───────
─────
あたたかい夢の中にいた。ふわふわと漂う意識は、まるでクラゲにでもなったかのようで、不思議な気分に陥る。眩い光がからだを包み込むように広がり、空と海を取り込んで揺れていた。
『瑠胡ちゃん……!』
遠くのほうから、誰かが駆けてくる。出会った時と同じくらい距離があるけれど、すぐにハクトくんだと分かった。わたしも小走りで近寄ると、あっという間に互いの顔が見えるほどの距離になる。
『今日頑張ったんだね。瑠胡ちゃんの姿、見てたよ』
「えっ……ハクトくん、いたの?」
その問いに、彼は微笑むだけだった。さらりと吹く風が頬を撫でる。瞳を揺らした彼は、薄い唇を開いた。
『瑠胡ちゃんは間違いなく成長しているよ。出会ったときよりも、ずっとね』
「そう、なのかな」
『うん。僕が保証するよ』
胸を張るハクトくんは、また微笑む。こんなにあたたかい表情をされたら、勇気を出して行動してよかったと心から思う。
ひどく大人びて見えるハクトくんは、一歩わたしに近づいた。ふわ、と鼻腔をついた香りは、深い森のようなもの。兄弟だと匂いまで似るのだろうか、と微笑ましく思ったときだった。
『だけど瑠胡ちゃん、まだやるべきことが残っているよ』
諭すような口調に、まどろみかけていた意識が戻る。彼の言葉の意図が分からなくて、「やるべきこと?」と問いかけると、強くうなずいた彼はわたしの手をとった。
子供の体温なのかと驚いてしまうほどに、ひどく冷たい手だった。
けれど、リアクションをする暇もないまま、『お願い、瑠胡ちゃん』と透き通る瞳がわたしを見つめた。
『瑠胡ちゃんにしか、できない。瑠胡ちゃんにしか頼めない。アイツは昔から不器用で、素直になれないやつだけど……だけど本心は違う。大切なものだからこそ、守り方が分からないんだよ。傷つけたくないから、自分から離そうとするやつなんだ』
「……うん」
『これが僕にできる最後のことだから。素直になれないアイツを、誰よりも優しいアイツを、今度は瑠胡ちゃんが救ってやってほしい。お願いばかりでごめ……』
「もちろん、そのつもりだよ。ウザがられても、嫌がられても、伝えにいくって決めたから。ハクトくんに頼まれたからじゃない。わたしの意志で、助けに行くの」
ぎゅっと手を握ると、同じ強さで握り返される。その手はわずかに震えていた。
わたしを変えてくれた人。何も言わないまま、離れてしまうなんて。そんなこと絶対にできないと、さっき自分の口から出てくる言葉を聞きながら、思った。
たとえ終わりが来たとしても、わたしは彼とのはじまりを見てみたい。怖がって、恐れて、はじまりから逃げたくない。
「わたしには、先輩が必要みたい。だから、いってくるね」
にっ、と笑うと、泣きそうな顔をしたハクトくんは、もう一度うなずいた。キラリと目に光るものは、いちいち説明する必要などないだろう。
『いってらっしゃい、瑠胡ちゃん』
「いってきます」
視界がぼやけていき、急激に意識が引っ張り上げられていく。
海底から浮き上がった泡が、水面でパンッと弾けてしまうように、わたしの意識もまた、はじけた。
*
「っ……!!」
真っ白な視界がクリアになっていく。最初にわたしの目がとらえたのは、前髪をめずらしく左右に分けている琴亜ちゃんだった。
「瑠胡ちゃん……!? よかった、目覚めた! 今先生呼んでく……」
「琴亜ちゃん」
待ってというように手を伸ばして制すると、彼女はあげた腰をおろして丸椅子に座り直す。それから会話がしやすいようにと、横になるわたしを少し覗き込むような体勢になった。
「いつから……されてたの、あんなこと」
喉が詰まって苦しい。掠れていてところどころ声が消えてしまうけれど、なんとか絞り出して訊ねる。
「いつからだったかな……でも最近? なんだよね。あんまり覚えてないけど」
「覚えて、ないの?」
「なんていうか……こういう恋愛関係? のゴタゴタって日常茶飯事で。もう慣れたっていうか……まあ、慣れるものではないと思うんだけどね」
彼女はへにゃりと力の抜けたような顔で笑った。
「もちろん私はなにもしてないの。一部の人たちからなんでだか知らないけど、色々思われちゃうらしくて。でもきっと贅沢な悩みって部類に入るのかなって思って、誰にも言ってこなかった。あなたの彼氏が勝手に好きになってきたんです、なんて口が裂けても言えないよ」
「それは贅沢な悩みなんかじゃないと思う、けど」
「え?」
「声を上げてもいい、ちゃんとした悩みだし、いじめだよ」
手を伸ばすと、慌てたように握られる。指先が少しだけ冷たかった。
「……ありがとう、瑠胡ちゃん。本当に……」
「ううん。わたしはただ、当然のことをしただけだよ。初めて会った日、琴亜ちゃんがしてくれたことのお返しがしたかった」
お返しになったのか分からないけど、と続けると、首を振った琴亜ちゃんは、大きなアーモンド型の目に涙を浮かべる。
「助けてくれて、嬉しかった。瑠胡ちゃんの言葉に救われた人、たくさんいるよ」
「……そう、だといいけど」
ふっと笑うと、強く頷きが返ってくる。倒れる前に見た、緋夏とその他の子たちの泣きそうな顔が浮かんだ。
「少しでも届いてたなら、よかったぁ……」
「瑠胡ちゃんはすごいよ」
安堵で息を洩らすと、ぎゅっと手を握ってくれる琴亜ちゃん。しばらくそうしていて、ふと気がついた。
「そういえば……ここまで運んでくれた……んだよね? ありがとう」
むくりと身体を起き上がらせるのと同時にお礼を言うと、「え、違うよ?」と琴亜ちゃんは首を横に振った。
「ここまで運んできたのは私じゃないよ」
「え……じゃあ、いったい誰が」
「背の高い男の人。たぶん先輩なんだろうけど……すごく焦った顔してた。私てっきり、瑠胡ちゃんの彼氏さんかと思ってたんだけど」
今度はわたしがぶんぶんと首を振る番だった。
「わたし、彼氏なんて」
「え、じゃああれは誰なんだろう。すごくかっこよかったんだけどな」
心当たりがあるとするなら、たった一人だけ。
だけど、期待するなと脳内の自分が叫んでいる。
ふわりと鼻腔をついた優しい香りも、あたたかさも、わたしはすべて知っている。間違いない。わたしをここまで運んでくれたのは。
『素直になれないアイツを、誰よりも優しいアイツを、今度は瑠胡ちゃんが救ってやってほしい』
『もちろん、そのつもりだよ。わたしの意志で、助けに行くの』
夢の中の言葉が蘇ってくる。
「わたし……行かなきゃ」
ベッドから降り、保健室を出ようとすると、「待って瑠胡ちゃん」と呼び止められる。振り返ると、焦ったような顔でこちらに手を伸ばす琴亜ちゃんがいた。
「まだ身体冷えてるかもしれないのに、危ないよ。それに、先生に健康観察してもらわなきゃ」
「ごめん、琴亜ちゃん」
きっと彼女は、わたしが目覚めるまで、ずっとここに座って待っていてくれたのだろう。そんな彼女を置いて飛び出すなんて、失礼極まりない行為かもしれない。
「だけど、行かないといけないから」
「どこに……?」
「────信じてる人のところに」
嫌いだと言われて突き放されても、邪魔者扱いされても、迷惑がられてもそれでもいい。ただ、わたしは向かわないといけない。そう誰かが告げていた。
過去のわたしか、未来のわたしか、今のわたしか。行け、走れと、そう叫びながら背中を押すのだ。
「わかった。いってらっしゃい、瑠胡ちゃん」
何かを悟ったように強くうなずいた琴亜ちゃんは、目を細めて手を振った。うなずきを返して、保健室を飛び出す。
がむしゃらに廊下を走った。通り過ぎる人たちの視線が刺さるけれど、そんなものはもうどうでもよかった。
(先輩に好きだって伝えよう。それで最後にするから、全部ぜんぶ話してしまおう)
拒絶されても、それでもいいと思った。この気持ちを伝えた先にある結果なら。
『俺が思わせてみせるよ』
『瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい』
『俺のこと、信じろとは言わないけど────信じていいよ』
『死にたいわけじゃねえけど、生きたくもなくなんの。あの感情って何なんだろうな』
嫌われるのが怖かった。好かれなくてもいいから誰からも嫌われたくないと、そう思いながら人の機嫌をとって生活していた。誰にも理解されない苦しみを抱えながら、それが当然なのだと諦めていた。
だけど。
彼と出会って、彼の考えに触れるたび、わたしの中の何かが静かに、けれど確かに動きだす音がした。普通になりたかったはずのわたしが、唯一、特別を願ってしまった。
世界中から非難され、後ろ指を指されたとしても、彼が、彼だけが、笑顔でわたしを迎えてくれるのなら。
どんなことでも、できるような気がした。
『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい』
『アイツはすごく弱いから。僕よりもずっと、脆くて弱いやつだから』
ハクトくんは言っていた。そろそろ先輩が壊れてしまうと。あんなに強くて、立派で、まっすぐに前を向いている先輩が。
この先で、壊れてしまうのだと。
『きらい……だよ』
走っていって引きとめて、話を聞くべきだった。ウザがられても、真正面からぶつかっていけばよかった。なにを素直に納得していたのだろう。
わたしはまだ、彼の『心』に触れられていない。いつも助けてもらうばかりで、わたしが彼に何かをしてあげられたことなんて、ひとつもないのだ。
電車に飛び乗り、吊り革に捕まる。窓からのぞく空は晴天。どこまでも晴れ晴れとした、美しい眺めだった。
ーー先輩はきっとあの場所にいる。
確証なんてないけれど、確信していた。わたしが目指す先に、きっと先輩はいる。
降車し、電車を見送ることすらしないまま夢中で駆けだす。
徐々に息が上がるけれど、止まることなく足を動かした。夢で何度も見た青い世界へと、必死に走る。
この先に、彼らの思い出の場所に、先輩はいる。
海と同じほど真っ青な空が、ただまっすぐな想いを包み込むように広がっていた。
走って、走って。呼吸が苦しくなっても、止まることなく必死に走った。
遠い遠い堤防にすらりと立つ影が見える。あの姿は先輩だと、はっきりと思えた。
「琥尋先輩……!!」
大声で名前を呼んだ瞬間びくりと先輩の肩が震えた。それでも振り向かない先輩は、目の前に広がる海を眺めて佇んでいる。
「先輩……!」
何度も何度も呼んで、距離を縮める。あと一歩踏み出せば海に落ちてしまう。そんな場所に、先輩はいた。
「やっぱりここにいたんですね。もう少しこっちに来てください、先輩」
「何で来たんだよ。俺は瑠胡が……きら────」
「わたしは好きです」
ヒュ、と先輩が息を呑んだ音がした。先輩が発している雰囲気が、この世界を拒絶するかのように深く深く広がっていた。けれどそんなもの、わたしがいくらだって取り払う。
「わたし、先輩のことが好きなんです。先輩はわたしのことが嫌いでも、わたしは違う。だから、最後に全部伝えてしまおうと思ったんです」
「……困るんだよ」
「それでもいいです。自己中心的でも構いません。ウザがられても、迷惑だと嫌われても、それでもわたしは先輩が好きですから」
やっと言えた。こんなふうに一方的に感情をぶつけることが、正しいとは言えないけれど、それでも。
「先輩、こっちに来てください。落ちてしまいます」
何も言えないまま別れになることを思えば、最善の選択だったと言えるだろう。まだ動かない先輩は、黙ってわたしの言葉を聞いている。
「先輩。どうしたんですか」
ただそれだけを訊ねた。大丈夫ですか、とは訊かなかった。訊いてはいけなかった。
先輩はわたしに「大丈夫」かどうか、訊ねたことは一度もない。
大丈夫? と訊かれると、決まって大丈夫だと答えてしまう。今まで向けられたその言葉は呪いのようで、心配されているはずなのに、とても苦しかった。
背を向けたまま、風に髪を揺らす先輩は、こちらを振り返ることなく、小さく告げた。
「もう全部、やめてしまいたくなった。怖くなったんだ、すべてに」
夢、受験、将来、成績。そんなことしか思い浮かばないのは、わたしが彼を知らなすぎるせいだ。ゴールまでまっすぐに進んでいる先輩しか見たことがないから。いつも笑っている先輩しか見たことがないから。
振り返った先輩が浮かべた、今にも消えそうな微笑に、わたしは思わず息を呑んだ。
「こわいんだ……自分で決めたくせにこわいんだよ、俺」
「受験することが、ですか」
「もっと広い全部のことが。その先で、将来の自分が本当に満足できるのか、分からなくなった」
目の際が赤くなっている。こんなにも弱っている先輩を見るのは初めてだった。
「アイツだったら、なんていうかな」
乾いたように笑う先輩は、今にも泣きそうな表情をしていた。
そんな顔をする先輩を見るのだって、弱音を聞くのだってこれが初めて。弱さのかけらを微塵を見せなかった彼が、もう耐えられないとわたしに告げていた。
アイツ。
彼の口から出るその対象は、いったい誰なのか。もし、わたしの予想が当たっているのだとしたら。
「……弟さん、ですよね。先輩の弟の、ハクトくん」
その名前を告げた瞬間、先輩の目が見開かれる。その表情を見て、確信した。ハクトくんはやはり先輩の弟なのだと。
夢と現実は繋がっている。そんなファンタジーのような不思議な出来事も、今なら信じることができる。
「どこで、その名前を」
信じられないといったように息を呑む先輩の額には汗が浮かんでいた。ここで焦ってはダメだと自分を落ち着けて、低いトーンのまま話を続ける。
「こんなこと、信じてもらえないかもしれないですけど」
今から話すことは、『絶対』のない話。うそだと突っぱねられてしまえば、うなずくしかないような話であることは自分がいちばん分かっていた。なにせ、夢と現実の狭間にあるような話なのだから。
だけど、先輩ならどんな話でも聞いてくれるような気がした。彼になら話してもいいと、過去を積み重ねてきたわたしが言っている。
「実は四月に入ってから、何度もみる夢があって。そこに、ハクト、っていう男の子が出てくるんです」
あまりにも普通に会話できてしまう状況が、初めはただただ怖かった。ありえないほど"自然"な空間すぎて、現実かと何度も疑ってしまった。
「先輩と、すごく似ていて。笑顔のつくり方も、言葉も、重なるところがたくさんあって。だから兄弟なのかもって、ずっと思っていました」
「そんなことが、あるのかよ」
「わたしも不思議なんですけどね。先輩とくるより先に、この海にも来ていました。ハクトくんと会うときは、必ずこの海が舞台なんです」
両者にとって、きっとここは思い出の場所。そんな場所をわたしにも共有してくれた。それがたまらなく嬉しい。
息を吐いた先輩は、しばらくして口を開いた。依然として、わたしとの距離を縮めることはないまま。
「確かに俺と珀都は兄弟だけど……でも、瑠胡の予想は違う」
「え」
「珀都は俺の、兄貴だ」
「え?」と声が洩れる。一瞬聞き間違えたかと思ったけれど、「俺の兄ちゃんだよ」ともう一度先輩が繰り返したことで、やはり聞き違いではないのだと理解する。
「え、でも。ハクトくんは、先輩より小さい男の子、で……」
言葉が消えていく。先輩の横顔がなんとも言えない儚さと切なさが混ざったように歪んでいて、それ以上言葉を紡げなくなった。
黙り込んだわたしをみることなく、視線を海に流した先輩が口を開く。その唇は、わずかに震えていた。
「死んだんだ。俺が、殺した」
「……え」
「この海で、俺がアイツを殺したんだよ」
聞き馴染みのない言葉に息が詰まる。ゆっくりと目線を上げて、先輩の瞳を見つめる。その目に宿る光は、出会ったときから変わらない、ただひたすらにまっすぐなものだった。
(やっぱり、綺麗な目)
不思議だ。"殺した"だなんて、恐ろしい言葉が出ているのに、ちっとも怖くない。それは、その言葉をそのまま受け取ってはいけないと分かっているから。わたしが彼を信じているからだろう。
「どうせ……あれですよね? 自分は彼を助けられなかった、目の前で亡くしてしまった、そういうことでしょう?」
「どうして」
「先輩は……罪悪感に悩まされて、苦しんで、いつも無理をしている優しい人です。じゃないとそんなつらそうな顔してないでしょう」
いつかの日、先輩がそう言ってくれたみたいに。同じ言葉を、今度はわたしが返す番。
彼はきっと、わたしが思っている以上にずっと脆くて、弱い人だ。だけどその脆さも弱さも、ずっとずっと抑え込んで隠して生きてきた、紛れもなく強い人。
「教えてください、先輩。話すだけでも、楽になることだってあります。わたしはそう、習いました」
しばらく口を結び、その唇を震わせていた先輩は、意を決したように向き直った。それだけでわたしたちを取り囲む空気がガラッと変わる。
ひや、と背筋を汗が伝った。
「俺の兄貴……珀都は、この海で、死んだ。自分で飛び込んだのが、最後だった」
「それは……何歳のときですか」
「俺が八歳で、アイツが十歳のとき」
夢の中の珀都くんと同じくらい。珀都くんの時間は、あのまま止まってしまったのだ。今までの言動を振り返ってみると、たしかに納得できる。年齢に似合わない大人びた表情や、不思議な言葉の数々。それらは全て、珀都くんの中身だけが成長してしまったせいだろうか。
「どうして……って、きいてもいいですか」
踏み込んだ質問だから、慎重にもなる。おずおずと訊ねると、「ああ」と少しうなずいた先輩は、海の先を見つめた。
「……病気だったんだ。小児がん」
あまりにも重い響きに、頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。
だって、あの珀都くんが? いつも夢の中で微笑んでいる彼が?
信じられなかった。言葉にも顔にも身体にも、病気を潜めた素振りなんていっさい見せなかったから。彼はただ、琥尋先輩という兄のことが大好きな弟。それだけに見えていたというのに。
「昔から何でもできるやつだった。勉強も運動も出来て、大人びてるのに子供っぽいところもあって、とにかく完璧なやつだった。周りの人たちからもすげー褒められて可愛がられてさ。逆に俺は出来損ないで、子供ながらに俺、疎外感半端なくて」
「……うん」
「だけどそれを認めるしかないくらい、めちゃくちゃ優しくてさ。少しは嫌なやつだったら、それなりに嫌いになれたんだろうけど。本当に、非の打ちどころのないような兄貴だった」
「……うん」
「弱さとか、絶対に見せなくて。だから本当に病気なのかな、俺を騙すための嘘なんじゃないかなって、ずっとそう思ってた」
相槌を打つたび、反応をうかがうように視線がわたしに向く。話すことを怯えているような目だった。
「だけど……珀都が自殺する日、一緒にここに来て。それで、同じようにここに立って、アイツは俺の目の前で、この海に飛び込んだ」
「……っ」
「死にたい、もう苦しい、って、俺に泣きながら言うんだよ。ついには『お願いだから死なせてくれ』って。まだ……まだ十歳だったのに」
「……っ、せんぱい」
思わず近寄って、震える身体を抱きしめた。びくりと跳ねたのち、ゆるりと緩くなる。
どんなにつらかったことだろう。珀都くんも、先輩も。
聞いているわたしですら、つらくて泣いてしまいそうなのに。
「俺、それ言われて何もできなくて。もう生きたくないって言ってるやつに生きろって言うのは、ものすごく残酷なことなんじゃないかって。ここから消えるっていう手段すら奪っておいて、この世界での幸せの保証なんてしてやれないのに、そんなの無責任なんじゃないかって」
「……それで、先輩は」
「助けられなかった。突然すぎて動けなかったし……なにより俺は怖かった。飛び込むことなんてできなくて、見ていることしかできなかった」
ぐっと唇を噛んだ先輩は、まっすぐにわたしを見つめた。充血した目は、それでもなお光を失ってはいない。スッとわたしの心に差し込んでくる、あたたかな木漏れ日のような光。
「だから駅で瑠胡を見たとき、咄嗟に身体が動いてた。今度は、動けたことにすごく安堵して、それと同時に思ったんだ。俺は選択肢を奪ってしまったんじゃないかって」
先輩の手が、わたしの手を握る。小刻みに揺れる指で、包み込むように握られる。
「死ぬのって勇気いるだろ? 簡単にはできないよ。よほど悩んで、苦しんで、葛藤した先の結果だと俺は思うから。だけど俺は、瑠胡に生きてほしかった。これは俺のただのわがままかもしれないけど、それでも俺は、瑠胡に死んでほしくなかった」
「わたしも……助けてくれて、嬉しかったです。本当に感謝しています」
「生きたいって思わせるとか、そんなふうに豪語したけど、俺はちゃんとできてる?」
強くうなずくと、安堵したように息を吐いた先輩は、「よかった」と呟いた。
「先輩はすごい人です。はじめから、わたしの中ではずっと」
握った手に力を込めると、ふるふると首を横に振られる。
「俺はそんなにすごいやつじゃないよ。なにせ今、逃げようとしてたところだったんだから。ていうか、実際逃げたし……な」
「えっ」
「何でもできるアイツが羨ましかった。いつも比較されて、いちばんを奪われていくのがつらかった。だから病気に勝てたら、そしたら……珀都に勝てると思った」
何回か呼吸を入れながら、ゆっくりゆっくり話す先輩。静まり返った世界の中で、先輩の心の声だけが、わたしの耳へと届く。
「ただそれだけのクソみたいな理由で、俺は医者を目指してた。アイツが勝てなかった病気に勝ちたい、それだけなんだ。こんな最低なやつが人の命救いたいだなんて、笑えるだろ」
「でも、先輩」
「そのつもりで勉強してきたのに、そんな半端な気持ちでこの先続けていけるわけない。将来の自分が笑えているのか分からないのに、重圧背負いながら勉強して、俺は何やってんだろうって自分の存在理由が分かんなくなった」
それで、ここに。すべてを吐き出してしまうために、先輩はこの場所にいたんだ。
ふ、と息を吐いて少し目を閉じた後、先輩はまた口を開く。
「瑠胡に弱さを見せたくなくて、怖くなって、逃げた。俺がいなくても瑠胡はもう十分立派に生きていける。そう思ったら、もう俺がそばにいる理由なんてないんじゃないかって」
先輩も、先輩のお兄さんも、弱さをみせるのが下手くそだ。糸がちぎれてしまうギリギリまで我慢して、ほぼちぎれた頃に吐き出すのだから。
『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい。こんなこと、瑠胡ちゃんにしか頼めないんだ』
僕にはそれすらもできないから────。
珀都くんの言葉がフラッシュバックする。
彼の目が、わたしにそう訴えているような気がした。
笑ったとき、目尻にしわがよるところ。口の右端がちょっとだけ上がるところ。微笑んだときの表情と仕草が、思えばいつも重なっていた。
そしていちばん似ているところは、互いが互いを好きなところ。
「人の命助けたいとか、憧れだとか、そんな理由じゃないから幻滅しただろ」
自嘲する先輩は、わたしの手をそっと離した。まるで自分とは別物だと、そう言われたような気がした。
「いいんじゃないですか、理由なんて」
気づいたら口からこぼれていた。わたしの言葉に顔をあげた先輩は、何かを期待するような瞳でこちらを見つめる。
もしかするとこの人は、自分が言ってほしい言葉を、わたしにくれていたのかもしれない。同じように気持ちがわかるからこそ、わたしがいちばん求めていた言葉を、そっと手渡してくれたのかもしれない。
「医者になりたい理由も、存在理由も、わたしのことを先輩が助けてくれた理由も、そばにいてくれた理由も、わたしが先輩を好きな理由も、きっと必要ないと思います。ただ、そうなる運命だっただけ」
運命、という言葉に、自分自身の体温が上昇していく気がした。
けれど、ありのままの気持ちを伝えたくて、口が動くままに声を出す。
「それで片付けたら、ダメなんですか?」
「……」
「それに先輩は、ちゃんとわたしのことを救ってくれました。先輩のおかげで、確実にわたしの命は助かったんです。人の命を助ける理由なんて、なんでもいいと思います。ただ、医者になりたいってだけで、仕事を全うして、救える命を救うことができれば、それでいいと思います」
すうっと息を吸う。この先を続けるのはすごく怖いけれど、素直な気持ちをぶつけてしまおうと思った。これが最後になってしまうかもしれないから、後悔はしないように。
「この先、先輩が不安なら、今度はわたしが先輩を笑顔にできるように頑張ります。どんな選択をした先輩のことも、となりで支えていきたいです。だから……その」
「悪い」
口を開閉している間に告げられて、喉まで出かかった声を呑み込む。覚悟はしていたけれどはっきりと言葉にされると思っていた以上につらくて、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
生ぬるい風が、頬をひどく優しく撫でてゆく。
やはりわたしでは、先輩のとなりには並べないらしい。
突きつけられた事実に、胸が張り裂けてしまいそうなほど痛くなる。
こんなに想っていても、届かない気持ちはある。だからこそ世の恋人たちは、想いが重なり合った奇跡を、大切にしていくのだろう。
ペコリと頭を下げる。用が済んだら、すぐに立ち去ろうと思った。
「……わ、分かりました。色々でしゃばって、すみませ────」
「俺、瑠胡に嘘ついた」
落とされた言葉に顔を上げると、そこにはひどく優しい顔があって、思わず息が止まりそうになる。今にも泣きそうな顔をしている彼は、ふっ、とその瞳に夜のような光を宿した。
(懐かしい。出逢った時の色をしてる)
魅力的すぎて眩しくなるような色。わたしは初めからこの瞳に囚われていたのかもしれないと、今になってぼんやりと思う。
静かに目を伏せ、深呼吸した先輩は、それからゆっくりと目を開ける。その瞳には、迷いも憂いも含まれていなかった。硝子玉のような瞳のなかにわたしがいて、まるで夜に溶け込んでいるかのようだった。
唇が、動く。この瞬間が来ることを、心のどこかで期待していた。きっと、出逢った時から、ずっと。
「俺、瑠胡が好きだ」
波の音も、鳥の鳴き声も、木の葉のざわめきも、全てが消えた。先輩の声だけがわたしの鼓膜を震わせ、心の内にあたたかさを運んでくる。
「それなのに怖くなって、嫌いだって嘘ついて逃げた。本当に悪かった」
「……せん、ぱい」
「瑠胡は初めから、俺にとって特別だよ」
先輩の口から発せられる言葉が信じられなくて、息を呑んでいると、やや緊張したように顔を強張らせた先輩は言葉を続ける。
「やっぱ自分で決めた道だから、俺頑張ってみるよ。アイツが負けた病気に、今度こそ勝ってみせる。……いや、そもそもアイツは負けてなんかないから」
彼らはやっぱり、お互いのことが好きだ。なかなか素直になれなくて、すれ違っている部分があったとしても、互いに支え合っている。
その兄弟『愛』は、決してくだらないものなんかじゃなかった。素敵で、神秘的で、誰にも侵せない愛の形。
「これから先、色々と迷惑かけるかもしれないけど、それでも俺は瑠胡と一緒にいたい。瑠胡に応援していてほしい」
小さく息を吸った先輩は、まっすぐに告げた。海がザーッと音を上げ、それから一気に静まる。世界が、わたしたちに時を合わせてくれているような気がした。
すべての時が、止まる。
「俺のとなりで、ずっと笑っていてほしい」
それがどういう意味なのか、いちいち聞かなくたってわかった。信じがたくて、それでも信じたくて、泣き笑いのままうなずく。
「もちろんです」
狂おしいほどの想いが涙とともに溢れて止まらない。
先輩の目元からも、きらりと何かが溢れたように見えた瞬間、あたりが一気に青い光に包まれた。
冷たさ、静けさ、寂しさのなかに混ざるあたたかさ。心を鷲掴みにされて、何度も揺さぶられる。この美しい景色を、なによりも大切な人と共有できている奇跡をゆっくりと噛み締める。また涙がこぼれた。
「見れた……先輩と一緒に、見られたんですね」
「これが、俺のいちばん好きな景色だよ」
果たされた、約束。
諦めなくてよかった、向き合ってよかった。自分をさらけ出して、相手の心に触れられてよかった。今までの道で間違えることは何度もあったけれど、今ここに辿り着くための道のりとして、それらは全て間違いではなかったのだ。すべて、正解の道。
視界に映るすべてが青色に染まる。先輩の瞳だけではなく、髪も、肌も。全部が鮮やかな青だ。
ぽろ、と一筋の涙が頰を伝って落ちる。
「瑠胡の目も、青」
わたしの目を覗き込んだ先輩が、そう言ってふっと笑う。至近距離で見つめられて、ドクドクと鼓動が響きだした。
「涙まで青い。泣くなよ、瑠胡」
呆れたように笑う先輩の指が伸びてきて、優しく目元をなぞる。それだけで、留まることを知らない涙はどんどん溢れ出していくから。
「しょうがねえな。向こう向いて、瑠胡」
意味がわからないまま反対側を向くと、そんな言葉の後にぐっと抱き寄せられて、先輩の香りが鼻先をくすぐった。
「出会った時から、こうしないと泣き止まねえから」
景色が見えるようにと、そんな配慮までされた結果、バックハグのような状態になってしまった。
どうしてだろう。死のうとしたあの日、抱きしめられたところからわたしたちは始まっているのに、あの時とは心音がまるで違う。今はただ、トクントクンと、聞いたことのないほど甘やかな音が、控えめに鳴っているのだ。
「……迎えにきてくれてありがとう」
ぽつりと先輩が呟く。まるでこの瞬間を噛み締めるように。
「いえ」
「よくここが分かったな」
「まぁ……好きな人の、ことなので」
漫画やドラマで、ヒロインの居場所をヒーローがちゃんと分かって助けに来るシーン。その逆も然りだけれど、読むたびに違和感を覚えていた。どうして分かるのだろうと、単純な疑問だった。
だけど、今ならなんとなく分かる。
自分でもよく分からないけれど、好きだから、わかるのだ。
「……瑠胡ってわりと無自覚なところあるよな」
「そう、でしょうか」
「うん」
迷いなくうなずく先輩と一緒に、約束の景色を見つめる。ふわりと香る先輩の香りが、今はやけに近くて、波の音に勝るくらい大きな鼓動が響きだす。
「きれい……とっても、きれい」
「ああ、きれいだな」
「わたし、生きててよかった。これからも、ずっと生きていきたい」
美しい世界を見るために。ずっとずっと、彼のとなりで笑うために。
先輩がいるから、わたしはこの世界を彩りあるものとして生きていけるんだ。そしていつか、わたしも先輩の豊かな世界のために生きていけるようになりたい。
「よかった」
「ちゃんと思えました。たとえ先輩がいなくても、生きたいって思えるようになりました」
もう会えないと告げられた日、たしかに先輩が離れていってしまった日、一瞬猛烈に死にたくなった。けれど、とどまることができたのはきっと、生きることで得られる幸せのかけらを見つけることができたから。
「だけど……わたしの世界が色づくには、先輩が必要です。だから、できるかぎり、先輩のとなりにいたいです」
先輩がいなくても生きていくことはできるけれど、こんなにも輝きある世界を生きていくことはできない。
先輩がとなりにいてくれるから世界に色がついて、先輩が笑うから毎日が楽しくなる。つらいこと、悲しいことがあっても、もう一度前を向こうと思うことができる。
「もちろん。俺もとなりにいたいし、いてほしいって思うよ」
わたしの耳に、優しい響きが落ちてくる。
引き寄せるように与えられるぬくもり。
わたしたちを包み込むように広がる青の瞬間は、大切な人と見るブルーモーメントは、泣けるほど美しい眺めだった。
*
「お父さん、お母さん。話があるの」
リビングには、仕事帰りの両親がいた。疲れきった表情で、ソファや椅子に座っている。わたしが声をかけると同時に、どこか焦点を定めていない瞳が動き、わたしを捉えた。
「……わたしね、将来の夢が決まったんだ」
無表情のままたたずんでいる二人。聞いているのか聞いていないのか分からないけれど、わたしは息を吸ってその先を続けた。
「その夢を叶えるための勉強はこれから自分でやっていくつもり。頑張って叶えられるように、しっかりやるべきことを果たそうって思う」
興味すらなくなってしまったのだろうか。
以前のわたしなら、両親がこんな状態になってしまったら泣き叫んで謝っていただろう。従うからどうか見捨てないでくれと喚いていたに違いない。
けれど今のわたしは、自分でも信じられないくらいひどく冷静だった。自分の伝えたいことを言うことができれば、相手の反応なんてどうでもいいと思えるようになっていた。
(だって昔は、きっと期待してたから)
良い点をとって帰れば「すごいね」「頑張ったね」と褒めてもらえると思っていた。だけど実際はできない部分だけを見られて、「できるところ」にはいっさい目を向けてくれなかった。
わたしはずっと両親に【できる子】だと思われたかった。うちの子はすごいのだと、誇ってほしかったのだ。
「わたしはこの先やりたいことをやって、学んで、楽しみながら生きていく。自分の人生は自分で決めるから」
「……」
「お母さん」
呼ぶと、お母さんが顔を上げてわたしを見つめる。光を失ったような目だ。けれど前みたいに失望の色に染まっているわけではない。
「お母さんがわたしのためを思ってくれてるのは分かってる。だからできるだけお母さんのために頑張りたいって思った」
限界を超えてでも。ぼろぼろに傷ついたとしても。
それでもお母さんのためなら、頑張ろうって自分を奮い立たせていた。
「だけど、頑張りすぎなくてもいいんだって、大切な人が教えてくれた。だからわたし……」
「ごめんね」
ふいに耳に届いた声に、思わず口を閉じる。それは長年聞いていなかった、本来のお母さんの声だった。柔らかくて、弱々しくて、どこか儚いような響き。この独特な空気の震わせ方が、わたしは昔から好きだった。
「お母さん、あれから色々と考えたの。そしたら、やりすぎだったことに気がついたわ。たしかに瑠胡の人生は瑠胡のものだもの。お母さんが決めるものじゃないのよね」
「お母さん……」
「これからは好きに生きてちょうだい。さっき教えてくれた夢が叶うように、お父さんもお母さんも全力でサポートするから」
お母さんの言葉に、お父さんが立ち上がってわたしの方へと近寄ってくる。久しぶりに対面したお父さんの顔は、なんだか見慣れなくて妙な感覚がした。
「……ずいぶん明るい顔をしているな」
「え?」
「お父さんもお母さんも、お前の笑顔が好きなんだよ。将来の瑠胡がずっと笑っていられるように、幸せになれるようにって詰め込みすぎてしまったんだ。辿る道は本人が決めるべきなのに。悪かった」
ときどき、夜遅くまで喧嘩や言い合いが続いていたことをわたしは知っている。会話の中に『瑠胡』という単語が出ていたことも。
「ありがとう、お父さんお母さん。これからも、よろしくね」
両親が微笑む。久しぶりに見た、とても優しい表情で。
もう無理だと諦めていたことも、気持ちを伝えるだけで案外壁はすぐに壊れる。分かりあうことができる。
すべてを抑え込んで卑屈になっているだけでは見えない世界が山ほどあるのだと。抱え込むことが解決につながるわけではないのだと。
この春、出会った彼がわたしに教えてくれた。
【今日は講義で遅くなるから一緒には帰れない】
そんなメッセージに了解のスタンプを送信し、スマホを閉じる。視線を上げた先、にやにやとした顔でこちらを見下ろす緋夏とばっちり目が合い、思わず「うわっ」と声が洩れた。
「なになにー、彼氏さんとのラブラブやりとりですか」
「ち、違うよ。ただの業務連絡みたいなもの」
「業務連絡て、真面目かっ」
「真面目でごめんなさいね」
ふん、と視線を逸らすと「ごめんて」と謝られる。それでも拗ねたようにしていると、「それでさ」とお得意の要領で話題を変えられる。けれど以前のような不快感は全くない。
「これから近くのクレープ屋に行くんだけど、瑠胡も来る? あ、メンツは女子だけの構成だから安心して」
「えー! 俺たち行けねーのかよ!」
「緋夏ちゃんに俺ら奢るよ?」
「女子だけとかずりぃ」
「ごめん! 今日は女子だけ、男子禁制でーす」
あの日以来、随分と柔らかくなった緋夏の人気度は男女共に爆上がりし、本当の意味でクラスのマドンナ的存在になった。わたしにもかつての取り巻きたちにも横柄に接することはなくなり、一緒にいてとても楽しい。
「瑠胡、どう?」
「うん、行こうかな」
うなずくと、「やった」とガッツポーズをする緋夏は、「琴亜も呼ぼうか」と言い、鞄を持った。
「先に昇降口で待ってるから、琴亜に伝えるのお願いしてもいい?」
「うん、いいよ」
快諾すると、安心したように息を吐いた緋夏は、友達数名と教室を出ていく。
わたしも鞄に荷物を詰めて、一年五組へと足を運んだ。
「琴亜ちゃん」
教室の戸のそばから声をかけると、くるりと振り返った琴亜ちゃんがパァッと顔を明るくした。「ちょっと待ってね」と返してから、何やら物を鞄に詰めている。数枚の手紙のようだった。毎日毎日大変だな、と半ば呆れながらそのようすを見ていると、ピロンとスマホに通知が届く。
【今日の夜、通話OKだよ。話したいって思ってた】
それはよく知った親友からのメールだった。液晶画面に【彩歌】と、表示されている。
久々にみる文字の配列に、胸が躍る。
以前はこわくて連絡をするのをやめてしまったけれど、やはり久しぶりに話したくて昨日メールをした。文字を打つ時は手が震えたけれど、もし断られてしまってもわたしは一人になるわけじゃない。そう思うと、ずっと抱えていた鉛のような感情が抜けていった。
それに、きっと彩歌は快く応じてくれる。一度連絡を断ったからといって、怒るような人ではない。
信じているから、彩歌を。
【やった!! うれしい】
フリックする手が、はやくはやくと急かされるように動く。迷わず送信ボタンを押すと、「ぽんっ」という効果音とともに、メッセージが送られた。瞬時に既読がつく。そして、【じゃあ夜楽しみにしてるね!】というメッセージとともにスタンプが送られてきた。
「おまたせ! あれ、何かいいことでもあった?」
いつのまにか支度を終えたらしい琴亜ちゃんが、可愛らしく小首を傾げて目の前に立っていた。
「うん。中学時代の親友と、久しぶりに通話の約束ができたの」
「それはいいね。中学の頃の友達って、やっぱり大事な存在だからね」
「うん。離れてみて、初めて気づくよね」
何度も共感を示すようにうなずく琴亜ちゃんは、「あっ、それで何の用だったの?」と思い出したように訊ねてくる。緋夏からの言葉をそっくり伝えると、「行きたい!」と目を輝かせた琴亜ちゃんはわたしの腕を掴んで廊下を歩き出した。ふわ、とシャボンの香りが鼻先をくすぐる。
すれ違うたび、男子たちが「古園さんだ」「やっぱ可愛いな」などと耳打ち合っている声がばっちりと聞こえてくる。以前であれば、自分との違いに落ち込んで、へこんで、病んでいただろう。となりを歩きたくないとか、そんな最低なことを思っていたかもしれない。
だけど今は、違う。
たとえたくさんの人がわたしを見てくれなくても、たった一人だけがわたしを見て、必要としてくれればそれでいい。先輩のいちばんでいられたら、他者からの目など関係ない。そう思えるようになった。
「緋夏ちゃん!」
「待ってたよ」
たたっと緋夏のもとへと駆け寄る琴亜ちゃん。二人の仲も良好そうで、本当によかったと息を吐くばかりだ。
「じゃあ向かいますか」
「はーい!」
きゃはっとした、明るいけれど騒がしすぎない雰囲気が広がる。いかにも女子高生のような、キラキラとした空気感に包まれながら、わたしたちはクレープ屋へと向かったのだった。
*
「先輩、来るかな」
思わず声に出していた。
ベンチに座って、電車を待つ。クレープを食べてから少し街を散策したため、いつもの電車よりも二本遅い。だから、もしかすると講義終わりの先輩に会えるかもしれない。そう思ったのだ。
「……会えると、いいな」
わがままを言ってはいけないとは思いつつ、やはり寂しいものは寂しい。会いたいし、話したい。この気持ちはずっと変わらない。
駅で待っていることは、先輩には伝えていない。どうせならサプライズで、びっくりさせたかった。
黙って線路を見つめたまま、ぼんやりと過去を偲ぶ。
わたしたちの出逢いは、この駅だ。あの日、あの時、ここにわたしがいなかったら。先輩がここにきてくれなかったら。わたしが自殺しようという気になっていなかったなら。先輩が助けてくれなかったら。わたしたちは一生他人のまま、終わっていたのかもしれない。
どれが欠けてもだめだった。どれかひとつだけでもエピソードが足りなかったら、今の形にはなっていない。
『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
ふと、珀都くんの言葉が蘇ってくる。偶然が積み重なったら、それはきっと必然だった。そんな勝手な解釈をしてしまいたくなる。
「ハクトくん……」
わたしの背中を押してくれたあの日以来、ハクトくんはもう夢に出てくることはなかった。弟の幸せを祈り、願い、わたしのことまで救ってくれた偉大な人。もし叶うのならば、この世界の彼を見てみたかった。
ベンチに座ったまま、視線を落とす。しんみりとした気分になっていると、ふと、となりに影を感じた。ウッディ系の落ち着いた香り。好きな人に酷似した香りと雰囲気が、風にのってわたしに届く。
「せん……っ」
思わず言葉が止まる。そこにいたのは、先輩に似ているけれど、全く違う誰かだった。薄茶色の髪が静かに風に揺れ、あたたかなまなざしは、まっすぐにわたしを見つめている。輪郭がぼやけていて、今にも消えそうな儚さを纏う彼。
「……ハクトくん」
きっと彼が高校生だったら、この姿になっていたに違いない。そう確信できる何かがあった。
伝えなきゃ、彼にも。たくさんの想いと感謝がある。
「わたしのこと、助けてくれて……救ってくれて、ありがとう。居場所を作ってくれて、ありがとう。背中を押してくれて、応援してくれて、ありがとう」
もっとたくさんのありがとうがある。彼がわたしと先輩に与えてくれた優しさは計り知れない。
「わたしね……夢、見つかったよ」
将来やりたいことが見つからなくて、高校にきた意味すら分かっていなかった。何をやってもうまくいかなくて、毎日死にたいと嘆きながら、そんな勇気が出なくて苦しい日々を過ごしていた。けれどそんな自分でも、こうして前を向くことができた。自分を変えることができるのは自分だけだけれど、自分を救ってくれるのは自分だけではない。他の人と関わり合い、支えられて、もう一度立ち上がることができる。だってもともと立っていたのだから。自分の足で立つ力を、本来は持っているのだから。
歩みだすのではなく、その前段階、『もう一度立ち上がる』ための手助けがしたい。
「人の心を助ける仕事がしたい」
臨床心理士、公認心理師、心理カウンセラー。さまざまあるものの中で、これといった職業はまだ決まっていないけれど、自分に何がしたいのか、どんなことに興味があるのか、まっさらな状態から、ここまでキャンバスを塗ることができた。
『……いい夢だね。応援しているよ』
頭に直接響くような声。夢の中よりも低くて、あたたかい声だった。
静かに微笑んだハクトくんは、『ありがとう』と小さく呟いて、すうっと溶けるように消えていく。水色の瞳が、最後に小さく揺れた。
「珀都くん……」
くん呼びに違和感を感じてしまうほど、彼はどう見ても高校生だった。誰も見られなかった姿を、わたしだけが知っている。
わたしの将来の夢は、ハクトくんしか知らない。あの青い夢を通して、わたしたちは互いに秘密の共有をしたのだ。
物思いに耽っていると、遠くの方から足音が近づいてくる。
(きっと先輩だ)
すぐに分かった。足音だけで、分かってしまう。
疲れた表情でホームに入ってきた先輩は、ベンチに視線を流し、わたしの姿を捉えると目を丸くした。立ち上がって駆け寄ると、泣きそうな顔で口角を上げた先輩が両手を広げる。
「先輩……!」
迷わず飛び込んで感じるあたたかさ。顔を上げると、先輩が大好きな顔で笑っている。
「どうして……待っててくれたのか?」
「さっきまで友達と遊んでたんです。この時間なら先輩に会えるかもと思って、ちょっとだけ」
並んでベンチに座り、会話を交わす。ハクトくんがいた場所に、今度は先輩が座っている。そのことに、なぜだか少しだけ泣きそうになった。
「瑠胡ってさ……毎朝、花の世話してるだろ」
「え、どうして知ってるんですか」
「見てた……から、かな」
突然そんなことを言われて困惑する。周りには誰もいないことを確認していたのに、まさか。
いつ、どこで見られていたのだろう。
『綺麗に咲いてるね』
『わたしもいつか、咲けるといいなあ』
花に向かって話しかけているところも見られていたかもしれないと思うと、あまりの恥ずかしさに逃げ出したくなる。誰もいないと思っていたのに、いったいどうして。
「実は、さ」
先輩は照れたように頭を掻きながら、暗色が混ざる空を見上げた。
「毎朝学校図書館で勉強してると、窓から花壇が見えるんだよ。……引かれるのが怖くて黙ってたけど、言うわ」
瞳を揺らした先輩は、少しだけわたしに近づいた。それだけであっという間に縮まる距離。手を伸ばせば、お互いが簡単に触れられてしまう。
「毎朝瑠胡を見るたびに、いつかちゃんと話してみたいって思ってた。瑠胡を見ると、勉強も医者の夢を追うことも頑張ろうって思えたんだ。初めて見たときからずっと、俺は瑠胡のことが好きだよ」
言葉の端に混ざる、柔らかい口調と声音。それが向けられているのは、世界中どこを探してもわたしひとりだけ。今この瞬間、先輩の瞳はわたしだけを映している。
ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。たったそれだけのことに、喜びを感じることができる自分がいる。
たぶん、あの日から。ホームで救ってもらったあの瞬間から、わたしの時間は再び動き出していた。
「駅のホームで出会ったあの日、一生分の運を使い切ったと思うくらい、ほんとはすげえ嬉しかった」
でも死にかけてて焦ったけど、と先輩は笑う。
「助けられて本当によかった」
それは心からの安堵を交えた言葉だった。幸せを噛み締めていると、カーンカーンと踏切の音が鳴りだす。
立ち上がると、同じように立った先輩が振り返った。
「瑠胡」
「はい」
名前を呼ばれて返事をすると、少しだけ首を傾げた先輩がわたしを見下ろしていた。そして、少し躊躇いがちに言葉が紡がれる。
「教室まで迎えに行こうか」
ちらりと試すように向けられた視線に、ふるふると首を横に振る。それは、わたしの意思を試す言葉というよりは、お互いの考えが一致しているのを確かめるような質問だった。
「いえ、大丈夫です」
微笑みながら断ると、「だよな」と同じように笑顔が返ってくる。
ーー好き。
クシャッと愛らしく向けられた笑顔に、胸の内からあふれる想い。
付き合っているのなら、という先輩なりの配慮だったのかもしれないけれど、わたしはこの駅で彼と待ち合わせたい。それはきっと、彼も同じだったのだろう。
出逢った駅で、一日の話をして、笑い合って、一緒に帰る。そんなささやかな幸せでいい。それだけでわたしは十分生きていける。
「待ち合わせは、この駅で」
「了解」
スっと伸びてきた先輩の手が、ポン、と頭にのる。
それがなんだか恥ずかしくて、それでもやっぱり嬉しくて、無意識のうちに頬が緩んでしまう。
「ありがとうございます、琥尋先輩」
「うわ、すっげえ不意打ち……」
言葉にしよう。伝えよう。
思いを共有して、同じものを分け合って、与え合う日々は、きっと彩りあるものになる。ずっと嫌いだった春も、四月も、季節が巡れば必ずやってくる出逢いと別れも、今はすべてが愛おしい。
照れを噛み殺していた先輩の目が、スッと細くなり、色を含む。まっすぐな瞳がわたしをとらえ、薄い唇から静かな音が紡がれた。
「これから先も、何度だって助けにいく。四月の瑠胡が笑えるように」
ほんのり色づく頬と、風にのって届く春の香り。
キイ────と、目の前で電車が止まる。
「帰るか」
「はい」
そっと差し出された手をとると、わずかなぬくもりが伝わった。
「ねえ、先輩」
電車に乗り込む瞬間、ふと言葉にしたくなって、手を引かれたまま呟く。先輩に教えてもらった、大切な気持ちが、溢れた。
わたしは春という季節が、四月という月が、目の前で笑顔を咲かせるあなたのことが──
「───…だいすき。」
四月のきみが笑うから。 了
何度だって助けにいく。
四月のきみが笑えるように。