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 あたたかい夢の中にいた。ふわふわと漂う意識は、まるでクラゲにでもなったかのようで、不思議な気分に陥る。眩い光がからだを包み込むように広がり、空と海を取り込んで揺れていた。

『瑠胡ちゃん……!』

 遠くのほうから、誰かが駆けてくる。出会った時と同じくらい距離があるけれど、すぐにハクトくんだと分かった。わたしも小走りで近寄ると、あっという間に互いの顔が見えるほどの距離になる。

『今日頑張ったんだね。瑠胡ちゃんの姿、見てたよ』
「えっ……ハクトくん、いたの?」

 その問いに、彼は微笑むだけだった。さらりと吹く風が頬を撫でる。瞳を揺らした彼は、薄い唇を開いた。

『瑠胡ちゃんは間違いなく成長しているよ。出会ったときよりも、ずっとね』
「そう、なのかな」
『うん。僕が保証するよ』

 胸を張るハクトくんは、また微笑む。こんなにあたたかい表情をされたら、勇気を出して行動してよかったと心から思う。
 ひどく大人びて見えるハクトくんは、一歩わたしに近づいた。ふわ、と鼻腔をついた香りは、深い森のようなもの。兄弟だと匂いまで似るのだろうか、と微笑ましく思ったときだった。

『だけど瑠胡ちゃん、まだやるべきことが残っているよ』

 諭すような口調に、まどろみかけていた意識が戻る。彼の言葉の意図が分からなくて、「やるべきこと?」と問いかけると、強くうなずいた彼はわたしの手をとった。
 子供の体温なのかと驚いてしまうほどに、ひどく冷たい手だった。

 けれど、リアクションをする暇もないまま、『お願い、瑠胡ちゃん』と透き通る瞳がわたしを見つめた。

『瑠胡ちゃんにしか、できない。瑠胡ちゃんにしか頼めない。アイツは昔から不器用で、素直になれないやつだけど……だけど本心は違う。大切なものだからこそ、守り方が分からないんだよ。傷つけたくないから、自分から離そうとするやつなんだ』
「……うん」
『これが僕にできる最後のことだから。素直になれないアイツを、誰よりも優しいアイツを、今度は瑠胡ちゃんが救ってやってほしい。お願いばかりでごめ……』
「もちろん、そのつもりだよ。ウザがられても、嫌がられても、伝えにいくって決めたから。ハクトくんに頼まれたからじゃない。わたしの意志で、助けに行くの」

 ぎゅっと手を握ると、同じ強さで握り返される。その手はわずかに震えていた。
 わたしを変えてくれた人。何も言わないまま、離れてしまうなんて。そんなこと絶対にできないと、さっき自分の口から出てくる言葉を聞きながら、思った。
 たとえ終わりが来たとしても、わたしは彼とのはじまりを見てみたい。怖がって、恐れて、はじまりから逃げたくない。

「わたしには、先輩が必要みたい。だから、いってくるね」

 にっ、と笑うと、泣きそうな顔をしたハクトくんは、もう一度うなずいた。キラリと目に光るものは、いちいち説明する必要などないだろう。

『いってらっしゃい、瑠胡ちゃん』
「いってきます」

 視界がぼやけていき、急激に意識が引っ張り上げられていく。
 海底から浮き上がった泡が、水面でパンッと弾けてしまうように、わたしの意識もまた、はじけた。




「っ……!!」

 真っ白な視界がクリアになっていく。最初にわたしの目がとらえたのは、前髪をめずらしく左右に分けている琴亜ちゃんだった。

「瑠胡ちゃん……!? よかった、目覚めた! 今先生呼んでく……」
「琴亜ちゃん」

 待ってというように手を伸ばして制すると、彼女はあげた腰をおろして丸椅子に座り直す。それから会話がしやすいようにと、横になるわたしを少し覗き込むような体勢になった。

「いつから……されてたの、あんなこと」

 喉が詰まって苦しい。掠れていてところどころ声が消えてしまうけれど、なんとか絞り出して訊ねる。

「いつからだったかな……でも最近? なんだよね。あんまり覚えてないけど」
「覚えて、ないの?」
「なんていうか……こういう恋愛関係? のゴタゴタって日常茶飯事で。もう慣れたっていうか……まあ、慣れるものではないと思うんだけどね」

 彼女はへにゃりと力の抜けたような顔で笑った。

「もちろん私はなにもしてないの。一部の人たちからなんでだか知らないけど、色々思われちゃうらしくて。でもきっと贅沢な悩みって部類に入るのかなって思って、誰にも言ってこなかった。あなたの彼氏が勝手に好きになってきたんです、なんて口が裂けても言えないよ」
「それは贅沢な悩みなんかじゃないと思う、けど」
「え?」
「声を上げてもいい、ちゃんとした悩みだし、いじめだよ」

 手を伸ばすと、慌てたように握られる。指先が少しだけ冷たかった。

「……ありがとう、瑠胡ちゃん。本当に……」
「ううん。わたしはただ、当然のことをしただけだよ。初めて会った日、琴亜ちゃんがしてくれたことのお返しがしたかった」

 お返しになったのか分からないけど、と続けると、首を振った琴亜ちゃんは、大きなアーモンド型の目に涙を浮かべる。

「助けてくれて、嬉しかった。瑠胡ちゃんの言葉に救われた人、たくさんいるよ」
「……そう、だといいけど」

 ふっと笑うと、強く頷きが返ってくる。倒れる前に見た、緋夏とその他の子たちの泣きそうな顔が浮かんだ。

「少しでも届いてたなら、よかったぁ……」
「瑠胡ちゃんはすごいよ」

 安堵で息を洩らすと、ぎゅっと手を握ってくれる琴亜ちゃん。しばらくそうしていて、ふと気がついた。

「そういえば……ここまで運んでくれた……んだよね? ありがとう」

 むくりと身体を起き上がらせるのと同時にお礼を言うと、「え、違うよ?」と琴亜ちゃんは首を横に振った。

「ここまで運んできたのは私じゃないよ」
「え……じゃあ、いったい誰が」
「背の高い男の人。たぶん先輩なんだろうけど……すごく焦った顔してた。私てっきり、瑠胡ちゃんの彼氏さんかと思ってたんだけど」

 今度はわたしがぶんぶんと首を振る番だった。

「わたし、彼氏なんて」
「え、じゃああれは誰なんだろう。すごくかっこよかったんだけどな」

 心当たりがあるとするなら、たった一人だけ。
 だけど、期待するなと脳内の自分が叫んでいる。

 ふわりと鼻腔をついた優しい香りも、あたたかさも、わたしはすべて知っている。間違いない。わたしをここまで運んでくれたのは。

『素直になれないアイツを、誰よりも優しいアイツを、今度は瑠胡ちゃんが救ってやってほしい』
『もちろん、そのつもりだよ。わたしの意志で、助けに行くの』

 夢の中の言葉が蘇ってくる。

「わたし……行かなきゃ」

 ベッドから降り、保健室を出ようとすると、「待って瑠胡ちゃん」と呼び止められる。振り返ると、焦ったような顔でこちらに手を伸ばす琴亜ちゃんがいた。

「まだ身体冷えてるかもしれないのに、危ないよ。それに、先生に健康観察してもらわなきゃ」
「ごめん、琴亜ちゃん」

 きっと彼女は、わたしが目覚めるまで、ずっとここに座って待っていてくれたのだろう。そんな彼女を置いて飛び出すなんて、失礼極まりない行為かもしれない。

「だけど、行かないといけないから」
「どこに……?」
「────信じてる人のところに」

 嫌いだと言われて突き放されても、邪魔者扱いされても、迷惑がられてもそれでもいい。ただ、わたしは向かわないといけない。そう誰かが告げていた。
 過去のわたしか、未来のわたしか、今のわたしか。行け、走れと、そう叫びながら背中を押すのだ。

「わかった。いってらっしゃい、瑠胡ちゃん」

 何かを悟ったように強くうなずいた琴亜ちゃんは、目を細めて手を振った。うなずきを返して、保健室を飛び出す。
 がむしゃらに廊下を走った。通り過ぎる人たちの視線が刺さるけれど、そんなものはもうどうでもよかった。

(先輩に好きだって伝えよう。それで最後にするから、全部ぜんぶ話してしまおう)

 拒絶されても、それでもいいと思った。この気持ちを伝えた先にある結果なら。


『俺が思わせてみせるよ』

『瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい』

『俺のこと、信じろとは言わないけど────信じていいよ』

『死にたいわけじゃねえけど、生きたくもなくなんの。あの感情って何なんだろうな』


 嫌われるのが怖かった。好かれなくてもいいから誰からも嫌われたくないと、そう思いながら人の機嫌をとって生活していた。誰にも理解されない苦しみを抱えながら、それが当然なのだと諦めていた。


 だけど。
 彼と出会って、彼の考えに触れるたび、わたしの中の何かが静かに、けれど確かに動きだす音がした。普通になりたかったはずのわたしが、唯一、特別を願ってしまった。
 世界中から非難され、後ろ指を指されたとしても、彼が、彼だけが、笑顔でわたしを迎えてくれるのなら。

 どんなことでも、できるような気がした。


『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい』

『アイツはすごく弱いから。僕よりもずっと、脆くて弱いやつだから』


 ハクトくんは言っていた。そろそろ先輩が壊れてしまうと。あんなに強くて、立派で、まっすぐに前を向いている先輩が。
 この先で、壊れてしまうのだと。


『きらい……だよ』


 走っていって引きとめて、話を聞くべきだった。ウザがられても、真正面からぶつかっていけばよかった。なにを素直に納得していたのだろう。

 わたしはまだ、彼の『心』に触れられていない。いつも助けてもらうばかりで、わたしが彼に何かをしてあげられたことなんて、ひとつもないのだ。

 電車に飛び乗り、吊り革に捕まる。窓からのぞく空は晴天。どこまでも晴れ晴れとした、美しい眺めだった。



ーー先輩はきっとあの場所にいる。



 確証なんてないけれど、確信していた。わたしが目指す先に、きっと先輩はいる。
 降車し、電車を見送ることすらしないまま夢中で駆けだす。

 徐々に息が上がるけれど、止まることなく足を動かした。夢で何度も見た青い世界へと、必死に走る。
 この先に、彼ら(・・)の思い出の場所に、先輩はいる。

 海と同じほど真っ青な空が、ただまっすぐな想いを包み込むように広がっていた。