「過去に戻るドリンクがほしい、ねがいもかなえてほしい」
 そう言って慌ただしく20代くらいの男性が落ち着きのない様子で店に入ってきた。
「いいですが。お食事は何にしますか?」
「過去に戻るドリンクだけでいいよ。過去に戻してくれ」
「もしもの世界はあなたの記憶の一部とひきかえになります。体験後にねがいを言ってください」
「黙っていてほしいんだが……俺、ここだけの話、さっき人身事故を起こしたんだ。俺は本当にいますぐ事故を起こす前に戻りたいよ。そして、事故の事実をなかったことにしたい。ねがいをかなえてもらえば事故の事実もなくなるだろ。だから、俺は犯人じゃないし、罪もなくなるよな? 記憶は一部でいいのか?」
「はい」
「じゃあ、被害者の辛い顔の記憶で。あの顔が脳裏から離れないんで困っていてね、そんな記憶でいいのかい?」

 男の手は震えていた。ひき逃げしたわけだから、動揺をしているのは当たり前だが、逃げるということは罪が重くなるのに、人間とはいざとなると弱い生き物だと思う。動揺と焦りが男を過去へと駆り立てる。でも、このねがいをかなえることは犯罪に加担することではないだろうか? 少し不安になった。

「了解しました。しかし、過去に戻っても必ずいい結末になるとは限りませんよ、虹色は七色以上に色があるので、何通りも過去も未来もあるということを表しています」
 アサトさんが念を押す。

「もしもが体験できる虹色ドリンク入りまーす」
 まひるが大きな声でオーダーを確認した。

「こちら、ドリンクができるまでお好きなお菓子をおひとつどうぞ。これは、サービスです。糖分は疲れた頭を休めさせてくれますよ。あなたの罪は口外しませんからご安心を」

 そこには、金と銀の紙に包まれたお菓子が並べられていた。
 男は金のお菓子をつかんだ。
「このお菓子、みたことない金色だ。中に何か入っているな」
「それは、シュワっとする粒を入れています。まるで炭酸みたいでしょ」
「じゃあ銀色のほうは?」
 男が質問した。

「これは、食べてみないとわからないようにしています。後にならないとわからないことって結構ありますよね。金の斧と銀の斧どちらを選ぶという話がありますが、あれには答えはないのです。僕はどちらを選んでもいいと思っていますよ、個人の好みですから」

 男は貧乏ゆすりをしながら、先を急いでいるようだった。
「とりあえず、過去に戻ることができるドリンクを早く飲ませてくれ」
「必ずしも良い結果になるかはわかりませんが、どうぞ」
 まひるは素早く虹色の不思議な色合いのドリンクを作り、手渡した。
「素敵な夢の世界へ行ってらっしゃい」

 男は、渡されるとすぐにごくごくと飲み干した。普通、リセットできないのが、人生だ。元に戻すボタンがあるわけではないのだから。困ったときはワラにもすがる思いなのだろうか? しかし、幸運にもここは本当に過去に戻りやり直すことができる。

 男を見守った。すると、男は心地よくなったのか、少し酔ったような感じで眠ってしまった。これが虹色ドリンクの効果なのか。目の前ですごいものを見てしまった。でも、この男は夢の中で人生をやり直しているのだろう。アサトさんが小さいテレビのようなモニターを持ってきた。

「見てみましょうか?」
 アサトさんの提案に私はうなずく。人様の夢を見るなんて申し訳ないような気持ちもあったが、見てみたい。そう思った。

 過去をやり直すためにこの店をたまたま見つけた男はラッキーだと思う。交通事故で、ひどく疲れていた。俺の人生には人身事故を起こした相手のことが心から消滅することはないのかもしれない。だから、嫌な記憶を代償として渡すことにした。

 自分では精神力は強いほうだと思っていたが、窮地に立たされると意外と弱いということを自覚する。意外な自分の一面を見せつけられたような気がする。

相手は死んでいないと思うが、怖くて確認はしていない。生死を確認をするのことが怖かったというのが本音なのかもしれない。自分自身が一番情けないということを実感している。

 一見体を鍛えていて強そうに見えても、どんなにガタイが良くても、心の強さに通じるわけではないことを実感した。自分がこんなに弱虫だったなんて、人殺しになるかもしれないなんて、思ってもいなかった。ケガの大きさもわからない。

もしも目の前で自分のせいで人が死んだり怪我をしたら、逃げ出したくもなるだろう。何とか、逃げられるかもしれないと思ってしまうのが人間だ。今、リセットすれば何もなかったことになる。人間の体を完璧に元に戻すのは正直至難の業だ。被害者の通院やリハビリは相当の長期間となり、生きていてもケガとなると保険会社も支払える金額が決まっている。でも、なかったことにすれば、相手はケガも何もない健康な体になる。これは相手のためでもある。

 焦燥と失望で体調が悪いように感じたのだが、そんなことは当事者になれば当然のことだ。俺は虹色ドリンクを飲んで、過去に戻り何もなかったことにしたかったのだ。しかしながら、もっと悪い結末も、もしもの世界にはありうるのだ。先程より良い結末であることが前提だが、何が起こるか正直わからないものだと思う。

 たとえば、何かの事件に巻き込まれて不幸になるもしもがあるかもしれない。でも、人間は今よりももっとましになるとか人生が楽しくなるだろうと信じて疑わないところがあるものだ。

 これは、事故の時間帯か。気を付けて運転しないとな。でも、過去と必ず同じことが起こらないかもしれない。それにしても本当に戻ることができるとは。不思議な話だ。タイミングに気を付けないと。俺は慎重に運転していた。右折しようとしたときに、歩道に急に人が飛び出てきたんだよな。あちらの不注意だが、運転しているほうが悪いということになってしまう。交通事故では歩行者のほうが被害者になってしまう。

 それにしても、あの人、見えないな。この過去の世界では事故が起きないということになっているのかな?

 そんなことを思いながら、男はほっとして安心していた。ところが、大型トラックが目の前に突っ込んできたのだ。対向車線からなぜ、こちらの車線に? 一車線なので、よけられない。そんなことを思っているうちに、目の前が真っ暗になって、痛いと思った瞬間、痛さを感じなくなっていた。


 気づくと幻のレストランに戻っていた。
「こんな過去でも戻りたいですか? 念のため確認です」
 さっきの店員じゃないか。

「俺、どうなったんですか?」
「対向車線のトラック運転手が居眠り運転していたようですね。あなたはトラックと衝突して死亡しました。交通事故はいつ起こるかわかりませんし、結構な確率で事故はありうるのです、それでも過去をやりなおしたいですか? ねがいは決まりましたか?」

 店員が聞いてきた。
「もう一度、同じ時間に戻ってやり直すことはできないか?」
「同じ時間に同じ人間がもどることはできません。必ずしもいい結果になるとは限らないということです」

「死ぬなんてまっぴらだ。とりあえず俺が事故に遭わないというねがいにしてくれ。そうすれば加害者にも被害者にもならないですむだろ」

「考えましたね。たしかに加害者にならないというねがいだと被害者になる可能性もありますからね」

 店を改めて見渡すと、不気味な男が奥のテーブルにいる。慌てていて気付かなかったが、もしかして話を聞かれていたのではないだろうか? 何やら一生懸命パソコンに向き合いながら文字を激しく打ち付けている。彼の指は、止まることなく店内に打ち付ける音が響き渡る。手が勝手に動いているのか、適当にキーボードを打っているようにも見える。その表情は前髪に隠れて見えないが、青白い鼻筋と口元のみ確認できる。あの集中している感じだとこちらの話をきいているようにも思えないが、この距離だったら聞こえていないだろう。

男の胸の中はざわざわ騒ぎ出す。もし、事故を隠ぺいした罪をあの男が盗み聞きしていて、通報されたとしても証拠がないのだから大丈夫だと自分に言い聞かせる。

「彼は常連客です。ここのマスコットキャラクターみたいな存在なので、誰にも口外しませんよ。彼は人間に興味がないのですから」

「それならいいんだけどね。本当に、事故はないことになっているよね?」

「大丈夫ですよ、あなたの車を確認してください。どこも破損していないでしょ?」

 外に停めていた車を窓から確認すると、傷ひとつないきれいに磨かれた愛車がそこにあった。本当に何もなかったことになっていたようだ。
「ありがとうございました」

 武道の精神をあいさつで発揮する。声は大きく礼儀正しくお辞儀の角度もばっちりだ。でも、本当に心が鍛えられていないことをこの一件で身に染みていた。今度事故があっても逃げない強い心を持つべく、男は鍛錬に励もうと誓った。


 ♢♢♢

 最近ふらっとやってくる黒羽が一番隅の席から話しかけてきた。ここで執筆すると筆が進むらしく、アサトさんに念を送ってこの店にやってくるらしい。念を送るあたり、凡人ではないのだろう。

「ぐひひ……最近さぁ、ウェブ小説始めたんだけど、謎のストーカーが毎日メッセージ送ってくるんだよね、マジでこわっ」

 一見ストーカーと言われて10人中10人が黒羽を見て納得しそうだが、ストーカー被害に遭っているのはこの不気味な男の方らしい。ウェブは顔が見えない分、素敵な人と勘違いされる可能性もあるのかもしれない。だから、インターネットは顔が見えない分、夢を見ることもできるし、期待を裏切られるという点では怖いと思う。
 
 ♢♢♢

 まひるが後日、新聞を持ってきて、事故のニュース記事を見せる。数日前に来た男が事故を起こした場所と同じだった。そこにうつっていた写真は同じ場所で違う人間が事故を起こしたという記事となっていた。

「あの人が事故を起こさない場合、別な人が事故を起こすようにこの世界は成り立っているのです。だから、事件や事件って後を絶たないと思いませんか。自分ではない誰かが被害者にも加害者にもなるように世界はまわっているのですよ。皮肉ですが」

 結局、解決にはなっていないことが私にはもどかしいものがあった。あの人ではない別な人が巻き込まれ、困っている。それでいいのだろうか? 過去に戻った結末をあえて幸せにしなかったのはアサトさんの判断なのかどうかは知る由もない。