それからまたしばらく、先輩は駅には現れなかった。
 クラスも、部活のことも、何も知らないわたしはただ、駅で会える日を心待ちにしているしかなかった。

 きっと勉強が大変なのだろう。

 わたしに構っている暇などないのだろう。もう五月に入り、毎日毎日、受験まで日が進んでいく。一日たりとも無駄にしてはいけないと、かつての先輩インタビューで誰かが言っていた。誇張ではなく、本当にその通りなのだろう。
 ブルーモーメントを見たいとは言ったものの、それが実現する日がくるのかどうかなんて、わからない。

 先輩と一緒にいたい。

 そんな気持ちを抱くのとは裏腹に、そんなのは無理だともう一人の自分が告げていた。

 せめてブルーモーメントを見るときまで。そう、決めたから。

 付き合いたいとか、四六時中一緒にいたいとか、そんなことは言わないから。せめて一日の終わりに会話をして、元気をもらいたい。それすらわがままだと言われてしまうのだろうか。

 一人で電車に揺られながら、窓の外を見遣る。紫と、ピンク。遠くにいくほど薄くなって、グラデーションになった雲がぷかぷかと浮いている。

「……会いたい」

 笑顔がみたい。一日の疲れや不満がすべて吹っ飛んでしまうような、あの笑顔をわたしに向けてほしい。
 恋をするということは、強欲な自分を生み出してしまうことでもあるのだと。やり場のない想いを、ぎゅっと胸の前で抱きしめる。

 ブルーモーメントを見たら離れよう、なんて。そんな甘い考えが通用しないほど、自分の気持ちが大きくなっていることに、わたしはまだ気づいていなかった。
 想いを馳せている彼がこの時、どこにも逃げ出せない葛藤に苦しめられていたことにすら、わたしは気づけていなかったのだ────。





「もう、会えない」

 目の前にいる彼から発せられた言葉が信じられなかった。ひどく冷たい声音で告げられる。「え……?」と声にならない声が口から洩れる。

 ベンチに座り、わたしに向き直った先輩は、色のない瞳でわたしを見つめた。せっかく久しぶりに会えたというのに、どうやら嬉しいと思っていたのはわたしだけみたいだ。

「約束は……? ブルーモーメント見るって、約束したじゃないですか」

 声が震える。
 縋るような気持ちで問いかけると、先輩は静かに目を伏せて「……悪い」とそれだけを呟いた。

「そんなの……あんまりです」
「自分勝手でごめんな。でも、もう決めたことだから」
「え……なんで急に? だって、この間まで」

 ──── 一緒にいたじゃないですか。
 そんな言葉は、声にならなかった。先輩の、突き放すような冷たい視線が刺さり、心臓が嫌な音を立てて、脳へと危険信号を送っているみたいだった。

「……悪い」

 いつも自信に満ち溢れていて、わたしの知らない世界を教えてくれて、何度もわたしを救ってくれた人。どんなときだって前を向くことを忘れない、そんな彼が。どうしてここまで追い詰められた表情をしているのだろうか。
 心底迷惑だと。そんなふうに、わたしを評価しているのだろうか。

「せめて、約束を果たしてからにしませんか。わたし、ブルーモーメントを見られたら、ちゃんと身を引きます。だから」

 それ以上言葉を紡げなかった。何を言っても無駄だと、光を失った目が訴えていた。ゆっくりと視線を落とした先輩が、薄い唇をわずかに震わせる。

「本当はこの間で最後にすればよかったんだ。俺が全部悪いから」
「……っ、そんなふうに言われたくありません。嫌いになったならなったって、はっきりそう言ってください」

 強気なふりをしながら、本当は泣きそうだった。唇をぐっと噛みしめていないと、すぐにでも涙がこぼれてしまいそうだった。
 好きだと自覚したあとにこんなことを言われては、引き返せない。もうどうしたって、好きになる前には戻れないのだから。

「……き」

 先輩の瞳が揺れる。出会ったときと変わらない、海の色をした瞳だ。透き通っていて綺麗な目。

「きらい……だよ」

 そう言った先輩のほうが、わたしよりもずっとずっと泣きそうな顔をしていた。言及しても、きっと彼は口を割ってくれない。ずしりと響く『きらい』という三文字が頭の中を渦巻き、やばいと思う暇もなくじわりと涙の膜が張る。

「……じゃあ、そういうことだから」

 言い終わる前に身を翻し、去っていく背中を見つめる。

(結局、踊らされていたんだね)

 信じるなんて、なにを馬鹿げたことを思っていたのか。寿命が少しだけ延びたことを、ありがたく思うべきなのかもしれない。彼と出会って、確実に楽しかった日々があった。それらは偽りのない、本当だった。

「……もとに戻っただけ。なにも悲しいことなんてない」

 愛なんてくだらないと。はじめから、知っていたはずだ。
 泡沫の夢に溺れて、感覚がおかしくなってしまった。悲しいなどという感情は、とっくに消さなければいけないものだったのに。
 もう、いっそ。

────死んでしまおうか。

 あの日、彼と出会ったこと自体が、最初から間違いで。とっくに消えていたはずの命は、奇跡的に今の今まで繋がれているけれど、もう必要ない。

 カーンカーンと踏み切りの音がする。少し前に時間が巻き戻されたような感覚だ。新城琥尋という人に出逢う、その前に。

 ぎゅ、と手に力がこもる。だんだんと息が上がって、ぷっくりと水滴が目に浮かぶ。

 線路に身体を倒すなんて、簡単なこと。

 一度できたのだから、今回だってきっとできるはず。
 ぎゅっと目をつむって、タイミングを待った。すうっと息を吸うと、どこか懐かしい春の匂いがした。

 ぐら、と身体が傾く感覚があった。まるであの時の繰り返しのよう。

(これで……楽になれる?)

 そこにあるのは、死への恐怖か、それとも自由を手にする希望か。
 わたしは目をつむったまま、黄色い線を越える────ことができなかった。今のわたしの心にあるのは、前者だった。以前なら、迷いなく後者に背中を押されていたはずなのに。足が地面に縫い付けられたように、びくともしない。プシューと目の前に止まった電車を見て、いつのまにか震えていた足の力が抜けた。

「君。大丈夫?」

 空いた窓から、運転士が顔をのぞかせる。へたり込んだまま顔を上げると、眉を下げた運転士の男性がこちらをじっと見下ろしていた。

「大丈……」

 ふと声に出そうとして、言葉が止まる。力なく首を振れば、焦ったように電車を降りた運転士が、目線を合わせてしゃがみこんでいた。

 なになに? どうしたの? と車内が騒然としているのが分かる。それでも、いつかの日のように消えたいと思うことはなかった。

「すみません。少し……めまいがしてしまって」
「少し待っていてください。水を買いますから」

 言い終わらないうちに、ピッ、と自販機が音を立てる。差し出されたのは、以前先輩が買ってくれた水と同じものだった。

「ありがとう、ございます」

 やけに呼吸が落ち着いている。脈拍も、普段通りの速さに戻りつつあった。

 わたし……ほっとしてる?


 あんなに死にたい、消えたいと願っていたのに、今はこうしてまだ心臓が鼓動を続けていることに、たまらなく安堵している。

 ────はじめてこんなにも、死ぬのが怖いと思った。痛みが怖いのではなく、存在が消えてしまうことが、こんなにも恐ろしくてたまらなくなったのは、生まれてはじめてだった。

 空の青さも、海の青さも、先輩の瞳の青さも。舞い散る桜も、緑の葉も、何もかも。見ることができなくなるのだと思うと、この世界からいなくなるのが、ひどく怖かった。

「あ、でも、お金」
「いいんですよ。気にしないでください」
「いえ。また後日必ず返します。本当にありがとうございます」

 頭を下げると、首を振った運転士は、「ご無事でなによりです」と、呟いた。それだけで、きっと全てバレていたんだろうな、と悟る。

「乗車されますか?」
「はい」

 頷いて乗車し、気づく。
 電車を遅延させてしまったのではないか。その場合、賠償金を支払わなくてはいけないと、いつか読んだ新聞記事に書いてあったような気がする。

「あ、あの。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 車内がしんと静まる。喉がからからに渇いて、どうにかなりそうだった。

「体調不良は責める理由になりませんよ。それに、ここにはあなたを非難する人なんていませんから。頭を下げる必要なんてないのですよ」

 柔らかい声に顔をあげると、座席に座る誰もが、目元を緩めて微笑んでいた。もっと迷惑そうな視線を向けられると思っていたのに、それとは真反対の表情を向けられて困惑する。
 優しさだけが、そこにはあった。

「では発車します」

 そんなアナウンスのあと、電車が動きだす。

「ここにお座りになったら? 立っていると疲れてしまうでしょう」

 にこにこと笑みを浮かべる女性が、空いた席をトントンと手で示す。促されるまま座ると同時に、強張っていた筋肉がゆるんでいくのを感じた。

「ありがとうございます」
「いいえ。学業は大変だと思うけれど、頑張りすぎるのもほどほどにね?」
「……はい、そうします」

 ふふっ、と上品に微笑んだ女性は、「次で降車だわ」と呟いて、荷物を持った。

「普段一緒にいる彼は、今日は一緒じゃないのね」
「え……?」
「ほら、よく一緒に乗っているでしょ。実はいつも微笑ましいって思って見ているのよ。ごめんなさいね」

 目尻にしわを寄せた女性は、そう言って電車を降りていった。
 意外と見られているのだ、と、途端に熱が集まる。けれど、そう言われるのももうないのだと思うと、気持ちが降下していく。
 それでも以前ほど感情の起伏に酔うことはない。

 ぼんやりと空を眺める。灰色の雲が近づいてきているということは、もうすぐ雨が降るのだろうか。きっと雨も素敵なんだろうな。雨音を聴きながら夜勉強するのもいいかもしれない。

 そんなふうに思えるようになったのは、好きな人のおかげ。わたしに『生きたい』と思わせてくれた、特別な人だ。

 先輩との出会いと一緒に過ごしたことは過去の思い出にして、わたしは強い自分になりたい。先輩がいなくても前を向けるような、そんな人に。

 先輩と出会ったことは、やはり間違いではなかったのだ。こんなにも自分を変えてくれる、必要不可欠な出会いだったと、そんなふうに思っても許されるだろう。

 雲の隙間から差す光が、たったひとつの希望のように見えた。そして、わたしがこれからするべきことを伝えてくれているような、そんな気がした。