好きな人に好きな人ができた。文字に起こせば笑えるほど端的で、声に出せば泣きたくなるほど単純な事実だった。
 こんなに苦しい気持ちがいつか薄れて、消えることはあるのだろうか。彼に恋をしたことさえも、記憶からなくなってしまうのだろうか。
 ぼんやりと彼を見つめるその先で、彼もまた、同じように誰かを見ていた。
 図書室の机に指を置き、目を閉じていても書けるようになってしまったその名前を、なぞるように書いてみる。

────新木琥尋(あらきこひろ)。文字の羅列を見ただけで、気持ちが勝手にあふれだしてしまいそうになる。
 彼の視線の先をたどり、思わず手に力が入った。先ほど彼の名前を指で書いた場所を、手でこすって消していく。なかったことにしていく。
 彼への気持ちもこのまま消えてしまえばいいのに、と思いながら。


 あたしたちの出会いは、高校の入学式だった。
 新木と糸賀(いとが)。出席番号が前後だったあたしたちは、当然席も前後だった。あたしは入学式の日、少し早めに学校について、緊張しながら席でじっとしていた。何人か人はいたけれど、みんな緊張しているのか全く会話をすることなく無言の時間が続いていた。
 そんなとき、教室に入ってきたのが新木琥尋という人物だった。自席に荷物を置いた彼は、振り返って迷うことなくあたしに話しかけてきたのだ。

「俺、新木琥尋っていうんだ。琥珀じゃなくて琥尋な。名前なに?」
「え、あ……糸賀です。糸賀璃羅(りら)

 そのあとお互いに漢字を確認して「テストの時ぜったい損してるよなあ」と言う彼に深く共感した。どちらも字面から受ける印象は硬い。

「てか、璃羅って名前、宝石の瑠璃の璃だな。俺も、琥珀って宝石から琥をもらったんだ」
「瑠璃……?」
「青くて、すげえきれいだよ」

 宝石なんてめったに見ないから、自分の名前に宝石の字が入っているなんて考えたことがなかった。
 あたしたちが話し始めたことで教室の雰囲気が和らいだのか、各々が「名前は?」「部活何に入るの?」と言った会話をし始める。紛れもなく、教室の空気を動かしたのは彼だ。
 あっという間に彼は新たなクラスメイトに囲まれて、大きなグループの中心になっていた。これが、あたしたちの出会い。

 思えば、いつから好きとか、どうして好きになったとか、そういう明確なことはわからないまま恋に落ちていた。
 気づいた時にはボールを追いかける彼を目で追っていて、プリントが配られるたびにちゃんと後ろを振り返って渡してくれる彼にときめきをおぼえ、ふたり一組で行う日直が楽しみになっていた。そんなふうに、じわじわ、じわじわ、胸の中にあたたかい感情がひろがっていった。

 彼は言葉こそ荒い部分があったけれど、ささいな行動から優しさがあふれ出ていて、きっといい人なのだろうな、と思った。加えて彼は学年の中でも指折り数えられる整った顔をしており、当然のごとく人気は高かった。けれど恋愛に関しては「俺そういうの興味ないから」の一点張り。そのことに落胆しつつも、心のどこかで安堵していた。
 たとえ自分のものにはならなくても、他人のものにはならない。それだけで、彼を好きでいる権利を得られているような気がしていたのだ。


ーーーーーーー



 違和感をおぼえたのは、三年生になったばかりの春。琥尋と三年間同じクラスになれた喜びに浸りながら、今年こそはもしかすると何か進展があるかもしれない、と自分から何か行動するわけでもないのに勝手に思っていた矢先のことだった。

「琥尋、今年も体育委員にするの?」

 スポーツが得意で、毎年体育委員を務めていた琥尋に訊いた時、少し眉を寄せて考えるそぶりを見せた琥尋は、

「いや、環境委員にする」

と首を横に振った。
 え、と声が洩れる。いったいどういう風の吹き回しだろうか。
 最初は冗談を言っているのかと思い笑ったが、真剣な顔で環境委員に立候補した琥尋に合わせて、あたしも慌てて手をあげた。委員会の仕事内容なんてどうだっていい。あたしにとっては、委員会のペアが琥尋であることが重要なのだ。

 どうして突拍子もなく環境委員にしたのかは理解不能だったけれど、彼の気まぐれなのだろうということにして、違和感を流そうとした。けれど初回の委員会で、その違和感ははっきりとかたちをあらわした。

 ペアの男子が来ていない理由を訊ねられ、言葉に詰まって泣き出しそうな顔をしている一年生の女子。もしかすると大勢の前で声を発するのが苦手なのかもしれない。気の毒だなと思いながら、できるだけ見ないようにしようと琥尋のほうを見た瞬間だった。

「ルコ」

 彼は名前を呼んで、まっすぐにその女子を見ていた。
 あたしの中の彼は、笑っているのにどこか遠くを見ていて、言葉を返してくれるのに心がこもっているようには感じなくて、なによりも。

『糸賀』

 ーー誰かのことを、名前でなんて、呼んだことがなかった。
 きっと、誰も、彼の小さな変化になんて気づけなかっただろう。だけどあたしには分かった。わかってしまった。
 それほどに、彼のことをあたしはとなりで見てきたのだ。


 委員会が終わり、彼のことを昇降口で待っていた。約束はしていなかったけれど、どこかに行こうと言えば彼はいつも、あたしに付き合って放課後の時間を使ってくれた。だから今回も、ふたりで出かけようと思ったのだ。けれど琥尋はいっこうに来ない。
 どうしたのだろうと思い委員会場所に戻って、戸を開けようとした時だった。

「……助けてくれて、ありがとうございました」
「まかせろ」

 教室の中から、声が聞こえて手が止まる。そろりと覗いてみると、そこには琥尋と、「瑠胡」と呼ばれていた女子がいた。となりの椅子に座り、話している。その距離があまりにも近くて、どくどくと嫌な鼓動が速まっていく。

「ルコ」

 また、名前を呼ぶ。その声は、聞いたことがないほどに柔らかかった。





「琥尋はどうして環境委員にしたの?」

 静かに訊ねると、窓の外に視線を向けた琥尋は「糸賀は」と逆に質問してきた。変わることのない呼び名に胸が締め付けられる。
 あたしは彼の質問にどう答えたら、間違わずに済むのだろう。正しい答えが、わからない。

「……好きな人が、環境委員に立候補しそうだったから」

 あたしの気持ちは、すでに彼に伝わっている。彼は人の感情を読み取ることが得意だから。
 ふ、と息を吐いた琥尋は、「……俺も同じだよ」とつぶやく。

 ーー好きな人が環境委員に立候補しそうだったから。

 彼の言う〝好きな人〟があたしだったら、どんなによかっただろう。
 もしかしたら自分かもしれないと勘違いできたら、どんなによかっただろう。

 そっか、と返事をしたきり、何も話せなくなった。これ以上口を開いてしまえば、嗚咽が洩れてしまうような気がした。
 黙ったまま、机の上にあった水やりの役割票を手に取る。

 そうしてゆっくりと名前を見ていって、その名前を見つけた瞬間、無性に涙が止まらなくなった。


『てか、璃羅って名前、宝石の瑠璃の璃だな。俺も、琥珀って宝石から琥をもらったんだ』
『青くて、すげえきれいだよ』


 宝石の名前が入っている同士だなんて、浮かれていたのはあたしだけだった。特別だと思っていたのはあたしだけだった。
 あたしだけだったはずの特別が、一気に価値を無くした瞬間だった。

ーー木月瑠胡。
彼女の名前にも、また、青く輝く宝石の名前が入っていたのだから。




 傷つくことは嫌いだった。彼女にはできないと、そう言われることはとても残酷だ。縁がなかった、それで終わらせられないほどに、あまりにも長く想いすぎてしまった。あの時引いていれば、あの時終わりにしていれば。いっそ、出会わなかったらよかったのに。
ーーそんなふうには、思えなかった。


 好きだよ、好きです。あたし、あなたのことが好き。知ってる?気づいてた?あたしのこと、一度もそういう目で見たことがなかったの?

 ん?と見つめ返された。その軽い「ん?」も、何度聞いたか分からなくても、あたしにとっては毎度心臓が跳ねる相槌だった。

「──…なまえ」
「え?」
「名前、呼んでよ。下の名前」

 絞り出した声は震えていて、彼の反応を見れない。彼は黙っていて、しばらく沈黙が流れる。そうしていたら、ふいに視界が滲んで、あ、やばい、と思った時には遅かった。
 視線を上げると、その先では彼が困ったように眉を寄せていて、あたしの好意は彼をこんな顔にさせるのだと気づいたら、止まらなかった。

「ごめん、じゃ」と乱雑に言い放って部屋を出る。その瞬間、「糸賀」と呼び止められて思わず足が止まってしまう。彼の言葉は、あたしの行動をいつだって決めてしまうから、残酷だ。「ごめんな」と小さくつぶやかれて、優しくて世界一酷い男だと思った。
















「──だいじょうぶ、すか」

 突然声が落ちてきて、ふいに顔を上げる。その顔はつい先ほど見たことがある顔だったから、驚いて硬直した。

「すいません、勝手に。大丈夫かなって思って、つい。話しかけられても迷惑っすよね、ほっといてって感じっすよね」

 一人で完結して終わらせようとする彼に「待って」と声をかけると、彼は驚いた顔で振り返った。

「マカゲくん、だよね。さっき、遅れてきてた」
「そうっす真陰です。でもセンパイ、一個だけ違うとこがありますよ。俺、遅刻はしてないです」

 しそうにはなったけど、と悪戯っぽく笑う彼に、「そっかぁ」と返す。その声がなんだか自分の声ではないような感覚になる。

「よかったらこれ、飲んでください。結構元気出ますよ」

 渡されたのは白葡萄のジュースだった。パッケージに『しろぶどう』と平仮名で書かれている。炭酸でもなければ、まさかの白葡萄って。
 男子高校生らしくない可愛らしいチョイスに、思わず笑みが漏れる。

「本当は俺が飲む予定だったんですけど、特別にセンパイにあげます。だから元気出して」
「マカゲくんが飲む予定だったの?」
「……ジョーダン。ほんとは、さっき買ってきました。ここでしゃがんでるの、見えたから」

 はは、と照れたように笑う彼が、眩しい。耳裏に熱が集まる。

「センパイ、名前教えてください」
「……糸賀」

 そう呟くと、「違いますよ」と不満げに眉を寄せた彼は「下の名前です」と告げた。


「リラ」

 いい名前っすね、とここでもまた笑みを浮かべた彼は、「じゃ、そろそろ俺、行きます」と立ち上がった。
 背中が向けられて、遠ざかってゆく。

 ああ、行ってしまう。どうしてだろう、あたし、いま彼に、離れてほしくないって思っている。振り向いてって、思っている。


 振り向いて。こっちを見て。

 お願い、あたしを見て。



「リラさん」


 願いが届いたのか、真陰くんはくるりと振り返ってにっと綺麗な歯を見せた。
 リラさん、と。名前を呼ばれるだけで早まり出す心臓に、焦る。

「俺、コーラが好きです。だから何って話かもしれないですけど!」


 そう言って今度こそ、ひらひらと手を振って去っていく。



 今度会えたら、名前を聞こう。
 彼はコーラが好きらしい。白葡萄のお返しに、コーラでも買って会いにいってみよう。




 リラさん、と。するりと呼ばれた名は、まるで彼に呼ばれるためにあったのではないかと思うくらいに不思議と馴染んで、柔らかい部分を優しく刺激されたような感覚になる。


 単純なのかもしれない。けれど、ガチャリと、新たな歯車が動きだす音がした、そんな春の日のこと。









番外編 璃羅視点 fin.
2025.10.25