「そういや、寧緒ちゃんの父親は外国語学者って言ってたな。それで舶来品を貰ってたのか」
「ええ。一度旅に出るとなかなか帰ってこない人なんですけれど、お土産の舶来品はいつも楽しみにしていたんです」
「じゃあ、もしかして寧緒さんは洋食の方が好みだったりするかな?」
「いえ、それが……お祖母様が洋食嫌いで、もうずいぶん食べていなかったんですよ。商社に勤めてだしてから、少しづつ外食の機会があって味を覚えたぐらいで」
しかし、悲しいかな。
そのほとんどは、園井さんに連れて行ってもらったときのことだった。
「私は父のことも、母のことも何も知りません。どんな人だったのかも、どうして私にこの名前をつけたのかも……」
何もかもが見えない、あやふやな人格。
自分というものを象徴するものが何も無く、私という存在は誰かによって簡単に書き換えられてしまうような、中身の無い人間。
いつの間にか私はそんなふうになっていた。
「あの頃は、今みたいな私じゃなかったんです。もっと自由で、自分の感情を持っていたはずで、それなのにどうして何も無くなってしまったのでしょう」
次第に私は、堰を切ったようにそれを繰り返していた。
なぜ、どこで私は自分を失ったのだろう。
そんな私に、四ツ谷さんは真摯な表情を向けてくれた。
「真名は己を象徴するものだ。それを失いかけているから、寧緒ちゃんは自分を見失っている。そういうことじゃないか」
「私を、見失っている……。私、両親のことを何か少しでも思い出せれば、あの頃の自分が見えて来そうな気がするんです。忘れていたものをなにか思い出せれば、きっときっかけが掴めるはずだって。私が自由な私でいられたのはあの時だけで、その先はなんにもないもの……」
真名を失っている状態。
なんだか難しい表現だが、そう言われて納得した。
私は私を見失っている。だから、自分の拠り所に代わってくれる人を求めてしまったのだ。
「寧緒さんの芯にあるもの……か。そういうことなら、ここはやっぱり料理だね」
左門さんがにっこり微笑み、うんうんと頷いた。
そうだ。ここは料理屋なのだから、料理人の左門さんの力を借りるとしたらそれが一番だ。
「寧緒さんの子供の頃の思い出の料理を作るのはどうかな。寧緒さんのお父さんとお母さんを象徴するような料理を」
私の両親を象徴する料理。
そんなものはあっただろうかと、少し考え込んでみる。
「あっ。そういえば、昔、父が外国で食べた料理を作ってくれたことがあるんです」
「おおっ!それ、いいんじゃないか!」
「でも……どんな料理か思い出せないんですよね」
「やっぱりそうなるか……」
もうずいぶん前のことだ。
父が外国で美味しい料理を食べたから、それを私と母に振る舞いたいと言ったことがあった。
だが、肝心の料理がどういうものかが思い出せない。
「大雑把でいいから、料理の種類とかは分かるかな?」
「確か…………汁物だったような。でも汁物らしくない色だった気がして……やっぱり違うかも」
「汁物らしくない色?」
「なんというか……白っぽいような」
「白っぽい?白味噌か?」
「いえ……和食ではありませんでした。洋食で、あまり見たことのようなものだったはずです」
その料理を食べた時、確かに私は何かを新鮮に思ったことはずだった。
確実なのは洋食で白っぽいもので、珍しいものということになる。
なんとも実に雑な手がかりになってしまった。
「うーん。洋食なら、普段見ないような色合いのものもたくさんあるから、洋風のスープの可能性もあるかも」
「おお、確かに。左門が前に出してくれたあの赤いやつ、最初に見た時はたまげたからなぁ」
「ミネストローネ、でしょ。四ツ谷くんに珍しいものを作ってあげると、反応が面白いんだよね」
「え?あれってそういう目的だったのかァ?」
赤いスープとは、これまた気になるものが出てきた。
今度ここへ来た時に食べられるだろうか。
そこで、左門さんは会話の流れで何かに気づいたようだ。
「あっ、そういえばあれがあったんだ。よかった、四ツ谷くんのおかげで気づけたよ」
「なんだ?」
左門さんはそのまま厨房へ向かっていく。
作業をしているのか、なにやら物音が聞こえてきた。
しばらく四ツ谷さんと二人で不思議な顔をしたまま待っていると、左門さんが小鉢を手に戻ってきた。
「はいこれ。ベシャメルソース」
差し出された小鉢には、白いとろみのある液体がよそられていた。
「……?」
「なんだそりゃ」
聞いた事のない単語だ。
多分、おしゃれな外国のものっぽいということは分かる。
「あっでもなんだかとっても良い香りがしますよ。どこかで見たことあるような……」
「小麦粉とバターを牛乳で煮詰めたものだよ。グラタンとか、コロッケに使うものって言ったらわかるかな」
「ああっ、それなら分かります!」
「なるほどなぁ。横文字はさっぱり分からん」
そう言われてみればすぐに分かった。
食べたことのある料理でも、材料のうちのひとつをそれだけ見ただけでは分からない。
「真奈美くんがグラタンを食べたいって言うから、用意してみたんだ。彼女、食通だから口に合うといいんだけどね」
知らない名前が出てきた。
左門さんの知り合いの方だろうかと話を聞いていた私に、四ツ谷さんが教えてくれる。
「真奈美っていう美食家の娘さんがいるんだ。美味い飯のために仏語を覚えて巴里だかなんだかまで行くぐらいなんだよ」
「情熱ですね!すごい方です!」
美味しい料理のためなら外国語を覚えて旅に出る、なんてすごいことだ。
私では到底できない。愛があるからこそなせる技だろう。
一度お会いしてみたいと思った。
「西洋料理じゃ定番だからね。きっとこれだと思うんだ。というわけで、一口どうぞ」
左門さんに促され、匙で一口掬ってみる。
「美味しい……!」
ぱくりと口に含んだ瞬間、バターの風味がふわりと広がった。
とろりとした舌触りで、まろやかな味わいがとても良い。
コロッケは食べたことがあるが、ソース単体で食べたのは初めてだ。
「真奈美さんも、きっと気に入ってくださいますよ」
「だといいんだけどね」
そう言いつつ、左門さんも私の反応に満足してくれたみたいだった。
「それで、どうだい。記憶にあるものと同じ味か?」
「そうですね……確かに、この味はとても近い気がします。でもまだ何か足りないような……」
これ単体で食べるのは初めてだった。
記憶にある料理と見た目もよく似ている。
ただ、絶対にベシャメルソースだという確信が得られないのだ。
「まだ別の食材が必要みたいだね。でもとりあえず、このソースを使った料理を当たってみる方が良さそうだ」
「汁物ってことは、具材もあるだろう。何が入ってたとか、見当はつきそうかい」
「なんなら、今ここで色々試作してみることもできるけど」
「いえ、さすがにそこまでしていただく訳にはいきませんよ。そうですね、具材……」
野菜は、あった気がする。
でもその種類が分からない。
人参、玉ねぎ、じゃがいも、大根。
色々考えてみるけれど、どれも何かが違う気がする。
お肉は、入っていたようななかったような。
そんなに大きくなかったはず。
でも、中身は具だくさんでたっぷりで。
「あれ……なんだろう…………私、なにか知っているような」
何かが引っかかる。
もう一度よく考えてみようとおもうが、分かりそうで分からない、その感覚がもどかしい。
もうすぐそこまで答えはあるはずなのに、どうして……。
「落ち着いて、ゆっくり思い出してみて。きっと君の頭の中には眠っているはずだよ」
その囁きに、私は息を飲んだ。
いつの間にか、左門さんが私の背後に立っていたらしい。
妙に艶のある低音に、私の耳が、背中がぞくりとする。
ぱちり。
頭の中で何かが弾ける音がした。
「あっ」
私の視線が向かうのは、カウンターに置かれた空の椀。
その中に入っていたものは。
「鶏肉と、白菜」
「ええ。一度旅に出るとなかなか帰ってこない人なんですけれど、お土産の舶来品はいつも楽しみにしていたんです」
「じゃあ、もしかして寧緒さんは洋食の方が好みだったりするかな?」
「いえ、それが……お祖母様が洋食嫌いで、もうずいぶん食べていなかったんですよ。商社に勤めてだしてから、少しづつ外食の機会があって味を覚えたぐらいで」
しかし、悲しいかな。
そのほとんどは、園井さんに連れて行ってもらったときのことだった。
「私は父のことも、母のことも何も知りません。どんな人だったのかも、どうして私にこの名前をつけたのかも……」
何もかもが見えない、あやふやな人格。
自分というものを象徴するものが何も無く、私という存在は誰かによって簡単に書き換えられてしまうような、中身の無い人間。
いつの間にか私はそんなふうになっていた。
「あの頃は、今みたいな私じゃなかったんです。もっと自由で、自分の感情を持っていたはずで、それなのにどうして何も無くなってしまったのでしょう」
次第に私は、堰を切ったようにそれを繰り返していた。
なぜ、どこで私は自分を失ったのだろう。
そんな私に、四ツ谷さんは真摯な表情を向けてくれた。
「真名は己を象徴するものだ。それを失いかけているから、寧緒ちゃんは自分を見失っている。そういうことじゃないか」
「私を、見失っている……。私、両親のことを何か少しでも思い出せれば、あの頃の自分が見えて来そうな気がするんです。忘れていたものをなにか思い出せれば、きっときっかけが掴めるはずだって。私が自由な私でいられたのはあの時だけで、その先はなんにもないもの……」
真名を失っている状態。
なんだか難しい表現だが、そう言われて納得した。
私は私を見失っている。だから、自分の拠り所に代わってくれる人を求めてしまったのだ。
「寧緒さんの芯にあるもの……か。そういうことなら、ここはやっぱり料理だね」
左門さんがにっこり微笑み、うんうんと頷いた。
そうだ。ここは料理屋なのだから、料理人の左門さんの力を借りるとしたらそれが一番だ。
「寧緒さんの子供の頃の思い出の料理を作るのはどうかな。寧緒さんのお父さんとお母さんを象徴するような料理を」
私の両親を象徴する料理。
そんなものはあっただろうかと、少し考え込んでみる。
「あっ。そういえば、昔、父が外国で食べた料理を作ってくれたことがあるんです」
「おおっ!それ、いいんじゃないか!」
「でも……どんな料理か思い出せないんですよね」
「やっぱりそうなるか……」
もうずいぶん前のことだ。
父が外国で美味しい料理を食べたから、それを私と母に振る舞いたいと言ったことがあった。
だが、肝心の料理がどういうものかが思い出せない。
「大雑把でいいから、料理の種類とかは分かるかな?」
「確か…………汁物だったような。でも汁物らしくない色だった気がして……やっぱり違うかも」
「汁物らしくない色?」
「なんというか……白っぽいような」
「白っぽい?白味噌か?」
「いえ……和食ではありませんでした。洋食で、あまり見たことのようなものだったはずです」
その料理を食べた時、確かに私は何かを新鮮に思ったことはずだった。
確実なのは洋食で白っぽいもので、珍しいものということになる。
なんとも実に雑な手がかりになってしまった。
「うーん。洋食なら、普段見ないような色合いのものもたくさんあるから、洋風のスープの可能性もあるかも」
「おお、確かに。左門が前に出してくれたあの赤いやつ、最初に見た時はたまげたからなぁ」
「ミネストローネ、でしょ。四ツ谷くんに珍しいものを作ってあげると、反応が面白いんだよね」
「え?あれってそういう目的だったのかァ?」
赤いスープとは、これまた気になるものが出てきた。
今度ここへ来た時に食べられるだろうか。
そこで、左門さんは会話の流れで何かに気づいたようだ。
「あっ、そういえばあれがあったんだ。よかった、四ツ谷くんのおかげで気づけたよ」
「なんだ?」
左門さんはそのまま厨房へ向かっていく。
作業をしているのか、なにやら物音が聞こえてきた。
しばらく四ツ谷さんと二人で不思議な顔をしたまま待っていると、左門さんが小鉢を手に戻ってきた。
「はいこれ。ベシャメルソース」
差し出された小鉢には、白いとろみのある液体がよそられていた。
「……?」
「なんだそりゃ」
聞いた事のない単語だ。
多分、おしゃれな外国のものっぽいということは分かる。
「あっでもなんだかとっても良い香りがしますよ。どこかで見たことあるような……」
「小麦粉とバターを牛乳で煮詰めたものだよ。グラタンとか、コロッケに使うものって言ったらわかるかな」
「ああっ、それなら分かります!」
「なるほどなぁ。横文字はさっぱり分からん」
そう言われてみればすぐに分かった。
食べたことのある料理でも、材料のうちのひとつをそれだけ見ただけでは分からない。
「真奈美くんがグラタンを食べたいって言うから、用意してみたんだ。彼女、食通だから口に合うといいんだけどね」
知らない名前が出てきた。
左門さんの知り合いの方だろうかと話を聞いていた私に、四ツ谷さんが教えてくれる。
「真奈美っていう美食家の娘さんがいるんだ。美味い飯のために仏語を覚えて巴里だかなんだかまで行くぐらいなんだよ」
「情熱ですね!すごい方です!」
美味しい料理のためなら外国語を覚えて旅に出る、なんてすごいことだ。
私では到底できない。愛があるからこそなせる技だろう。
一度お会いしてみたいと思った。
「西洋料理じゃ定番だからね。きっとこれだと思うんだ。というわけで、一口どうぞ」
左門さんに促され、匙で一口掬ってみる。
「美味しい……!」
ぱくりと口に含んだ瞬間、バターの風味がふわりと広がった。
とろりとした舌触りで、まろやかな味わいがとても良い。
コロッケは食べたことがあるが、ソース単体で食べたのは初めてだ。
「真奈美さんも、きっと気に入ってくださいますよ」
「だといいんだけどね」
そう言いつつ、左門さんも私の反応に満足してくれたみたいだった。
「それで、どうだい。記憶にあるものと同じ味か?」
「そうですね……確かに、この味はとても近い気がします。でもまだ何か足りないような……」
これ単体で食べるのは初めてだった。
記憶にある料理と見た目もよく似ている。
ただ、絶対にベシャメルソースだという確信が得られないのだ。
「まだ別の食材が必要みたいだね。でもとりあえず、このソースを使った料理を当たってみる方が良さそうだ」
「汁物ってことは、具材もあるだろう。何が入ってたとか、見当はつきそうかい」
「なんなら、今ここで色々試作してみることもできるけど」
「いえ、さすがにそこまでしていただく訳にはいきませんよ。そうですね、具材……」
野菜は、あった気がする。
でもその種類が分からない。
人参、玉ねぎ、じゃがいも、大根。
色々考えてみるけれど、どれも何かが違う気がする。
お肉は、入っていたようななかったような。
そんなに大きくなかったはず。
でも、中身は具だくさんでたっぷりで。
「あれ……なんだろう…………私、なにか知っているような」
何かが引っかかる。
もう一度よく考えてみようとおもうが、分かりそうで分からない、その感覚がもどかしい。
もうすぐそこまで答えはあるはずなのに、どうして……。
「落ち着いて、ゆっくり思い出してみて。きっと君の頭の中には眠っているはずだよ」
その囁きに、私は息を飲んだ。
いつの間にか、左門さんが私の背後に立っていたらしい。
妙に艶のある低音に、私の耳が、背中がぞくりとする。
ぱちり。
頭の中で何かが弾ける音がした。
「あっ」
私の視線が向かうのは、カウンターに置かれた空の椀。
その中に入っていたものは。
「鶏肉と、白菜」