【今日は講義で遅くなるから一緒には帰れない】
そんなメッセージに了解のスタンプを送信し、スマホを閉じる。視線を上げた先、にやにやとした顔でこちらを見下ろす緋夏とばっちり目が合い、思わず「うわっ」と声が洩れた。
「なになにー、彼氏さんとのラブラブやりとりですか」
「ち、違うよ。ただの業務連絡みたいなもの」
「業務連絡て、真面目かっ」
「真面目でごめんなさいね」
ふん、と視線を逸らすと「ごめんて」と謝られる。それでも拗ねたようにしていると、「それでさ」とお得意の要領で話題を変えられる。けれど以前のような不快感は全くない。
「これから近くのクレープ屋に行くんだけど、瑠胡も来る? あ、メンツは女子だけの構成だから安心して」
「えー! 俺たち行けねーのかよ!」
「緋夏ちゃんに俺ら奢るよ?」
「女子だけとかずりぃ」
「ごめん! 今日は女子だけ、男子禁制でーす」
あの日以来、随分と柔らかくなった緋夏の人気度は男女共に爆上がりし、本当の意味でクラスのマドンナ的存在になった。わたしにもかつての取り巻きたちにも横柄に接することはなくなり、一緒にいてとても楽しい。
「瑠胡、どう?」
「うん、行こうかな」
うなずくと、「やった」とガッツポーズをする緋夏は、「琴亜も呼ぼうか」と言い、鞄を持った。
「先に昇降口で待ってるから、琴亜に伝えるのお願いしてもいい?」
「うん、いいよ」
快諾すると、安心したように息を吐いた緋夏は、友達数名と教室を出ていく。
わたしも鞄に荷物を詰めて、一年五組へと足を運んだ。
「琴亜ちゃん」
教室の戸のそばから声をかけると、くるりと振り返った琴亜ちゃんがパァッと顔を明るくした。「ちょっと待ってね」と返してから、何やら物を鞄に詰めている。数枚の手紙のようだった。毎日毎日大変だな、と半ば呆れながらそのようすを見ていると、ピロンとスマホに通知が届く。
【今日の夜、通話OKだよ。話したいって思ってた】
それはよく知った親友からのメールだった。液晶画面に【彩歌】と、表示されている。
久々にみる文字の配列に、胸が躍る。
以前はこわくて連絡をするのをやめてしまったけれど、やはり久しぶりに話したくて昨日メールをした。文字を打つ時は手が震えたけれど、もし断られてしまってもわたしは一人になるわけじゃない。そう思うと、ずっと抱えていた鉛のような感情が抜けていった。
それに、きっと彩歌は快く応じてくれる。一度連絡を断ったからといって、怒るような人ではない。
信じているから、彩歌を。
【やった!! うれしい】
フリックする手が、はやくはやくと急かされるように動く。迷わず送信ボタンを押すと、「ぽんっ」という効果音とともに、メッセージが送られた。瞬時に既読がつく。そして、【じゃあ夜楽しみにしてるね!】というメッセージとともにスタンプが送られてきた。
「おまたせ! あれ、何かいいことでもあった?」
いつのまにか支度を終えたらしい琴亜ちゃんが、可愛らしく小首を傾げて目の前に立っていた。
「うん。中学時代の親友と、久しぶりに通話の約束ができたの」
「それはいいね。中学の頃の友達って、やっぱり大事な存在だからね」
「うん。離れてみて、初めて気づくよね」
何度も共感を示すようにうなずく琴亜ちゃんは、「あっ、それで何の用だったの?」と思い出したように訊ねてくる。緋夏からの言葉をそっくり伝えると、「行きたい!」と目を輝かせた琴亜ちゃんはわたしの腕を掴んで廊下を歩き出した。ふわ、とシャボンの香りが鼻先をくすぐる。
すれ違うたび、男子たちが「古園さんだ」「やっぱ可愛いな」などと耳打ち合っている声がばっちりと聞こえてくる。以前であれば、自分との違いに落ち込んで、へこんで、病んでいただろう。となりを歩きたくないとか、そんな最低なことを思っていたかもしれない。
だけど今は、違う。
たとえたくさんの人がわたしを見てくれなくても、たった一人だけがわたしを見て、必要としてくれればそれでいい。先輩のいちばんでいられたら、他者からの目など関係ない。そう思えるようになった。
「緋夏ちゃん!」
「待ってたよ」
たたっと緋夏のもとへと駆け寄る琴亜ちゃん。二人の仲も良好そうで、本当によかったと息を吐くばかりだ。
「じゃあ向かいますか」
「はーい!」
きゃはっとした、明るいけれど騒がしすぎない雰囲気が広がる。いかにも女子高生のような、キラキラとした空気感に包まれながら、わたしたちはクレープ屋へと向かったのだった。
*
「先輩、来るかな」
思わず声に出していた。
ベンチに座って、電車を待つ。クレープを食べてから少し街を散策したため、いつもの電車よりも二本遅い。だから、もしかすると講義終わりの先輩に会えるかもしれない。そう思ったのだ。
「……会えると、いいな」
わがままを言ってはいけないとは思いつつ、やはり寂しいものは寂しい。会いたいし、話したい。この気持ちはずっと変わらない。
駅で待っていることは、先輩には伝えていない。どうせならサプライズで、びっくりさせたかった。
黙って線路を見つめたまま、ぼんやりと過去を偲ぶ。
わたしたちの出逢いは、この駅だ。あの日、あの時、ここにわたしがいなかったら。先輩がここにきてくれなかったら。わたしが自殺しようという気になっていなかったなら。先輩が助けてくれなかったら。わたしたちは一生他人のまま、終わっていたのかもしれない。
どれが欠けてもだめだった。どれかひとつだけでもエピソードが足りなかったら、今の形にはなっていない。
『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
ふと、珀都くんの言葉が蘇ってくる。偶然が積み重なったら、それはきっと必然だった。そんな勝手な解釈をしてしまいたくなる。
「ハクトくん……」
わたしの背中を押してくれたあの日以来、ハクトくんはもう夢に出てくることはなかった。弟の幸せを祈り、願い、わたしのことまで救ってくれた偉大な人。もし叶うのならば、この世界の彼を見てみたかった。
ベンチに座ったまま、視線を落とす。しんみりとした気分になっていると、ふと、となりに影を感じた。ウッディ系の落ち着いた香り。好きな人に酷似した香りと雰囲気が、風にのってわたしに届く。
「せん……っ」
思わず言葉が止まる。そこにいたのは、先輩に似ているけれど、全く違う誰かだった。薄茶色の髪が静かに風に揺れ、あたたかなまなざしは、まっすぐにわたしを見つめている。輪郭がぼやけていて、今にも消えそうな儚さを纏う彼。
「……ハクトくん」
きっと彼が高校生だったら、この姿になっていたに違いない。そう確信できる何かがあった。
伝えなきゃ、彼にも。たくさんの想いと感謝がある。
「わたしのこと、助けてくれて……救ってくれて、ありがとう。居場所を作ってくれて、ありがとう。背中を押してくれて、応援してくれて、ありがとう」
もっとたくさんのありがとうがある。彼がわたしと先輩に与えてくれた優しさは計り知れない。
「わたしね……夢、見つかったよ」
将来やりたいことが見つからなくて、高校にきた意味すら分かっていなかった。何をやってもうまくいかなくて、毎日死にたいと嘆きながら、そんな勇気が出なくて苦しい日々を過ごしていた。けれどそんな自分でも、こうして前を向くことができた。自分を変えることができるのは自分だけだけれど、自分を救ってくれるのは自分だけではない。他の人と関わり合い、支えられて、もう一度立ち上がることができる。だってもともと立っていたのだから。自分の足で立つ力を、本来は持っているのだから。
歩みだすのではなく、その前段階、『もう一度立ち上がる』ための手助けがしたい。
「人の心を助ける仕事がしたい」
臨床心理士、公認心理師、心理カウンセラー。さまざまあるものの中で、これといった職業はまだ決まっていないけれど、自分に何がしたいのか、どんなことに興味があるのか、まっさらな状態から、ここまでキャンバスを塗ることができた。
『……いい夢だね。応援しているよ』
頭に直接響くような声。夢の中よりも低くて、あたたかい声だった。
静かに微笑んだハクトくんは、『ありがとう』と小さく呟いて、すうっと溶けるように消えていく。水色の瞳が、最後に小さく揺れた。
「珀都くん……」
くん呼びに違和感を感じてしまうほど、彼はどう見ても高校生だった。誰も見られなかった姿を、わたしだけが知っている。
わたしの将来の夢は、ハクトくんしか知らない。あの青い夢を通して、わたしたちは互いに秘密の共有をしたのだ。
物思いに耽っていると、遠くの方から足音が近づいてくる。
(きっと先輩だ)
すぐに分かった。足音だけで、分かってしまう。
疲れた表情でホームに入ってきた先輩は、ベンチに視線を流し、わたしの姿を捉えると目を丸くした。立ち上がって駆け寄ると、泣きそうな顔で口角を上げた先輩が両手を広げる。
「先輩……!」
迷わず飛び込んで感じるあたたかさ。顔を上げると、先輩が大好きな顔で笑っている。
「どうして……待っててくれたのか?」
「さっきまで友達と遊んでたんです。この時間なら先輩に会えるかもと思って、ちょっとだけ」
並んでベンチに座り、会話を交わす。ハクトくんがいた場所に、今度は先輩が座っている。そのことに、なぜだか少しだけ泣きそうになった。
「瑠胡ってさ……毎朝、花の世話してるだろ」
「え、どうして知ってるんですか」
「見てた……から、かな」
突然そんなことを言われて困惑する。周りには誰もいないことを確認していたのに、まさか。
いつ、どこで見られていたのだろう。
『綺麗に咲いてるね』
『わたしもいつか、咲けるといいなあ』
花に向かって話しかけているところも見られていたかもしれないと思うと、あまりの恥ずかしさに逃げ出したくなる。誰もいないと思っていたのに、いったいどうして。
「実は、さ」
先輩は照れたように頭を掻きながら、暗色が混ざる空を見上げた。
「毎朝学校図書館で勉強してると、窓から花壇が見えるんだよ。……引かれるのが怖くて黙ってたけど、言うわ」
瞳を揺らした先輩は、少しだけわたしに近づいた。それだけであっという間に縮まる距離。手を伸ばせば、お互いが簡単に触れられてしまう。
「毎朝瑠胡を見るたびに、いつかちゃんと話してみたいって思ってた。瑠胡を見ると、勉強も医者の夢を追うことも頑張ろうって思えたんだ。初めて見たときからずっと、俺は瑠胡のことが好きだよ」
言葉の端に混ざる、柔らかい口調と声音。それが向けられているのは、世界中どこを探してもわたしひとりだけ。今この瞬間、先輩の瞳はわたしだけを映している。
ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。たったそれだけのことに、喜びを感じることができる自分がいる。
たぶん、あの日から。ホームで救ってもらったあの瞬間から、わたしの時間は再び動き出していた。
「駅のホームで出会ったあの日、一生分の運を使い切ったと思うくらい、ほんとはすげえ嬉しかった」
でも死にかけてて焦ったけど、と先輩は笑う。
「助けられて本当によかった」
それは心からの安堵を交えた言葉だった。幸せを噛み締めていると、カーンカーンと踏切の音が鳴りだす。
立ち上がると、同じように立った先輩が振り返った。
「瑠胡」
「はい」
名前を呼ばれて返事をすると、少しだけ首を傾げた先輩がわたしを見下ろしていた。そして、少し躊躇いがちに言葉が紡がれる。
「教室まで迎えに行こうか」
ちらりと試すように向けられた視線に、ふるふると首を横に振る。それは、わたしの意思を試す言葉というよりは、お互いの考えが一致しているのを確かめるような質問だった。
「いえ、大丈夫です」
微笑みながら断ると、「だよな」と同じように笑顔が返ってくる。
ーー好き。
クシャッと愛らしく向けられた笑顔に、胸の内からあふれる想い。
付き合っているのなら、という先輩なりの配慮だったのかもしれないけれど、わたしはこの駅で彼と待ち合わせたい。それはきっと、彼も同じだったのだろう。
出逢った駅で、一日の話をして、笑い合って、一緒に帰る。そんなささやかな幸せでいい。それだけでわたしは十分生きていける。
「待ち合わせは、この駅で」
「了解」
スっと伸びてきた先輩の手が、ポン、と頭にのる。
それがなんだか恥ずかしくて、それでもやっぱり嬉しくて、無意識のうちに頬が緩んでしまう。
「ありがとうございます、琥尋先輩」
「うわ、すっげえ不意打ち……」
言葉にしよう。伝えよう。
思いを共有して、同じものを分け合って、与え合う日々は、きっと彩りあるものになる。ずっと嫌いだった春も、四月も、季節が巡れば必ずやってくる出逢いと別れも、今はすべてが愛おしい。
照れを噛み殺していた先輩の目が、スッと細くなり、色を含む。まっすぐな瞳がわたしをとらえ、薄い唇から静かな音が紡がれた。
「これから先も、何度だって助けにいく。四月の瑠胡が笑えるように」
ほんのり色づく頬と、風にのって届く春の香り。
キイ────と、目の前で電車が止まる。
「帰るか」
「はい」
そっと差し出された手をとると、わずかなぬくもりが伝わった。
「ねえ、先輩」
電車に乗り込む瞬間、ふと言葉にしたくなって、手を引かれたまま呟く。先輩に教えてもらった、大切な気持ちが、溢れた。
わたしは春という季節が、四月という月が、目の前で笑顔を咲かせるあなたのことが──
「───…だいすき。」
四月のきみが笑うから。 了
何度だって助けにいく。
四月のきみが笑えるように。
そんなメッセージに了解のスタンプを送信し、スマホを閉じる。視線を上げた先、にやにやとした顔でこちらを見下ろす緋夏とばっちり目が合い、思わず「うわっ」と声が洩れた。
「なになにー、彼氏さんとのラブラブやりとりですか」
「ち、違うよ。ただの業務連絡みたいなもの」
「業務連絡て、真面目かっ」
「真面目でごめんなさいね」
ふん、と視線を逸らすと「ごめんて」と謝られる。それでも拗ねたようにしていると、「それでさ」とお得意の要領で話題を変えられる。けれど以前のような不快感は全くない。
「これから近くのクレープ屋に行くんだけど、瑠胡も来る? あ、メンツは女子だけの構成だから安心して」
「えー! 俺たち行けねーのかよ!」
「緋夏ちゃんに俺ら奢るよ?」
「女子だけとかずりぃ」
「ごめん! 今日は女子だけ、男子禁制でーす」
あの日以来、随分と柔らかくなった緋夏の人気度は男女共に爆上がりし、本当の意味でクラスのマドンナ的存在になった。わたしにもかつての取り巻きたちにも横柄に接することはなくなり、一緒にいてとても楽しい。
「瑠胡、どう?」
「うん、行こうかな」
うなずくと、「やった」とガッツポーズをする緋夏は、「琴亜も呼ぼうか」と言い、鞄を持った。
「先に昇降口で待ってるから、琴亜に伝えるのお願いしてもいい?」
「うん、いいよ」
快諾すると、安心したように息を吐いた緋夏は、友達数名と教室を出ていく。
わたしも鞄に荷物を詰めて、一年五組へと足を運んだ。
「琴亜ちゃん」
教室の戸のそばから声をかけると、くるりと振り返った琴亜ちゃんがパァッと顔を明るくした。「ちょっと待ってね」と返してから、何やら物を鞄に詰めている。数枚の手紙のようだった。毎日毎日大変だな、と半ば呆れながらそのようすを見ていると、ピロンとスマホに通知が届く。
【今日の夜、通話OKだよ。話したいって思ってた】
それはよく知った親友からのメールだった。液晶画面に【彩歌】と、表示されている。
久々にみる文字の配列に、胸が躍る。
以前はこわくて連絡をするのをやめてしまったけれど、やはり久しぶりに話したくて昨日メールをした。文字を打つ時は手が震えたけれど、もし断られてしまってもわたしは一人になるわけじゃない。そう思うと、ずっと抱えていた鉛のような感情が抜けていった。
それに、きっと彩歌は快く応じてくれる。一度連絡を断ったからといって、怒るような人ではない。
信じているから、彩歌を。
【やった!! うれしい】
フリックする手が、はやくはやくと急かされるように動く。迷わず送信ボタンを押すと、「ぽんっ」という効果音とともに、メッセージが送られた。瞬時に既読がつく。そして、【じゃあ夜楽しみにしてるね!】というメッセージとともにスタンプが送られてきた。
「おまたせ! あれ、何かいいことでもあった?」
いつのまにか支度を終えたらしい琴亜ちゃんが、可愛らしく小首を傾げて目の前に立っていた。
「うん。中学時代の親友と、久しぶりに通話の約束ができたの」
「それはいいね。中学の頃の友達って、やっぱり大事な存在だからね」
「うん。離れてみて、初めて気づくよね」
何度も共感を示すようにうなずく琴亜ちゃんは、「あっ、それで何の用だったの?」と思い出したように訊ねてくる。緋夏からの言葉をそっくり伝えると、「行きたい!」と目を輝かせた琴亜ちゃんはわたしの腕を掴んで廊下を歩き出した。ふわ、とシャボンの香りが鼻先をくすぐる。
すれ違うたび、男子たちが「古園さんだ」「やっぱ可愛いな」などと耳打ち合っている声がばっちりと聞こえてくる。以前であれば、自分との違いに落ち込んで、へこんで、病んでいただろう。となりを歩きたくないとか、そんな最低なことを思っていたかもしれない。
だけど今は、違う。
たとえたくさんの人がわたしを見てくれなくても、たった一人だけがわたしを見て、必要としてくれればそれでいい。先輩のいちばんでいられたら、他者からの目など関係ない。そう思えるようになった。
「緋夏ちゃん!」
「待ってたよ」
たたっと緋夏のもとへと駆け寄る琴亜ちゃん。二人の仲も良好そうで、本当によかったと息を吐くばかりだ。
「じゃあ向かいますか」
「はーい!」
きゃはっとした、明るいけれど騒がしすぎない雰囲気が広がる。いかにも女子高生のような、キラキラとした空気感に包まれながら、わたしたちはクレープ屋へと向かったのだった。
*
「先輩、来るかな」
思わず声に出していた。
ベンチに座って、電車を待つ。クレープを食べてから少し街を散策したため、いつもの電車よりも二本遅い。だから、もしかすると講義終わりの先輩に会えるかもしれない。そう思ったのだ。
「……会えると、いいな」
わがままを言ってはいけないとは思いつつ、やはり寂しいものは寂しい。会いたいし、話したい。この気持ちはずっと変わらない。
駅で待っていることは、先輩には伝えていない。どうせならサプライズで、びっくりさせたかった。
黙って線路を見つめたまま、ぼんやりと過去を偲ぶ。
わたしたちの出逢いは、この駅だ。あの日、あの時、ここにわたしがいなかったら。先輩がここにきてくれなかったら。わたしが自殺しようという気になっていなかったなら。先輩が助けてくれなかったら。わたしたちは一生他人のまま、終わっていたのかもしれない。
どれが欠けてもだめだった。どれかひとつだけでもエピソードが足りなかったら、今の形にはなっていない。
『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
ふと、珀都くんの言葉が蘇ってくる。偶然が積み重なったら、それはきっと必然だった。そんな勝手な解釈をしてしまいたくなる。
「ハクトくん……」
わたしの背中を押してくれたあの日以来、ハクトくんはもう夢に出てくることはなかった。弟の幸せを祈り、願い、わたしのことまで救ってくれた偉大な人。もし叶うのならば、この世界の彼を見てみたかった。
ベンチに座ったまま、視線を落とす。しんみりとした気分になっていると、ふと、となりに影を感じた。ウッディ系の落ち着いた香り。好きな人に酷似した香りと雰囲気が、風にのってわたしに届く。
「せん……っ」
思わず言葉が止まる。そこにいたのは、先輩に似ているけれど、全く違う誰かだった。薄茶色の髪が静かに風に揺れ、あたたかなまなざしは、まっすぐにわたしを見つめている。輪郭がぼやけていて、今にも消えそうな儚さを纏う彼。
「……ハクトくん」
きっと彼が高校生だったら、この姿になっていたに違いない。そう確信できる何かがあった。
伝えなきゃ、彼にも。たくさんの想いと感謝がある。
「わたしのこと、助けてくれて……救ってくれて、ありがとう。居場所を作ってくれて、ありがとう。背中を押してくれて、応援してくれて、ありがとう」
もっとたくさんのありがとうがある。彼がわたしと先輩に与えてくれた優しさは計り知れない。
「わたしね……夢、見つかったよ」
将来やりたいことが見つからなくて、高校にきた意味すら分かっていなかった。何をやってもうまくいかなくて、毎日死にたいと嘆きながら、そんな勇気が出なくて苦しい日々を過ごしていた。けれどそんな自分でも、こうして前を向くことができた。自分を変えることができるのは自分だけだけれど、自分を救ってくれるのは自分だけではない。他の人と関わり合い、支えられて、もう一度立ち上がることができる。だってもともと立っていたのだから。自分の足で立つ力を、本来は持っているのだから。
歩みだすのではなく、その前段階、『もう一度立ち上がる』ための手助けがしたい。
「人の心を助ける仕事がしたい」
臨床心理士、公認心理師、心理カウンセラー。さまざまあるものの中で、これといった職業はまだ決まっていないけれど、自分に何がしたいのか、どんなことに興味があるのか、まっさらな状態から、ここまでキャンバスを塗ることができた。
『……いい夢だね。応援しているよ』
頭に直接響くような声。夢の中よりも低くて、あたたかい声だった。
静かに微笑んだハクトくんは、『ありがとう』と小さく呟いて、すうっと溶けるように消えていく。水色の瞳が、最後に小さく揺れた。
「珀都くん……」
くん呼びに違和感を感じてしまうほど、彼はどう見ても高校生だった。誰も見られなかった姿を、わたしだけが知っている。
わたしの将来の夢は、ハクトくんしか知らない。あの青い夢を通して、わたしたちは互いに秘密の共有をしたのだ。
物思いに耽っていると、遠くの方から足音が近づいてくる。
(きっと先輩だ)
すぐに分かった。足音だけで、分かってしまう。
疲れた表情でホームに入ってきた先輩は、ベンチに視線を流し、わたしの姿を捉えると目を丸くした。立ち上がって駆け寄ると、泣きそうな顔で口角を上げた先輩が両手を広げる。
「先輩……!」
迷わず飛び込んで感じるあたたかさ。顔を上げると、先輩が大好きな顔で笑っている。
「どうして……待っててくれたのか?」
「さっきまで友達と遊んでたんです。この時間なら先輩に会えるかもと思って、ちょっとだけ」
並んでベンチに座り、会話を交わす。ハクトくんがいた場所に、今度は先輩が座っている。そのことに、なぜだか少しだけ泣きそうになった。
「瑠胡ってさ……毎朝、花の世話してるだろ」
「え、どうして知ってるんですか」
「見てた……から、かな」
突然そんなことを言われて困惑する。周りには誰もいないことを確認していたのに、まさか。
いつ、どこで見られていたのだろう。
『綺麗に咲いてるね』
『わたしもいつか、咲けるといいなあ』
花に向かって話しかけているところも見られていたかもしれないと思うと、あまりの恥ずかしさに逃げ出したくなる。誰もいないと思っていたのに、いったいどうして。
「実は、さ」
先輩は照れたように頭を掻きながら、暗色が混ざる空を見上げた。
「毎朝学校図書館で勉強してると、窓から花壇が見えるんだよ。……引かれるのが怖くて黙ってたけど、言うわ」
瞳を揺らした先輩は、少しだけわたしに近づいた。それだけであっという間に縮まる距離。手を伸ばせば、お互いが簡単に触れられてしまう。
「毎朝瑠胡を見るたびに、いつかちゃんと話してみたいって思ってた。瑠胡を見ると、勉強も医者の夢を追うことも頑張ろうって思えたんだ。初めて見たときからずっと、俺は瑠胡のことが好きだよ」
言葉の端に混ざる、柔らかい口調と声音。それが向けられているのは、世界中どこを探してもわたしひとりだけ。今この瞬間、先輩の瞳はわたしだけを映している。
ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。たったそれだけのことに、喜びを感じることができる自分がいる。
たぶん、あの日から。ホームで救ってもらったあの瞬間から、わたしの時間は再び動き出していた。
「駅のホームで出会ったあの日、一生分の運を使い切ったと思うくらい、ほんとはすげえ嬉しかった」
でも死にかけてて焦ったけど、と先輩は笑う。
「助けられて本当によかった」
それは心からの安堵を交えた言葉だった。幸せを噛み締めていると、カーンカーンと踏切の音が鳴りだす。
立ち上がると、同じように立った先輩が振り返った。
「瑠胡」
「はい」
名前を呼ばれて返事をすると、少しだけ首を傾げた先輩がわたしを見下ろしていた。そして、少し躊躇いがちに言葉が紡がれる。
「教室まで迎えに行こうか」
ちらりと試すように向けられた視線に、ふるふると首を横に振る。それは、わたしの意思を試す言葉というよりは、お互いの考えが一致しているのを確かめるような質問だった。
「いえ、大丈夫です」
微笑みながら断ると、「だよな」と同じように笑顔が返ってくる。
ーー好き。
クシャッと愛らしく向けられた笑顔に、胸の内からあふれる想い。
付き合っているのなら、という先輩なりの配慮だったのかもしれないけれど、わたしはこの駅で彼と待ち合わせたい。それはきっと、彼も同じだったのだろう。
出逢った駅で、一日の話をして、笑い合って、一緒に帰る。そんなささやかな幸せでいい。それだけでわたしは十分生きていける。
「待ち合わせは、この駅で」
「了解」
スっと伸びてきた先輩の手が、ポン、と頭にのる。
それがなんだか恥ずかしくて、それでもやっぱり嬉しくて、無意識のうちに頬が緩んでしまう。
「ありがとうございます、琥尋先輩」
「うわ、すっげえ不意打ち……」
言葉にしよう。伝えよう。
思いを共有して、同じものを分け合って、与え合う日々は、きっと彩りあるものになる。ずっと嫌いだった春も、四月も、季節が巡れば必ずやってくる出逢いと別れも、今はすべてが愛おしい。
照れを噛み殺していた先輩の目が、スッと細くなり、色を含む。まっすぐな瞳がわたしをとらえ、薄い唇から静かな音が紡がれた。
「これから先も、何度だって助けにいく。四月の瑠胡が笑えるように」
ほんのり色づく頬と、風にのって届く春の香り。
キイ────と、目の前で電車が止まる。
「帰るか」
「はい」
そっと差し出された手をとると、わずかなぬくもりが伝わった。
「ねえ、先輩」
電車に乗り込む瞬間、ふと言葉にしたくなって、手を引かれたまま呟く。先輩に教えてもらった、大切な気持ちが、溢れた。
わたしは春という季節が、四月という月が、目の前で笑顔を咲かせるあなたのことが──
「───…だいすき。」
四月のきみが笑うから。 了
何度だって助けにいく。
四月のきみが笑えるように。