように、カミルの手を握り返しつつ、しゃがみ込む。

「いい、カミル」
「うん」
「あなたの妹、エレオノーラはあと数年もしたら多分、いいえ絶対に、あなたに遊んでほしいと、跡を追い回すようになるわ。その時に、木登りを怖がっていたら、格好悪いと思わない?」
「あそぶの?」
「そう。エレオノーラはきっと、あなたが好きになるもの」
「そうなんだ」

 カミルは少し嬉しそうに頬を染めると、コクリと首を縦に振る。

「もし、エレオノーラの帽子が飛んでしまうような事があったら、カミルが格好良く取ってあげるの。それが出来たら、エレオノーラはきっとあなたの事がもっとすてきに思うようになるわ」
「うん……ぼく、がんばる」
「よし、いい子ね。じゃ、まずは私が見本を見せてあげるわ」

 カミルの頭を撫でた後、私はゆっくりと立ち上がる。そしてスカートの裾を軽く持ち上げながら、カミルの手を引きつつ、木に向かって歩き出す。

「本当に気をつけてくださいませ」

 心配するアンネをよそに、私はカミルから手を離すと、木へと近づき、よじ登っていく。

「リディ、あぶないよ」
「平気よ。ほら見て。もうすぐ届くわ」

 (みき)の太さは私の腰回りくらいだが、意外と枝が多くて足場になりそうな場所も多い。これならば、思ったより簡単に登れるかもと、安心して手を伸ばす。そして私は難なくカミルの帽子を奪回する事に成功した。

「すごい、リディ、かっこいぃ!」

 木の下にいる、カミルが目をキラキラさせて褒めてくれる。

「なんだか、昔に戻ったみたいですわ」

 アンネがどこか懐かしそうにつぶやく。

「ふふふ、ありがとう。小さい頃は毎日のように登ってたんだもの。これくらいどうってことないわ」

 私はカミルに笑顔を向けたあと、木の合間から久しぶりに、広がる領地の景色を見下ろす。柔らかな草の感触と、木々から漂う爽やかな香りに包まれながら、夫となったフェリクスと一緒に木登りをしたことを思い出す。

 私の心は領地からはるか先、王都にいるフェリクス様の元に向かっていた。元気だろうか、会いたいなと、切ない気持ちが込み上げてくる。そして私の心に同調するように、風が吹き荒れ、木々が揺れ動く。

「おや、私の愛する人は、随分と楽しそうだね」

 聞き慣れた声が地上から聞こえ、私はまさかと下を向く。
 するとそこには、光を反射し、まるで宝石のように輝く銀色の髪。それから、澄みきった空のような、青く美しい瞳を持つ男性が笑顔でこちらを見上げている姿があった。

「フェ、フェリクス様!?」

 私は驚きのあまり、木から転げ落ちそうになる。

「危ないよ」

 フェリクス様は素早く木の下までやってきて、足を滑らせた私を抱きかかえる。

「ど、どうしてここに?」
「どうしてって、君を迎えに来たんだよ」
「え、でもだって……」

 フェリクス様は私と離縁したいから、実家に私を返したはずだ。

「リディ、エレオノーラみたい」

 くすくす笑うカミルに指摘され、私はフェリクス様に抱きかかえられているという状況に気付く。しかも領地に来て太った私を、フェリクス様は抱きかかえているわけで。

「し、失礼しました。それより、早く下ろしてください」
「嫌だね。君にせっかく会えたのだから」
「でも、カミルが見てますし。アンネもおりますし、恥ずかしいので!」

 私が強めに告げると、フェリクス様はしぶしぶといった様子で私を地面に下ろす。

「君は、その、見違えたようだ」

 そう言って私を見つめる青い瞳は、どこまでも優しい。けれど、心なしか目の下のクマがひどいし、フェリクス様に限ってヒゲの剃り残しもある。気付くと、私は彼の頬に手を伸ばしていた。

「ひどいだろう?君がいなくなってから、何だか眠れなくてね。仕事にも支障が出てしまうし……。君がいないと僕はダメなんだ。だから、どうか僕の元へ帰ってきて欲しい」

 フェリクス様は懇願するように、そう告げると私の答えを待たずに、またもや私を抱き寄せると、おでこに優しく口づけをする。

「リディア、愛している」

 やつれたフェリクス様が優しい顔を私に向ける。

「私もです。私、ずっと寂しかったんです」

 私は思うまま、自分の気持ちを告げた。

「会いたかったんです」

 ついに我慢できず、フェリクス様の背中に腕を回す。するとフェリクス様はぎゅっと抱きしめ返してくれた。その瞬間、私の戻る場所はやっぱり彼の腕の中がいいと強く思う。

「ねぇ、ふたりはなかなおりをしたの? 」

 突然カミルの無邪気で、冷静な指摘が飛び込んでくる。

「えっ!?」

 私は慌ててフェリクス様から離れようとするが、彼は逃すまいとするかのように、私の腰に手を回してくる。

「そうだよ。仲直りしたんだ」
「よかった。なかよしがいちばん!」

 カミルが嬉しそうに笑いながら、私たちの周りをぐるりと回るのであった。